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「やあ、目が覚めてたのかい?」
ドアのところには、ふたつの影があった。廊下の明りのせいでシルエットになっているんだ。
俺に声をかけたのは、大きいほうのかたまりだった。
そうだね、ふたりの大きさには、たいへんな差があった。高さも、幅も。同じ生き物とは思えないくらい。
部屋の照明がつけられる。俺は、まぶしくて、目をパチパチさせる。
「どんな気分だい? いや、無理に返事する必要はない。君のことは聞いているんだ。たいへんな目にあったね」
その大きな男が言った。
「御家族のことは、なんと言ったらいいのか……。お悔やみのしようもない。君も、とても苦しんでると思うけど……。それで、意識が回復してから二週間になるって?」
家族か。
この前、ドクターも言ってた。俺は、家族を、「事故」によって全部失ったって。そして、それは、とうてい耐えられないような悲劇的なことらしい。
でも、そう聞いたって、俺にしたらなんの感情も起こらないぜ。どんな家族がいたのか、覚えてないんだから。
初めて見る大きな男は、首をかしげて、俺のリアクションを待っている。
俺は、別に言いたいことなんてない。
小さいほうが、一歩踏み出した。こっちは、毎日見ている。もう、見飽きたぐらいだ。
コツコツ、コツコツ、と廊下に靴音を響かせては、決まった時間に部屋にやってくる、俺の主治医。
こいつの靴音を最初に聞いたのは、集中治療室でだった。いろんな医療機器が、ブーン、ブーンって、電気的な雑音を響かせてた。
そのICUから、いま、俺はそれとは別の個室に移されている。
「経過は順調。順調すぎるくらいだ」
ドクターは、自信に満ちた声で言う。
いつもいつも、生意気なやつだ。
「話したとおり、肉体的には完璧《かんぺき》なんだよ、このクランケは。いわゆる肉体、カッコつき肉体だがね。しかし、実際、私たち以外の人間、治療チーム外のものに会うのは今日が初めてなんだ。ハッハ」
いったん言葉を切る。咳《せ》き込む。
「おい、立て! 立ち上がれ!」
急に大声で叫ぶんで、俺は、びっくりしてベッドから飛び出てしまった。
「よし、それでよーし」
ドクターは満足そうに腰に手をあてている。
なんなんだよ、おまえ。ひとに命令なんかして。こんなやつの言うこと、聞かなきゃよかったぜえ。
立っている俺のところに、大きな男が歩みよってくる。
右手を出しているのが見えた。すると、考えてもいないのに、俺の右手がそれを迎えにいく。
そうだ、これは「握手」だ。「挨拶《あいさつ》」の一種のはずだ。
強く手を握られたので、俺も力をこめる。そうやって並んで「握手」をしてたら、大きな男よりも、俺のほうが少しだけ背が高いことがわかった。
だとすると、俺って、相当デカイのか?
