第3章 青豆
変更されたいくつかの事実
青豆はストッキングだけの素足で、狭い非常階段を降りた。むき出しの階段を風が音を立てて吹き抜けていった。タイトなミニスカートだったが、それでも時折下から吹き込む強い風にあおられてヨットの帆のようにふくらみ、身体が持ち上げられて不安定になった。彼女は手すりがわりのパイプを素手でしっかりと握り、後ろ向きになって一段一段下に向かった。ときどき立ち止まって顔にかかった前髪を払い、たすきがけにしたショルダーバッグの位置を調整した。
眼下には国道二四六号線が走っていた。エンジン音やクラクション、車の防犯アラームの悲鳴、右翼の街宣車が流す古い軍歌、スレッジハンマーがどこかでコンクリートを砕いている音、その他ありとあらゆる都会の騒音が、彼女を取り囲んでいた。騒音はまわり三六〇度、上から下から、すべての方向から押し寄せてきて、風に乗って舞った。それを聞いていると(とくに聞きたくもないが、耳をふさいでいる余裕もない)、だんだん船酔いに似た気分の悪さを感じるようになった。
階段をしばらく降りたところで、高速道路の中央に向けて戻っていく平らな通路《キャットウォーク》があった。それからまたまっすぐ下に向かって降りていく。
むき出しの非常階段から道路をひとつ隔てて、五階建ての小さなマンションが建っていた。茶色の煉瓦タイルのけっこう新しい建物だ。こちらに向かってベランダがついていたが、どの窓もぴたりと閉ざされ、カーテンかブラインドがかかっている。いったいどんな種類の建築家が、首都高速道路と鼻をつき合わせるような位置にわざわざベランダをつけたりするのだろう? そんなところにシーツを干す人間もいないだろうし、そんなところで夕方の交通渋滞を眺めながらジン・トニックのグラスを傾ける人間もいないはずだ。それでもいくつかのベランダには、決まり事のようにナイロンの物干しロープが張ってあった。ひとつにはガーデンチェアと鉢植えのゴムの木まで置かれていた。うらぶれて色槌せたゴムの木だった。葉はぼろぼろになり、あちこちで茶色く枯れている。青豆はそのゴムの木に同情しないわけにはいかなかった。もし生まれ変われるとしてもそんなものにだけはなりたくない。
非常階段はふだんほとんど使われていないらしく、ところどころに蜘蛛の巣が張っていた。小さな黒い蜘蛛がそこにへばりついて、小さな獲物がやってくるのを我慢強く待っていた。しかし蜘蛛にしてみれば、とくに我慢強いという意識もないのだろう。蜘蛛としては巣を張る以外にとくべつな技能もないし、そこでじっとしている以外にライフスタイルの選択肢もない。ひとところに留まって獲物を待ち続け、そのうちに寿命が尽きて死んでひからびてしまう。すべては遺伝子の中に前もって設定されていることだ。そこには迷いもなく、絶望もなく、後悔もない。形而上的な疑問も、モラルの葛藤もない。おそらく。でも私はそうじゃない。私は目的に沿って移動しなくてはならないし、だからこそこうしてストッキングをだめにしながら、ろくでもない三軒茶屋あたりで、首都高速道路三号線のわけのわからない非常階段を一人で降りている。しみったれた蜘蛛の巣をはらい、馬鹿げたベランダの汚れたゴムの木を眺めながら。
私は移動する。ゆえに私はある。
青豆は階段を降りながら、大塚|環《たまき》のことを考えた。考えるつもりはなかったのだが、一度頭に浮かんでしまうと、考えることを止められなかった。環は彼女の高校時代のいちばんの親友であり、同じソフトボール部に属していた。二人はチームメイトとしていろんなところに一緒に行ったし、いろんなことを一緒にした。一度レズビアンのような真似をしたこともある。夏休みに二人で旅行をしていたとき、ひとつのベッドに寝ることになった。セミダブル・ベッドの部屋しかとれなかったのだ。そのベッドの中で二人はお互いの身体の様々な場所を触り合った。レズビアンだったわけではない。ただ少女特有の好奇心に駆られて、それらしきことを大胆に試してみただけだ。そのとき二人にはまだボーイフレンドがいなかったし、性的な経験もまったくなかった。その夜の出来事は今となっては、人生における「例外的ではあるが興味深い」エピソードとして記憶に残っているだけだ。しかしむきだしの鉄の階段を降りながら、環と身体を触り合ったときのことを思い出していると、青豆の身体が奥の方で少し熱を持ち始めたようだった。環の楕円形の乳首や、薄い陰毛や、お尻のきれいな膨らみや、クリトリスのかたちを、青豆は今でも不思議なくらい鮮明に覚えていた。
