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「おい、時間だぞ。起きろ。早くしろ」
考えてるうちに、いつのまにか眠ってしまったんだろう、気がつくと激しくドアをたたく音がしていた。
うす暗い部屋だった。朝になっても、陽は射さない。
店長と俺が出ていくと、マイクロバスには、監督、助監督、照明のハルさんがすでに乗り込んでいた。
いつも、こんなに準備よく、気合いがはいっているの? 案外、まじめな人たちなのかしら。
ハルさんがハンドルを握る。
走り出してすぐに、クルマは駐車場に入れられた。
「適当にさ、買ってきてよ」
助監督に、お札を差し出された。
「あの、適当って……、たとえば、どんな……」
「え? サンドイッチとか、缶コーヒーだとかお茶とか……、適当。コンビニのメシなんだから」
「私、行きます。高橋さん、記憶喪失です。常識ありません」
店長が横から手を出して、お金を取った。素早い。明らかに、俺の逃げるチャンスをつぶそうとしてる。
その背中に、
「おい、オニギリ、エビマヨネーズとカツオな、交《ま》ぜといて」
監督が叫んで、店長は振り向いて丁寧にお辞儀してる。うーん。ドクターも言ってたよな、オニギリとミソシル。
コンビニを出たマイクロバスは駅前のロータリーにつけられた。
袋から出されたものが配られ、そこで食事をする。その「適当」なメシって、案外うまいんだけど、みんな静かで、まるで怒っているみたいなの。昨日の夜とは違う。
よくわかんない、渡辺組。
食べ終えても、クルマはそのまま。
だいぶたってから、
「おっ」
「やった」
助監督が中腰になって外を見ていた。
駅の改札口から大きなバッグを持った女が出てきた。サングラスをかけているけれど、女優のユウカだってわかる。
俺、その、なんて言ったっけ、未来への記憶ね。それは、ちゃんとしてるんだもの。
「ユウカ、めっちゃ、ねむーい。昨日、遅かったのにー」
文句を言いながら、でも、結構、明るい感じなの。
いい子なのかもねえ。
監督が手を取って、バスに乗るのを助けた。
「そうだよね、ユウカちゃん。えらい。えらい。起きられただけでもえらい」
「あー、よかった。今日、ダメになるかって、半分、思ってた」
助監督も振り返って、ユウカに話しかける。
「ユウカはねー、ドタキャンは、まだ二回しかー、違った。えーと、三回しかー、してないもーん」
「おーっ、それは立派。AV女優の鑑《かがみ》だ」
それで、出発。
また静かになっちゃって、眠ってるやつが多いみたいだったけど、俺は、窓から外をながめていた。
この前のベンツでの移動は暗くなっていたから、そんなに景色はわからなかった。退院してからの(意識がもどってからの)初めてのロング・ドライブになる。
工場の煙突だとか、高速道路向けの大きな看板だとか。その、ひとつひとつに、俺は集中してみた。
何か、俺の脳が刺激され、記憶がよみがえることはないかってね。もしかしたら、事故にあう前に見た景色かもしれないんだ。
けれど、そういうのって長く続かないの。
結局、俺はただ車の窓からの風景を楽しんでいたんだと思う。ロケの目的地に着いたらしいってわかったときには、ちょっとがっかりしたくらい。
海沿いの駐車場というか、原っぱのようなところに、マイクロバスははいっていった。
奥に停まっていたスポーツカーから降りてきたのは、男優のケンさんだった。大きく伸びをしている。
器材を下ろすのを手伝わされた。
仕事しながら、俺は景色に見とれてしまってね。だって、岩場と砂浜。白い波のたつ海は光ってて、その向こうには水平線がある。
「よし、ちゃっちゃっと撮っちゃおう」
監督が指示して、スタッフが輪になった。なんか、場所の設定とか動きとかの、打ち合わせをしてるみたい。
俺、することがないんで、海でも見に行こうかと思ったの。
そしたら、
「持ち場離れたらいけません。仕事はいつでも一生懸命、ニッポン人のいいところね」
店長ったら、俺のこと監視してる。
撮影が始まった。
男と女が、きっと久し振りなのかな、出会うシーン。すれ違いざまにケンさんがユウカの腕をつかむ。
見つめあうふたり。カメラがアップでとらえる。
ユウカは、手で顔をこすっている。本当に泣いているように見える。
変な話だけどさ、これって、たぶん、めちゃくちゃクサイ芝居なんだろうけど、俺、ふたりの演技に心を動かされてしまった。
ひとはこんなふうにして、出会ったり別れたりして生きているんだなって思った。それを、俺もしてきたのかなって考えるとねえ。
「ホイ、カット。OK。いいよ、とっても」
監督のひとことでさ、場の緊張がゆるむの。
「OK。じゃあ、準備して」
「はーい」
ユウカは、バスの中にはいっていった。
「そろそろ用意しとけよ。あ、陳だけでいい。たっぷりな、十二人分」
「はい」
店長は、悲しそうな顔。
ユウカがやってきた。コートの前を押さえている。
「暑ーい。ユウカ死にそう」
誰にともなくね、そんなこと言ってから、鏡をのぞきこんで、前髪引っぱってる。
ケンさんは、岩場の陰にいた。こちらに背を向け、ひとりで海を見ているみたい。
「あいつ、立たなくなったなあ」
監督がつぶやいた。
「あんなに売れっ子だったのに。人間、ピークを越えるっていうのは、つらいものがありますねえ」
助監督がささやく。
「何をえらそうな。おまえ、そんなこと言えるほど仕事してるか」
「まあ、そうですが」
ふたりとも熱意がなく、しかたないからしゃべっているみたいだった。
ユウカが、コートの前をバタバタさせた。
「遅ーい」
コートの下は裸だった。でも、今日の陽射しだったら、暑いに違いないわね。
監督が振り返った。
「陳、がんばってくれよな。ケンは立つだけでも大変だし、無駄玉は打てないから」
店長は、うなずいた。パンツに手を入れてるの。
「ねえー、早くしてほしいわ。ダメなら、陳さんでもー、高橋でもー、いいでしょー。発射しなかったけどね、高橋の、とっても大きかった。ユウカ見たんだから」
冗談じゃないぜえ。俺って、恥ずかしがりなんだから。
「おいおい、よしてよ。それじゃ、ストーリーが作れない」
助監督が、なぐさめるように言った。
でも、ユウカは、なんか、めちゃくちゃ不機嫌にしてるのよ。それって、自分を相手にしてて、ケンさんが立たないせいなのかな。
「変えたらいいじゃないの。どうせ、いつも同じ。たいした話じゃないでしょ」
監督がね、ユウカのほうをチラッと横目で見た。
ひどく不快そうな顔。
ハルさんは、アルミホイルのような銀色の金属を張った板を地面に置いて、そっぽを向いている。
なんだか、まずいよなあ。
昨日の夜の焼肉屋では、あんなに仲良くしていたのに、今日は、みんながイライラしている。別に、俺が、渡辺組のチームワークの心配をする必要はないんだけど。
そしたら、突然だった。
「お姉さん、いい乳してます」
店長だ。
コートの中のユウカの胸を、のぞきこむようにしている。
「ちょっと、いいですか。私、昨日から、もう、気になって気になって」
いきなりコートをめくると、乳首を口にふくんだ。
あいている方の胸を手でなでまわす。
「あっ、うまーい」
「なに、こいつ」
助監督が言った。あきれている。
ま、俺も、同じ感想だったけど。
「よしっ」
監督が大きな声を出した。
「撮るぞ。陳でいこう。ストーリー変更するぞ」