第8章 天吾
知らないところに行って
知らない誰かに会う
多くの人々は日曜日の朝を休息の象徴として考える。しかし少年時代をとおして、天吾が日曜日の朝を喜ばしいものと考えたことは一度もなかった。日曜日は常に彼の気持ちを沈み込ませた。週末になると身体がどんよりと重くなり、食欲が失われ、身体のあちこちが痛くなった。天吾にとって日曜日は、暗黒の裏側だけを向け続ける歪んだ月のような存在だった。日曜日がめぐってこなければどんなにいいだろうと、少年時代の天吾はよく思った。毎日学校があって、休みなんかなければどんなに楽しいだろう。日曜日が来ないようにと祈りもした——もちろんそんな祈りが聞き届けられることはなかったが。大人になり、日曜日が現実の脅威ではなくなった今でも、日曜日の朝に目を覚まし、わけもなく暗い気持ちになることがある。身体の節々に軋《きし》みを感じ、吐き気を覚えることもある。そういう反応が心に染みついてしまっているのだ。おそらくは深い無意識の領域まで。
NHKの集金人をしていた父親は、日曜日になるとまだ小さな天吾を集金につれてまわった。それは幼稚園に入る前から始まり、彼が小学校の五年生になるまで、日曜日に特別な学校行事があるときを別にして、一度の例外もなく続いた。朝の七時に起きると、父親は天吾に顔を石鹸できれいに洗わせ、耳や爪を細かく点検し、できるだけ清潔な(しかし派手ではない)服を着せ、あとでおいしいものを食べさせてやるからな、と約束した。
ほかのNHKの集金人たちが休日にも働いていたのかどうか、天吾にはわからない。しかし彼が記憶する限り、父親は日曜日には必ず仕事をした。むしろ普段よりも熱心に働いた。平日は留守にしている人々を、日曜日ならつかまえることができたからだ。
彼が小さな天吾を集金に連れてまわったのには、いくつかの理由があった。小さな天吾を一人でうちに置いてはおけない、というのがひとつの理由だ。平日と土曜日は保育園や幼稚園や小学校に預けていけるが、日曜日はそれらの場所が休みになる。それから父親がどんな仕事をしているか、息子に見せておく必要がある、というのがもうひとつの理由になっていた。自分たちの生活がどのような営みの上に成り立っているか、労働というのがどういうものなのか、小さいうちから知っておかなくてはならない。父親自身、物心ついた頃から日曜日も何もなく畑仕事に駆り出されて育った。農作業が忙しい時期には学校も休まされた。そのような生活は、父親にとっては当たり前のことだった。
三つ目の、そして最後の理由はより打算的なものであり、だからこそ天吾の心をもっとも深く傷つけることになった。子供を連れて歩いた方が、集金がしやすくなることを父親はよく知っていた。小さな子供の手を引いている集金人に向かって「そんなものは払いたくないから帰ってくれ」とは言いにくいものだ。子供にじっと見上げられると、多くの人は払うつもりのないものも払ってしまうことになる。だから父親は、日曜日にはとくに集金の困難な家の多いルートをまわった。天吾は自分にそのような役割が期待されていることを最初から感じ取っていたし、それがいやでたまらなかった。しかしその一方で、父親を喜ばせるためには、彼なりに知恵を働かせて、期待されている演技をこなさなくてはならなかった。まるで猿回しの猿のように。父親を喜ばせれば、天吾はその一日優しく扱われることになった。
天吾にとっての唯一の救いは、父親の受け持ち区域が、住まいからいくらか離れたところにあることだった。天吾の家は市川市の郊外住宅地にあったが、父親の集金区域は市内の中心地だった。学区も違っていた。だから幼稚園や小学校の同級生の家を集金にまわることだけはなんとか避けられた。それでも市内の繁華街を歩いていて、たまに同級生とすれ違うことはあった。そういうときには彼は素早く父親の陰に隠れて、相手に気づかれないようにした。
天吾の級友たちの父親は、ほとんどが東京の都心に通勤するサラリーマンだった。彼らは市川市を、何かの都合でたまたま千葉県に編入されている東京都の一部のように考えていた。月曜日の朝になると級友たちは、日曜日に自分たちがどこに行って何をしたかを熱心に語り合った。遊園地や動物園や野球場に彼らは行った。夏には南房総に泳ぎに行き、冬にはスキーに行った。父親がハンドルを握る車でドライブし、あるいは山登りもした。彼らはそのような経験を熱心に語り合い、いろんな場所についての情報を交換した。しかし天吾には何も話すべきことがなかった。彼は観光地にも遊園地にも行ったことがなかった。日曜日は朝から夕方まで、父親とともに知らない家々のベルを押し、出てきた人に頭を下げて金を受け取った。払いたくないという相手がいれば、脅したりすかしたりした。理屈を言うものがいれば、論争になった。野良犬のように罵られることもあった。そんな体験談を級友の前で披露するわけにもいかない。
