第5章 青豆
専門的な技能と訓練が
必要とされる職業
仕事を済ませたあと、青豆はしばらく歩いてからタクシーを拾い、赤坂のホテルに行った。帰宅し眠りにつく前に、アルコールで神経の高ぶりをほぐしておく必要がある。なにしろついさっき一人の男を[#傍点]あちら側[#傍点終わり]に送り込んできたのだ。殺されても文句の言えないネズミ野郎とはいえ、やはり人は人だ。彼女の手には生命が消滅していくときの感触がまだ残っている。最後の息が吐かれ、魂が身体を離れていく。青豆は何度かそのホテルのバーに行ったことがあった。高層ビルの最上階、見晴らしが良く、カウンターの居心地がいい。
バーに入ったのは七時少し過ぎだった。ピアノとギターの若いデュオが『スイート・ロレイン』を演奏していた。ナット・キング・コールの古いレコードのコピーだが、悪くない。彼女はいつものようにカウンターに座り、ジン・トニックとピスタチオの皿を注文した。バーはまだ混み合ってはいない。夜景を見ながらカクテルを飲んでいる若いカップル、商談をしているらしいスーツ姿の四人組、マティー二のグラスを手にした外国人の中年の夫婦。彼女は時間をかけてジン・トニックを飲んだ。あまり早く酔ってしまいたくない。夜はまだ長い。
ショルダーバッグから本を出して読んだ。一九三〇年代の満州鉄道についての本だ。満州鉄道(南満州鉄道株式会社)は日露戦争が終結した翌年、ロシアから鉄道線路とその権益を譲渡されるかたちで誕生し、急速にその規模を拡大していった。大日本帝国の中国侵略の尖兵となり、一九四五年にソビエト軍によって解体された。一九四一年に独ソ戦が開始されるまで、この鉄道とシベリア鉄道を乗り継いで、下関からパリまで十三日間で行くことができた。
ビジネス・スーツを着て、大きなショルダーバッグを隣りに置き、満州鉄道についての本(ハードカバー)を熱心に読んでいれば、ホテルのバーで若い女が一人で酒を飲んでいても、客選びをしている高級娼婦と間違えられることはあるまい、と青豆は思う。しかし本物の高級娼婦が一般的にどんなかっこうをしているのか、青豆にもよくわからない。もし彼女が仮に裕福なビジネスマンを相手にする娼婦であったなら、相手を緊張させないためにも、バーから追い出されないためにも、たぶん娼婦には見えないように努めるだろう。たとえばジュンコ・シマダのビジネス・スーツを着て、白いブラウスを着て、化粧は控えめにして、実務的な大振りのショルダーバッグを持って、満州鉄道についての本を開いているとか。それに考えてみれば彼女が今やっているのは、客待ちの娼婦と実質的にさして変わりないことなのだ。
時間が経過し、客が徐々に増えてきた。気がつくとあたりはざわざわという話し声で満ちていた。しかし彼女の求めるタイプの客はなかなか姿を見せなかった。青豆はジン・トニックのお代わりをし、スティック野菜を注文し(彼女はまだ夕食をとっていなかった)、本を読み続けた。やがて一人の男がやってきてカウンター席に座った。連れはいない。ほどよく日焼けして、上品な仕立てのブルーグレーのスーツを着ている。ネクタイの好みも悪くない。派手すぎず、地味すぎない。年齢はおそらく五十前後だろう。髪がかなり薄くなっていた。眼鏡はかけていない。東京に出張してきて、仕事の案件を片づけ、ベッドに入る前に一杯やりたくなったのだろう。青豆と同じだ。適度のアルコールを体内に入れて、緊張した神経をほぐす。
出張で東京にやってくるおおかたの会社員は、こんな高級ホテルには泊まらない。もっと宿泊代の安いビジネス・ホテルに泊まる。駅に近く、ベッドが部屋のほとんどのスペースを占め、窓からは隣りのビルの壁しか見えず、肘を二十回くらい壁にぶっつけないことにはシャワーも浴びられないようなところだ。各階の廊下に、飲み物や洗面用具の自動販売機が置いてある。もともとその程度の出張費しか出してもらえなかったのか、あるいは安いホテルに泊まることで浮いた出張費を自分の懐に入れるつもりなのか、そのどちらかだ。彼らは近所の居酒屋でビールを飲んで寝てしまう。となりにある牛丼屋で朝食をかきこむ。