そんな生々しい記憶をたどっているうちに、青豆の頭の中にまるでその背景音楽のように、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の管楽器の祝祭的なユニゾンが朗々と鳴り響いた。彼女の手のひらは大塚環の身体のくびれた部分をそっと撫でていった。相手は初めはくすぐったがっていたが、そのうちにくすくす笑いが止まった。息づかいが変わった。その音楽はもともと、ある体育大会のためのファンファーレとして作曲されたものだ。その音楽にあわせて、ボヘミアの緑の草原を風がやさしくわたっていった。相手の乳首が突然硬くなっていくのがわかった。彼女自身の乳首も同じように硬くなった。そしてティンパニが複雑な音型を描いた。
青豆は歩を止めて何度か小さく頭を振った。こんなところでこんなことを考えていてはいけない。階段を降りることに意識を集中しなくては、と彼女は思った。でも考えることはやめられなかった。そのときの情景が彼女の脳裏に次々に浮かんできた。とても鮮明に。夏の夜、狭いベッド、微かな汗の匂い。口にされた言葉。言葉にならない気持ち。忘れられてしまった約束。実現しなかった希望。行き場を失った憧憬。一陣の風が彼女の髪を持ち上げ、それをまた頬に打ちつけた。その痛みは彼女の目に涙をうっすらと浮かべさせた。そして次にやってきた風がその涙を乾かしていった。
あれはいつのことだっけ、と青豆は思った。しかし時間は記憶の中でからまりあい、もつれた糸のようになっている。まっすぐな軸が失われ、前後左右が乱れている。抽斗の位置が入れ替わっている。思い出せるはずのことがなぜか思い出せない。今は一九八四年四月だ。私が生まれたのは、そう一九五四年だ。そこまでは思い出せる。しかしそのような刻印された時間は、彼女の意識の中で急速にその実体を失っていく。年号をプリントされた白いカードが、強風の中で四方八方にばらばら散っていく光景が目に浮かぶ。彼女は走っていって、それを一枚でも多く拾い集めようとする。しかし風が強すぎる。失われていくカードの数も多すぎる。1954, 1984, 1645, 1881, 2006, 771, 2041……そんな年号が次々に吹き飛ばされていく。系統が失われ、知識が消滅し、思考の階段が足元で崩れ落ちていく。
青豆と環は同じベッドの中にいる。二人は十七歳で、与えられた自由を満喫している。それは彼女たちにとって最初の、友だち同士ででかける旅行だ。そのことが二人を興奮させる。彼女たちは温泉に入り、冷蔵庫の缶ビールを半分ずつ分けて飲み、それから明かりを消してベッドに潜り込む。最初のうち二人はただふざけている。面白半分にお互いの身体をつつきあっている。でも環がある時点で手を伸ばして、寝間着がわりの薄いTシャツの上から、青豆の乳首をそっとつまむ。青豆の身体の中に電流のようなものが走る。二人はやがてシャツを脱ぎ、下着をとって裸になる。夏の夜だ。どこを旅行したんだっけ? 思い出せない。どこでもいい。彼女たちはどちらから言い出すともなく、お互いの身体を細かく点検してみる。眺め、さわり、撫で、キスし、舌でなめる。半ば冗談で、そして半ば真剣に。環は小柄で、どちらかといえばぽっちゃりとしている。乳房も大きい。青豆はどちらかといえば背が高く痩せている。筋肉質で乳房はあまり大きくない。環はいつもダイエットをしなくちゃと言っている。でもこのままでじゅうぶん素敵なのにと青豆は思う。
環の肌はやわらかく、きめが細かい。乳首は美しい楕円形に膨らんでいる。それはオリーブの実を思わせる。陰毛は薄く細く、繊細な柳のようだ。青豆のそれはごわごわとして硬い。二人はその違いに笑い合う。二人はそれぞれの身体の細かいところをさわりあい、どこの部分がいちばん感じるか、情報を交換し合う。一致するところもあるし、しないところもある。それから二人は指をのばして、お互いのクリトリスをさわり合う。どちらも自慰の経験はある。たくさんある。自分のとはずいぶんさわり心地が違うものだ、とお互いが思う。風がボヘミアの緑の草原をわたっていく。