小学校の三年生のときに、彼の父親がNHKの集金人をしていることは、クラスでも周知の事実となった。たぶん父親と集金に歩いているところを、誰かに見られたのだろう。なにしろ毎週日曜日、朝から夕方まで父親の後ろについて市内をくまなく歩き回っているのだ。誰かに目撃されるのは当然の成り行きである(父親の陰に隠れるには、彼はもう大きくなりすぎていた)。それまで露見しなかったことの方がむしろ驚きだった。
そして彼は「NHK」というあだ名で呼ばれることになった。ホワイトカラーの中産階級の子供が集まっている社会では、彼は一種の「異人種」にならざるを得なかった。ほかの子供たちにとって当然であるものごとの多くが、天吾にとっては当然ではなかったからだ。天吾は彼らとは異なった世界に住み、違う種類の生活を送っていた。天吾は学校の成績は飛び抜けてよかったし、運動も得意だった。身体も大きく、力もあった。教師にも目をかけられていた。だから「異人種」であっても、クラスでのけ者になることはなかった。むしろ何ごとによらず一目置かれる存在だった。しかし今度の日曜日にどこかに行こう、うちに遊びに来いよ、と誰かに誘われても、それにこたえることができなかった。「今度の日曜日に友だちの家で集まりがあるんだけど」と父親に言ったところで、相手にされないことは最初からわかっている。悪いけど日曜日は都合が悪いんだと断るしかなかった。何度も断っているうちに、当然ながら誰にも誘われなくなった。気がつけば、彼はどこのグループにも属さず、いつもひとりぼっちだった。
日曜日には何があろうと、彼は父親とともに朝から夕方まで集金のルートをまわらなくてはならない。それは絶対的なルールで、そこには例外も変更の余地もなかった。風邪をひいて咳が止まらなくても、多少の熱があっても、お腹をこわしていても、父親はまず容赦してくれない。そんなとき、父親のあとをふらふらと歩きながら、このまま倒れて死んでしまえたらどんなにいいだろうとよく思った。そうすれば父親もおそらく少しは自分の行いを反省するだろう。子供にあまりにも厳しくしすぎたかもしれないと。しかし天吾は幸か不幸か、頑健な身体に生まれついていた。熱があっても、胃が痛んでも、吐き気がしても、倒れることも意識を失うこともなく、父親とともに長い集金ルートを歩き通した。泣きごとひとつ言わずに。
天吾の父親は終戦の年に、満州から無一文で引き揚げてきた。東北の農家の三男に生まれ、同郷の仲間たちとともに満蒙開拓団に入り満州に渡った。満州は王道楽土で、土地は広く肥沃で、そこに行けば豊かな暮らしを送れるという政府の宣伝を鵜呑みにしたわけではない。王道楽土なんてものがどこにもないことくらい、最初からわかっていた。ただ彼らは貧しく、飢えていた。田舎に留まっていても餓死寸前の暮らししかできなかったし、世の中はひどい不景気で失業者が溢れていた。都会に出たところでまともな仕事が見つかるあてもない。となれば満州に渡るくらいしか生き延びる道はなかった。有事の際は銃をとれる開拓農民として基礎訓練を受け、満州の農業事情についてのまにあわせの知識を与えられ、万歳三唱に送られて故郷をあとにし、大連から汽車で満蒙国境近くに連れていかれた。そこで耕地と農具と小銃を与えられ、仲間たちとともに農業を営んだ。石ころだらけのやせた土地で、冬には何もかもが凍り付いた。食べるものがないので野犬まで食べた。それでも最初の数年は政府からの援助もあり、なんとかそこで生き延びることはできた。
一九四五年八月、ようやく生活が落ちつきを見せ始めた頃、ソビエト軍が中立条約を破棄し、満州国に全面的に侵攻した。欧州戦線を終結させたソビエト軍は、大量の兵力をシベリア鉄道で極東に移動し、国境線を越えるための配備を着々と整えていた。父親はちょっとした縁で親しくなったある役人からそのような切迫した情勢をこっそり知らされ、ソビエト軍の侵攻を予期していた。弱体化した関東軍はとても持ちこたえられそうにないから、そうなったら身ひとつで逃げ出せるように準備をしておけと、その役人は彼に耳打ちしてくれた。逃げ足は速ければ速いほどいい、と。だからソ連軍が国境を破ったらしいというニュースを耳にするや否や、用意しておいた馬で駅に駆けつけ、大連に向かう最後から二番目の汽車に乗り込んだ。仲間のうちでその年のうちに無事に日本に帰り着けたのは彼一人だけだった。