しかしこのホテルに宿泊するのは、それとは違う種類の人々だ。彼らは仕事で東京に出てくるときには、新幹線のグリーン車しか使わないし、決まった高級ホテルにしか泊まらない。一仕事終えると、ホテルのバーでくつろいで高価な酒を飲む。その多くは一流企業に勤め、管理職に就いている人々だ。あるいは自営業者、または医者か弁護士といった専門職だ。中年の域に達し、金には不自由していない。そして多かれ少なかれ遊び慣れている。青豆が念頭に置いているのはそういうタイプだった。
青豆はまだ二十歳前の頃から、自分でも何故かはわからないが、髪が薄くなりかけている中年男に心を惹かれた。すっかり禿げているよりは、少し髪が残っているくらいが好みだ。しかし髪が薄ければいいというのではない。頭のかたちが良くなければ駄目だ。彼女の理想はショーン・コネリーの禿げ方だった。頭のかたちがとてもきれいで、セクシーだ。眺めているだけで胸がどきどきしてくる。カウンターの、彼女から席二つ離れたところに座ったその男も、なかなか悪くない頭のかたちをしていた。もちろんショーン・コネリーほど端整ではないが、それなりの雰囲気は持っている。髪の生え際が額のずっと後ろの方に後退し、わずかに残った髪は、霜の降りた秋の終わりの草地を思わせる。青豆は本のページから少しだけ目を上げて、その男の頭のかたちをしばし観賞した。顔立ちはとくに印象的ではない。太ってはいないが、顎の肉がいくぶんたるみ始めている。目の下に袋のようなものもできている。どこにでもいる中年男だ。しかしなんといっても頭のかたちが気に入った。
バーテンダーがメニューとおしぼりを持ってやってくると、男はメニューも見ず、スコッチのハイボールを注文した。「何かお好みの銘柄はありますか?」とバーテンダーが尋ねた。「とくに好みはない。なんでもかまわないよ」と男は言った。静かな落ち着きのある声だった。関西説りが聞き取れる。それから男はふと思いついたように、カティサークはあるだろうかと尋ねた。ある、とバーテンダーは言った。悪くない、と青豆は思う。選ぶのがシーバス・リーガルや凝ったシングル・モルトでないところに好感が持てる。バーで必要以上に酒の種類にこだわる人間は、だいたいにおいて性的に淡泊だというのが青豆の個人的見解だった。その理由はよくわからない。
関西説りは青豆の好みだった。とりわけ関西で生まれ育った人間が東京に出てきて、無理に東京の言葉を使おうとしているときの、いかにもそぐわない落差が好きだった。ボキャブラリーとイントネーションが合致していないところが、なんともいえずいい。その独特な響きは妙に彼女の心を落ち着かせた。この男で行こう、と心を決めた。その禿げ残った髪を、好きなだけ指でいじくりまわしてみたい。バーテンダーが男にカティサークのハイボールを運んできたとき、彼女はバーテンダーをつかまえて、男の耳に入ることを意識した声で「カティサークのオンザロックを」と言った。「かしこまりました」とバーテンダーは無表情に返事をした。
男はシャツのいちばん上のボタンを外し、細かい模様の入った紺色のネクタイを少しゆるめた。スーツも紺色だ。シャツは淡いブルーのレギュラー・カラー。彼女は本を読みながら、カティサークが運ばれてくるのを待った。そのあいだにブラウスのボタンをひとつさりげなく外した。バンドは『イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン』を演奏していた。ピアニストがワンコーラスだけ歌った。オンザロックが運ばれてくると、彼女はそれを口元に運び、一口すすった。男がこちらをちらちら見ているのがわかった。青豆は本のページから顔を上げ、男の方に目をやった。さりげなく、たまたまという感じで。男と視線が合うと、彼女は見えるか見えない程度に微笑んだ。そしてすぐに正面に目を戻し、窓の外の夜景を眺めるふりをした。
