59
電車はすいていた。それがなんか寂しい感じ。
伊田も黙ってる。
小学生のころよくあったでしょ。一日中遊んで、もうすぐ家に帰るんだって思うと悲しくなるやつ。あんなふう?
いや、違うね。
疲れてるっていえば、疲れてないわけじゃないけど、それだったら試合やふだんの練習のあとの方がひどい。
JRはさ、千葉行き。東京湾をぐるっと回ってる。どこまで行ったって、汚い海ばかりだぜ。広瀬の家のある相模《さがみ》湾側とは全然違う。
俺の家からは港が近いけど、そこの海なんて油が浮いていて、犬だってはいる気にならない色してるよ。だいたいね、ほとんど岸壁はコンクリートで固められてて、工場があったり高速道路だったりで海に近づくだけでもむずかしい。
俺、実はさ、広瀬のとこの海にいる途中から、ちょっと、イライラしてきてたのよ。だって、こいつらにとっちゃ、当然の、普通の暮らしなんでしょ、今日の一日みたいなのが。
朝起きて、空と海見て、あ、泳ぎにいくのにいい日だ、とか思って、それで家で水着になっちゃって、あまり人に知られてないきれいな水の海岸に行く。
俺なんか、朝起きて、窓開けなくたって、きたねえ小さな川はさんだ向こうのアパートから、こども怒鳴りつけるオバチャンの声だ。
おいおい、べつに俺は、うらやましがってるわけじゃないぜ。いつだって俺は俺。俺よりひとの方がいいなんて思ったことはない。
たださあ、なんなんだって気はするのよ。
俺の言いたいこと、わかってもらえてんのかね。
そうそう、昼飯の話。これ聞いてくれたら、少しは雰囲気がわかる。
もうね、わりと長い間海の中にいたのよ。ちょっと沖に出て、また、もどったり。そしたら、奈央ちゃんが、
「私、おなかすいた」
って。
それ聞いたら、急に腹が減るじゃない。
で、昼飯なんだけど、俺がバイトしてた海の家なんかのいいかげんな、カレーだとかラーメンじゃないの。
海岸からいったん上にあがって、道路を山側に渡る。で、線路を越えてから細い坂道をのぼってく。広瀬んちに行くのとは別の道だけど、似てる。
そうすると、見上げるようなとこに、ちょっとシャレた小さな店があった。屋根はしぶい赤、壁は白のペンキで、ところどころはがれてきてる。
道からは、また石の急な階段を上がるんだけど、その手前に水着の方はお断り、って大きく書いてあるの。
だから、
「いいのかよ」
って、俺、広瀬に訊《き》いた。
だって、俺たち、水着も水着、上にはおってるとはいえ、足なんて砂だらけのゴムぞうりなんだぜ。
「たぶん、入れてくれると思うんだけどなあ」
だって。
ドア細く開けてね、山口が、
「あの、五人で、今日こんなかっこなんですけど、いけます?」
って言うの。
それで、テーブルをセットしてもらうまで、外のビーチパラソルの下で待ってた。奈央ちゃんはベンチに座って、そばにつながれてるデカくて毛のふさふさした暑くるしい犬なでたりしてた。
すごく静かなのよね、あたりが。いままで泳いでたところが目の下。遠くまで海が見える。強い風が吹きつけて、気持ちいいの。俺、立ってても眠くなりそうだった。
昼飯にも夜にも時間が半端なせいなのか、はやんないでいつもすいてるのか、いちばん奥に、やけに背筋のピンとしたじいさんとばあさんのカップルがいるだけだった。
ふたりで海見てお茶飲んで、ケーキかなんか食ってた。めったにしゃべんない。おもしろいのかね、あれで。
で、さあ、山口と広瀬でね、メニュー見ながら、店の女の子と相談してんの。
「あたたかいスープは、何かできますか?」
とかね。
俺なんかさ、店に入ったときには食べるもの決まってるじゃないの。
自動ドアが開いたら、
「ニラレバとギョウザ、ラーメン大盛り」
って叫んで、スポーツ紙握って座る。
注文にものすごく時間かけるんで、あきれちゃった。
最初に広瀬に、どんなもの食べたい、って訊かれて、まかせるぜ、って俺が答えて、伊田もうなずいた。
