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1Q84 (1-7)
日期:2018-10-13 21:49  点击:557
第7章 青豆
      蝶を起こさないようにとても静かに
 
 
 土曜日の午後一時過ぎ、青豆は「柳屋敷」を訪れた。その家には年を経た柳の巨木が何本も繁り、それが石塀の上から頭を出し、風が吹くと行き場を失った魂の群れのように音もなく揺れた。だから近所の人々は昔から当然のように、その古い洋風の屋敷を「柳屋敷」と呼んでいた。麻布の急な坂を登り切ったところにそれはある。柳の枝のてっぺんに身の軽い鳥たちがとまっているのが見える。屋根の日だまりで、大きな猫が目を細めてひなたぼっこをしている。あたりの通りは狭く、曲がりくねっており、車もほとんど通らない。高い樹木が多く、昼間でも薄暗い印象があった。この一角に足を踏み入れると、時間の歩みが少しばかり遅くなったような気さえする。近所には大使館がいくつかあるが、人の出入りは多くない。普段は[#傍点]しん[#傍点終わり]としているが、夏になると事情は一変し、蝉の声で耳が痛くなる。
 青豆は門の呼び鈴を押し、インターフォンに向かって名前を名乗った。そして頭上のカメラに、ほんのわずかな微笑を浮かべた顔を向けた。鉄の門扉が機械操作でゆっくりと開き、青豆が中に入ると、背後で門扉が閉じられた。彼女はいつものように庭を歩いて横切り、屋敷の玄関に向かった。監視カメラが彼女の姿をとらえていることを知っていたから、青豆はファッションモデルのように背筋を伸ばし、顎を引いてまっすぐ小径を歩いた。今日の青豆は濃紺のウィンドブレーカーにグレーのヨットパーカ、ブルージーンズというカジュアルなかっこうだった。白いバスケットボール・シューズ、そして肩にはショルダーバッグをかけている。今日はアイスピックは入っていない。必要がないときには、それは洋服ダンスの抽斗の中で静かに休んでいる。
 玄関の前にチーク材のガーデンチェアがいくつか置かれ、その一つに大柄な男が窮屈そうに座っていた。背はそれほど高くないが、上半身が驚くほど発達していることが見て取れる。おそらくは四十前後、頭はスキンヘッドにして、鼻の下に手入れされた髭をたくわえている。肩幅の広いグレーのスーツに、真っ白なシャツ、濃いグレーのシルク・タイ。しみひとつない真っ黒なコードバンの靴。両耳に銀のピアス。区役所の出納課の職員には見えないし、自動車保険のセールスマンにも見えない。一見してプロの用心棒のように見えるし、実際のところそれが彼の専門とする職域だった。時には運転手の役目も果たす。空手の高位有段者であり、必要があれば武器を効果的に使うこともできる。鋭い牙をむき、誰よりも凶暴になることもできる。しかし普段の彼は穏やかで冷静で、知的でもあった。じっと目をのぞき込めば——もし彼がそうすることを許してくれればということだが——そこに温かい光を認めることもできる。
 私生活においては、様々な機械をいじることと、六〇年代から七〇年代にかけてのプログレッシブ・ロックのレコードを集めることが趣味であり、美容師をしているハンサムな若いボーイフレンドと二人で、やはり麻布の一角で暮らしていた。名前はタマルと言った。それが名字なのか、名前なのか、どちらかはわからない。どんな漢字をあてるのかも知らない。しかし人々は彼をタマルさんと呼んでいた。
 タマルは椅子に腰を下ろしたまま、青豆を見て肯いた。
「こんにちは」と青豆は言った。そして男の向かいの席に腰を下ろした。
「渋谷のホテルで男が一人死んだらしい」と男はコードバンの靴の輝き具合を点検しながら言った。
「知らなかった」と青豆は言った。
「新聞に載るほどの事件でもないからな。どうやら心臓発作らしい。まだ四十過ぎなのに気の毒なことだ」
「心臓には気をつけないと」
 タマルは肯いた。「生活習慣が大事だ。不規則な生活、ストレス、睡眠不足。そういうものが人を殺す」
「遅かれ早かれ何かが人を殺すわけだけど」
「理屈からいけばそうなる」
「検死解剖はあるのかしら」と青豆は尋ねた。