男が女に声をかける絶好のタイミングだった。彼女の方からそういう状況をわざわざこしらえてやったのだ。しかし男は声をかけてこなかった。まったくもう、いったい何やってんのよ、と青豆は思った。そのへんの駆け出しのガキじゃあるまいし、そういう微妙な気配くらい、わかるでしょうが。たぶんそれだけの度胸がないのだ、と青豆は推測する。自分が五十歳で、私が二十代で、声をかけたのに黙殺されたり、ハゲの年寄りのくせにと馬鹿にされたりするんじゃないかと、それが心配なのだ。やれやれ。まったくなんにもわかってないんだから。
彼女は本を閉じて、バッグにしまった。そして自分の方から男に話しかけた。
「カティサークがお好きなの?」と青豆は尋ねた。
男はびつくりしたように彼女を見た。何を聞かれているのか、よくわけがわからないという表情を顔に浮かべた。それから表情を崩した。「ああ、ええ、カティサーク」と彼は思い出したように言った。「昔からラベルが気に入っていて、よく飲みました。帆船の絵が描いてあるから」
「船が好きなのね」
「そうです。帆船が好きなんです」
青豆はグラスを持ち上げた。男もハイボールのグラスをちょっとだけ持ち上げた。乾杯をするみたいに。
それから青豆は隣に置いていたショルダーバッグを肩にかけ、オンザロックのグラスを手に、席を二つぶんするりと移動し、男の隣の席に移った。男は少し驚いたようだったが、驚きを顔に出さないように努めた。
「高校時代の同級生の女の子とここで会う約束をしていたんだけど、どうやらすっぽかされちゃったみたい」と青豆は腕時計を見ながら言った。「姿を見せないし、連絡もないし」
「相手の人、約束の日にちを間違えたんじゃありませんか」
「そんなところかもね。昔からそそっかしいところのある子だったから」と青豆は言った。「もうちょっとだけ待ってようと思うんだけど、そのあいだちょっとお話ししていいかしら? それとも一人でゆっくりしていたい?」
「いや、そんなことはありません。ぜんぜん」、男はいくぶんとりとめのない声でそう言った。眉を寄せ、担保の査定でもするような目で青豆を見た。客を物色している娼婦ではないかと疑っているようだった。しかし青豆にはそういう雰囲気はない。どう見ても娼婦ではない。それで男は緊張の度合いを少し緩めた。
「あなたはこのホテルに泊まっているんですか?」と彼は尋ねた。
青豆は首を振った。「いいえ、私は東京に住んでるの。ただここで友だちと待ち合わせているだけ。あなたは?」
「出張です」と彼は言った。「大阪から来ました。会議に出るために。つまらん会議なんだけど、本社が大阪にあるものだから、こっちから誰かが参加しないとかたちにならんということで」
青豆は儀礼的に微笑んだ。あのねえ、あんたの仕事がどうかなんて、こっちには鳩のクソほどの興味もないの、と青豆は心の中で思った。こっちはあんたの頭のかたちが気に入っただけなんだからさ。でもそんなことはもちろん口には出さなかった。
「仕事がひとつ終わって、一杯やりたくなったわけです。明日は午前中にもうひとつ仕事を終えて、それから大阪に戻ります」
「私も大きな仕事をひとつ、ついさっき終えたばかりなの」と青豆は言った。
「ほう。どんなお仕事ですか?」
「仕事のことはあまりしゃべりたくないんだけど、まあ、専門職のようなこと」