戦後、父親は東京に出て闇商売をしたり、大工の見習いをしたりしたが、どれももうひとつうまくはいかなかった。一人で食いつないでいくのがやっとだった。一九四七年の秋、浅草で酒屋の配達の仕事をしているときに、満州時代の知り合いとたまたま道で出会った。日ソ開戦が近いという情報を耳打ちしてくれた例の役人だ。彼は出向して、満州国の郵政にかかわっていたのだが、今では日本に戻って古巣の逓信省に勤務していた。同郷ということもあったのだろう、またタフな働き者であることを知っていたのだろう、彼は天吾の父親に対して好感を抱いていたらしく、食事に誘った。
天吾の父親がまともな職を見つけられずに苦労していることを知って、NHKの集金の仕事をしてみる気はないかと、その役人は持ちかけた。その部署に親しい人間がいるから、口を利いてあげることはできる。そうしてもらえるとありがたいです、と父親は言った。NHKがどんなところかよく知らなかったが、定収入のある仕事ならなんでもよかった。役人が紹介状を書き、保証人にまでなってくれた。おかげで父親は簡単にNHKの集金人になることができた。講習を受け、制服を与えられ、ノルマを与えられた。人々はようやく敗戦のショックから立ち直り、困窮生活の中で娯楽を求めていた。ラジオが与えてくれる音楽や笑いやスポーツがもっとも身近で安価な娯楽となり、ラジオは戦前とは比べものにならないほど広く普及していった。NHKは聴取料を集めて回る現場の人間を大量に必要としていた。
天吾の父親は職務をきわめて熱心に果たした。彼の強みは身体が丈夫なこと、我慢強いことだった。なにしろ生まれてこの方、腹一杯食事をしたことがろくにないのだ。そんな人間にとって、NHKの集金業務はさして辛い仕事ではなかった。どれほど激しく罵声を浴びせかけられても、そんなものは知れたことだ。そしてたとえ末端であるとはいえ、巨大な組織に自分が属していることに彼は大きな満足を感じた。出来高払いの、身分保障のない委託集金人として一年ばかり働いたが、成績と勤務態度が優秀だったので、そのままNHKの正規集金職員として採用された。それはNHKの慣例からすれば異例の抜擢だった。とりわけ集金難度の高い地域で優れた成績をあげたということもあるが、そこにはもちろん保証人である逓信省の役人の威光が働いていた。基本賃金が定められ、そこに諸手当がついた。社宅に入り、健康保険に加入することもできた。ほとんど使い捨てに近い一般の委託集金人の待遇とは雲泥の差がある。それは彼がその人生において巡り合った最大の幸運だった。何はともあれ、ようやくトーテムポールの最下段に位置を定めることができたわけだ。
それが父親からいやというほど聞かされた話だった。父親は子守歌も歌わなかったし、枕元で童話を読んでもくれなかった。そのかわり自分がこれまで実際に体験してきたことを、繰り返し話して聞かせた。東北の貧しい小作農の家に生まれ、労働と殴打によって犬のように育てられ、開拓団の一員として満州に渡り、小便が途中で凍りつくような土地で、銃を取って馬賊や狼の群れを追い払いながら荒れ野を耕作し、ソビエトの戦車軍団から命からがら逃げ出し、シベリアの収容所に送られることもなく無事に帰国し、空きっ腹を抱えながら戦後のどさくさを生き延び、偶然の導きによって幸運にもNHKの正規集金人になるまでの話だ。NHKの集金人になるというのが、彼の物語における究極のハッピーエンドだった。そこで話はめでたしめでたしと終わった。
父親はそういう話をするのがなかなか上手だった。どこまでが事実なのか確かめようもないが、一応話の筋は通っていた。そして含蓄があるとまでは言えないが、細部が生き生きして、語り口は色彩に富んでいた。愉快な話があり、しんみりした話があり、乱暴な話があった。唖然とするような途方もない話があり、何度聞いてもよく呑み込めない話があった。もし人生がエピソードの多彩さによって計れるものなら、彼の人生はそれなりに豊かなものだったと言えるかもしれない。
