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「とにかく、逃げ出そうなんて気になるなよ。わかってるよな」
助監督が言った。
さっきまでの「わきあいあい」が、なんか脅すみたいになってるの。こいつらの本性は、結構、やばいんだろうな。
「わかってます。お金もないし、携帯も取り上げられてます。だいいち、時田さん、そんな甘いひとじゃありません」
「そうそう。わかってりゃいいの。じゃあ、明日六時」
「ハーイ」
店長は戸を閉めた。
ぎしゃっというような変な音がした。ベニヤ一枚しかないような戸だ。
「あーあ。これで高橋さんと私、タコ部屋状態です」
店長は、畳の上にへなへなという感じですわった。
六畳の部屋、ひと間だけのつくりだ。
俺たちが連れてこられたのは、いつ建てられたのか想像もつかないような古いアパートだった。
入口で靴を脱ぎ捨て、暗い廊下を進んで曲がった突き当たりの部屋。途中にトイレと流しがあった。
「俺、逃げるよ、明日」
そう言うと、店長は口を開けたまま、俺の顔をじっと見た。
「そんなことしたら、命、危ないです」
店長は畳に正座した。
向きなおって、俺に対してまっすぐになる。
「いいですか、無理したらいけません。中国の教え、あなたたちニッポン人、学んでいません。漢字と中国料理、あなたたち覚えた。でも、ニッポン人、大切なこと学ばない。あなたたち、勢いにまかせて、すぐ玉砕しようとする。第二次大戦と同じです。負けること、勉強すべきです」
俺は、黙ってた。
だって、よくわからない。本当に、ここから逃げたら、俺、殺されるのか?
「AVの仕事、そんなに嫌ですか? あなたがバイトしてた私の店と、本質的には変わらない。あなた、監督言ってたように、そういうとこで才能ある」
そんなこと言われたって、返事のしようがないな。俺、そのバイトの記憶だってないんだもん。
しょうがないからさ、俺は立ち上がって押入れを開けてみた。
もう、疲れてて、寝たいの。
布団《ふとん》を引っ張り出そうとすると、崩れてしまいそうだった。そのくらい綿がはみ出していた。もちろん、シーツなんてない。
店長の言うタコ部屋っていうのが何を意味しているのか、はっきりとはわからないけど、さすがにぞっとしないぜえ。
店長は、俺が敷こうとしたって言うか、ばらばらにならないようにまとめて広げようとする布団を手伝ってくれた。
「この暮らしが半年か、下手をすると一年続くのです。それが、あなたと私の運命ね」
冗談じゃないぜ。
なんで、発想がこんなに暗いのよ、こいつ。
「よく考えれば、マグロ漁船に乗せられるよりはましです。もちろん、腎臓《じんぞう》取られるよりは、ずっといい」
店長ったら、自分に言い聞かせているみたい。
崩れないように固めた布団の上で、俺たち、横になった。
電車の音が、近づいて遠ざかっていく。線路がわりとそばにあるみたいだ。明りが微妙に揺れて、うす暗い部屋がよけいに暗く感じる。
決めたね。俺、逃げる。絶対、こんなとこ。
店長には内緒で、チャンス見てね。迷惑かけることになるかもしれないけど、そんな義理は(もしかしたらあるのかもしれないけど)、ないわな。
黙ってると落ち込んでくんで、俺、今夜、ずっと気になっていたことを聞いてみたのよ。
「なんでさ、精液をいっぱい女にかけると、いいことなの?」
店長は寝返りをうった。
「それはAVの約束なのです。撮影が嘘でなく、本気でセックスしてるとわかる。それに精液がかけられてるのを見て、女性を汚して征服した気になるのでしょう」
ふーん。変なの。
「いま、ぶっかけの映像が大人気です。大量の精子、女性にぶちまけたり飲ませたりします。ニッポン人おかしい。人間、サーモンと違います。精子、からだかけても妊娠しません。子孫繁栄しない」
そういう問題か?
「前の前の店長、毎日毎日、精子かけされられて廃人になりました。私、嫌です」
だったら、一緒に逃げようぜって言おうと思ったけど、警戒されたらいけないんでやめといた。
横向いたら店長は眠ってたんで、俺、明りを消した。