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「これはこれは、おふたり、おそろいのところお邪魔して」
店長は、丁寧に挨拶する。
「はじめまして。高橋進の叔母の眉子です」
叔母さんは、立ち上がってそれに答える。
「こちらこそ、はじめまして」
店長は、うやうやしくお辞儀をする。
「初めてだけれど、話はいろいろと甥《おい》から聞いています」
「あっ、いや、私も、サリナから聞きました。叔母さんのたいへんな活躍」
「サリナには、遊びに来るように言ってください、もっと気軽にと。友人なのだから」
どこかのホテルのパーティ会場での会話みたいだった。
バルコニーからの突然の侵入者を迎えての席で、三人の真ん中には、湯気をたてている鍋がある。
店長も、それに気づいたみたいだった。テーブルに目を走らせた。
今夜は、魚すき。
「よろしかったら、ご一緒にどうぞ。」
「それは、ありがたいです。ふぜいがあります。お鍋。高層マンションの壁、よじのぼるのは、意外に冷えましたです」
「お口にあいますかどうか。未熟な腕です。ソパ・デ・アホかパエージャの用意でもあれば」
それで、俺たちは、眉子叔母さんと店長と俺は、鍋を囲むことになった。
「実は、私、今日はリクルートに来ました。店の仕事に復帰したのです。高橋さん、もう一回、働く気はありますか?」
店長は、最初の半分は眉子叔母さんに、あとの半分は俺に向かって言った。
俺は、とっさに返事ができなかった。だって、それは、俺の選択肢として、まったく考えにないことだったもの。
もっともね、だったら、俺は何をしたいのか。陸上競技のトレーニングは、遠ざかってる。スターティング・ブロックの件以来、なんか気持ちが向かないのよ。
何をするかってのは、記憶喪失者としての俺の究極のテーマだよねえ。
「よかったら、叔母さんも、一緒に働きますか? すごく人気出ると思います」
俺が黙っていると、店長は眉子叔母さんに勧めた。
「ええ。ちょっと興味はあるわ。日本研究の一環として。でも、マフィアとの関わりは弁護士のキャリアとしてはマイナスになるし……」
「冗談です。冗談。最近の法運用は、年齢制限に関してだけは厳しいのです。十五歳を雇ったりしたら、また警察のお世話です」
「私の年齢も知ってるのね」
「あ、その話題は、レディに関しては失礼でしたか」
「それより、あなた、警察のお世話って、あなたはチノ、シノワ、ええと、中国人でしょ。不法入国じゃなかったの? 永住権でも持ってるのかしら」
そうだ。その問題もあった。こいつ、強制送還になってない。
「しーっ」
店長は口の前に人差し指を立てた。
「私、純粋のニッポン人あるね。生まれも育ちもニッポン。中国人のふりすると、裏社会で有利あるね。ニッポン人、みんなバカ。差別意識強い。それ、逆手にとるね。ドコ、カネ、アルカ。カネ、カネ、キンコ」
店長ったら、急にカタコトがきつくなってる。
眉子叔母さんは、あきれた、というように口をあけた。
「次に会うときは、あなたはイスラムに改宗してるのかしら。それともユダヤ?」
「ユダヤ人のメリット、私、よくわかりません。研究します」
そんなふうにして、食事の時間は流れていった。とても、友好的に。
食べ終わると、眉子叔母さんは、
「ふたりだけで話したいことが、いっぱいあるでしょ」
と微笑んだ。
「アカデミー男優賞にノミネートされたふたりなんだから」
店長と俺は、顔を見合わせる。
たっぷりの皮肉だ。
眉子叔母さんが片付けをしてくれる、と言うので、俺たちはお茶を持ってソファに移った。
「アレが出てきてよかったです。よかったですけど、あなた、なんで、スポーツクラブのロッカーに隠しましたか」
店長がささやく。
俺は、首を振る。
交通事故にあう前のことは覚えていない、すべてのエピソード記憶が失われてるってことに、俺はすでに慣れていた。
でも、他のひとは、そうでもないのね。ロッカーに入れておいた理由を聞こうとするなんて。
「私、考えてもみませんでした。盲点。ということは、それだけ、うまい隠し場所だったのかもしれません」
「だけど、そのせいでAVやって、また、そのせいで警察につかまって、たいへんだったよな」
俺、本当に店長に同情してたのよ。
だって、逮捕されたのは、ある意味で、俺のせいでもあるわけじゃない。眉子叔母さんが、俺を助けるために警察に通報したんだから。
「ニッポンの留置場、どうってことありません。お金とコネさえあれば、なんとでもなります。酒もタバコも好きなだけ。私にしたら、警察のおかげであなたにバージン捧《ささ》げないですんでよかったです。あのままいってたら、あなたにやられて私の肛門《こうもん》バカバカ」
店長は天井を見上げ、とても恐ろしいって顔してる。
いや、俺だって、そんなこと、別にしたいわけじゃないよ。店長の肛門に興味はないって。
「高橋さん、すばらしい巨根の持ち主ですから」
まだ、そんなこと言ってるの、尻《しり》を押さえて。
「すべての男根主義者に死を」
俺、つぶやいたの。意味はなかったけど。
「MSUですか」
店長が、表情も変えずに言った。つまらなそうに。
「知ってるの?」
「最近、話題です。店の女の子たち、よく話してます」
「なんなの、MSUって」
「え? あなた、知っているのでしょう。その、男根主義者がどうのこうのって、MSUのスローガンです」
「らしいんだけどな。でも、知らないんだ、MSUがなんなのか」
変な会話。
「私もよく知りません。たぶん新興宗教かなにかでしょう。水面下で勢力を伸ばしてるとは聞きます。中国でも結社は大切あるね。みんなで団結すれば、助け合いができます。中国人、いつも、仲間、大事にする」
おまえ、さっき、生粋の日本人だって言ったばかりじゃないの。
店長が、俺のほうに向かって、姿勢を低くした。洗い物をしている眉子叔母さんの背中を気にしてる。
「そんなことよりですね、私、おかしなもの見ました。あの叔母さんと、あなたが入院してた病院のナースが、ふたりで会ってました。そのこと、高橋さん、聞いてます?」
「いや。全然」
「でしょうね。やはり、怪しい」
「けど、店長、眉子叔母さんのこと、知ってたの? 今夜、初めて会ったのに」
しーっ、と店長は、人差し指を口の前に立てた。
叔母さんに聞かれないように、小さな声で、
「あなた、マフィアみくびったらいけません。当然、叔母さんのことは日本に到着したときからチェックしてました。それよりですね」
店長は、なおも声を潜めた。
「ふたりが変な雰囲気だったのです。ホテルのロビーだったんですが、明らかに人目を忍んでました」
首をかしげたまま、店長はしばらく黙っていた。
「まるでヤクの取引です、あれでは。すれ違いざまに、ナースが叔母さんにフォルダーのようなものを渡しました」
店長は、叔母さんをうかがった。
「病院と叔母さんとで何かあります。かなり重要な件。ふつうに考えれば、それは、あなたに関することです」