青豆はまた立ち止まり、また首を振る。深いため息をつき、握った階段のパイプをもう一度しっかり握り直す。こんなことを考えるのはやめなくてはいけない。階段を降りることに意識を集中しなくては。もう半分以上は降りたはずだ、と青豆は思う。それにしてもどうしてこんなに騒音がひどいのだろう。どうしてこんなに風が強いのだろう。それらは私を答め、罰しているみたいにも感じられる。
それはともかく、この階段を地上まで降りたとき、もしそこに誰かがいて、声をかけられ事情をきかれたり、素性を尋ねられたりしたら、いったいなんと答えればいいのだろう。「高速道路が渋滞していたので、非常階段を使って降りてきたんです。急ぎの用事があったものですから」と言って、それで済むものだろうか? ひょっとしたら面倒なことになるかも知れない。青豆はいかなる種類の面倒にも巻き込まれたくなかった。少なくとも今日は。
ありがたいことに地上には、降りてくる彼女を見とがめるものはいなかった。地上に降りると青豆はまずバッグから靴を出して履いた。階段の下は二四六号線の上り線と下り線にはさまれた高架下の空き地で、資材置き場になっていた。まわりを金属の板塀で取り囲まれ、むき出しの地面に鉄柱が何本か転がっている。何かの工事のあとに余ったものなのだろう、錆びるままにうち捨てられていた。プラスチックの屋根が設置された一角があり、その下に布袋が三つ積み上げられていた。何が入っているのかはわからないが、雨に濡れないようにビニールのカバーがかけられている。それも何かの工事の最後に余ったものらしい。いちいち運び出すのが面倒なので、そのまま放ってあるようだ。屋根の下には、潰れた大きな段ボール箱もいくつかあった。数本のペットボトルと、漫画雑誌が何冊か地面に捨てられている。そのほかには何もない。ビニールの買い物袋があてもなく風に舞っているだけだ。
金網の扉のついた入口があったが、チェーンが幾重にも巻き付けられ、大きな南京錠がかかっていた。高い扉で、てっぺんには有刺鉄線までめぐらされている。とても乗り越えられそうにはない。もし乗り越えられたとしても、服はずたずたになってしまう。ためしに扉を押したり引いたりしてみたが、ぴくりとも動かなかった。猫が出入りするほどの隙間もない。やれやれ、どうしてここまで戸締まりを厳しくしなくちゃならないんだ。盗まれて困るものなんて何もないっていうのに。彼女は顔をしかめ、毒づき、地面に唾まで吐いた。まったく、せっかく苦労して高速道路から降りてきたというのに、資材置き場に閉じこめられるなんて。腕時計に目をやった。時間にはまだ余裕がある。しかしいつまでもこんなところでうろうろしているわけにはいかない。そしてもちろん、今さら高速道路にとってかえすわけにもいかない。
ストッキングはかかとのところが両方とも破れていた。誰にも見られていないことを確かめてから、ハイヒールを脱ぎ、スカートをめくり上げてストッキングを下ろし、両脚からむしり取り、また靴を履いた。穴のあいたストッキングはバッグにしまった。それで気持ちが少し落ち着いた。青豆は注意深く視線を配りながら、その資材置き場を歩いてまわった。小学校の教室くらいの広さだ。すぐに一周できる。出入り口はやはりひとつしかない。鍵のかかったフェンスの扉だけだ。まわりを囲んでいる金属の板塀の材質は薄かったが、どれもしっかりボルトで固定されている。工具がなければボルトははずせそうにない。お手上げだ。
彼女はプラスチックの屋根の下に置いてある段ボール箱を調べてみた。そしてそれが寝床のようなかたちになっていることに気づいた。すり切れた毛布も何枚か丸めてあった。それほど古いものではない。たぶん浮浪者がここに寝泊まりしているのだろう。だから雑誌や、飲み物のペットボトルがあたりに散らばっているのだ。間違いない。青豆は頭を働かせた。彼らがここで寝泊まりしているからには、どこかに出入りできる抜け穴があるはずだ。彼らは人目につかず雨風のしのげる場所を見つけだす技術に長《た》けている。そして彼らは自分たちだけの秘密の通路を、獣道《けものみち》のようにこっそりと確保している。
青豆は金属板の塀をひとつひとつ念入りに点検していった。手で押して、揺らぎがないか確かめてみた。案の定、何かの加減でボルトがはずれたらしく、金属板がぐらぐらしている箇所がひとつ見つかった。彼女はそれをいろんな方向に動かしてみた。ちょっと角度を変えて軽く内側にひっぱると、人がひとりくぐり抜けられる程度のスペースができた。その浮浪者はおそらく、暗くなるとそこから中に入ってきて、屋根の下で心おきなく眠るのだろう。この中にいるところをみつかったりすると面倒なことになるから、明るいうちは外で食糧を確保したり、空き瓶を集めて小銭を稼いだりしているのに違いない。青豆はその夜間の無名の住人に感謝した。大都会の裏側を、無名のままひっそり移動しなくてはならないという点では、青豆も彼らの仲間である。
