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ぼくのからだは、機械だ。
それは、外からの刺激に自動的に反応するだけだ。ピストルの音を感知し、瞬時に筋肉を収縮させ、スタートをきる。風、気温、ペース配分、他のランナーの実力と現在の全体の位置どり、自分の筋肉の状態、すべてを計算し、からだの動きを制御する。
ぼくは、だれよりも優秀な機械でいたい。
だれよりも速く八〇〇メートルを走りたい。だから、ぼくは自分がひとときの感情に支配されるようなセンチメンタルな人間からは、ほど遠いと思っていた。
というか、感情だとか、意思、気持ち、なんてものをぼくは信じていないのだと思う。そんなものは何かの都合であとでつけられた説明のようなものなのだ。そんなものを気にしてみたところで、実態はないのだ。
結局、ぼくという機械がうまく作動していくために、それらが阻害要因にならない限り、ぼくは感情と呼ぶようなものには関心がない。べつに、かまわないよ、あったってなくたって。
けれど、さっき陸上競技場のトラックに降りたときの気分は、何と言ったらいいのだろう。
ばかばかしい話だけれど、もし神がいるのだとしたら、ぼくの神は陸上競技場に宿っているのだと思う。夜のトラック、ぼくは合成ゴムとウレタンでできた走路に触れずにはいられなかった。無数のスパイクが突きささり、その反力を利用してランナーが走るところのオール・ウェザーの走路。
砂漠でひれふすイスラムの人々のように、あるいは聖なる川の水を愛するインドの人たちのように、ぼくはトラックに這《は》いつくばり、触れた。
埋め込まれたウレタンのチップでできた表面のでこぼこが、ぼくの両手に伝わる。人工的に一様に着色された硬くて柔らかい走路。
ぼくが、ヘレン・ケラーだったら、ウォーターじゃなくて、トラックって叫んでいただろう。
いま芝生に横になっていて、ぼくは自分があまりに幸福なんで、驚いている。
それは、ただ、この場所にいられることだけで味わえる幸せなのだ。競技場を渡る風、シャツの背中にちくちくする芝の刺激。なんだかわからないけれど、夏の匂い。
ぼくは、このまま、自分がスタジアムに溶け込んで、消えていってしまいそうな気がした。そうなって欲しいと思う、もし、この世からぼくが消滅しなければならないときが来たなら。
救急病院の病室の窓の下、コンクリートにふたつのマンホールの蓋《ふた》が切られていた。ぼくが見たときには、そこには、何の痕跡《こんせき》もなかった。相原さんの体液は、すべて洗い流されていたのだろうか。
隣で急にごそごそいう音がして、ぼくは現実に引き戻された。ぼくは、ひとりで、闇の底に横たわっているような気がしていたのだ。ぼくたち三人は、フェンスを越えて競技場にはいってから、ほとんど何もしゃべっていなかった。
中沢が起き上がって、バッグの中を探っている。
まず、伊田さんに渡したあと、
「広瀬クンも飲む?」
と小さい声で言って、罐ビールをくれた。
スポーツセンター内にはアルコールの販売機はないはずだし、部屋に冷蔵庫もないのに、どうして冷えたビールが用意できるんだろう?
受け取って、ぼくが不思議そうにしているのがわかったのだろうか。
中沢は、
「いや、食堂のおばちゃんとね、仲よくなったのよね」
と言って、自分の罐をプシュっとさせた。
中沢にビールをもらうのはこれで二度目になるな、と思いながら、ぼくも自分のを開けた。
「振り上げ足ね、うまくいったよ。ありがとう」
伊田さんが、空を見上げたまま言う。
ぼくは、どう返事していいかわからない。
中沢が、
「広瀬クンたら、女の子の脚ばっかり見てるの?」
とか、言ったけれど、伊田さんもぼくも笑わなかった。
中沢にしても、何も言うことがないから口を開いたような熱意のない言い方で、それっきり黙っていた。
ときどき、トラックを見渡し、また、空を見上げ、ぼくたちには、ことばはいらなかった。
中沢が飲み終わったビールの罐を握りつぶす音。
永久に時間が続きそうだった。夜のトラックのバック・ストレートの芝生に横になったまま。
「泳ごうよ」
突然、伊田さんが上半身を起こし、言った。