ところがNHKの正規職員に採用されたあとのことになると、父親の話はなぜか急激に色彩とリアリティーを失なっていった。彼の語る話は細部を欠き、まとまりを欠いてきた。それは彼にとって語るに足りない後日談であるかのようだった。彼はある女性と知り合って結婚し、子供を一人もうける——それがつまりは天吾だ。そして母親は天吾を生んで数ヶ月後に、病を得てあっさり亡くなってしまう。それ以来彼は再婚することもなく、NHKの集金人として勤勉に働きながら、男手ひとつで天吾を育ててきた。そして今に至る。終わり。
彼がどのような経緯で天吾の母親と巡り合い、結婚することになったのか、それがどのような女性であったのか、死因がなんだったのか(彼女の死は天吾の出産に関連しているのだろうか)、彼女の死が比較的安らかなものであったのか、あるいは苦痛に満ちたものであったのか、そういうことになると父親はほとんど何ひとつ語らなかった。天吾が質問をしても、話をはぐらかして答えなかった。多くの場合、不機嫌になって黙り込んだ。母親の写真は一枚も残されていなかった。結婚式の写真もなかった。結婚式を挙げるような余裕はなかったし、写真機も持っていなかった、と父親は説明した。
しかし天吾は父親の話を基本的に信じなかった。父親は事実を隠し、話を作り替えている。母親は、天吾を産んで数ヶ月後に死んだわけではない。彼に残された記憶の中では、母親は彼が一歳半になるまで生きていた。そして天吾の眠っているそばで、父親以外の男と抱き合い、むつみ合っていたのだ。
[#ゴシック体]彼の母親はブラウスを脱ぎ、白いスリップの肩紐をはずし、父親ではない男に乳首を吸わせている。天吾はその隣で寝息をたてて眠っている。しかし同時に天吾は眠っていない。彼は母親の姿を見ている。[#ゴシック体終わり]
それが天吾にとっての母親の記念写真だった。その十秒ばかりの情景は彼の脳裏にはっきりと焼きついている。それは彼が手にしている、母親についてのたったひとつの具体的な情報だった。天吾の意識はそのイメージを通して辛うじて母親に通じている。仮説的なへその緒で結びつけられている。彼の意識は記憶の羊水に浮かび、過去からのこだまを聞きとっている。しかし父親は、天吾がそんな光景を鮮明に頭に焼きつけていることを知らない。彼がその情景の断片を野原の牛のようにきりなく反芻《はんすう》し、そこから大事な滋養を得ていることを知らない。父子はそれぞれに深く暗く秘密を抱き合っている。
気持ちよく晴れた日曜日の朝だった。しかし吹く風は冷ややかさを含み、四月の半ばとはいえ、季節が簡単に逆戻りしてしまうことを教えている。天吾は黒い薄手の丸首セーターの上に、学生時代からずっと着ているヘリンボーンのジャケットを着て、ベージュのチノパンツに、茶色のハッシュパピーを履いていた。靴は比較的新しいものだ。それが彼にできるいちばんござつばりした格好だった。
天吾が中央線新宿駅の立川方面行きプラットフォームのいちばん前に着いたとき、ふかえりは既にそこにいた。彼女は一人でベンチに座り、身動きひとつせず、目を細めて宙を見つめていた。どう見ても夏物としか思えないプリント地のコットンのワンピースの上に、分厚い冬物の草色のカーディガンを着て、素足に色あせたグレーのスニーカーを履いていた。この季節としてはいささか不思議な組み合わせだった。ワンピースは薄すぎるし、カーディガンは厚すぎる。しかし彼女がそういうかっこうをしていると、違和感はとくに感じられなかった。そのような[#傍点]そぐわなさ[#傍点終わり]によって、彼女は自分なりの世界観を表現しているのかもしれない。そう見えなくもなかった。しかしたぶん何も考えずに、ただでたらめに服を選んでいるだけだろう。
彼女は新聞も読まず、本も読まず、ウォークマンも聴かず、ただ静かにそこに座って、大きな黒い目でじっと前方を眺めていた。何かを見つめているようでもあり、まったく何も見ていないようでもあった。何かを考えているようでもあり、まったく何も考えていないようでもあった。遠くから見ると、特別な素材を使ってリアリスティックにつくられた彫刻のように見えた。
「待った?」と天吾は尋ねた。
ふかえりは天吾の顔を見て、それからほんの数センチ首を横に振った。その黒い目には絹のような鮮やかなつやがあったが、前に会ったときと同じように表情はまるで見受けられなかった。今のところ、彼女は誰ともあまり口をききたくないように見えた。だから天吾も会話を続けようという努力は放棄し、何も言わずベンチの彼女のとなりに腰をおろした。
