58
男子50メートル平泳ぎも悪くはないのだけれど、ぼくは海に浮かんでいるのが好きだった。
波が崩れない沖に出て、仰向《あおむ》けになる。両手両足を拡げ、全身の力を抜いて海に身をまかせる。耳が海面の下にはいったり出たりすると、ぼくを取り巻いていた外の世界の音が変化する。
遠くの太平洋から伝わってきた波、地球の重力だとか自転だとか風だとか月の引力だとかで起こされた大きめの波がぼくのからだを上下させる。少しして波が砕ける眠くなるような響きがして、歓声があがる。
ぼくの耳は海の中にはいり、また、世界が遠ざかる。
そう、ぼくは、こうやって、沖でひとりで浮かんで漂っているのが好きだったのだ。でも、今日は違う。
はしゃいでいるのは中沢だ。
山口や妹の声もときおりする。伊田さんもそばにいるのかな。
ゆっくりとからだを回転させ、岸に向かって泳ぎだす。
だれの声の方へ?