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俺はコーチと一緒に、広いグラウンドをジョッグした。日陰になった階段のところには眉子|叔母《おば》さんがすわっている。
スペイン語の本を読みながらタバコを吸っている様子は、なんとなく不機嫌そう。
だけど、叔母さんが病院に電話をかけ、コーチの連絡先を聞き出してくれたのよ。それで、コーチに場所を確認して、アポイントメントを取った。
今日は、ここまで付き添ってくれたんだから。長い時間電車に揺られて。
十五歳のくせしてさ、しかも日本に来たばかりだっていうのに、叔母さんはテキパキと事務的なことがこなせる。
俺ときたら、十八になるのに、駅での切符の買い方もよくわかんないの。叔母さんの後ろでオロオロしているみたいで情けない。
ま、いいの。
前に確認したじゃない。そういうことだって、時間の問題なんだから。すべてが時間の問題。
「どうだい? 調子は? 気分が悪くなったりしたら、すぐに言ってくれよ。無理する必要はないんだから」
「はい」
俺、かわいい返事しちゃう。
実際、気分はよかった。
青い空。風が吹き渡っていく芝生の広がり。俺は、いつもこうやって「トレーニング」というものをしていたのだろうか。
「いいグラウンドだろ? 正規の四百メートルトラックが取れているなんて。ここは、日本でも珍しいクラブチームなんだ」
コーチは、俺の視線を感じたみたいね、施設を自慢する。設備が充実しているのが単純にとても嬉しいみたいで、俺は、そういうコーチは、いい人間だなって思う。
「実業団でも学校スポーツでもない、新しいシステムが日本に根付くかどうか。唯一実績がなくても素質を買われて入会した君は、いちばん有望な選手のひとりなんだ」
コーチは楽しそうなの。
「よし、止まって。ストレッチングをしよう」
俺は、そこでコーチのマネをして、いろんな動きをした。
いちいち教えてもらう。向き合って引っ張ったり、お互いを背中に乗せたり。からだを動かすのは、なかなか愉快。
「こうやって運動してて、何か思い出すことってない?」
コーチが聞く。
「さあ、いまのところ……」
正直に返事したんだけど、こうなると、また、記憶が甦《よみがえ》らないのが、コーチに対して申し訳ない気がしてきちゃう。
「まあ、徐々に気づき出したりするかもしれない。そんなにあせることではないよ」
あくまで、コーチは明るくさわやか。
それまでジョッグをしてて、実は、俺には気になってるものがあった。それは、コーチが言うみたいに、記憶のどこかにひっかかっていて、いま思い出しつつあるものなのか。
そんなんじゃなくて、新しく、いま、気になりだしただけなのか。もちろん、俺にはそれは判断できない。
それが何かっていうとね、トラックの外側を走ってて、大回りしなければならないとこがあったの。
八コースに分かれたレーンの外に走路が張り出してる。で、その先には、白と黒に塗り分けられた棒のようなものが渡してあるじゃない。
俺、一周目に気になったんで、もう一度回ってきたときによく見てみたのよ。そしたら、その棒の先には、水がたまっていた。
水がたまってても、噴水(フエンテだった? 叔母さんが言ってたスペイン語は)にはなってないみたいだし、あの棒と池みたいなもののセットはなんなのかって、聞いてみようと思ったの。背筋を伸ばすストレッチングが終わったら。
そのときのことだった。
突然、バーンって、大きな音がした。爆発音。
そしたら、俺のからだじゅうの筋肉が一瞬に収縮した。次に気がついたときには、俺は思いっきりダッシュをしてた。
全力で走る。
俺は何も考えていなかった。頭の中に理性のようなものはない。俺は本能に導かれるまま、ただ走る。
あちこちで叫ぶ声がしているようだったけど、意味なんてわからない。
誰かが追いかけてきた。でも、俺は軽く引き離す。前で手を広げているひとの脇を、ステップを踏んで擦り抜ける。
俺の目に飛び込んできたものがあった。あの白と黒の棒だ。ぐんぐん近づいてくる。
一メートルぐらいの高さにあるその棒に飛び乗ると、俺は強く蹴《け》って大きくジャンプ、着地とともにトラックに倒れ込んだ。
「おい、どうした。何があったんだ?」
「だいじょうぶか?」
「高橋、返事しろ」
だれのものかわからない、いろんな声がする。
俺は両手で頭を抱え込んだ。トラックの上で横になったまま。頭が割れるように痛かった。
「痙攣《けいれん》してるぞ、水をかけろ。いや、担架だ」
「おい、高橋。高橋」
俺は、両肩を強く揺すぶられた。
「しかし、速い。高橋、すごく速いぜ。前より速くなった気さえする」
コーチだった。
彼は、ぜいぜい息を切らしていた。横になっている俺に、かがみこむようにする。
「でも、高橋、短距離だけじゃなくて三千メートル障害をする気があったのかい? しかも、あの跳躍力。水に触れることさえない。あんなに軽々と水濠《すいごう》を越えるなんて」