電車がやってくると、ふかえりは黙って立ち上がった。そして二人はその電車に乗り込んだ。休日の高尾行きの快速には乗客の姿は少なかった。天吾とふかえりは並んで座席に座り、向かい側の窓の外を過ぎていく都会の情景を無言のまま眺めた。ふかえりは相変わらず口をきかなかったので、天吾も沈黙をまもっていた。彼女はこれからやってくるであろう厳しい寒さに備えるように、カーディガンの襟をしっかりとあわせ、正面を向いて唇をまっすぐに結んでいた。
天吾は持ってきた文庫本を取り出して読みかけたが、少し迷ってやめた。彼は文庫本をポケットに戻し、ふかえりにつきあうようなかっこうで、両手を膝の上に置き、ただぼんやり前方に目をやった。考えごとをしようかと思ったが、考えるべきことをひとつとして思いつけなかった。しばらく『空気さなぎ』の書き直しに集中していたせいで、頭がまとまった何かを考えることを拒否しているらしい。頭の芯にもつれた糸のようなかたまりがある。
天吾は風景が窓の外を流れていくのを眺め、レールの立てる単調な音に耳を澄ませていた。中央線はまるで地図に定規で一本の線を引いたように、どこまでもまっすぐ延びている。いや、[#傍点]まるで[#傍点終わり]とか[#傍点]ように[#傍点終わり]とか断るまでもなく、当時の人々はきっと実際にそうやってこの路線をこしらえたのだろう。関東平野のこのあたりには語るに足る地勢的障害物がひとつもない。だから人が感知できるようなカーブも高低もなく、橋もなければトンネルもないという路線ができあがった。定規が一本あれば事足りる。電車は目的地に向けて一直線にひた走っていくだけだ。
どのあたりからだろう、知らないうちに天吾は眠っていた。振動を感じて目を覚ましたとき、電車はスピードを徐々に緩めて荻窪の駅に停まりかけているところだった。短い眠りだ。ふかえりは前と同じ姿勢のまま正面をじっと見ていた。でも彼女が実際にどんなものを見ているのか、天吾にはわからない。ただその何かに集中しているような雰囲気からすると、まだしばらくは電車を降りるつもりはないらしい。
「君はいつもどんな本を読んでいるの?」、天吾は退屈さに耐えかねて、電車が三鷹を過ぎたあたりでそう尋ねてみた。それはいつかふかえりに尋ねてみたいと思っていたことだった。
ふかえりは天吾をちらりと見て、それからまた顔を正面に向けた。「ホンはよまない」と彼女は簡潔に答えた。
「ぜんぜん?」
ふかえりは短く肯いた。
「本を読むことに興味がないの?」と天吾は尋ねた。
「よむのにじかんがかかる」とふかえりは言った。
「読むのに時間がかかるから本を読まない?」と天吾はよくわからず聞き返した。
ふかえりは正面を向いたままとくに返事は返さなかった。それはどうやら[#傍点]あえて否定はしない[#傍点終わり]という意思表明であるらしかった。
もちろん一般的に言って、一冊の本を読むにはそれなりの時間がかかる。テレビを見るのや、漫画を読むのとは違う。読書というのは比較的長い時間性の中で行われる継続的な営為だ。しかしふかえりの「時間がかかる」という表現には、そのような一般論とはいくぶん違うニュアンスが込められているようだった。
「時間がかかるというのは、つまり……、[#傍点]すごく[#傍点終わり]時間がかかるってこと?」と天吾は尋ねた。
「[#傍点]すごく[#傍点終わり]」とふかえりは断言した。
「普通の人より遥かに長く?」
ふかえりはこっくりと肯いた。
「じゃあ、学校でも困るんじゃないの? 授業でいろんな本を読まなくちゃならないだろうし。もしそんなに時間がかかるとしたら」
「よんでいるふりをする」と彼女はこともなげに言った。
天吾の頭のどこかで不吉なノックの音が聞こえた。そんな音はできることなら聞こえなかったことにしてやり過ごしてしまいたかったが、そういうわけにもいかない。彼は事実を知らなくてはならない。
天吾は質問した。「君が言ってるのはつまり、いわゆるディスレクシアみたいなことなのかな?」
「ディスレクシア」とふかえりは反復した。
「読字障害」
「そういわれたことはある。ディス——」
「誰に言われたの?」
その少女は小さく肩をすぼめた。
「つまり——」と天吾は手探りをするように言葉を求めた、「小さいときからずっとそうだったの?」
ふかえりは肯いた。