「専門職」と男はくり返した。「一般の人にはあまりできない、専門的な技能と訓練が必要とされる職業」
あんたは歩く広辞苑か、と青豆は思った。でもそれも口には出さず、ただ微笑みを浮かべていた。「まあ、そんなところかしら」
男はハイボールをまた一口飲み、ボウルのナッツをひとつまみ食べた。「どんな仕事だか興味があるけど、あなたはそれについてはあまりしゃべりたくない」
彼女は肯いた。「今のところは」
「ひょっとして、言葉を使うお仕事じゃないかな? たとえば、そうだな、編集者とか、大学の研究者とか」
「どうしてそう思うの?」
男はネクタイの結び目に手をやって、もう一度きちんと締め直した。シャツのボタンもとめた。
「なんとなく。ずいぶん熱心に分厚い本を読んでいたみたいだかち」
青豆はグラスの縁を爪で軽くはじいた。「本は好きで読んでいただけ。仕事とは関係なくね」
「じゃあお手上げだな。想像がつかない」
「つかないと思う」と青豆は言った。たぶん永遠にね、と彼女は心の中で付け加えた。
男はさりげなく青豆の身体を観察していた。彼女は何かを落としたふりをしてかがみ込み、胸の谷間を心ゆくまで相手にのぞきこませた。乳房のかたちが少しは見えるはずだ。レースの飾りがついた白い下着も。それから彼女は顔を上げ、カティサークのオンザロックを飲んだ。グラスの中で丸いかたちの大ぶりな氷がからんと音を立てた。
「おかわりを頼みますか? 私も頼むけど」と男は言った。
「お願い」と青豆は言った。
「酒が強いんですね」
青豆は曖昧に微笑んだ。それから急に真顔になった。「そうだ、思い出した。ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「どんなこと?」
「最近警官の制服が変わったかしら? それから携行する拳銃の種類も」
「最近って、いつくらいのこと」
「この一週間くらい」
男はちょっと妙な顔をした。「警官の制服と拳銃はたしかに変わったけど、それはもう何年も前のことです。かっちりしたかたちの制服が、ジャンパーみたいなカジュアルなものになって、拳銃は新型の自動式に変わりました。それからあとはとくに大きな変化はないと思うけど」
「日本の警官はみんな旧式の回転拳銃を持っていたでしょう。つい先週まで」
男は首を振った。「そんなことはない。けっこう前から警官はみんな自動拳銃を携行していますよ」
「自信を持ってそう言えるわけ?」
彼女の口調に男は少したじろいだ。眉のあいだにしわを寄せ、真剣に記憶をたどった。「いや、そうあらたまって訊かれると混乱するな。ただ新聞にはすべての警官の拳銃を新型に交換したと書いてあったはずだ。当時ちょっと問題になったんです。拳銃が高性能すぎるって、例によって市民団体が政府に抗議をして」
「何年も前?」と青豆は言った。
男は年配のバーテンダーを呼んで、警官の制服と拳銃が新しくなったのはいつのことだったかね、と質問した。
「二年前の春です」とバーテンダーは間を置かず答えた。
「ほらね、一流ホテルのバーテンダーは何だって知っているんだ」と男は笑いながら言った。
バーテンダーも笑った。「いえ、そんなことありません。ただ、私の弟がたまたま警官をしておりますので、そのことはよく覚えているんです。弟は新しい制服のかたちが好きになれず、よくこぼしていました。拳銃も重すぎると。今でもまだこぼしています。新しい拳銃はべレッタの九ミリ自動式で、スイッチひとつでセミオートマチックに切り替えることができます。今はたしか三菱が国内でライセンス生産しています。日本では銃撃戦みたいなものはほとんどありませんし、そこまで高性能の拳銃は必要ないんです。むしろ盗まれるのが心配なくらいです。しかし警察機能を強化向上するという政府の方針がありました」
「古い回転拳銃はどうなったの?」と青豆は声の調子をできるだけ抑えて尋ねた。
