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骨格についている筋肉には、白筋と赤筋のふたつがある。
白筋は速筋ともいわれて瞬発力に関係する。赤筋は遅筋と呼ばれて、白筋のような瞬発力、強い収縮のパワーはないが、持久力がある。
個人が持つその割合は、生まれつき決まってるって説もあるみたいだけど、ぼくは信じていない。特に成長期のランナーは、トレーニングのやり方によって、どちらかが重点的に発達していくことになる。
八〇〇メートルの場合は、無酸素と有酸素の両方の運動があるから、どちらの筋繊維も必要なんだけど、ぼくは主として速筋を鍛える練習をしている。
なぜなら、高いレヴェルで八〇〇をやるには、持久力なんかに頼っていられないからだ。勝負はたいてい最後の直線で決まるのだから、爆発的な瞬発力、スプリントがいる。
トレーニングでは、一〇〇、二〇〇、三〇〇、四〇〇、六〇〇が基本の距離。だいたいはその組み合わせで、これは季節やレースまでの期間でまったく異なってくるのだけど、週に一回ぐらい八〇〇のタイムトライアルをする。それより長いのは、たまに一〇〇〇を走るくらい。
一〇〇メートル・ハードルを専門とする伊田さんの筋肉の断面は、見た目にもはっきりと白いことだろう。遅筋の割合は、おそらく三割を下回っている。
ぼくが触れる伊田さんのふくらはぎ、腿《もも》、そして腹筋や背中。
それらには、まったく無駄がない。皮下脂肪のそぎおとされた、完璧《かんぺき》なまでの肉体。手をすべらせると、ひとつひとつの腱《けん》や筋肉の形がわかるのだ。
ぼくは胸の痛くなるような喜びを感じる。
これは懐かしさと呼ぶべき感情なのかもしれない。ぼくのからだの下にいまあるからだは、あきらかに陸上選手の肉体だった。
伊田さんの身長は一七〇を越えているだろう。ぼくと七、八センチしか違わない気がする。
重なって動いているぼくたちのからだを、カメラの冷たい眼が見つめたなら、それはふたつの非常によく似た物体に映るのではないだろうか。
伊田さんが、ぼくの肩を噛《か》んだ。