30
夜中に目が覚めたとき、俺は、自分が病院のベッドにいるんだと思った。俺の鼻の奥のほうで、消毒薬の混じった独特のにおいがしたの。
でも、それって錯覚。
人間の感覚なんて当てにならないよね。次に鼻から息吸い込んだら、得体のしれない、すっぱいような臭いがした。
病院とは違って、ふとんは固く湿っていた。で、聞こえるのは、機器のうなるような低音じゃなくて、店長のいびき。結構、うるさい。
闇の中、目をこらすと、木目のはいった天井の板には、大きな黒ずんだしみが広がっていた。
なんで、こんなところにいるんだ?
俺、振り返ってみたのよ、半分、まだ夢を見ているような頭で。
前の日の夕方、俺のベッドに店長がいた。そして、連れていかれたのはマフィアの親分の家。高原の親父さん、とか呼んでたのは、スーツを着た時田とかいう男だ。
要塞のような親分の家の庭では、池の水の音がしてた。ずいぶん前のことみたいだ。
また、クルマに乗せられて、撮影現場。それで焼肉屋行って、結局、気がついたら、こんな古いアパートで寝てる。
あっという間に物事は進んでいて、で、それというのも、元はといえば、俺が「アレ」ってのをなくしたせいだって。
でもさあ、それって、俺の記憶にはないんだぜ。
そんな、全部ね、自分の記憶にない全部のことに責任をとって生きていかなきゃいけないのか? そんなのが記憶喪失者のその後の人生だって言うなら、ちょっとキツイぜえ。
だけど、全然、だいじょうぶ。
だって、俺、わけのわからないことに責任取る気ないもん。