 タマルは身を屈めて、目に見えるか見えないかという程度のほこりを靴の甲から払った。「警察も何かと忙しい。予算も限られている。外傷も見あたらないきれいな死体をいちいち解剖している余裕はないよ。遺族にしたって、静かに亡くなった人間を、無意味に切り刻まれたくはないだろう」
「とくに残された奥さんの立場からすれば」
 タマルはしばらくのあいだ沈黙し、それからそのグローブのような分厚い右手を彼女の方に差し出した。青豆はそれを握った。しっかりとした握手だ。
「疲れたろう。少し休むといい」と彼は言った。
 青豆は普通の人が微笑みを浮かべるときのように口の両端を少し横に広げたが、実際には微笑みは浮かばなかった。その暗示のようなものがあっただけだ。
「プンは元気?」と彼女は尋ねた。
「ああ、元気にしてるよ」とタマルは答えた。プンはこの屋敷で飼われている雌のドイツ・シェパードだ。性格がよくて、賢い。ただしいささか風変わりないくつかの習性をもっている。
「あの犬はまだほうれん草を食べているの?」と青豆は尋ねた。
「たくさん。ここのところほうれん草の高値が続いているんで、こちらは少し弱っている。なにしろ大量に食べるからな」
「ほうれん草の好きなドイツ・シェパードなんて見たことない」
「あいつは自分のことを犬だと思ってないんだ」
「何だと思っているの?」
「自分はそういう分類を超越した特別な存在だと思っているみたいだ」
「スーパードッグ?」
「あるいは」
「だからほうれん草が好きなの?」
「それとは関係なく、ほうれん草はただ好きなんだよ。子犬の頃からそうだった」
「でもそのせいで危険な思想を抱くようになったのかもしれない」
「それはあるかもしれない」とタマルは言った。それから腕時計に目をやった。「ところで、今日の約束はたしか一時半だったな?」
 青豆は肯いた。「そうまだ少し時間がある」
 タマルはゆっくりと立ち上がった。「ちょっとここで待っていてくれ。少し時間を早められるかもしれない」、そして玄関の中に消えた。
 青豆は立派な柳の樹を眺めながらそこで待っていた。風はなく、その枝は地面に向けてひっそりと垂れ下がっていた。とりとめのない思索に耽る人のように。
 少しあとでタマルは戻ってきた。「裏手にまわってもらうよ。今日は温室に来てもらいたいということだ」
 二人は庭を回り込んで、柳の木の脇を通り過ぎ、温室に向かった。温室は母屋の裏手にあった。まわりに樹木はなく、たっぷりと日があたるようになっている。タマルは中にいる蝶が外に出ないように、用心深くガラスの扉を細く開け、青豆を先に入れた。それから自分もするりと中に滑り込み、間を置かず扉を閉めた。大柄な人間が得意とする動作ではない。しかし彼の動作は要を得て、簡潔だった。ただ[#傍点]得意にはしていない[#傍点終わり]というだけだ。
 ガラス張りの大きな温室には留保のない完壁な春が訪れていた。様々な種類の花が美しく咲き乱れている。置かれている植物の大半はありきたりのものだった。グラジオラスやアネモネやマーガレットといった、どこでも普通に見かける草花の鉢植えが棚に並んでいる。青豆の目から見れば雑草としか思えないものも中に混じっている。高価な蘭や、珍種のバラや、ポリネシアの原色の花、そんな[#傍点]いかにも[#傍点終わり]というものはひとつも見あたらない。青豆はとくに植物に興味を持っているわけではないが、それでもこの温室のそういう気取りのないところがわりに気に入っていた。
 そのかわり温室には数多くの蝶が生息していた。女主人はこの広いガラス張りの部屋の中で、珍しい植物を育てることよりは、むしろ珍しい蝶を育てることにより深い関心を持っているようだった。そこにある花も、蝶が好む花蜜の豊富なものが中心になっていた。温室で蝶を飼い育てるには、尋常ではない量の配慮と知識と労力が必要とされるということだが、どこにそんな配慮がなされているのか、青豆にはさっぱりわからない。
 真夏を別にして、女主人は時おり青豆を温室に招き、そこで二人きりで話をした。ガラス張りの温室の中なら、話を誰かに立ち聞きされるおそれはない。彼女たちのあいだで交わされる会話は、どこでも大声で話せるというたぐいのものではない。また花や蝶に囲まれている方が、何かと神経が休まるということもあった。彼女の表情を見ればそれはわかった。温室の中は青豆にはいくぶん温かすぎたが、我慢できないほどではない。
