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伊田の家の向かいに続いてる、例の工場の長いコンクリート塀ね。そこんとこで、待ってた。
塀にはスプレーで、あの、なんとか参上、ってやつが書いてあるんだけど、だいたいは古い。消されもしないし、あんま見るやつもいないんで、書く気がしなくなったんだろうな。その薄くなってるのがなによりも寂しいね。
さっき、駅降りてから電話したら、まだ帰ってないっていうし。さすがに、そう何度もかけられない。とにかく家の近所にいるしかない。
立ってるのも、目立たないとこ。伊田の家から直接見えないくらい離れて。
女を待ち伏せするなんて、本当に中沢龍二も落ちぶれたもんだって思ったけど、不思議にね、そんな厭《いや》じゃないの。伊田にもうすぐ会えるんだって考えると。
こういうのこそ、ヤキが回りに回ったってことなんだろうね。
それで、もうすぐでもなかった。一時間ぐらいは待った。
広い通りから曲がってきたとたん、伊田だってわかった。うす暗くなってたって、シルエットでわかる。絶対にスタイルが違うもの。足音でだってわかるぜえ、っていうのは嘘だけどね。
で、俺も偶然そのあたり通ったみたいに歩いてって、
「よっ、お帰り」
って、元気よく声かけた。
伊田は驚いてた。返事できないの。
俺、近づきながら、
「友だちと遊んできて、楽しかった?」
伊田は、まだ返事しない。そんな驚く?
立ち止まってたのが、歩き出して、
「あんた何してたの」
あの低い声で、俺に訊《き》く。いいねえ。
「犬の散歩。いま犬に逃げられちゃって探してたとこ」
伊田は俺の横、通り過ぎて家の方に行こうとする。それはないじゃない。たしかにつまんない冗談だけど。
「俺、いそがしくてさあ、会いたかったんだぜ」
一緒に横を歩きながら言った。
「あたしは、べつに会いたくなかったわよ」
キツイの。相変わらず。
「おい、ちょっと、どっか行こうぜ」
俺、伊田の腕とった。
伊田はふりほどくようにして、
「帰りたいの」
って強く言う。で、速足で進む。
いくらなんだって変だって、俺、気づいたね。横から伊田の顔みると、なんかキッと前みつめてる。
「少しならいいだろ。な、五分」
俺、伊田の腕、いまと同じところつかんだ。そして、道を曲がるようにうながした。だって、そのまままっすぐ行ったら、すぐに伊田の家だもの。
伊田にしてみたら、近所で騒ぐわけにもいかないってことなのかな、今度は払おうとしない。でも、速足のまま。
「どしたの、いったい」
伊田は黙ってる。いつも冷たいったって、こんなじゃなかったよねえ。
「今日、何してたんだよ。なんか、いやなことあったの? 俺にだったら話せるだろ」
そう言ったら、伊田は急に強く、俺の手をふりほどいた。
「なんだよ、おまえ」
道の真ん中で、ふたりで向かい合って立った。
街灯はうす暗くって、どこかのうちのテレビの青くなったり赤くなったりする光が伊田の顔を照らしてた。
緊張した表情なんだけど、かっこいいの。日に焼けてツヤがある。全然たるんでなくって。ウェーブした短い髪が額から斜めにたれてて、ジャマイカなの。
俺、スタジアムで最初にタオル渡したときのこと思いだしちゃった。四か月ぐらい前のこと。伊田が一〇〇メートル・ハードル一着で帰ってきて、トラックでふたりで見つめあって立ってた。
「聞きたいんなら、教えてあげる。広瀬と寝てきたんだよ」
光だけじゃなくて、テレビの音もガーンって耳に飛び込んできた。
アニメのさ、ものすごく作った声。日曜の夕方だもんね。ガキが見てる。
「満足した? あたし、帰るよ」
伊田は歩き出す。
どうしていいか、わかんなかったね。こういうときっていうか、いつだって、もともと冗談を言うようなやつじゃない。伊田は。
俺、伊田のあと、ついてった。ことばが出ない。なんで、俺とじゃなくて、広瀬なんかと寝るんだよって、頭の中はそればっか。
この目の前のだぜ、伊田のからだを広瀬が抱いたのかと思ったら、頭がくらくらする。し
かも、俺とさあ、仲良くつきあってたはずなのに、伊田はなんでそんなひどいことすんのよ。
そりゃあ、俺だって、また広美としたけど、寝てない。立ったままやったって、こんなときでも、どうしてそんなしょうもないこと思いつくの?
「俺、おまえのこと好きなんだぜ」
くっだらねえセリフ。
「あたしだって、気にいってるよ」
伊田は前を向いたまま。
「俺は、すっごく好きなんだぜ」
もっと、くだらねえ。でも、他に言うことない。
「おい」
俺は黙ってる伊田の腕を、また、つかんだ。
「五分たった。帰る」
「ちょっと、待てよ。いくらなんでも、そりゃないだろ。もうちょっと説明してくれよ。広瀬のどこがいいのよ。あいつなら、俺のほうがいいぜえ」
伊田はゆっくりと歩き出した。
俺もついてく。曲がって曲がってしてたんで、変なとこに出てた。金網の内側に、もろ廃墟《はいきよ》って感じのコンクリートの固まり。なんかの工場だったんだろうけど。
やっぱ、俺、この辺の道わかってない。
「広瀬のぼんやりしたところ。何も考えないで育ったところ」
伊田は俺の訊いたことにマジに答えてくれてんだけど、そんなのどこがいいんだよ。考える気にもならない。
「すごく好きなんだぜ。わかってないんだろ」
俺が言うと、伊田の表情が急に変化した。
振り返って、俺のこと、にらみつける。
「わかってたよ。ずっと前からわかってたよ。でも、しょうがないじゃない。あたしはそんなに好きになれないんだから」
俺、フェンスに伊田のこと押し付けた。
伊田は全然抵抗しなかった。だから、かえって、俺、何もできない。
「俺が、生まれてはじめて、こんなに女のこと好きになったの、わかんないんだよ、全然わかってない」
自分で何言ってんのか、いや、何言ってもしょうがないんだ。そのことは頭のどこかではっきりそう思ってるのに、おさえられない。
そのまま、フェンスに伊田のことくっつけて、重なったまま時間がたった。
「しつこいよ」
伊田が耳もとで言った。
「ああ」
俺、それだけ。
「自分だけ、傷ついた気になってんだろ」
もう、返事もできないよ。
「あんただけ好きだ、ったって、相手の気持ち考えたことないの?」
だって、いままでね、俺が誘えばみんな女は喜んでついてきたんだ。俺がさわれば、みんなすぐ濡《ぬ》れたんだ。
「いいやつだけどさ、あたしは、このあたりも、親も、ここにいるあたしも嫌いだって前に言っただろ。あきあきしてんのよ。あんたはあたしと同じじゃない」
両手で握ってるフェンスに力を入れた。指がちぎれたっていいって思った。
「みっともないよ、あんた。中沢らしくない」
伊田が、とても優しく、そう言った。
そうだよな、こんなとき、笑って冗談言って、じゃっ、また、って言うべきだよな。
でも、たぶん、人間はすごくみっともないときがあるんだ。
広瀬と寝てきた伊田のからだ、広瀬の汗と精液がしみこんでるかもしれないからだを俺は抱きしめた。
伊田は力を抜いている。
これが伊田との最初のキス。伊田は人形みたいになってる。
俺って、最低だね。