「全部回収されて、解体処分されたはずです」とバーテンダーは言った。「解体作業をやっているところを、テレビのニュースで見ました。それだけの数の拳銃を解体処分し、弾丸を廃棄するのはすごく手間がかかるんです」
「外国に売ればいいのに」と髪の薄い会社員が言った。
「武器の輸出は憲法で禁止されています」とバーテンダーが謙虚に指摘した。
「ほらね、一流ホテルのバーテンダーは——」
「つまり二年前から、回転式の拳銃は日本の警察でまったく使われていない。そういうこと?」と青豆は男の発言を遮ってバーテンダーに尋ねた。
「知るかぎりでは」
青豆はわずかに顔をしかめた。私の頭がおかしくなったのだろうか? 私は今朝、以前の制服を着て、旧式の回転拳銃を携行している警官を目にしたばかりだ。旧式の拳銃がひとつ残らず処分されたなんて話は耳にしたこともない。しかしこの中年男とバーテンダーの二人が揃って思い違いをしたり、嘘をついているとはまず考えられない。とすれば私が間違っていることになる。
「ありがとう。そのことはいいわ、もう」と青豆はバーテンダーに言った。バーテンダーは職業的な笑みを適切な句読点のように浮かべ、仕事に戻っていった。
「警官に興味があるんですか?」と中年男が尋ねた。
「そういうわけじゃなくて」と青豆は言った。そして言葉を濁した。「ただちょっと記憶が曖昧になったものだから」
新しく運ばれてきたカティサークのハイボールとオンザロックを二人は飲んだ。男はヨットの話をした。彼は西宮のヨットハーバーに自分の小さなヨットを係留していた。休日になるとそのヨットで海に出る。海の上で一人で身体に風を感じるのがどれくらい素敵なことか、男は熱心に話した。青豆はろくでもないヨットの話なんて聞きたくもなかった。ボールベアリングの歴史とか、ウクライナの鉱物資源の分布状況とか、そんな話をしていた方がまだましだ。彼女は腕時計に目をやった。
「もう夜も遅いし、ひとつ率直に質問していいかしら?」
「いいですよ」
「なんていうか、わりに個人的なことなんだけど」
「答えられることなら」
「あなたのおちんちんは大きい方?」
男は口を軽く開け、目を細め、青豆の顔をひとしきり眺めた。耳にしたことがうまく信じられないみたいだった。しかし青豆はどこまでも真剣な顔をしていた。冗談を言っているわけではない。目を見ればそれはわかった。
「そうだな」と彼は生真面目に答えた。「よくわからないけど、だいたい普通じゃないかな。急にそんなことを言われても、何と言えばいいのか……」
「歳はいくつなの?」と青豆は尋ねた。
「先月五十一になったばかりだけど」と男はおぼつかない声で言った。
「普通の脳味噌を持って五十年以上生きてきて、人並みに仕事をして、ヨットまで持っていて、それで自分のおちんちんが世間一般の標準より大きいか小さいかも判断できないわけ?」
「そうだな、普通より少し大きいくらいかもしれない」と彼は少し考えてから、言いにくそうに言った。
「ほんとね?」
「どうしてそんなことが気になるんだろう?」
「気になる? 気になるって、誰が言った?」
「いや、誰も言ってないけど……」と男はスツールの上でわずかに尻込みしながら言った。「でも今そのことが問題になっているみたいだから」
「問題になんかなってないわよ、ぜんぜん」と青豆はきっぱりと言った。「私はね、ただ大きなおちんちんが個人的に好みなの。視覚的にね。大きくなきゃ感じないとか、そういうんじゃないの。それにただ大ききゃいいってものでもない。気分的に、[#傍点]大きめ[#傍点終わり]のがわりに好きだっていうだけ。いけない? 誰にだって好みってものがあるでしょう。でも馬鹿でかいのはだめ。痛いだけだから。わかる?」