青豆は身を屈めて、その狭い隙間を抜けた。高価なスーツを尖ったところにひっかけて破いたりしないように、細心の注意を払った。それはお気に入りのスーツであるというだけではなく、彼女の所有する唯一のスーツだったからだ。普段はスーツなんか着ない。ハイヒールを履くこともない。しかし[#傍点]この仕事[#傍点終わり]のためには、ときとしてあらたまった身なりをしなくてはならなかった。大事なスーツを駄目にするわけにはいかない。
幸いなことに、塀の外にも人影はなかった。青豆は服装を今一度点検し、表情を平静に戻してから、信号のあるところまで歩き、二四六号線をわたり、目についたドラッグストアに入って新しいストッキングを買った。女店員に頼んで奥のスペースを使わせてもらい、ストッキングをはいた。それで気分はかなりよくなった。胃のあたりにわずかに残っていた船酔いに似た不快感も、今ではすっかり消え失せていた。彼女は店員に礼を言って店を出た。
たぶん首都高速が事故で渋滞しているという情報が広まったせいだろう、それと並行して走る国道二四六号線の交通は、いつも以上に混み合っていた。だから青豆はタクシーに乗るのをあきらめて、近くの駅から東急新玉川線に乗ることにした。その方が間違いない。もうタクシーで渋滞に巻き込まれるのはごめんだ。
三軒茶屋の駅に向かう途中で一人の警官とすれ違った。若い長身の警官で、足早にどこかに向かって歩いていくところだった。彼女は一瞬緊張したが、警官は急いでいるらしく、まっすぐ前を向いて、青豆に視線を向けることすらしなかった。すれ違う直前に、彼女はその警官の服装がいつもと違うことに気づいた。見慣れた警官の制服ではない。同じ濃紺の上着だが、かたちが微妙に違う。もっとカジュアルな作りになっている。前ほどぴたりとしていない。材質もより柔らかいものにかわっている。襟が小さく、紺色もいくぶん淡くなっている。それから拳銃の型が違う。彼が腰につけているのは大型オートマチックだった。日本の警官がふつう支給されているのは回転式の拳銃だ。銃器犯罪がきわめて少ない日本で、警官が銃撃戦に巻き込まれるような機会はほとんどないから、旧式の六連発リボルバーでとくに不足はない。リボルバーの方が構…造が単純で、安価で故障も少ないし、手入れも簡単だ。しかしこの警官はなぜか、セミオートマチックで発射できる最新型の拳銃を携行していた。九ミリの弾丸が十六発くらい装填できるやつだ。たぶんグロックかベレッタ。いったい何が起こったのだろう。制服と拳銃の規格が、彼女の知らないうちに変更されてしまったのか? いや、そんなはずはない。青豆は新聞記事はこまめにチェックしている。そんな変更があったら、大きく報道されるはずだ。そしてまた彼女は警官たちの姿には常に注意を払っていた。今朝まで、ほんの数時間前まで、警官たちはいつものごわごわした制服を着て、いつもの無骨な回転拳銃を身につけていたのだ。彼女はそれをはっきり記憶していた。奇妙だ。
しかし青豆にはそれについて深く考えている余裕はなかった。済ませなくてはならない仕事がある。
青豆は渋谷駅のコインロッカーにコートを預け、スーツだけの姿になって、そのホテルに向かって急ぎ足で坂道を上った。中級のシティー・ホテルだ。とくに豪華なホテルではないが、一応の設備は揃っているし、清潔で、いかがわしい客も来ない。一階にはレストランがあり、コンビニエンス・ストアも入っている。駅に近く、ロケーションがいい。
彼女はホテルに入ると、まっすぐ洗面所に行った。ありがたいことに洗面所には誰もいなかった。まず便座に座って放尿をした。とても長い放尿だった。青豆は目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように自分の放尿の音を聞いていた。それから洗面台に向かい、石鹸を使って丁寧に手を洗い、ブラシで髪をとかし、鼻をかんだ。歯ブラシを出して、歯磨き粉をつけずに手早く歯を磨いた。時間があまりないからフロスは省いた。そこまでする必要はあるまい。デートに出かけるわけではない。鏡に向かってうっすらと口紅をひいた。眉も整えた。スーツの上着を脱いで、ブラジャーのワイヤの位置を調整し、白いブラウスのしわをのばし、脇の下の汗の匂いをかいだ。匂いはない。そのあとで目を閉じて、いつものようにお祈りの文句を唱えた。その文句自体には何の意味もない。意味なんてどうでもいい。お祈りを唱えるということが大事なのだ。
