日语学习网
NR(ノーリターン)39
日期:2018-09-30 08:45  点击:280
 38
 
 
 ある朝、目が覚めると、急に頭が軽くなっていた。朝の光が、強くはっきりとなっている。
 俺の脳が回復したんだろうか。
 
「通院は定期的にと言ってあっただろうが。経過観察の立場なんだぞ、君は。退院しても病人であり、私の患者なんだ、私の。期日を守りなさい。ともかく、それで、調子はどうだ? 今度は何があった? え?」
 ドクターは、椅子から立ち上がって、俺を迎える。
「また、言葉を忘れたなんてことじゃないだろうな。知識の記憶、意味記憶じゃなければ、手続き記憶が壊れたのか?」
 ドクターが、勢いにまかせて言う。
「うん? 前に説明をしてなかったかな。手続き記憶に関しては」
 机に向かうドクターの横の回転椅子にすわる。入院していたときから変わらない、いつもの診察のスタイルだ。
 ヒゲに手をやるドクター。
「記憶のシステムというのは、まだよくわかっていない。一応の仮説だと、三ないし四段階の層がピラミッド状に積み重なっていることになっている。いいか、あくまで仮説だぞ。本当のところは、わかってないんだ。そのピラミッドのいちばん上がエピソード記憶。これは顕在的記憶の領域になる。そうだ、君が完全に失ったやつだ。そして、次に、潜在的記憶としてだな、エピソード記憶の下に意味記憶がある。ここで、分類上の問題はあるのだが、三段階説だと、いちばん下に手続き記憶がある」
 ドクターは、咳払《せきばら》いをした。
 威張ってこういう演説をしているときは、目が生き生きとしている。すごく得意そうで、どっちかっていうと、ガキみたいなやつだ。
「手続き記憶というのは、簡単に言うと、無意識の身体の記憶だ。たとえば、自転車の乗り方を考えてみろ。ふつう自転車に一度乗れるようになったら、頭で意識して乗ったりはせん。無意識の行為になるだろう? それが、それまで乗れていたはずなのに乗れなくなったとしたら、手続き記憶が壊れたということになる。これは、やっかいだぞ。記憶の基層をなすものだからな」
 俺は、記憶の問題を相談したいわけじゃない、とドクターに言った。今日は、ちょっと、からだに関して聞いてみたいことがある、と。
 ドクターは、机をたたいた。
「バカなことを言うんじゃない。記憶だって、からだにあるんだ。心もそうだ。すべてはからだが支配する」
 すぐ怒るドクターの反応は、無視することにしたの。
 それで、俺さあ、店長のこと、聞いてみたの。ケンさんの、立つ立たないって話も含めてね。
 だって、なんか気になってたんだもの。ドバッて精液を撒《ま》くやつもいれば、立たなくなるやつもいる。
 AVの現場見てて、男って、生き物として、いったい何をしてるんだろうって、考えちゃったから。
 そしたら、
「ハッ、精液の量? ハッ、ハッ、ハ。そうか、いや、ハッ、ハッ、ハ。そうか。君の友人は、そんなに多いのか。まことに結構なことだ」
 急に、ハイになってんの。
 ドクターは、笑みを浮かべて、俺の顔をのぞきこむようにする。
「彼の言う子孫の繁栄には好都合なことだ。もっとも、それには、精液の量だけでなく、その液体中の精子の濃度の問題があるがね。で、君は、それをいま検査してもらいたいのか?」
 俺は、首を振った。
 ドクターは、声をひそめた。
「チャンスをのがすな。ナースが採取を手伝ってくれるかもしれないぞ」
 そう言って、真っ赤になってんの。
 ホントに変なやつ。
 さっきまで横にいたナースは、そっちにひっこんでいるんだろう。奥のほうをチラチラとみながら、
「あくまで冗談だぞ、いまのは。医療界はセクハラ天国だが、いまのを聞かれると、私の立場上困る。いいか、ちゃんと聞け。君が言った正常な量などという想定は無意味だ。生き物というものは、本来、あらゆる偏差を許容するものなのだ。平均値? それは幻想だ。逸脱こそが生物の本質だ。そんなこともわからんのか。個体が並のレベルから離脱することによって、結果的に地球上のすべての生物が、あのちっぽけな単細胞から進化してきたのではないか?」