「離せ。いつまでも握ってるんじゃない」
ドクターが、俺の手首をたたく。
気がつくと、俺は力いっぱい手を握りしめていたみたいだった。相手の男は、ただ差し出しているだけになっていたのに。
俺は、手を離した。
なんだ。「握手」っていうのは、力比べじゃなかったのか。
男は右手を、痛そうに上下に振った。数回、ひじから大きく。
「十分な握力。クラウチング・スタートで体重を両手の指先で支えるためには、大切な要素だ」
「わかっただろう。問題は、脳なのだ」
ドクターは、男と俺との間に割り込むようにしてはいってきた。
「交通事故などで頭部を強打した場合、記憶を失うのは珍しいことではない。その喪失と回復のメカニズムは、依然として不可知の領域だ」
男と俺を交互に見ると、ドクターは大袈裟にニヤッとした。
「ハッ、簡単に言ってしまえば、本当のところ、脳については、我々は何もわかっていないっていうことだ。記憶を司《つかさど》る海馬《かいば》こそがすべてだ? ふん、笑わせるな。もしかしたら、記憶は脳にはないのかもしれない」
ドクターは歩き出した。
「心肺移植を経験した患者の性格が、ドナーのものにとって代わられてしまうエピソードは、広く知られている。内臓が人間の心を支配しているのだ。あるいは、極端な話、ひとつひとつの体細胞に記憶が存在しているやもしれぬ。ヒトの約六十兆ある細胞のそれぞれが、個人の持つ全記憶を共有し蓄積している。そんな壮大な仮説すら完全に否定することはできないのだから、人類の科学の発展は素晴らしい。我々は、二十一世紀に生きていることを誇りに思うべきだ」
「先生、グラウンドに行けば思い出すんじゃないですか?」
演説しながら窓際のところまで歩いていってしまったドクターの背中に向かって、男が言った。
「毎日、練習していた場所でしょ? トラックとかロッカールームとかを見たら、記憶がよみがえるんじゃありませんか?」
ドクターは、閉まった窓のほうを向いたままだ。
どうしたんだよ。ふたりの会話が、全然、かみあってないじゃないの。
「彼は、高橋は、日本でも指折の素質を持ったランナーなんですよ。これまで競技経験はまったくないけれど、その身体能力の高さが評価されて、特別強化プロジェクトの一員に選ばれた。こんなことは高橋が初めての快挙で、実際、その期待に応《こた》えるだけの成果を上げてきているんです。これまで、彼は陸上競技に命をかけてトレーニングしてるんだから、きっと思い出すんでは?」
男は一気にしゃべった。
なんか、元気なやつ。
しっかし、その、話題になってる高橋っていうのは俺のことなんだろうけど、本当に、俺の話か?
ドクターは、反応を示さなかった。
ゆっくりと振り向くまで、ずいぶんと長い時間がかかった。
「思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。可能性は、ふたつにひとつ。言えることは、それだけだ」
アゴヒゲに手をやっている。
「けれども、命をかける、ねえ……」
口ごもるドクター。
さっきまで気合いはいって演説していたときのね、熱ーい感じは、すっかり冷めちゃってんの。やっぱ、相当の変人だぜ、こいつ。
それで、
「生命に関する、そういった比喩《ひゆ》は、感心しないな」
ぼそぼそつぶやいてんだけど、大きな男もドクターのことが嫌になっちゃったみたいで、無視する。
俺のほうを向いた。
「グラウンドに行かなくても、いま、ぼくを見て、何か思い出すことはないかい? ぼくは、君のコーチをしてきた。君とは信頼関係が出来上がっていたって思いたいよ」
強く見つめられた。じっと。
口のあたりにね、少しだけ笑いを浮かべてるような感じ。俺の返事を待ってるんだ。
日に焼けて引き締まった男の顔には、見覚えがなかった。それ以前に、このコーチだという男の言っていることの多くが、俺には理解できなかった。
グラウンドとかトラックとかロッカールームとかいうところで、いったい、俺は何をしていたんだ? 俺の指折の素質って?