お祈りが終わると、目を開けて鏡の中の自分の姿を見た。大丈夫。どこから見ても隙のない、いかにも有能そうなビジネス・ウーマンだ。背筋はまっすぐ伸び、口元も引き締まっている。大きなずんぐりとしたショルダーバッグだけがいささか場違いだ。たぶん薄手のアタッシェケースでも持つべきなのだろう。しかしそのぶんかえって実務的に見える。念には念を入れて、ショルダーバッグの中の品物をもう一度点検した。問題はない。すべてあるべき場所に収まっている。なんでも手探りで取り出せるようになっている。
あとはただ決められたことを実行するだけだ。揺らぎのない信念と無慈悲さを持ち、まっすぐことにあたらなくてはならない。青豆はそれから、ブラウスのいちばん上のボタンをはずし、身をかがめたときに胸の谷間が見えやすいようにする。もう少し胸が大きいと効果的なのにな、と彼女は残念に思う。
誰に見とがめられることもなくエレベーターで四階に上がり、廊下を歩いてすぐに四二六号室のドアを見つける。ショルダーバッグの中から用意しておいた紙ばさみをとりだし、それを胸に抱え、部屋のドアをノックする。軽く簡潔にノックする。しばらく待つ。それからもう一度ノックする。ほんの少しだけより強く、より硬く。中からもぞもぞと声が聞こえ、ドアが小さく開く。男が顔をのぞかせる。年齢は四十歳前後。マリン・ブルーのワイシャツに、グレーのフラノのスラックスというかっこうだ。ビジネスマンがとりあえずスーツの上着を脱ぎ、ネクタイをはずしたという雰囲気が漂っている。いかにも不機嫌そうな赤い目をしている。おそらく寝不足なのだろう。ビジネス・スーツを着た青豆の姿を見て、いくらか意外な顔をした。たぶん室内の冷蔵庫の補充をするメイドでも予想していたのだろう。
「おくつろぎのところを失礼いたします。ホテルのマネージメントの伊藤と申しますが、空調設備に問題が生じまして、点検に参りました。五分ばかりお部屋にお邪魔してよろしいでしょうか」と青豆はにこやかに微笑みながら、てきぱきとした口調で言った。
男は目を不快そうにすぼめた。「大事な急ぎの仕事をしているところなんだ。一時間くらいで部屋を出るから、そのときまで待ってもらえないかな? 今のところこの部屋の空調にはとくに問題もないみたいだし」
「申し訳ございませんが、漏電に関係する緊急の安全確認なので、できれば早急に終えてしまいたいのです。このようにお部屋をひとつひとつ回っております。ご協力いただければ、五分もかからずに終わります」
「しょうがないな」と男は言って舌打ちをした。「邪魔されずに仕事をするために、わざわざ部屋を借りたのに」
彼は机の上の書類を指さした。コンピュータからプリントアウトされた細かい図表が積み上げられている。今夜の会議のために必要な資料を準備しているのだろう。計算器があり、メモ用紙にはたくさんの数字が並べられている。
この男が石油関連の企業に勤めていることを青豆は知っている。中東諸国での設備投資に関するスペシャリストなのだ。与えられた情報によれば、その領域では有能だということだった。物腰でそれはわかる。育ちが良く、高い収入を得て、ジャガーの新車に乗っている。甘やかされた少年時代を送り、外国に留学し、英語とフランス語をよく話し、何ごとによらず自信たっぷりだ。そしてどのようなことであれ、他人から何かを要求されることに我慢ならないタイプだ。批判にも我慢ならない。とくにそれが女性から向けられた場合には。その一方で、自分が他人に何かを要求することはちっとも気にならない。妻をゴルフクラブで殴って肋骨を数本折ることにもさして痛痒を感じない。この世界は自分が中心になって動いていると思っている。自分がいなければ地球はうまく動かないだろうと考えている。誰かに自分の行動を邪魔されたり否定されたりすると腹を立てる。それも激しく腹を立てる。サーモスタットが飛んでしまうくらい。
