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電車に乗ってふた駅の、ターミナルになってるビルのなかの喫茶店。
昼過ぎに電話したら、妹が、今日は練習の日で五時に終わるはず、って教えてくれたっていう。
陸上部の練習というものは、ミーティングがあってうっとうしい話題が出たりしないかぎり、時間に狂いはない。タイムテーブルどおり正確に決められたメニューをこなすこと自体が、むしろ大切な練習なのだ。それは、もちろん伊田さんも知っている。
だからって、うちの高校のそばの駅でぼくを待ってるなんて。
放課後、あのあたりに手紙やプレゼントをにぎりしめた女の子たちがいるのは、バレンタインデーだけでなくよくあることではあるけれど、それは伊田さんにはまったく似合わない。なんかもっと、フリルをひらひらさせてたり制服が重く湿って臭そうな、小太りの女の子たちのすることだ。
そうだ、相原さんを待っている女の子もいたのだ。ぼくが、おそらくは最後に相原さんと走った日、見かけた子が山口だったのかどうか、本人に確認はしていない。
伊田さんはコーヒーを前にして、いつものように、あまりしゃべらない。
もともと、ぼくは伊田さんに電話番号を教えた覚えはないし、ぼくも伊田さんの家のは知らない。合同トレーニングのあとで中沢には言ってたけど。
ということは、妹との間でなのだろう。
山口と妹と伊田さんは、気があってるのかどうか、よくわからない。中沢もふくめて三回か四回、遊んでいる。
実は、ぼくには妹と山口が仲がいいのかさえわかってない。そういうことは、ぼくの判断の領域外にあることだ。
あまり話は続かなかった。
インターハイでのこと。毎日の練習のこと。中沢のこと。妹のこと。他にどんなことがある?
ふたりのコーヒーカップの底が見えてしまったとき、伊田さんは、うすい唇をちょっと斜めにするようにして低い、けれども強い声で言った。
「寝ようか?」
ぼくは自分の耳が信じられなかった。
顔を上げて戸惑っているぼくに、伊田さんは、もう一度、はっきりと言った。その表情には、何の変化もなかった。まるで、コーヒーをもう一杯飲もうか、とでも言ったかのようだった。