「ということは、これまで小説みたいなものもほとんど読んでこなかったわけだ」
「じぶんでは」とふかえりは言った。
それで彼女の書くものが、どんな作家の影響も受けていないことの説明はつく。筋の通った立派な説明だ。
「自分では読まなかった」と天吾は言った。
「だれかがよんでくれた」とふかえりは言った。
「お父さんとかお母さんが声に出して本を読んでくれた?」
ふかえりはそれには答えなかった。
「でも読めなくても、書く方は大丈夫なんだね」、天吾は恐る恐る尋ねた。
ふかえりは首を振った。「かくこともじかんがかかる」
「[#傍点]すごく[#傍点終わり]時間がかかる?」
ふかえりはまた小さく肩をすぼめた。イエスということだ。
天吾はシートの上で座り直し、身体の位置を変えた。「ということはひょっとして、『空気さなぎ』は君が自分で文章を書いたわけじゃないんだ」
「わたしはかいていない」
天吾は数秒の間を置いた。重みのある数秒間だった。「じゃあ誰が書いたの?」
「アザミ」とふかえりは言った。
「アザミって誰?」
「ふたつ[#傍点]としした[#傍点終わり]」
もう一度短い空白があった。「その子が君のかわりに『空気さなぎ』を書いた」
ふかえりはごく当り前に肯いた。
天吾は懸命に頭を働かせた。「つまり、君が物語を語って、それをアザミが文章にした。そういうこと?」
「タイプしてインサツした」とふかえりは言った。
天吾は唇を噛み、提示されたいくつかの事実を頭の中に並べ、前後左右を整えた。それから言った、「つまりアザミが、そのインサツしたものを雑誌の新人賞に応募したんだね。おそらく君には内緒で、『空気さなぎ』というタイトルをつけて」
ふかえりはイエスともノーともつかない首の傾げ方をした。しかし反論はなかった。おおむねそれで合っているということなのだろう。
「アザミというのは君の友だち?」
「いっしょにすんでいる」
「君の妹なの?」
ふかえりは首を振った。「センセイのこども」
「先生」と天吾は言った。「その[#傍点]先生[#傍点終わり]も、君と一緒に暮らしているということ?」
ふかえりは肯いた。今更どうしてそんなことを訊くのか、という風に。
「僕が今から会いに行こうとしているのが、きっとその先生なんだろうね」
ふかえりは天吾の方を向き、遠くの雲の流れを観察するような目でひとしきり彼の顔を見た。あるいは覚えの悪い犬の使いみちを考えているような目で。それから肯いた。
「わたしたちはセンセイにあいにいく」と彼女は表情を欠いた声で言った。
会話はそこでとりあえず終了した。天吾とふかえりはまたしばらく口を閉ざし、二人並んで車窓の外を眺めていた。のっぺりとした平板な土地に、これという特徴のない建物が、どこまでも際限なく立ち並んでいる。無数のテレビ・アンテナが、虫の触角のように空に向けて突き出している。そこに暮らす人々はNHKの受信料をちゃんと払っているのだろうか。日曜日には天吾は何かにつけて受信料のことを考えてしまう。そんなこと考えたくなんかないのだが、考えないわけにはいかない。
今日、このよく晴れた四月半ばの日曜日の朝に、いくつかのあまり愉快とは言い難い事実が明らかになった。まず第一にふかえりは自分で『空気さなぎ』を書いたのではない。彼女が言うことをそのまま信じるなら(信じてはいけない理由は今のところ思いつけない)、ふかえりはただ物語を語り、別の女の子がそれを文章にした。成立過程としては『古事記』とか『平家物語』といった口承文学と同じだ。その事実は天吾が『空気さなぎ』の文章に手を入れることの罪悪感をいくらか軽減してはくれたものの、全体として見れば事態をさらに——はっきり言えば抜き差しならないほど——複雑化させていた。
そして彼女は読字障害を抱えており、本をまともに読むことができない。天吾はディスレクシアについて持っている知識を整理してみた。大学で教職課程をとったときに、その障害についてレクチャーを受けた。ディスレクシアは原理的には読み書きはできる。知能は問題ないとされる。しかし読むのに時間がかかる。短い文章を読むぶんには支障はないが、それが積み重なって長いものになると、情報処理能力が追いつかなくなる。文字とその表意性が頭の中でうまく結びつかないのだ。それが一般的なディスレクシアの症状だ。原因はまだ完全には解明されていない。しかし学校のクラスの中にディスレクシアの子供が一人か二人いたとしても、決して驚くべきことではない。アインシュタインもそうだったし、エジソンもチャーリー・ミンガスもそうだった。