「じゃあ、うまくいけば気に入ってもらえるかもしれない。普通よりはいくらか大きめだと思うけど、馬鹿でかいとかそういうのではぜんぜんないから。つまり、適度というか……」
「嘘じゃないわよね」
「そんなことで嘘をついても仕方ない」
「ふうん。じゃあ、ひとつ見せてもらいましょうか」
「ここで?」
青豆は抑制しながら顔をしかめた。「ここで? あなた、どうかしてるんじゃないの。いい年をして、いったい何を考えて生きてるわけ? 上等なスーツを着て、ネクタイまで締めて、社会常識ってものがないの? こんなところでおちんちんを出して、いったいどうすんのよ。まわりの人がなんて思うか考えてごらんなさいよ。これからあなたの部屋に行って、そこでパンツを脱いで見せてもらうのよ。二人きりで。そんなこと決まってるでしょうが」
「見せて、それからどうするんだろう?」と男は心配そうに言った。
「見せてそれからどうするか?」と言って青豆は呼吸を止め、かなり大胆に顔をしかめた。「セックスするに決まってるでしょう。ほかにいったい何をするの。わざわざあなたの部屋まで行って、おちんちんだけ見せてもらって、それで『どうもありがとう。ご苦労様。いいものを見せてもらったわ。じゃあ、おやすみなさい』って、うちに帰っていくわけ? あなたね、頭のどっかの回線が外れてるんじゃないの」
男は青豆の顔の劇的な変化を目の前にして息を呑んだ。彼女が顔をしかめると、大抵の男は縮み上がってしまう。小さな子供なら小便をもらすかもしれない。彼女のしかめ面にはそれくらい衝撃的なものがあった。ちょっとやりすぎたかしら、と青豆は思った。相手をそれほど怯えさせてはいけない。その前に済まさなくてはならないことがあるのだから。彼女は急いで顔をもとに戻し、無理に笑みを浮かべた。そしてあらためて言い聞かせるように相手に言った。
「要するにあなたの部屋に行って、ベッドに入ってセックスをするの。あなたって、ゲイとか、インポテンツとか、そういうんじゃないでしょうね」
「いや、違うと思う。子供もちゃんと二人いるし……」
「あのねえ、あなたに子供が何人いるかなんて、誰も聞いてないでしょうが。国勢調査してるわけじゃないんだから、いちいち余計なことを言わないでちょうだい。私が尋ねてるのは、女と一緒にベッドに入って、おちんちんがちゃんと立つかってことなの。それだけのこと」
「これまで大事なときに役に立たなかったということは、一度もなかったと思うけど」と男は言った。「でも、君はプロというか……、つまり、仕事でこれをやっている人なのかな」
「違うわよ。よしてよね。私はプロなんかじゃない。変態でもない。ただの一般市民よ。ただの一般市民がただ単純に素直に、異性と性行為を持ちたいと望んでいるだけ。特殊なものじゃない、ごく普通のやつ。それのどこがいけないの。むずかしい仕事をひとつ終えて、日が暮れて、軽くお酒を飲んで、知らない人とセックスをして発散したいの。神経を休めたいの。そうすることが必要なの。あなただって男なら、そういう感じはわかるでしょう」
「そういうのはもちろんわかるけど……」
「あなたのお金なんか一銭もいらない。もししっかり私を満足させてくれたら、こっちからお金をあげてもいいくらいよ。コンドームなら用意してあるから、病気の心配はしなくていい。わかった?」
「それはわかったけど……」
「なんだか気が進まないみたいね。私じゃ不足かしら?」
「いや、そんなことはないよ。ただ、よくわからないんだ。君は若くてきれいだし、私はたぶん君の父親に近いような歳だし……」
「もう、下らないことを言わないで。お願いだから。年齢がどれだけ離れていたって、私はあなたのろくでもない娘じゃないし、あなたは私のろくでもない父親じゃない。そんなこと、わかりきってるでしょう。そういう意味のない一般化をされると、神経がささくれちゃうの。私はね、ただあなたのその禿げ頭が好きなの。その形が好きなの。わかった?」
