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「驚いたわ。そのことはドクターには言ったの?」
俺は首を振った。
「言ったって、信じるはずがない」
それは、理由として、半分、本当だ。
翌朝になって、俺は病室への訪問者のことを話そうか、と考えた。
真夜中にね、窓から、五階なんだけど、鍵《かぎ》を閉めてたはずの窓から、中国人がはいってきたんですよ。バイト先の店長だっていう中国人。それで、俺のこと脅して、また窓から出ていったんです。
信じてもらえそうにない。
言わなかった残りの半分の理由は、いったい何が起こっているのか、俺自身、整理がつかないような出来事だったからだ。
そして、いまとなっては、それは、もしかしたら夢だったのかもしれないとも思えるのだ。あの怪しい手紙とともに。
眉子叔母さんは、考えてから言った。
「そうね、あのドクターは、ひとの話を聞こうとしないタイプね。その場の会話を録音したテープがあるとか、男の侵入する様子が防犯ビデオに写ってるとか、ちゃんとした証拠でもない限りは」
実は、俺には、客観的な証拠のようなものが、その時点では、ないわけでもなかった。
洗面所で顔を洗おうとして、首のところに赤い筋があるのに気づいたのだ。それは、数日間、消えなかった。店長にパジャマを絞り上げられたときにできたものだろう。
でも、それだって、単に布団のへりとかでこすれたものと、区別はつかない。
「マフィアに関しても、あなたの頭は真っ白なの?」
俺はうなずく。
「ちょっと、憧《あこが》れるわね」
冗談じゃない。ひとごとだからだ。
「記憶がまったくない、バージン・ブレイン」
眉子叔母さんは楽しそうだ。
「あ、私、バルセローナの前はキャリフォーニァにいたって言ったでしょ。いまでもアメリカンスクールだから、結構、英語なの。家では日本語で、スペイン語と合わせて、全部、中途半端な三ヵ国語」
叔母さんはティッシュで手を拭《ふ》く。
「このペパロニ変なにおい。日本のピザって、みんなこんな感じ?」
その質問には答えず(以前に食べた日本のピザの記憶なんて、もちろんない)、俺は眉子叔母さんに尋ねた。
「さっき言ってた憧れるっていうのは、記憶喪失に? それとも、マフィアに?」
叔母さんは、少し考えてから、
「初めは前者のつもりだったけど、後者もいいかも」
立派な日本語だ。俺よりうまいよ、絶対。
で、俺が反論をしかけた時だった。
リビングのドアが開いた。
「そのマフィアから来たわ」
女が立っていた。
眉子叔母さんも、俺も黙っていた。ふつう、こんなとき口がきけるやつはいない。
「どうやら、あなたの病院の医者たちから聞き出した情報は、正しかったみたいね」
室内ドアのノブに左手をかけたまま、女は右手で髪をかき上げた。
「初対面のご挨拶《あいさつ》をすべきなのかしら、高橋。私、サリナよ」
俺は、椅子から立ち上がった。
ドアに向かって歩きかけたけれど、ピザを食べていたのを思い出して、テーブルの上のティッシュで手を拭いた。
そして、女の前に立ち、右手を差し出した。
そうか、これが、あのサリナなのか。
「まあ、握手。なんて素敵な挨拶。あの熱いキスは、どこへ行ったのかしら」
サリナは笑った。何と呼んだらいいのだろう、薄い生地のドレスのようなものに包んだからだ全体をくねらせて。
「こんにちは、私は確実に初対面だわ」
眉子叔母さんが、俺の背中越しにサリナに話しかける。
「でも、あなた、どうやってはいってきたの? 私は鍵をかけたはずだけど」
「あら、こんにちは。あのねえ、だって、私たちはマフィアですもの。どこからだってはいれるのよ。通風口の隙間から、壁を通り抜けたり、床からわきあがってきたり。当然、16階の窓からだってね」
「よくわからないけど、異常にセクシーなひとね。世界的美女。バルセローナでも目立っちゃう」
「まあ、あなた、ありがと。うーん、正直なお嬢ちゃんだこと。ということは、あなたがスペインの叔母さんなんだろうけど。バルセローナって、どこにあるのかしら。ラスベガスみたいなとこ?」
「歴史的には全然違うけど、結局は似たようなものかも。美を競って、美を商売にしてるってことでは。欲望に奉仕している街って言ってもいいわ」
「お嬢ちゃん、難しいこと言うのね。とてもキュートな顔して」
「よして、そんなのって。子供っぽいだけ。早く大人の女になりたい」
「あら、日本では、いちばんの人気の時期なのにね。その、あなたの言う商売、商業的価値の点でね。覚えておくといいわよ。日本の男って、マザコンとロリコンの二種類しかいないの」
なんか、緊張感のあふれるやりとりなんだけど、俺のこと無視しないでよね。ふたりだけで、俺を通り越してしゃべってるんだから。
「ともかく、中にはいって。すわって」
俺は、サリナに言った。
このまま、ドアのところで立ったままというのも。
「中って、リビングでいいの? それともベッドの中ってこと?」
サリナという女は、俺に微笑みかける。
「へ?」
サリナは、また、からだをくねらせた。
「叔母さんの見てる前でっていうのもいいわね、刺激的で」
ガタンと、椅子の音がした。
「私は、自分の部屋へ行くわ。どこでも好きなところでやって」
眉子叔母さんが、吐き捨てるように言う。
「まあ、恥ずかしがらないで。あなた、いくつ?」
背伸びするようにして、サリナは叔母さんに聞く。
「十五。齢は関係ないわ」
「あら、ひとがするのを見るのも勉強になるのに」
眉子叔母さんは、俺の脇を通り、サリナの横を擦り抜けるようにして、早足で廊下に出ていった。