読字障害を持った人が文章を書くことにおいても、文章を読むときと同じような困難さを一般的に感じるのかどうか、天吾は知らない。しかしふかえりのケースについて言えば、どうやらそういうことらしい。彼女は書くことについても、読むのと同じ程度の困難さを覚えている。
このことを知ったら、小松はいったいなんと言うだろう。天吾は思わずため息をついた。この十七歳の少女には生まれつきの読字障害があり、本を読むことも、長い文章を書くこともおぼつかない。会話をするときにも(意図的にそうしているのでないとしたら)だいたい一度にひとつのセンテンスしかしゃべれない。たとえかっこうだけにせよ、それをプロの小説家に仕立て上げるなんて、どだい無理な相談だ。たとえ天吾が『空気さなぎ』をうまく書き直し、作品が新人賞をとり、出版されて評価されたとしても、世間の目を欺き続けることはできない。最初はうまくいっても、そのうちに「何かおかしい」と人々は考え始めるに決まっている。もしそこで事実が露見したら、関係者全員がきれいに首を揃えて破滅することになるだろう。天吾の小説家としてのキャリアもまたそこで——まだろくすっぽ始まってもいないうちから——あっさり命脈を断たれてしまう。
だいたいこんな欠陥だらけの計画がうまく運ぶわけがないのだ。最初から薄氷を踏むようなものだと思っていたが、今となってはそんな表現だって生やさし過ぎる。足を乗せる前から既に氷はみしみしと音を立てている。うちに帰ったら小松に電話をかけて、「すみません、小松さん、この件から僕は手を引きます。あまりにも危険すぎる」と言うしかない。それがまっとうな神経を持ち合わせた人間のやることだ。
しかし『空気さなぎ』という作品について考え出すと、天吾の心は激しく混乱し、分裂した。小松の立てた計画がどれほど危なっかしいものであれ、『空気さなぎ』の改稿をここでやめてしまうことは、天吾にはできそうになかった。書き直しに入る前であれば、あるいはできたかもしれない。しかしもう無理だ。彼は今ではその作品に首まではまり込んでいた。その世界の空気を呼吸し、その世界の重力に同化していた。その物語のエキスは彼の内臓の壁にまで染み込んでいた。その物語は天吾の手による改変を切実に求めていたし、彼はその求めをひしひしと感じ取ることができた。それは天吾にしかできないことであり、やるだけの価値のあることであり、[#傍点]やらなくてはならないこと[#傍点終わり]だった。
天吾は座席の上で目を閉じ、このような状況に自分がどう対処すればいいのかとりあえずの結論を出そうと試みた。しかし結論は出なかった。混乱し分裂した人間に筋の通った結論なんて出せるわけがない。
「アザミは、君が話すことをそのまま文章にするの?」と天吾は尋ねた。
「はなすとおりに」とふかえりは答えた。
「君は話し、彼女がそれを書く」と天吾は尋ねた。
「でもちいさなコエではなさなくてはならない」
「どうして小さな声で話さなくてはならないんだろう?」
ふかえりは車内を見まわした。ほとんど乗客はいなかった。母親と小さな二人の子供が、向かいの座席の少し離れたところに座っているだけだ。三人はどこか楽しいところに出かける途中のように見えた。世の中にはそういう幸福な人々も存在するのだ。
「[#傍点]あのひとたち[#傍点終わり]にきかれないように」とふかえりは小さな声で言った。
「あの人たち?」と天吾は言った。彼女の焦点が定まらない目を見れば、それがその母子の三人連れを指しているのでないことは明らかだった。ここにはいない、彼女のよく知っている——そして天吾の知らない——具体的な誰かのことをふかえりは話しているのだ。
「あの人たちって誰のこと?」と天吾は尋ねた。彼の声もいくらか小さくなっていた。
ふかえりは何も言わず、眉のあいだに小さなしわを寄せた。唇は堅く結ばれていた。
「リトル・ピープルのこと?」と天吾は質問した。
やはり返事はない。
「君の言う[#傍点]あの人たち[#傍点終わり]は、もし物語が活字になって世間に公表され、話題になったりしたら、そのことで腹を立てるのかな?」
ふかえりはその質問にも答えなかった。目の焦点はやはりどこにも結ばれていない。しばらく待って返事がないことを確認してから、天吾は別の質問をした。
「君の言うセンセイについて教えてくれないかな。どんな人なんだろう」