 女主人は七十代半ばの小柄な女性だった。美しい白髪を短くカットしている。長袖のダンガリーのワークシャツに、クリーム色のコットンパンツをはき、汚れたテニスシューズをはいていた。白い軍手をはめて、大きな金属製のじょうろで鉢植えのひとつひとつに水をやっていた。彼女が身につけている衣服は、サイズがひとつずつ大きいものに見えたが、それでも体に心地よく馴染んでいた。青豆は彼女の姿を目にするたびに、その気取りのない自然な気品に対して、敬意のようなものを感じないわけにはいかなかった。
 戦前に華族のもとに嫁いだ、有名な財閥の娘なのだが、飾ったところやひ弱な印象はまったくなかった。戦後間もなく夫を亡くしたあと、親族の持っていた小さな投資会社の経営に参画し、株式の運用に抜きんでた才能を見せた。それは誰もが認めるように、天性の資質とも言うべきものだった。投資会社は彼女の力で急速に発展し、残された個人資産も大きく膨らんだ。彼女はそれを元手に、ほかの元華族や元皇族の所有していた都内の一等地をいくつも購入した。十年ばかり前に引退し、タイミングを見計らって持ち株を高値で売却し、さらに財産を増やした。人前に出ることを極力避けてきたせいで、世間一般にはほとんど名を知られていないが、経済界では知らないものはいない。政治の世界にも太い人脈を持っているという話だ。しかし個人的に見れば、気さくで聡明な女性だ。そして恐れというものを知らない。自分の勘を信じて、いったん心を決めるとそれを貫く。
 彼女は青豆を目にすると、じょうろを下に置き、入り口の近くにある小さな鉄製のガーデンチェアを示して、そこに座るように合図をした。青豆が指示されたところに座ると、向かいの椅子に腰を下ろした。彼女は何をするにしても、ほとんど音というものを立てなかった。森を横切っていく賢い雌狐のように。
「何か飲み物をお持ちしますか?」とタマルが尋ねた。
「温かいハーブティーを」と彼女は言った。そして青豆を見た。「あなたは?」
「同じものを」と青豆は言った。
 タマルは小さく肯いて温室を出て行った。まわりをうかがって蝶が近くにいないことを確かめてから細く扉を開け、素早く外に出て、また扉を閉めた。社交ダンスのステップを踏んでいるように。
 女主人は木綿の軍手を取り、それを夜会用の絹の手袋でも扱うように、テーブルの上に丁寧に重ねて置いた。そしてつややかな色をたたえた黒い目でまっすぐ青豆を見た。それはこれまでいろんなものを目撃してきた目だった。青豆は失礼にならない程度にその目を見返した。
「惜しい人をなくしたようね」と彼女は言った。「石油関連の世界ではなかなか名の知れた人だったらしい。まだ若いけれど、かなりの実力者だったとか」
 女主人はいつも小さな声で話をした。風がちょっと強く吹いたらかき消されてしまう程度の音量だ。だから相手はいつもしっかり耳を澄ましていなければならなかった。青豆は時々、手を伸ばしてボリュームのスイッチを右に回したいという欲求に駆られた。しかしもちろんボリューム・スイッチなんてどこにもない。だから緊張して耳を澄ましているしかなかった。
 青豆は言った。「でもその人が急にいなくなっても、見たところとくに不便もないみたいです。世界はちゃんと動いています」
 女主人は微笑んだ。「この世の中には、代わりの見つからない人というのはまずいません。どれほどの知識や能力があったとしても、そのあとがまはだいたいどこかにいるものです。もし世界が代わりの見つからない人で満ちていたとしたら、私たちはとても困ったことになってしまうでしょう。もちろん——」と彼女は付け加えた。そして強調するように右手の人差し指をまっすぐ宙に上げた。「あなたみたいな人の代わりはちょっとみつからないだろうけど」
「私の代わりはなかなかみつからないにしても、かわりの手段を見つけるのはそれほどむずかしくないでしょう」と青豆は指摘した。