「ご迷惑をおかけします」と青豆は営業用の明るい微笑みを浮かべたまま言った。そして既成事実を作るように、身体を半分部屋の中に押し込み、ドアを背中で押さえながら紙ばさみを広げ、ボールペンでそこに何かを書き込んだ。「お客様は、えー、深山《みやま》さまでいらっしゃいますね」、彼女は尋ねた。写真で何度も見て顔は覚えているが、人違いでないことを確認しておいて損はない。間違えたら取り返しがつかない。
「そうだよ、深山だ」とぞんざいな口調で男は言った。それからあきらめたようにため息をついた。わかったよ、なんでも勝手にすればいい、というように。そしてボールペン片手に机に向かい、読みかけていた書類をもう一度手に取った。メイクされたままのダブルベッドの上にはスーツの上着と、ストライプのネクタイが乱暴に放り出されている。どちらもいかにも高価そうなものだ。青豆はショルダーバッグを肩にかけたまま、まっすぐクローゼットに向かった。空調のスイッチパネルがそこにあることは前もって聞かされている。クローゼットの中にはソフトな素材で作られたトレンチコートと、濃いグレーのカシミアのマフラーがかけてあった。荷物は革製の書類かばんひとつきりだ。着替えも化粧バッグもない。たぶんここに逗留するつもりはないのだろう。机の上にはルームサービスでとったコーヒーポットがある。三十秒ばかりパネルを点検するふりをしてから、彼女は深山に声をかけた。
「どうもご協力をありがとうございました、深山さま。この部屋の設備には何も問題はありません」
「だからこの部屋の空調には問題ないって、はじめから言ってるじゃないか」、深山はこちらを振り向きもせず、横柄な声で言った。
「あの、深山さま」、青豆はおずおずと言った。「失礼ですが、首筋に何かがついているようです」
「首筋に?」、深山はそう言って、手を自分の首の後ろにあてた。そして少しこすってから、その手のひらを不審そうに眺めた。「何もついてないみたいだけれど」
「ちょっと失礼させていただきます」と青豆は言って机に近寄った。「近くで拝見してよろしいですか」
「ああ、いいけど」と深山はわけがわからないという顔をして言った。「何かって、どんなもの?」
「塗料のようなものです。明るい緑色をしています」
「塗料?」
「よくわかりません。色合いはどう見ても塗料のようですね。失礼ですが、手を触れてもかまいませんか。とれるかもしれませんから」
「ああ」と言って、深山は前にかがみこんで、首筋を青豆に向けた。ヘアカットをしたばかりらしく、首筋に髪はかかっていない。青豆は息を吸い込み、呼吸を止め、意識を集中して[#傍点]その部分[#傍点終わり]を素早く探り当てた。そしてしるしをつけるように指先でそこを軽く押さえた。目を閉じて、その感触に間違いがないことを確かめた。そう、ここでいい。本来であればもっとゆっくり時間をかけて念押ししたいところだが、そこまでの余裕はない。与えられた条件の中でベストを尽くす。
「申し訳ありませんが、少しそのままの姿勢でじっとしていていただけますか。バッグからペンライトを出します。この部屋の照明ではよく見えないもので」
「なんだって塗料なんかが、そんなところにつくんだ」と深山は言った。
「わかりません。今すぐに調べます」
青豆は男の首筋の一点に指をそっとあてたまま、ショルダーバッグからプラスチックのハードケースを取り、蓋を開けて薄い布にくるまれたものを出した。片手で器用にその布をほどくと、中から出てきたのは小振りなアイスピックに似たものだった。全長は十センチほど。柄《つか》の部分は小さく引き締まった木製になっている。でもそれはアイスピックではない。ただアイスピックに似たかたちをとっているだけだ。氷を砕くためのものではない。彼女は自分でそれを考案し、製作した。先端はまるで縫い針のように鋭く尖っている。その鋭い先端は折れることがないように、小さなコルク片に突き刺してある。特別に加工して綿のように柔らかくしたコルクだ。彼女は爪先で注意深くそのコルクを取り、ポケットに入れる。そして剥き出しになった針先を深山の首筋の[#傍点]その部分[#傍点終わり]にあてる。さあ落ち着いて、ここが肝心なんだから、と青豆は自分に言い聞かせる。十分の一ミリの誤差も許されない。もしほんの少しでもずれたら、すべての努力が水泡に帰してしまうことになる。何よりも集中力が要求される。
「まだ時間がかかるのか? いつまでこんなことをやってるんだ」と男はじれたように言った。
「すみません。すぐに終わります」と青豆は言った。