ふかえりは不思議そうな顔で天吾を見た。この人は何を言っているのだろうという風に。それから言った。「これからセンセイにあう」
「たしかに」と天吾は言った。「たしかにそのとおりだ。どうせこれから会うんだ。直接会って自分で確かめればいい」
国分寺駅で登山のかっこうをした老人のグループが乗り込んできた。全部で十人ばかりで、男女が半分ずつ、年齢は六十代後半から七十代前半のあいだに見えた。それぞれにリュックを背負い帽子をかぶり、遠足に出かける小学生のように賑やかで楽しそうだった。彼らは水筒を腰に付けたり、リュックのポケットに入れたりしていた。年をとったら自分もあんな風に楽しそうになれるのだろうか、と天吾は考えた。それから小さく首を振った。いや、たぶん無理だろう。天吾は老人たちがどこかの山頂で得意そうに水筒から水を飲んでいる光景を想像した。
[#ここから1字下げ]
リトル・ピープルは小さな体のくせにとてもたくさんの水を飲む。そして彼らが好むのは水道の水ではなく、雨水であり、近くの小川を流れている水だった。だから少女は昼間のうちに小川からバケツに水を汲んできて、それをリトル・ピープルに飲ませた。雨が降れば、雨樋の下にバケツを置いて溜めておいた。リトル・ピープルは同じ自然の水でも、小川の水よりは雨水を好んだからだ。彼らはそのような少女の親切なおこないに感謝した。
[#ここで字下げ終わり]
天吾は、意識をひとつに保っているのがむずかしくなっていることに気づいた。よくない徴候だ。たぶん今日が日曜日であるせいだ。彼の中である種の混乱が始まっていた。感情の平原のどこかで不吉な砂嵐が発生しようとしていた。日曜日には時々そういうことが起こる。
「どうかした」とふかえりが疑問符抜きで尋ねた。彼女には天吾の感じている緊張が察知できるようだ。
「うまくできるだろうか」と天吾は言った。
「なにが」
「僕はうまく話すことができるだろうか?」
「うまくはなすことができる」とふかえりは尋ねた。彼が何を言おうとしているのか、よく理解できないようだった。
「センセイと」と天吾は言った。
「センセイとうまくはなせるか」とふかえりが反復した。
天吾は少し迷ってから、気持ちを打ち明けた。「結局、いろんなことがうまくかみあわず、何もかも駄目になってしまうような気がする」
ふかえりは身体の向きを変え、天吾の顔を正面からまっすぐ見た。「なにがこわい」と彼女は尋ねた。
「僕は何を恐れているか?」と天吾は彼女の質問を言い換えた。
ふかえりは黙って肯いた。
「新しい人に会うことが怖いのかもしれない。とりわけ日曜日の朝に」と天吾は言った。
「どうしてニチヨウ」とふかえりは尋ねた。
天吾はわきの下に汗をかき始めていた。胸がきつくしめつけられる感覚があった。新しい誰かに会うこと、そして新しい何かがもたらされること。それによって自分の今ある存在が脅かされること。
「どうしてニチヨウ」とふかえりはもう一度尋ねた。
天吾は少年時代の日曜日のことを思い出した。予定していた集金のルートを一日かけて回り終えると、父親は彼を駅前の食堂に連れて行き、なんでも好きなものを注文していいと言った。それはご褒美《ほうび》のようなものだった。つつましい生活を送っていた二人にとってはほとんど唯一の外食の機会である。父親はそこでは珍しくビールを頼んだ(父親はいつもはほとんど酒を口にしなかった)。しかしそう言われても、天吾は食欲をまったく感じなかった。普段はいつも腹を空かせていたのだが、日曜日に限っては何を食べてもなぜかうまいとは思わなかった。注文したものを残さずに食べるのは——食べ残すことは絶対に許されなかった——苦痛でしかなかった。思わず吐きそうになることもあった。それが少年時代の天吾にとっての日曜日だった。
ふかえりは天吾の顔を見た。彼の目の中にあるものを探った。それから片手を伸ばし、天吾の手をとった。天吾は驚いたが、驚きを顔に出さないように努めた。
電車が国立駅に到着するまで、ふかえりはそのまま彼の手を軽く握り続けていた。彼女の手は思ったより硬く、さらりとしていた。熱くもなく、冷たくもない。その手は天吾の手のおおよそ半分の大きさしかなかった。
「こわがることはない。いつものニチヨウじゃないから」と少女は誰もが知っている事実を告げるように言った。
彼女が二つ以上のセンテンスを同時に口にしたのはこれが初めてかもしれない、と天吾は思った。