 女主人は静かに青豆を見ていた。口もとに満足そうな笑みが浮かんだ。「あるいは」と彼女は言った。「でも仮にそうだとしても、私たち二人が今ここでこうして共有しているものは、そこにはおそらく見いだせないことでしょう。あなたはあなたであって、あなたでしかない。とても感謝しています。言葉では表せないほど」
 女主人は前屈みになって手を伸ばし、青豆の手の甲に重ねた。十秒ばかり彼女は手をそのままにしていた。それから手を放し、満ち足りた表情を顔に浮かべたまま、背中を後ろにそらせた。蝶がふらふらと宙をさまよってきて、彼女の青いワークシャツの肩にとまった。小さな白い蝶だった。紅色の紋がいくつも入っている。蝶は恐れることを知らないように、そこで眠り込んだ。
「あなたはおそらく、これまでこの蝶を目にしたことはないはずです」と女主人は自分の肩口をちらりと見ながら言った。その声には自負の念が微かに聞き取れた。「沖縄でも簡単には見つかりません。この蝶は一種類の花からしか栄養をとらないの。沖縄の山の中にしか咲かない特別な花からしか。この蝶を飼うには、まずその花をここに運んできて育てなくてはならない。けっこうな手間がかかります。もちろん費用もかかります」
「その蝶はずいぶんあなたになついているみたいですね」
 女主人は微笑んだ。「この[#傍点]ひと[#傍点終わり]は私のことを友だちだと思っているの」
「蝶と友だちになれるんですか?」
「蝶と友だちになるには、まずあなたは自然の一部にならなくてはいけません。人としての気配を消し、ここにじっとして、自分を樹木や草や花だと思いこむようにするのです。時間はかかるけれど、いったん相手が気を許してくれれば、あとは自然に仲良くなれます」
「蝶に名前はつけるんですか?」と青豆は好奇心から尋ねた。「つまり、犬や猫みたいに一匹ずつ」
 女主人は小さく首を振った。「蝶に名前はつけません。名前がなくても、柄やかたちを見れば一人ひとり見分けられる。それに蝶に名前をつけたところで、どうせほどなく死んでしまうのよ。このひとたちは、名前を持たないただの束の間のお友だちなのです。私は毎日ここにやって来て、蝶たちと会ってあいさつをして、いろんな話をします。でも蝶は時が来れば黙ってどこかに消えていく。きっと死んだのだと思うけど、探しても死骸が見つかることはありません。空中に吸い込まれるみたいに、何の痕跡も残さずにいなくなってしまう。蝶というのは何よりはかない優美な生き物なのです。どこからともなく生まれ、限定されたわずかなものだけを静かに求め、やがてどこへともなくこっそり消えていきます。おそらくこことは違う世界に」
 温室の中の空気は温かく湿り気を持ち、植物の匂いがもったりと満ちていた。そして多くの蝶が、初めも終わりもない意識の流れを区切る束の間の句読点のように、あちこちに見え隠れしていた。青豆はこの温室に入るたびに、時間の感覚を見失ったような気持ちになった。
 美しい青磁のティーポットと揃いのカップを二つ載せた金属のトレイを持って、タマルがやってきた。布のナプキンと、クッキーを盛った小さな皿もついていた。ハーブティーの香りが、まわりの花の匂いと入り交じった。
「ありがとう、タマル。あとはこちらでやります」と女主人は言った。
 タマルはトレイをガーデンテーブルの上に置き、一礼し、足音を立てずに歩き去った。そして前と同じ軽い一連のステップを踏んで扉を開け、扉を閉め、温室から出て行った。女主人はティーポットの蓋をとり、香りを嗅ぎ、葉の開き具合をたしかめてから、それを二つのティーカップにそろそろと注いだ。両方の濃さが均等になるように注意深く。
「余計なことかもしれませんが、どうして入り口に網戸をつけないのですか」と青豆は尋ねた。
 女主人は顔を上げて青豆を見た。「網戸?」
「ええ、内側に網戸をつけて扉を二重にすれば、出入りするたびに、蝶が逃げないように注意する必要もなくなるでしょう」
 女主人はソーサーを左手で持ち、右手でカップを持って、それを口もとに運び、静かにハーブティーを一口飲んだ。香りを味わい、小さく肯いた。カップをソーサーに戻し、そのソーサーをトレイの上に戻した。ナプキンで口もとを軽く押さえてから、膝の上に置いた。それだけの動作に彼女は、ごく控え目に言って、普通の人のおおよそ三倍の時間をかけた。森の奥で滋養のある朝露を吸っている妖精みたいだ、と青豆は思った。