「しかしそう言われても、まだ禿げているってほどじゃない。たしかに生え際あたりは少し……」
「うるさいわね、もう」と青豆は思い切り顔をしかめたくなるのを我慢しながら言った。それから声をいくぶん柔らかくした。相手を必要以上に怯えさせてはならない。「そんなことどうだっていいでしょう。お願いだからもう、とんちんかんなことを言わないで」
本人がなんと思おうと、それは間違いなくハゲなの、と青豆は思った。もし国勢調査にハゲっていう項目があったら、あなたはしっかりそこにしるしを入れるのよ。天国に行くとしたら、あなたはハゲの天国にいく。地獄に行くとしたら、あなたはハゲの地獄に行く。わかった? わかったら、事実から目を背けるのはよしなさい。さあ、行きましょう。あなたはハゲの天国に直行するのよ、これから。
男がバーの勘定を払い、二人は彼の部屋に移った。
彼のペニスはたしかに標準よりはいくぶん大きめだったが、とくに大きすぎるというのではなかった。自己申告に間違いはなかった。青豆はそれを要領よくいじって、大きく硬くした。ブラウスを脱ぎ、スカートを脱いだ。
「私のおっぱいが小さいと思っているんでしょう」と青豆は男を見下ろしながら冷たい声で言った。「自分のおちんちんがけっこう大きいのに、私のおっぱいが小さいから、馬鹿にしてるんでしょう。損をしたような気持ちになっているんでしょう」
「いや、そんなことは思ってないよ。君の胸は別に小さくない。とてもきれいなかたちをしている」
「どうだか」と青豆は言った。「あのね、言っときますけど、いつもはこんなちゃらちゃらとレースの飾りがついたようなブラはつけてないのよ。お仕事だからしょうがなくてつけてんの。ちらっと胸元を見せるために」
「それは、いったいどんなタイプの仕事なんだろう」
「あのね、さっきもしっかり言ったでしょう。こんなところで仕事の話はしたくないの。でもね、たとえどんな仕事であれ、女であるってのはいろいろと大変なの」
「男だって、生きていくのはいろいろと大変だけど」
「でもつけたくもないのに、レースのついたブラをつけるような必要はないでしょうが」
「そりゃそうだけど……」
「じゃあ、わかったようなことは言わないでちょうだい。女ってのはね、男以上にきついことが多いの。あなた、ハイヒール履いて急な階段を降りたことある? タイトなミニスカートをはいて柵を乗り越えたことある?」
「悪かった」と男は素直に謝った。
彼女は手を背中にまわしてブラジャーを取り、それを床に放り投げた。ストッキングをくるくると丸めて脱ぎ、それも床に放り投げた。それからベッドに横になって、男のペニスをもう一度いじり始めた。「ねえ、なかなか立派なものじゃない。感心したわ。かたちもいいし、大きさもまずまず理想的だし、木の根っこみたいに硬くなってるし」
「そう言ってもらえるとありがたいけど」、男はひと安心したようにそう言った。
「ほら、お姉さんが今からしっかりかわいがってあげる。ぴくぴく喜ばせてあげるからね」
「その前にシャワーを浴びた方がいいんじゃないかな。汗もかいてるし」
「うるさいわねえ」と青豆は言った。そして警告を与えるように、右側の睾丸を指で軽くはじいた。「あのね、私はここにセックスをしに来たの。シャワーを浴びに来たんじゃない。わかった? まずやるの。[#傍点]思い切り[#傍点終わり]やるわけ。汗なんかどうでもいいのよ。恥ずかしがり屋の女学生じゃあるまいし」
「わかった」と男は言った。
