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「どうしてる、高橋。トレーニングはしてるか? 陸上をしよう」
「私、呼んでません。このひとのことは」
店長が叫んだ。
「誰です、このひと」
すわったまま、店長はコーチのことを大袈裟に指さしてる。
やっぱり、酒に弱い。
「偶然だよ。店の前をとおりかかったら、偶然、高橋がチラッと見えたんだ。ぼくは、この前も、偶然に高橋と電車で会った。これは、高橋にスポーツを勧める神の仕業だ。なあ、高橋」
店長が立ち上がった。
「それならば、良い話です。おすわりください。中国人、運命信じます」
店長がスペースをつくってくれたんで、サリナと俺の間にコーチがすわった。
「最近は、どうなんだ? 高橋」
コーチに聞かれて、俺は答えた。
「絶好調ですよ。絶好調。からだも脳も」
そういうわけで、グラウンド。
トラックを吹き抜ける風が気持ちいいのは、海が近いせいなんだって。
今日は、まず、ロング・ジョッグ。
別にさあ、俺は、絶好調ってこともないんだけど、まあ、そうなりたいじゃない。自分で絶好調って言ってれば、そのうち、そうなる。
これ、俺の人生の、基本姿勢。
俺の人生?
そう、始まったばかりの、俺の人生。
眉子叔母さんは、とりあえずスペインに帰ることになった。祖父母に会う必要がある。出生の秘密が明らかになってから、初めて顔を合わすわけだ。
いままで両親だって思ってたひとたちと、どういう再会になるんだろう。気になったからね、俺も、一緒に行こうかって提案したの。
俺にとっても、祖父母にあたるわけだし。幼いころには会ってるらしいけど、もちろん、俺の記憶にはない、母方の祖父母。
そしたら、眉子叔母さんは、
「だいじょうぶ。そんなにウエットな感じにはならない。慧の逮捕の報告っていう、具体的な重要課題もあるし。そうね、ともかく、その相談をしてくる」
と言った。
「もう年齢が年齢だから、一度にショックを与えないようにしないと。あなたに会うのは、落ち着いてからがいいと思う」
言われたときには気づかなかったんだけど、俺と会うっていうのは、祖父母にとって、そんなにショックなことなのか? 未知の動物と出会うわけじゃないと思うんだけど。
一般論としてはね、たしかに、ショックは少ないほうがいい。
叔母さんの一時帰国のお別れパーティ、ってほどでもなくて、一応の挨拶ということで店長とサリナに来てもらった。
そしたら、ふたりだけのときにサリナが、
「事故の前ね、高橋と私は、いわゆる恋愛関係っぽくもあったのよ。実は」
と言った。
これは、ちょっと、ショック。いまさら、なんだよ。ちゃんと、最初に言えよな。
「もちろん、肉体の関係もふくめてね。だから、カギだって持ってたの」
そう言って、サリナはからだをくねらせるのよ。相変わらず、めちゃくちゃ色っぽい。でも、そんなこと、言われたってねえ。
「お店でマフィアの潜入捜査をしてて、あなたと知りあった。でも、その後、MSUの信者だってわかって、警戒し始めたところだったのよ、事故が起きたときには。高橋は、見事に記憶がなくなってたわね。MSUのこと、私がほのめかしても、ぜんぜん覚えてなかった。事故前のことはゼロ」
そんなことはない。俺のエピソード記憶は消滅してたけど、ともかくサリナという単語にだけは、脳が反応してた。
そのわけがね、納得できた。
けれど、サリナの言葉で、もうひとつショックだったことがある。こっちのほうが、じわじわと効いてきて、心がうずく。
それは、俺がMSUの信者だったってのが、サリナによって裏づけられたからだ。記憶喪失前の自分について、いちばん受け入れられない情報。
過去の自分は捨てたつもりだ。でも、なんか、自信がなくなっちゃうよね。そんなおかしなやつだったのかって思うと。
「で、どうする? これからふたりの関係は」
俺には、返事のしようがない。まあ、成り行きにまかすしかないだろう。
サリナは、JCIAは、やめた。今後のことは未定だそうだ。
「マフィアがお似合いですよ。ニッポンの警察とヤクザは、まったく体質が同じです。サリナさんなら、出世、間違いなし」
店長が勧めるけど、乗り気ではないみたい。
それよりも、と店長は言った。
「まさか、桝本が殺されるとは思いませんでした。『小さなチンポ教』も、おしまいです。ニッポンのマスコミ、間違い多いです。高原組との抗争だって言ってます。いまさら桝本のタマとって、高原の側にはなんのメリットもない」
店長は、おそらく秘密警察の、JCIAの仕業でしょう、って言うんだけど、サリナは笑うだけ。JCIAでは、実行するごく少数の人間に情報を限っている。お互いの活動は知らされていないそうだ。
翌日、俺は、眉子叔母さんを空港に送っていった。
叔母さんは、朝から元気がなかった。バルセロナの祖父母に会うのは、やっぱり、気が重いんだろう。
それなのに、
「だいじょうぶ? ひとりでちゃんと暮らせる? 食事をきちんととるのよ」
十五歳の妹に心配されてしまった。
出国審査へ向かう時間になった。
俺は、眉子叔母さんを抱き寄せる。
でね、俺、勇気奮ってキスしたの。
あのマインドコントロールの夜以来の、初めてのキス。
叔母さんはね、ちょっと驚いたのかな。からだを硬くしていた。
俺、唇を離して、言ったのよ。
「これからは、俺が、叔母さんの後見人になるよ。今度は、俺が守ってみせる」
カッコつけすぎたかな。
眉子叔母さんは、アゴを軽くつきだした。例の表情。そうだな、誰かに守ってもらいたがるような性格じゃなかった。
俺、笑われるかと思った。
そしたらね、叔母さんは、背伸びしたの。
俺の頭の後ろに手を回して、そっとキスを返してくれた。
何も言わずに、出国ゲートへ向かう。
俺は、その場で立ったまま見送る。
叔母さんの背中が揺れて動いている。いつか俺が尾行していた、あの後ろ姿。
「高橋、種目も、距離も限定しないで、オールラウンドの練習をしてみよう」
ジョッグしながら、コーチが言った。
「この前のだな、あの最初のときのだ。あの疾走とジャンプ力とを見れば、三千障害もいいかもしれない」
そんな、古い話をしないでほしい。
「目標としてはだな、まず、百メートルからマラソンまでの、すべての日本記録を塗り替えよう。強く願えば、すべてはかなう」
コーチはニヤッとした。
それって、MSUじゃないの。こんなこと、コーチが言えるなんて。だって、この前までKSIに入るって言ってたんだぜ。
「いいですよ。やりましょう、オールラウンド」
俺は、そう返事した。
でもね、俺は、基本的には、百メートルをしたいって考えてる。だって、百メートルは、十秒でいいんだ。
ドクターは過去を選択しろと言い、叔母さんは未来を生きろと言った。
俺は、単純に、現在を生きようと思う。いつ、また記憶を失ってもいいように、この瞬間をせいいっぱいに生きる。
だったら、いちばん短い距離にするのが、俺には合ってる。だって、十秒だけ記憶が続けば、百メートルは走れるんだ。まあ、半分冗談だけど。
海からの風が、俺の背中を押す。
「そんなにスピードを上げなくていいよ。ロング・ジョッグなんだから」
「だいじょうぶですよ。絶好調なんで」
そう、絶好調。
俺の人生は、いま新たに始まったんだから。