 それから女主人は小さく咳払いをした。「網というものが好きではないのです」と言った。
 青豆は黙って話の続きを待ったが、続きはなかった。網を好まないというのが、自由を束縛する事物に対する総合的な姿勢なのか、審美的な見地から出たものなのか、あるいは特に理由のないただの生理的な好き嫌いなのか、不明なままに話は終わった。しかし今のところ、それはとりたてて重要な問題ではない。ただふと思いついて質問しただけだ。
 青豆も女主人と同じようにハーブティーのカップをソーサーごと手に取り、音を立てずに一口飲んだ。彼女はハーブティーがそれほど好きではない。真夜中の悪魔のように熱くて濃いコーヒーが彼女の好みだ。しかしそれはおそらく昼下がりの温室には馴染まない飲み物だった。だから温室ではいつも、女主人の飲むのと同じものを頼むことにしていた。女主人はクッキーを勧め、青豆はひとつとって食べた。ジンジャーのクッキーだ。焼きたてで、新鮮なショウガの味がした。女主人は戦前の一時期を英国で過ごした。そのことを青豆は思い出した。女主人もクッキーをひとつ手に取り、ほんの少しずつ腐った。肩口で眠っているその珍しい蝶を起こさないようにそっと静かに。
「帰り際にタマルがいつものように、あなたに鍵を渡します」と彼女は言った。「用が済んだら、郵便で送り返して下さい。いつものように」
「わかりました」
 しばらくおだやかな沈黙が続いた。閉めきった温室の中にはどのような外界の音も届かない。蝶は安心したように眠り続けていた。
「私たちは間違ったことは何もしていません」と女主人は青豆の顔をまっすぐ見ながら言った。
 青豆は軽く唇を噛んだ。そして肯いた。「わかっています」
「そこにある封筒の中身を見て下さい」と女主人は言った。
 青豆はテーブルの上に置かれていた封筒を手に取り、そこに収められていた七枚のポラロイド写真を、上品な青磁のティーポットの隣りに並べた。タロット占いの不吉なカードを並べるみたいに。若い女の裸の身体が部分ごとに近くから写されていた。背中、乳房、臀部、太腿。足の裏まである。顔の写真だけはない。暴力のあとが各所に、あざやみみず腫れになって残っていた。どうやらベルトが使われたようだ。陰毛がそられ、その付近には煙草の火を押しつけられたらしいあとが残っていた。青豆は思わず顔をしかめた。同じような写真はこれまでも目にしたが、ここまでひどくはない。
「それを見たのは初めてでしょう?」と女主人は言った。
 青豆は言葉もなく肯いた。「だいたいのところはうかがいましたが、写真を目にするのは初めてです」
「[#傍点]その男[#傍点終わり]がやったことです」と老婦人は言った。「三カ所の骨折は処置しましたが、片耳が難聴の症状を示しています、もとどおりにはならないかもしれない」と女主人は言った。音量は変わらなかったが、前よりも声は冷たく硬くなっていた。その声の変化に驚いたように、女主人の肩口にとまっていた蝶が目を覚まし、羽を広げてふらふらと宙に飛び立った。
 彼女は続けた。「こんな仕打ちをする人間を、そのまま放置してはおけません。何があっても」
 青豆は写真をまとめて封筒に戻した。
「そう思いませんか?」
「思います」と青豆は同意した。
「私たちは正しいことをしたのです」と女主人は言った。
 彼女は椅子から立ち上がり、おそらく気持ちを落ち着けるためだろう、かたわらにあったじょうろを持ち上げた。まるで精巧な武器でも手に取るように。顔がいくぶん青ざめていた。目は温室の一角をじっと鋭く見据えていた。青豆はその視線の先に目をやったが、変わったものは何も見あたらなかった。アザミの鉢植えがあるだけだ。
「わざわざ来てくれてありがとう。ご苦労様でした」、彼女はからっぽのじょうろを手にしたまま言った。これで会見は終わったようだった。
 青豆も立ち上がり、バッグを手に取った。「お茶をご馳走になりました」
「もう一度お礼を言います」と女主人は言った。
 青豆は少しだけ微笑んだ。