大丈夫よ、あっという間に終わるから、と彼女は心の中でその男に話しかけた。あとちょっとだけ待ってね。そうしたらあとはもう何も考えなくていいんだから。石油精製システムについても、重油市場の動向についても、投資グループへの四半期報告についても、バーレーンまでのフライトの予約についても、役人への袖の下やら、愛人へのプレゼントやらについても、もう何ひとつ考えなくていいのよ。そういうことをあれこれ考え続けるのもけっこう大変だったんでしょう? だから悪いけど、ちょっとだけ待ってちょうだい。私はこうして意識を集中して真剣にお仕事をしているんだから、邪魔をしないでね。お願い。
いったん位置を定め、心を決めると、彼女は右手のたなごころを空中に浮かべ、息を止め、わずかに間を置いてから、それを[#傍点]すとん[#傍点終わり]と下に落とした。木製の柄の部分に向けて。それほど強くではない。力を入れすぎると針が皮膚の下で折れてしまう。針先をあとに残していくわけにはいかない。軽く、慈しむように、適正な角度で、適正な強さで、たなごころを下に落とす。重力に逆らわずに、[#傍点]すとん[#傍点終わり]と。そして細い針の先が[#傍点]その部分[#傍点終わり]に、あくまで自然に吸い込まれるようにする。深く、滑らかに、そして致死的に。大切なのは角度と力の入れ方なのだ——いや、むしろ力の抜き方だ。それにさえ留意すれば、あとは豆腐に針を刺すみたいに単純なことだ。針の先端が肉を貫き、脳の下部にある特定の部位を突き、蝋燭《ろうそく》を吹き消すように心臓の動きを止める。すべてはほんの一瞬のうちに終わってしまう。あっけないくらい。それは青豆にしかできないことだった。そんな微妙なポイントを手さぐりで探しあてることは他の誰にもできない。でも彼女にはできる。彼女の指先にはそういう特別な直感が具わっている。
男がはっと息を呑む音が聞こえた。全身の筋肉がぴくりと収縮した。その感触を確かめてから、彼女はすばやく針を抜いた。そしてすかさず、ポケットに用意しておいた小さなガーゼで傷口を押さえた。出血をふせぐためだ。とても細い先端だし、それが刺さっていたのはほんの数秒のことだ。出血があったとしてもごくわずかなものだ。それでも念には念を入れなくてはならない。血の痕跡を残してはならない。一滴の血が命取りになる。用心深さが青豆の身上だった。
いったんこわばった深山の身体から、時間をかけて徐々に力が抜けていった。バスケットボールから空気が抜けるときのように。彼女は男の首筋の一点を人さし指で押さえたまま、彼の身体を机にうつぶせにした。その顔は書類を枕にして、横向きに机に伏せられた。目は驚いたような表情を浮かべたまま開いている。何かとんでもなく不思議なものを最後に目撃でもしたみたいに。そこには怯えはない。苦痛もない。ただの純粋な驚きがあるだけだ。自分の身に何か普通ではないことが起こった。しかし何が起こったのか、理解できていない。それが痛みなのか、痒みなのか、快感なのか、あるいは何かの啓示なのか、それさえわかっていない。世界にはいろんな死に方があるが、おそらくこれほど楽な死に方はあるまい。
あなたにはたぶん楽すぎる死に方よね、青豆はそう思って顔をしかめた。あまりにも簡単すぎる。私はたぶん五番アイアンを使ってあなたの肋骨を二三本折って、痛みをじゅうぶんに与え、そのあとで慈悲の死を与えてやるべきだったのでしょうね。そういう惨めな死に方がふさわしいネズミ野郎なんだから。それが実際にあなたが奥さんに対してやったことなんだから。でも残念ながら、私にはそこまでの選択の自由はない。この男を迅速に人知れず、しかし確実にあちらの世界に送り込むことが、与えられた使命だ。そして私は今その使命を果たした。この男はさっきまではちゃんと生きていた。でも今は死んでいる。本人も気がつかないまま、生と死を隔てる敷居をまたいでしまったのだ。
青豆はきっちり五分間、ガーゼを傷口にあてていた。指のあとが残らない程度の強さで、しんぼう強く。そのあいだ彼女は腕時計の秒針から目を離さなかった。長い五分間だ。永遠に続くように感じられる五分間。たった今誰かがドアを開けて部屋に入ってきたら、そして彼女が細身の凶器を片手に、男の首筋を指で押さえているところを目にしたら、それで一巻の終わりだ。言い逃れるすべはない。ボーイがコーヒーポットを下げに来るかもしれない。今にもドアがノックされるかもしれない。しかしそれは省くことのできない大事な五分間だった。彼女は神経を落ち着けるために静かに深く呼吸をする。あわててはいけない。冷静さを失ってはならない。いつものクールな青豆さんでいなくてはならない。
