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コーチは、俺の隣にすわった。
「高橋、どうだ、からだの調子は?」
「はあ、結構、いい感じです」
そうなんだ。
いろいろと変なことが起こってて、頭が疲れることが多いんだけど、体調は悪くない。
それとも、「からだ」には、「脳」もふくめて返事すべきなのだろうか。ドクターが言うように。
「だったら、どうだ。定期的なトレーニングを、そろそろ復活しないか? 陸上の練習は楽しいぞ」
コーチは、そのトレーニングが本当に楽しくてたまらない、という感じで提案するの。
俺の目が、ようやく覚めてきた。
「あの、コーチは、ずっと陸上競技をしてるんですか? 小さいころから」
返事がもどってくるのに時間がかかる。
驚かせちゃったのかな。俺の質問は、電車の中でするには、なんていうか、ぶしつけって感じ?
コーチは、俺の顔を見つめ、一気に吐き出すように言った。
「うん。そうか。君は、いま、悩んでいるんだな、自分の進路について」
「え? あ、悩んでるかって言われたら、まあ、悩んでますが」
俺のほうが驚くじゃない、そんなこと聞かれたら。
まあ、それは、そうよ。どう生きていこうかって、意識が回復してから、ずうーっと悩んでる。あんまり深く考えてるって気はしないけど。
俺としては、もちろん、具体的に進路の相談をするつもりなんてなかった。
コーチは、入院していたときに、最初にお見舞いに来てくれたひとで、俺に温かく接してくれてる。そのひとがこれだけ強く勧めてくれるね、陸上競技ってスポーツについて聞きたい気がしただけだったの。
コーチは、大きく咳払《せきばら》いをしてから腕を組んだ。
そして、重々しく言った。
「そうだ。それでいい、悩むのが青春だ」
前のシートにすわっているひとが、こっちを見た。口を開けている。
昼間のすいている車内に、コーチの大きな声が響き渡る。
「ぼくは、確かに陸上競技をしていた。中学生のときから。しかし、アスリートとしては、二流だった。いや、一流半ぐらいにしておこうかな」
コーチは笑う。
「日本選手権のタイトルは、最後まで取れなかった。もちろん、日本記録なんていうのにも無縁だった。でもね、ぼくは、アスリートとしての自分の人生を、失敗とは考えない」
コーチは、そこで間をあけた。
「そうなんだ。ぼくの能力には、残念ながら限界があった。いまなら、もう少し、うまくやることはできるかもしれない。当時は、練習方法に対する視野が狭かった。だけれど、ぼくは、なんであれ、精一杯戦ったつもりだ。高橋、わかるかい? 才能のあるやつは、世の中にいっぱいいる。問題は、それを生かせるかなんだ。努力できることも才能と言える。いや、努力できることこそが才能なんだ」
向かいの席のサラリーマンらしいひとは、キョロキョロしている。コーチを見て、俺に目を走らせ、再びコーチにもどる。
「いいか、高橋。ぼくは選手としては一流半か二流だったけれど、実は、それ以上に、競技すること以上に、教えることが自分の使命だと感じたんだ。名選手必ずしも名監督ならず。ぼくは、指導者として一流を目指す」
コーチは、俺の肩に腕を回した。
「ふたりで世界にチャレンジしよう、高橋」
サラリーマンは、半分腰を浮かせかけていた。百八十センチを超えた男ふたりが電車の中で抱き合うようにしているのは、ふつうのことではないのだろう。
でも、本当のところ、俺はコーチの熱弁に心を動かされていた。もちろん、ちょっとだけだけど。