「何ひとつ心配しなくていいのよ」と女主人は言った。口調はいつの間にかもとの穏やかさを取り戻していた。目には温かい光が浮かんでいた。彼女は青豆の腕に軽く手を添えた。「私たちは正しいことをしたのだから」
 青豆は肯いた。いつも同じ台詞で話は終わる。おそらくこの人は自分に向かってそう繰り返し言い聞かせているのだ、と青豆は思った。マントラかお祈りみたいに。「何ひとつ心配しなくていいのよ。私たちは正しいことをしたのだから」と。
 青豆はまわりに蝶の姿がないことを確かめてから、温室の扉を小さく開け、外に出て、扉を閉めた。女主人はじょうろを手にあとに残った。温室から出ると、外の空気はひやりとして新鮮だった。樹木と芝生の香りがした。そこは現実の世界だった。時間はいつもどおりに流れている。青豆はその現実の空気をたっぷりと肺に送り込んだ。
 
 玄関にはタマルが同じチーク材の椅子に腰を下ろして待っていた。彼女に私書箱の鍵を渡すためだ。
「用件は済んだ?」と彼は尋ねた。
「済んだと思う」と青豆は言った。そして彼の隣りに腰を下ろし、鍵を受け取ってショルダーバッグの仕切の中にしまった。
 二人はしばらく何も言わずに、庭にやってくる鳥たちを眺めていた。風はまだぴたりと止んだままで、柳は静かに垂れ下がっていた。いくつかの枝の先は、あと少しで地面につこうとしていた。
「その女の人は元気にしている?」と青豆は尋ねた。
「どの女?」
「渋谷のホテルで心臓発作を起こした男の奥さんのこと」
「今のところ、それほど元気とは言えないな」とタマルは顔をしかめながら言った。「受けたショックがまだ続いている。あまり話ができない。時間が必要だ」
「どんな人なの?」
「三十代前半。子供はいない。美人で感じもいい。スタイルもなかなかのものだ。しかし残念ながら、今年の夏は水着姿にはなれないだろう。たぶん来年の夏も。ポラロイドは見た?」
「さっき見た」
「ひどいものだろう?」
「かなり」と青豆は言った。
 タマルは言った。「よくあるパターンだよ。男は世間的に見れば有能な人間だ。まわりの評価も高い、育ちも良いし、学歴も高い。社会的地位もある」
「ところがうちに帰ると人ががらりと変わる」と青豆があとを引き取って続けた。「とくに酒が入ると暴力的になる。といっても、女にしか腕力をふるえないタイプ。女房しか殴れない。でも外面《そとづら》だけはいい。まわりからは、おとなしい感じの良いご主人だと思われている。自分がどんなひどい目にあわされているか、奥さんが説明して訴えても、まず信用してもらえない。男もそれがわかっているから、暴力をふるうときも、人には見せにくい場所を選ぶ。あるいは跡が残らないようにやる。そういうところ?」
 タマルは肯いた。「おおむね。ただし酒は一滴も飲まない。こいつは素面《しらふ》で白昼堂々とやる。余計にたちが悪い。彼女は離婚を望んでいた。しかし夫はがんとして離婚を拒んだ。彼女のことが好きだったのかもしれない。あるいは手近な犠牲者を手放したくなかったのかも知れない。あるいは奥さんを力ずくでレイプするのが好きだったのかもしれない」
 タマルは足を軽く上げて、革靴の光り具合をまた確認した。それから話を続けた。
「家庭内暴力の証拠を示せば、もちろん離婚は成立するだろうが、それには時間もかかるし、金もかかる。相手が腕のいい弁護士を用意すれば、かなり不愉快な目にもあわされる。家庭裁判所は混みあっているし、裁判官の数は不足している。それにもし離婚が成立し、慰謝料なり生活扶助金の額が確定したところで、そんなものまともに払う男は少ない。なんとでも言い抜けられるからね。日本では慰謝料を払わなかったという理由で、元亭主が刑務所に入れられることはほとんどない。支払いの意思はあるという姿勢を示し、名目上いくらかでも支払えば、裁判所は大目に見てくれる。日本の社会はまだまだ男に対して甘くできているんだ」
 青豆は言った。「ところが数日前、その暴力的な夫が渋谷のホテルの一室で、うまい具合に心臓発作を起こしてくれた」
