40
トラックには、午前中の光があふれていた。
「ハイ」
コーチが手をたたき、それで軽く飛び出す。
五十メートルほど走っては、もどる。
「いい感じだよ、高橋。自分では、どうだい?」
「気持ちいいですよ、走るのは」
実際、快調だった。
俺のからだは軽い。
昨夜、コーチから電話があったんだ。また、トレーニングをやってみないかってね。
この前のことがあったからさ、俺、ちょっと返事をためらったんだけど、コーチが強く勧めるのよ。
そしたらさ、別に、他にしたいことがあるわけでもないじゃないの。
でも、いまはグラウンドに来てよかったと心から言える。
たっぷりジョッグをした。丹念なストレッチングのあと、俺はスタンディングのポジションからスタートする練習を始めた。
トラックを蹴《け》って走り出す、その感触がいいの。
大きなフォームでゆっくり走るようにというのが、コーチの与えてくれた唯一の指示。
「驚きだよ、本当のところ。運動というのは、ブランクがあると、それを取り戻すのはたいへんなのに。君のからだは特殊なのかな?」
俺はコーチの言葉に笑顔で応《こた》えた。
でもねえ、特殊なのは、記憶喪失だけで十分。十二人分ね。
「じゃあ、もう一本」
コーチが手をたたく。
俺は、右足でトラックを軽く蹴り、リズムをつけて走り出す。
すると、俺は風に包まれる。
俺は、感じていた。郊外の陸上競技専用のスタジアム。まぶしいほどの緑。そこに、自分のからだがしっくりとなじんでいるのを。
確かに、俺は記憶を失ってしまった。
しかし、俺のからだが覚えている気がした。そして、主張している。どこで何をするより、このトラックで走ることこそが、俺のすべきことなんだってね。
マフィアの動きだとか、店長や渡辺組のひとたちがその後どうしているのか、気にならないわけではなかった。それから、あれのほう、Kって名前の誇大妄想の手紙も。
それでも、俺はトレーニングに魅力を感じだしてるの。
陸上競技の選手として記録を目指すっていうのは、なかなかいいんじゃない? 毎日の目標ができるもの。
それがドクターの言うように「平凡な過去の選択」とは思わない。
「こんなに調子がいいんなら、クラウチング・スタートもやってみようか? 君は得意だったんだ。ただし、セーブして。そうだな、五十パーセントぐらいの力で」
コーチが、そう提案した。
そう言ったあと、変わったものを差し出してきたの。金属の棒の両側に部品がついている。
「一種のロケット・スタートだな、君のは。左右の足の間隔が短い。ぼくの理想とするスタートに近いんだ」
その説明を聞いてわかった。
よかった。俺の記憶はだいじょうぶ。
これは、スターティング・ブロックというものだったはずだ。短距離のスタートをするときに、両足を固定し、すべらないようにする器具だ。
俺は、ブロックを地面にセットした。
そして、しゃがみこんで、足を器具に合わせる。短い左右の間隔というのは、これくらいでよかったのだろうか?
見上げると、コーチが変な顔をしていた。何も言わない。
目が合った。
彼は、しばらくためらってから、
「高橋……。大丈夫か? 向きが逆だよ。もし、そのままそっちへスタートしたら、レーンはすぐになくなって、壁に激突だ」