それに、だいたい、その、特別強化プロジェクトっていうのは、なんなんだ? 記憶ってやつを失う前に、いったい、俺はどんな人間だったのだろう。
俺は、首を横に振った。わからない。ともかく、この男は、見たことがない。
「そうか、しかたないな」
男は、がっくりとうなだれた。何か考えているみたい。
俺、ちょっと後悔しちゃったね。こんなに元気をなくすなんて。嘘でもいいから、知っているって言ってあげればよかった。
なんだか、とっても悪いことしたって気になって、俺は、前に立っている男のことを見ていた。
しばらくして、男が顔を上げた。
そしたらね、すごいの。そのときにはね、いい感じになってる。なんていうか、全面的な笑顔。
「わかった。だいじょうぶ。ゆっくりしてくれ。そしたら、そのうち、思い出すよ。でも、あんまり、ゆっくりしてもらっても困るな。トレーニングを再開して、秋の大会には間に合ってくれるといい。リレーのメンバーの問題もある」
気を取り直してくれたみたい。
それだけじゃなくって、俺を元気づけようとしてくれている。
男は右手を再び差し出した。
俺も、それに答えた。今度は、力を入れ過ぎないように注意して。
まあね、それくらい配慮してあげないと。
だって、ドクターに比べたら、このコーチってやつのほうが、ずっと俺のこと大事にしてくれてる気がするんだもん。
「先生、このあとの見込みは……、高橋が、グラウンドにはいつ顔を出せるのか……」
「それは、わからん。この前言った、こいつの叔母《おば》さんだな。彼女がスペインから帰ってきて、こいつを家にひきとって、日常生活を営むようになってからの話だな、具体的な日程は」
あきれたもんだぜ。俺のまったく知らないとこで、俺に関する話が、どんどん進んでいるんだから。
「君への期待は、こんなことがあったって、ひとつも変わらない。君は将来、日本の陸上短距離界を背負って立つ人間になるはずなんだ。先生の許可がもらえたら、病室でもできる練習のメニューを渡すよ」
男は微笑んでいる。
「どんなときも、筋肉をおとさないように。君は生まれつきのアスリートなんだから」
ドクターが男をうながした。俺の面会の時間は制限されているんだろう。
部屋を出ていこうとした男が、振り返って言った。
「あ、それから、事故にあったとき、君の持っていたポータブルプレーヤーのことなんだけど……。北島三郎を聴いてたんだって? 意外だったな」
ちょっと困ったような顔をしている。
「ほら、前に、ぼくが編集して君にあげたやつがあっただろう? 練習の合間のリラックス用に。今度、新しいディスクをつくるときには、北島三郎を入れてあげよう」
「ほお、北島三郎か。いい趣味だな」
いったんは廊下に出ていたドクターが、わざわざもどって来て言った。
「私には、そんな報告は上がってこなかったが。事務員に厳重に注意しなければいかん。そうか、北島三郎か。ふーん……。ちょっと、やってみようか。ほいっ」
ドクターは、いきなり声を張り上げる。
「チャンチャチャチャチャーン、チャンチャチャチャチャーン、チャーチャララララーン、チャチャチャ、チャチャッチャ、はーるばる来たぜ……」
そこで止めると、
「ところで、君は函館出身だったのか?」
ドクターは、俺に質問した。
ハコダテ? それは、なんのことだ?
俺は首を振る。わからない。まったく、わからない。
俺のまわりで起こっていて、俺の理解できない、こういったすべてのことは、どういう仕組みになっているんだろう。
コーチとドクターがいなくなると、俺はベッドに倒れ込んだ。
猛烈に疲れていた。頭が熱くなっていた。中心部に痛みが走る。
いったい、なんなんだ?
俺が知らない、俺っていう生き物。
リクジョウキョウギ? キタジマサブロウ? ハコダテ? 聞いたばかりの言葉が、いくつも頭の中でうなり声を立てている。
そのまま眠ってしまったのだろうか。気がつくと、いつのまにかもどってきたドクターが、俺の上にかがみこむようにしていた。
「かわいそうに。まだ無理だったか。しばらくの間、やはり様子を見るべきだな」
ドクターは、ため息をつく。
「どうだ? どうやら、何も思い出さなかったみたいだな。あの陸上競技のコーチとかいうやつの話を聞いて。それにしても、つまらん男だな。あの大仰な口振りはなんだ? 命をかける? 日本を背負う? しかも、俺の学術的説明を聞こうともしない。自分の関心の範囲を広げられぬのだな。あいつも暗闇に生きている。記憶を失ったおまえと、五十歩百歩だ」
俺はドクターの言葉に、うなずくことも首を振ることもできなかった。それくらい体力を消耗していたのだ。
「さあ、楽になろう。注射をしよう。いつもの注射だ。とにかく眠ることが脳の回復にはいちばんなんだ。ぐっすり眠れる注射だ」