 ドクターは立ち上がった。
「君の友人は精液の量が多い、君はそれほどでもないようだ。そして、ペニスをエレクトさせられない友人もいるという。そのように、個体は千差万別なのが自然なのだ。精子数が多いというのなら、それは生き物としては非常に有利な性質だ。それだけ子孫を、自分の遺伝子を残せる可能性が高まるのだからな。まさに慶賀すべきことだ」
 両手を振り上げる。指揮者のように、指を広げ。
「しかしだな、君の友人のような精液の多い個体が増えていけば、人類が種《しゆ》としてますます安泰かというと、そんな単純なものでもない。私をあの鉤《かぎ》十字をつけた優生思想の持ち主たちとは一緒にしないでくれ。優生学の誤りは、遺伝子の多様性の利点を理解できないところにあった。その大量の精液の持ち主の遺伝子には、それに伴って、なにか致命的な欠陥があるやもしれぬ。逆にだな、いいか、現在において劣った特質とされるもの、たとえば極端な話としては致死的な遺伝病をもたらすようなものだな、そういった遺伝子も、環境が激変したときには、可能性として有利な方向に働くかもしれん。それこそが人類の生き残りに貢献する場合だってありうる。これが生き物の面白いところだ。そう思わんか」
 演説を止めたドクターは、ニヤリと笑った。
 椅子にすわると、ところで精液の量が多かったり、エレクトしない友人と出会ったのはなぜなのかね、と聞いた。
 それで、俺は長い説明をすることになってしまった。
 言わないって手もあるかなとは思ったんだけど、まあ、一応、俺の主治医だし。
 風俗店でバイトしていたらしい、というところから始めて、撮影現場に行き着くまでのエピソード。その翌日の逃走劇まで。
 もちろん、途中、面倒なとこは、はしょったけど。
 ひととおり話が終わると、ドクターは両腕を伸ばして背をそらし、うーむ、と声に出して言った。
「君の冒険談は、十分に魅力的だな。君は、現在、スポーツマン以外の過去を選択しつつあるわけだ。私に言わせれば、ずっと良い趣味だな。あの薄っぺらなコーチとやらのいるスポーツの世界など、平凡に過ぎる」
 過去の選択。
 それは、この前ドクターに言われたことだった。記憶喪失を、失ったのではなく過去から自由になったと考えて、好きな過去を選択しろと。
 でもさあ、実際のところ、過去を選んでる余裕なんて、俺にはまったくなかったぜ。だって、それより、いろんな過去が次々と俺に襲いかかってくる感じだったもん。
「そうだ。君の過去は、Aだったのかもしれないし、Bだったのかもしれない。もちろん、A+Bでも、あるいはまったく違うCだったのかもしれない。どれでもいいんだ、好きなものを選択したまえ。過去を取捨選択できる特権を享受《きようじゆ》しろ。いや、そんな変な顔をするな。私の言っていることは、これといって奇抜な話じゃないんだぞ。言ってみれば、ある程度までは、それはすべての人間がやっていることなんだ。過去というのは、フィクションだ。現時点から自分に都合よく作り上げたところの。ひとがそうやって、記憶を操作して生きていることは、自明のことなんだ。君の場合、その規模が少しばかり大きいだけだろう。そして、そのことこそが、記憶を喪失した者だけに許される、最大の特権なんだ」
 演説が、はてしなく続くのかって思ったね。どこかで立ち上がるチャンスを見つけないと。
 ところが、ドクターは、突然、声のトーンを落としたの。
「今回、特筆すべきは、その……、なんといったかな……、あの、女優の、そう、そう。ユウカちゃんだ。もしかして、君は逃げるときにDVDを持ってたりはしなかったのか? 特に、無修整のやつだとか……。そうか、なんだ。ないのか……。残念な。非常に、惜しい。君が反省すべき点があるとしたら、そこかもしれんな。ハッハッハッ」
 

分享到:

顶部
11/28 16:35