「[#傍点]うまい具合に[#傍点終わり]という表現はいささか直接的すぎる」とタマルは軽く舌打ちをして言った。「[#傍点]天の配剤によって[#傍点終わり]というのが俺の好みだ。いずれにせよ死因に不審な点はないし、人目を引くほど高額の保険金でもないから、生保会社が疑問を抱くことはない。たぶんすんなり支払われるはずだ。とはいえ、それでもまずまずの額だ。その保険金で彼女は新しい人生の第一歩を踏み出すことができる。おまけに離婚訴訟にかかる時間と金がそっくり節約できる。煩雑で意味のない法律上の手続きや、その後のトラブルがもたらす精神的苦痛も回避できた」
「それに、そんなカスみたいな危ないやつがこのまま世間に野放しになって、どこかで新たな犠牲者を見つけることもない」
「天の配剤」とタマルは言った。「心臓発作のおかげで、何もかもがすんなりと収まった。最後がよければすべてはいい」
「もしどこかに最後というものがあれば」と青豆は言った。
 タマルは微笑みを連想させる短いしわのようなものを、口もとにこしらえた。「どこかに必ず最後はあるものだよ。『ここが最後です』っていちいち書かれてないだけだ。ハシゴのいちばん上の段に『ここが最後の段です。これより上には足を載っけないでください』って書いてあるか?」
 青豆は首を振った。
「それと同じだ」とタマルは言った。
 青豆は言った。「常識を働かせ、しっかり目を開けていれば、どこが最後かは自ずと明らかになる」
 タマルは肯いた。「もしわからなくても——」、彼は指で落下する仕草をした。「いずれにせよ、そこが最後だ」
 二人はしばらく口を閉ざして鳥の声を聞いていた。穏やかな四月の午後だった。どこにも悪意や暴力の気配は見当たらない。
「今ここには何人の女の人が[#傍点]滞在[#傍点終わり]しているの?」と青豆は尋ねた。
「四人」とタマルは即座に答えた。
「同じような立場に置かれている人たち?」
「だいたい似たようなところだ」とタマルは言った。そして口をすぼめた。「しかしあとの三人のケースは、それほど深刻なものではない。相手の男たちは例によって、みんなろくでもない卑劣なやつらばかりだが、我々が今まで話題にしてきた人物ほど悪質ではない。空威張りしている小物ばかりだ。あんたの手を煩わせるほどのものでもない。こちらで処理できるだろう」
「合法的に」
「[#傍点]おおむね[#傍点終わり]合法的に。少し脅しをかける程度のことはあるにしても。もちろん心臓発作だって合法的な死因ではあるけれど」
「もちろん」と青豆は相づちをうった。
 タマルはしばらく何も言わず、膝の上に両手を置いたまま、静かに垂れた柳の枝を眺めていた。
 青豆はちょっと迷ってから切り出した。「ねえ、タマルさん、ひとつ教えてほしいことがあるんだけど」
「なんだろう?」
「警官の制服と拳銃が新しくなったのは何年前のことだっけ?」
 タマルはかすかに眉をひそめた。彼女の口調に彼の警戒心を発動させる響きがわずかに混じっていたらしい。「どうして急にそんなことを尋ねる?」
「とくに理由はない。さっきふと思いついただけ」
 タマルは青豆の目を見た。彼の目はあくまで中立的だったが、そこには表情というものがない。どちらにでも転べるように、余地が空けてあるのだ。
「本栖《もとす》湖の近くで山梨県警と過激派とのあいだにでかい銃撃戦があったのが八一年の十月半ば、その明くる年に警察の大きな改革があった。二年前のことだ」
 青豆は表情を変えずに肯いた。そんな事件にはまったく覚えがなかったが、相手に話を合わせるしかない。
「血なまぐさい事件だった。五挺のカラシニコフAK47に対するに、旧式の六連発リボルバーだ。そんなもの勝負にもならん。気の毒な警官が三人、ミシンをかけられたみたいにずたずたにされた。自衛隊の特殊空挺部隊が即刻ヘリコプターで乗り込んだ。警察の面子は立たない。そのあとすぐ、中曽根首相が本腰を入れて警察力を強化することにした。機構の大幅な改変があり、特殊銃器部隊が設置され、一般の警官も高性能のオートマチック拳銃を携行するようになった。ベレッタのモデル92。撃ったことはあるか?」
 青豆は首を振った。まさか。彼女は空気銃さえ撃ったことがない。
