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もちろん、正常か異常かなんてことには何の意味もない。それは、あくまで相対的なものなのだ。
たとえば集団の八割を正常と規定するなら、上下の一割ずつは異常に分類される少数派になる。ほら、生後六か月の赤ちゃんの平均体重なんて話と同じ。ある幅を越えたら、太り過ぎだとかやせ過ぎだとかに無理やりいれられちゃう。
夏休みに連れだって海に泳ぎに行く、一見したところごくノーマルな高校生と中学生のぼくたちも、実は異常者の集団だ。
ぼくの八〇〇メートルを走る速さは、明らかに異常だ。それをいうなら、伊田さんの一〇〇メートル・ハードルはもっと異常だ。全国の高校生で三番目に速いんだから。一割なんてもんじゃなくて、〇・〇一%か〇・〇〇一%か、計算する気にもならないところに属する。
中沢の身長だって(性格も、きっと)、かなり異常に近い。
妹が中学生で化粧をし、酒をのみタバコを吸い、ディスコにいりびたるのは異常の領域のような気がするのだけど、この前の晩、
「今は、みんな、そんなもんよ。お母さんは、高校デビューで遊びまくる、みっともない子になってもらいたいの?」
とか、怒鳴ってたから、よくわからない。
山口の左脚は明白に異常だ。
だから、それには何の意味もない。
そして、ぼくは女の子と寝ることができないのかもしれない。それは相対的に見れば完全に(〇・〇一%や〇・〇〇一%の仲間ってことはない?)異常なことなのだろうけれど、やはり無意味だ。
結局、相対的な比率としてのノーマル/アブノーマルにではなく、ぼく自身のもつ基準だけが、問題なのだ。
ぼくは、走ることにおいて異常な伊田さんとぼくをもちろん受け入れるし、異常なのかもしれない妹と明らかに異常な山口とを受け入れるし、一応、中沢も受け入れる。
それで、ぼくは、女の子と寝ることができないぼくを受け入れられるのだろうか?
単純には、それは、つまらないことだと言える。
日本のロックしか知らないでアイドルを追いかけてて、本当のロックが楽しめないやつみたい。
いまの比喩《ひゆ》は、逆に取り替えたって、ジャズとクラシックにしたって、なんだっていいんだよ。
しかし、そんなにシンプルな話に出来ないのは、相手が存在するからだ。
ぼくは、山口が好きだ、たぶん。それなのに山口と寝ることが出来ない。それが山口を悲しませ、混乱させる。
でも、今日は、ともかくみんなで泳ぎに行く日だ。ぼくたちは、長い時間を海辺で過ごすことができる。
まだまだ、陽は沈まない。
まだ。