そのせいで、俺たちのせいで気をつかって悩んでんのかと思ったけど、なんか、ふたり見てると、いつものことみたいね。
俺が少しイライラしてるのに気づいたのかなあ、
「あっ、あのヨット、昨日も出てた」
って、奈央ちゃんが窓から指さす。
で、俺が、
「どれ?」
とか言って、伊田もその青い帆のやつ見てしばらく話して、俺、奈央ちゃんのファンになっちゃう。
そのうちに注文が決まった。それをさ、広瀬はていねいにみんなに説明するの。
そして、
「これで、いいかなあ?」
って、なんか自信なさそうに見回す。
なんなんだろうねえ、こいつのこういうところ。
スタジアムなんかじゃ、ものすごく偉そうにしてるんだぜ。食いもんなんて、まあ、だいたいのとこでいいじゃないの、俺はまかせるって言ってんだから。
で、ビール飲んで、野菜のいっぱいはいったスープ、海老《えび》やイカの乗ったサラダがあって、バターライスにハヤシライスの具がかかったみたいなもんを食って、めちゃくちゃうまかった。
「俺、これ、おかわり」
って、そのバターハヤシライスのこと言ったら、
「私も、少し欲しい」
って、山口が、わりと大きな声で言った。
この女、悪くないじゃないの。
それで、みんなで、まだ食べて、幸せになってたら、
「マスターからです」
って、フルーツの盛り合わせが届いた。パイナップルだとかなんだとか。
奈央ちゃんは、
「わあい」
って、すぐに手を出す。
俺、この店、だいぶ高いなって思ったの、その時。だって、フルーツ盛り合わせって、お店のいちばん値ザヤが稼げるもんじゃないの。
で、俺がレシート取った。広瀬が払いたがるの押し切って。だって、今日は広瀬んちにやっかいになってんだから、当然。
広瀬は、
「いつも、ごちそうになってる」
って、なによ。せいぜい罐ビールじゃない。
で、払ってみたら、すごく安い。
なんか俺の思ってたのの半分というか三分の一というか、そんなもん。海の家のビールやラーメンって気い狂うほど高いし、席料とかとるから、あんま変わらないんじゃない?
へえ、って思ったね。あのフルーツって、本当に、最後に出てきた髭《ひげ》はやしたマスターからだったの。
で、まあ、そんなメシ食って、また海行って、今度は砂浜でごろごろしたりして。
陽が傾き出したんで、広瀬の家帰って、交替でシャワー浴びた。
で、俺、まだ、なんかやっぱりイライラしてね。
五人もいたら、わりと時間かかるじゃないの。女は長いし。その待ってる間もね、芝生に水まいたり、髪とかしたりしながら、なんか静かに話してる。ちょっとしたことを、小さな声で。だれもさ、テレビつけようとしたりなんかしない。
うん、そのときはわかんなかったんだけど、電車がだんだん俺の住んでるとこに近づくにつれて、はっきりしてきたね。
そうね、その広瀬たちとの街の違いってことだ、やっぱ、俺が考えてたのは。
いままで広瀬は、あそこでのんびりと暮らしてきたわけじゃない。妹も、あの山口ってのも。あいつらって、なんか腹をたてたりしない感じ。みんな穏やかで。
俺は、人間は、闘って生きるべきだって思ってた。人生はケンカだ。ナメられたら、いかん、って。
でもね、あいつらの街では、腹をたてるまでもなく物事がうまくいっちゃうような、なんかそんな感じがある。そこだよね、違いは。
伊田が、
「今日は、送ってくれなくていいよ」
って、ぼそっと言った。
ふだんなら、しつこくついてくんだけど(女なんて押しの一手だからね)、
「ああ」
って答えて、それで先に俺の駅で降りた。
疲れてたのかね、結局は。
つまんないの。
駅出て、暗くなった公園の中を通った。浮浪者のオッチャンたちが、なんかで車座になってる。
俺、思い出した。
帰りがけ、わざわざ駅まで見送りにきてくれた広瀬が、
「また、来てくれるかな?」
って、最後に、なんか、本当にお願いしてるって感じで、こどもが泣きそうになるみたいな顔してたのは、あれは、なんだったんだろ?