「俺はある」とタマルは言った。「十五連発のオートマチック。九ミリのパラベラムっていう弾丸を使う。定評のある銃器で、アメリカ陸軍も採用している。安くはないが、シグやグロックほどには高価じゃないのが売りだ。ただし素人が簡単に扱える拳銃じゃない。以前のリボルバーは重量四九〇グラムしかなかったのに、こっちは八五〇グラムもある。そんなものを訓練不足の日本の警官に持たせたって、いっこうに役に立たん。こんなに混み合ったところで高性能の拳銃をぶっ放されたら、一般市民が巻き添えを食うのがおちだ」
「どこで撃ったの、そんなものを?」
「ああ、よくある話だよ。あるとき泉のほとりでハープを弾いていたら、どこからともなく妖精が現れて、ベレッタのモデル92を俺に渡して、ためしにあそこにいる白いウサギさんを撃ってみたらって言ったんだ」
「真面目な話」
 タマルは口元のしわを少しだけ深くした。「俺は真面目な話しかしない」と彼は言った。「とにかく制式拳銃と制服が新しくなったのは二年前の春。ちょうど今頃だ。それで質問に対する答えになっているかな?」
「二年前」と彼女は言った。
 タマルはもう一度、鋭い視線を青豆に向けた。「なあ、心にかかっていることがあるのなら、俺に言った方がいい。警官が何かに関わっているのか」
「そういうわけじゃない」と青豆は言った。そして両手の指を空中でひらひらと小さく振った。
「ただちょっと制服のことが気になっただけ。いつ変わったんだっけなと」
 ひとしきり沈黙が続き、二人の会話はそこで自然に終了した。タマルはもう一度右手を差し出した。「無事に終わってよかった」と彼は言った。青豆はその手を握った。この男にはわかっているのだ。人の命の関わる厳しい仕事のあとでは、肉体の接触を伴う温かく静かな励ましが必要とされていることが。
「休暇をとれ」とタマルは言った。「立ち止まって深呼吸をし、頭を空っぽにすることも時には必要だ。ボーイフレンドとグアムにでも行ってくるといい」
 青豆は立ち上がってショルダーバッグを肩にかけ、ヨットパーカのフードの位置をなおした。タマルも立ち上がった。背は決して高くないのだが、彼が立ち上がると、まるでそこに石壁が生じたみたいに見える。いつもその緊密な質感には驚かされる。
 彼女が歩き去るのを、タマルは背後からじっと見まもっていた。青豆は歩を運びながら、その視線を背中に感じ続けていた。だから顎を引き、背筋を伸ばして、まっすぐな一本の線をたどるようにしっかりとした足どりで歩いた。しかし目に見えないところでは、彼女は混乱していた。自分のあずかり知らないところで、自分のあずかり知らないことが次々に起こっている。少し前まで、世界は彼女の手の中に収められていた。これという破綻も矛盾もなく。しかしそれが今ではばらばらにほどけかけている。
 本栖湖の銃撃戦? ベレッタ・モデル92?
 いったい何が持ち上がっているのだ。そんな重要なニュースを青豆が見逃すはずはない。この世界のシステムがどこかで狂い始めている。歩きながら、彼女の頭は素早く回転し続けていた。何が起こったにせよ、なんとかしてもう一度この世界をひとつに束ねなくてはならない。そこに理屈を通さなくてはならない。それも早急に。そうしないことにはとんでもないことになりかねない。
 青豆が内面で混乱をきたしていることを、タマルはおそらく見抜いているはずだ。用心深く、直感に優れた男だ。そして危険な男でもある。タマルは女主人に深い敬意を抱き、忠誠を尽くしている。彼女の身の安全を保つためなら大抵のことはする。青豆とタマルはお互いを認め合っているし、お互いに好意を抱いている。少なくとも好意に似たものを。しかし青豆の存在が何らかの理由で女主人のためにならないと判断すれば、彼は迷うことなく青豆を切り捨て、処分するだろう。とても実務的に。しかしそのことでタマルを非難はできない。結局はそれが彼の職分なのだから。
 青豆が庭を横切ったところで、門扉が開けられた。彼女は監視カメラに向かってできるだけ愛想良く微笑み、軽く手を振った。何ごともなかったように。塀の外に出ると、背後でゆっくりと扉が閉まった。麻布の急な坂を下りながら、青豆はこれから自分がやらなくてはならないことを頭の中で整理し、リストをこしらえた。綿密に、そして要領よく。

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