セックスを終えたあと、疲れ果てたようにうつぶせになっている男の剥き出しの首筋を指で撫でながら、そこの特定のポイントに尖った針先を突き立てたいという欲望を、青豆は強く感じた。本当にそうしようかとも考えたくらいだ。バッグの中には布にくるまれたアイスピックが入っている。時間をかけて尖らせたその先端には特別に柔らかく加工したコルクが刺さっている。もしそうしようと思えば簡単にできる。右手のたなごころを木製の柄の部分に[#傍点]すとん[#傍点終わり]と振り下ろす。相手はわけのわからないうちに、もう死んでいる。苦痛はまったくない。自然死として処理されるだろう。しかしもちろん思いとどまった。この男を社会から抹殺しなくてはならない理由はどこにもない。青豆にとってもう何の存在理由も持たない、という以外には。青豆は首を振り、その危険な考えを頭から追い払った。
この男はべつに悪い人間ではない、と青豆は自分に言い聞かせた。セックスもそれなりにうまかった。彼女を行かせるまで射精しないだけの節度も持ち合わせていた。頭のかたちも、禿げ具合もなかなか好ましい。ペニスの大きさもちょうどいい。礼儀正しく、服の好みも良く、押しつけがましいところはない。育ちも悪くないのだろう。たしかに話はおそろしく退屈だし、とてもいらいらさせられる。しかしそれは死に値するほどの罪悪ではないはずだ。おそらく。
「テレビをつけていいかな」と青豆は尋ねた。
「いいよ」と男はうつぶせになったまま言った。
裸でベッドに入ったまま、十一時のニュースを最後まで見た。中東ではイランとイラクが相変わらず血なまぐさい戦争を続けていた。戦争は泥沼化し、解決の糸口はどこにも見えない。イラクでは徴兵忌避の若者たちが見せしめのために電柱に吊されていた。サダム・フセインは神経ガスと細菌兵器を使用していると、イラン政府は非難していた。アメリカではウォルター・モンデールとゲイリー・ハートが大統領選挙で、民主党の候補の座を争っていた。どちらも世界でいちばん聡明そうには見えなかった。聡明な大統領はたいてい暗殺の標的になるから、人並み以上に頭の切れる人間はできるだけ大統領にならないように努めているのかもしれない。
月では恒久的な観測基地の建設が進行していた。そこではアメリカとソビエトが珍しく協力し合っていた。南極の観測基地のケースと同じように。月面基地? と青豆は首をひねった。そんな話は聞いたことがない。いったいどうなっているのだろう? しかしそれについてはあまり深く考えないことにした。もっと大事な当面の問題がほかにあったからだ。九州の炭鉱火災事故で多数の死者が出て、政府はその原因を追求していた。月面基地ができる時代に人々がまだ石炭を掘り続けていること自体が、青豆にはむしろ驚きだった。アメリカが日本に金融市場開放の要求をつきつけていた。モルガン・スタンレーやメリル・リンチが政府をたきつけて、新たな金儲け口を探している。島根県にいる賢い猫が紹介された。猫は自分で窓を開けて外に出ていくのだが、出たあと自分で窓を閉めた。飼い主がそうするように教え込んだのだ。青豆はやせた黒猫が後ろを振り向き、片手をのばし、意味ありげな目つきでそろりと窓を閉めるシーンを感心して見ていた。
ありとあらゆるニュースがあった。しかし渋谷のホテルで死体が発見されたというニュースは報じられなかった。ニュース番組が終わると、彼女はリモコンのスイッチを押してテレビを消した。あたりがしんとした。隣で横になっている中年男の微かな寝息が聞こえるだけだ。
あの男はまだ同じ姿勢のまま、デスクにうつぶせになっているはずだ。彼は深く眠っているように見えるはずだ。私の隣にいるこの男と同じように。しかし寝息は聞こえない。あのネズミ野郎が目を覚まして起きあがる可能性は、まったくない。青豆は天井を見つめたまま、死体の様子を思い浮かべた。小さく首を振り、一人で顔をしかめた。それからベッドを出て、床に脱ぎ捨てた衣服をひとつひとつかき集めた。