心臓の鼓動が聞こえる。その鼓動にあわせて、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』、冒頭のファンファーレが彼女の頭の中で鳴り響く。柔らかい風がボヘミアの緑の草原を音もなく吹き渡っていく。彼女は自分が二つに分裂していることを知る。彼女の半分はとびっきりクールに死者の首筋を押さえ続けている。しかし彼女のあと半分はひどく怯えている。何もかも放り出して、すぐにでもこの部屋から逃げ出してしまいたいと思っている。私はここにいるが、同時にここにいない。私は同時に二つの場所にいる。アインシュタインの定理には反しているが、しかたない。それが殺人者の禅なのだ。
五分がようやく経過する。しかし青豆は用心のために更に一分を加えた。あと一分待とう。急ぎの仕事ほど、念には念を入れた方がいい。いつ果てるともないその重い一分間を、彼女はじっと耐えた。それからおもむろに指をはなし、ペンライトで傷口を調べた。蚊にさされたほどのあとも残っていない。
その脳下部の特別なポイントをきわめて細い針で突くことでもたらされるのは、自然死に酷似した死だ。普通の医師の目にはどうみてもただの心臓発作としか映らないはずだ。机に向かって仕事をしているうちに、出し抜けに心臓発作に襲われ、そのまま息を引き取ってしまった。過労とストレス。不自然なところは見あたらない。解剖する必要も見あたらない。
この人物はやり手だったが、いささか働きすぎたのだ。高い収入を得ていたが、死んでしまってはそれを使うこともできない。アルマー二のスーツを着てジャガーを運転していても、結局は蟻と同じだ。働いて、働いて、意味もなく死んでいく。彼がこの世界に存在していたこともやがて忘れられていく。まだ若いのに気の毒に、と人は言うかもしれない。言わないかもしれない。
青豆はポケットからコルクを取り出し、針の先端に刺した。その繊細な道具をもう一度薄い布にくるみ、ハードケースに入れ、ショルダーバッグの底にしまった。浴室からハンドタオルを持ってきて、部屋に残した指紋をすべてきれいに拭き取った。彼女の指紋が残っているのは、空調パネルとドアノブだけだ。それ以外の場所には手を触れていない。そしてタオルをもとに戻す。コーヒーポットとカップをルームサービス用のトレイに載せて、廊下に出した。そうすればポットを下げにきたボーイがドアをノックすることはないし、死体の発見はそのぶん遅くなる。掃除のメイドがこの部屋で死体を発見するのは、うまくいけば翌日のチェックアウト時刻よりあとのことになる。
彼が今夜の会議に出てこなければ、人々はおそらくこの部屋に電話をかけるだろう。しかし受話器をとるものはいない。人々は不審に思ってマネージャーにドアを開けさせるかもしれない。あるいはべつに開けさせないかもしれない。それは成り行き次第だ。
青豆は洗面所の鏡の前に立ち、服装に乱れのないことを確かめた。ブラウスのいちばん上のボタンをとめた。胸の谷間をちらりと見せる必要はなかった。なにしろあのろくでもないネズミ野郎は、私のことをろくすっぽ見もしなかったのだから。人のことをいったいなんだと思っているんだ。彼女は顔を適度にしかめる。それから髪を整え、指で軽くマッサージして顔の筋肉を緩め、鏡に向かって愛想良く微笑みを浮かべた。歯医者に研磨してもらったばかりの白い歯も見せてみた。さあ、私はこれから死者のいる部屋を出て、いつもの現実の世界に戻って行くのだ。気圧を調整しなくてはならない。私はもうクールな殺人者ではない。シャープなスーツに身を包んだ、にこやかで有能なビジネス・ウーマンなのだ。
青豆はドアを少しだけ開け、あたりをうかがい、廊下に誰もいないことを確かめてからするりと部屋を出た。エレベーターは使わず、階段を歩いて降りた。ロビーを抜けるときも誰も彼女には注意を払わなかった。背筋を伸ばし、前方を見つめ、足早に歩いた。しかし誰かの注意をひくほど速くは歩かない。彼女はプロだった。それもほとんど完壁に近いプロだ。もしもう少し胸が大きければ、文句なく完壁なプロになれたかもしれない、と青豆は残念に思う。顔をもう一度軽くしかめる。でもしかたない。与えられたものでやっていくしかない。