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1Q84 (1-13)
日期:2018-10-13 21:53  点击:705
第13章 青豆
      生まれながらの被害者
 
 
 目が覚めたとき、かなり深刻な二日酔いの状態にあることがわかった。青豆が二日酔いになることはまずない。どれだけ飲んでも翌朝は頭がすっきりして、すぐに次の行動に移ることができる。それが自慢だった。しかし今日に限ってはなぜかこめかみが鈍く痙き、意識にうっすらと霞がかかっている。頭のまわりに、鉄の輪でじわじわと締めつけられるような感覚があった。時計の針はもう十時をまわっている。昼に近い朝の光が、針で刺すように目の奥を痛めた。前の通りを走り過ぎていくバイクのエンジン音が、拷問機械のうなりを部屋に響かせた。
 何も身につけない裸で自分のベッドに寝ていたが、どうやってうちまで戻ってきたのか、まったく覚えていない。床の上には昨夜着ていた服がひととおり、乱暴に脱ぎ捨ててあった。どうやら自分でむしり取るように脱いだものらしかった。ショルダーバッグは机の上に載っている。彼女は床に散らばった着衣をまたぐようにして台所まで行き、水道の水をグラスに何杯か続けざまに飲んだ。それから浴室に行って冷たい水で顔を洗い、裸の身体を大きな鏡に映してみた。隅々までじっくりと点検したが、身体には何のあとも残っていない。彼女は安堵の息をついた。よかった。それでも激しいセックスをした翌朝のいつもの感触が、下半身にかすかに残っていた。身体の奥までひっかきまわされたような甘いだるさ。それから肛門にも微かな違和感があることに気がついた。まったくもう、と青豆は思った。そして指先でこめかみを押さえた。あいつら、そっちの方までやったのか。でも悔しいことに何も覚えていない。
 どんよりと白濁した意識を抱えたまま、壁に手をついて熱いシャワーを浴びた。全身を石鹸でごしごしと洗い、昨夜の記憶を——記憶に近い名前のない何かを——身体から消し去った。性器と肛門はとりわけ丹念に洗った。髪も洗った。歯磨きペーストのミント臭に辟易しながら歯を磨き、口の中のもったりとした匂いを消した。それから寝室の床から下着やストッキングをひと揃い拾いあげ、目を背けるようにして洗濯もののかごに放り込んだ。
 テーブルの上のショルダーバッグの中身を点検してみた。財布はちゃんとそこにあった。クレジット・カードも銀行のカードも揃っている。財布の中の金はほとんど減っていない。彼女が昨夜支払った現金は、どうやら帰りのタクシー代だけらしい。バッグの中からなくなっているのは用意しておいたコンドームだけだ。数えてみると四個少なくなっている。四個? 財布の中には折りたたまれたメモ用紙が入っていて、そこには都内の電話番号が書いてあった。しかし誰の電話番号なのか、皆目覚えがない。
 もう一度ベッドに転がるように横になり、昨夜の成り行きについて、思い出せる限りのことを思い出した。あゆみが男たちのテーブルに行って、にこやかに話をつけ、四人で酒を飲み、みんな良い気持ちになった。あとはお決まりのコースだ。近くのシティー・ホテルに部屋を二つ予約する。青豆は取り決めどおり髪の薄い方とセックスをした。あゆみは若い大柄な方をとった。セックスはなかなか悪くなかった。二人で一緒に風呂に入って、それから長い念入りなオーラル・セックス。挿入の前にはコンドームも怠りなくつけた。
 一時間ばかりあとで部屋に電話がかかってきて、これからそちらに行ってもいいかなとあゆみが言った。ちょっとまたみんなで飲もうよ。いいよ、と青豆は言った。少し後であゆみと、彼女の相手の男がやってきた。そしてルームサービスでウィスキーのボトルと氷をとり、四人でそれを飲んだ。
 そのあとのことがうまく思い出せない。もう一度四人になってから、急に酔いがまわったみたいだった。ウィスキーのせいだろうか(青豆は普段はあまりウィスキーを飲まない)、あるいはいつもとは違って男と二人きりではなく、隣りに相棒がいたので、どこか油断する気持ちがあったのだろうか。そのあと相手を交換して、もう一度セックスしたような漠然とした記憶がある。私がベッドで若い方に抱かれて、あゆみは髪の薄い方とソファでやった。たしかそうだった。それから……そのあとは深い霧の中にある。何も思い出せない。まあ、それはいい。思い出せないまま忘れてしまおう。私は羽目をはずして思いきりセックスをしたのだ。それだけのことだ。この先あいつらとまた顔を合わせることもないだろうし。
 でも二度目のとき、コンドームはちゃんとつけたんだろうか? それが青豆の心にかかることだった。こんなつまらないことで妊娠したり、性病をもらったりするわけにはいかない。でもたぶん大丈夫だ。私はどんなにひどく酔っぱらっていても、意識があやふやになっても、そういうところはきちんとしているから。
 今日は何か仕事の予定が入っていたっけ? 仕事はない。今日は土曜日で、仕事は入れていない日だ。いや、違う。そうじゃない。午後三時に麻布の「柳屋敷」に行って、老婦人の筋肉ストレッチングをすることになっている。病院に何かの検査に行かなくてはならないから、金曜日の予定を土曜日に変更してもらえまいか、という連絡が数日前にタマルからあった。そのことをすっかり忘れていた。でも午後の三時までにはあと四時間半余裕がある。そのころまでには頭痛も消えて、意識ももっとはっきりしているはずだ。
 熱いコーヒーを作って、むりやりに何杯も胃の奥に流し込んだ。それから裸にバスローブを羽織っただけのかっこうでベッドに仰向けになり、天井を眺めて午前中を過ごした。何をする気にもなれない。ただ天井を眺めているしかない。天井には面白いところはひとつもなかったが、文句は言えない。天井は人を面白がらせるためにそこについているわけではない。時計が正午を指したが、食欲はまったく起きなかった。バイクや車のエンジン音がまだ頭に響く。これほど本格的な二日酔いは初めてだ。
 しかしそれでも、セックスは彼女の身体に良い影響を与えたようだった。男に抱かれ、裸の身体を見つめられ、撫で回され、舐められ、噛まれ、ペニスを挿入され、オーガズムを何度か体験したことで、身体の中にあった[#傍点]わだかまり[#傍点終わり]のようなものがうまくほどけていた。二日酔いはもちろんつらいが、それを補ってあまりある解放感がそこにはあった。
 しかしいつまで私はこんなことを続けていくのだろう、と青豆は思った。いったいいつまでこんなことを[#傍点]続けられる[#傍点終わり]のだろう? 私はもうすぐ三十だ。そのうちに四十が視野に入ってくるだろう。
 でもその問題についてそれ以上考えるのはやめた。またいつかべつのときにゆっくり考えよう。今のところ差し迫った期限に迫られているわけでもない。そんなことを真剣に考えるには、私は——
 そこで電話のベルが鳴った。それは青豆の耳には轟音に聞こえた。トンネルを抜けていく特急列車に乗っているみたいだ。彼女はよろよろとベッドを出て、受話器をとった。壁の大きな時計は十二時半を指している。
「青豆さん?」と相手は言った。少しハスキーな女の声。あゆみだった。
「そう」と青豆は言った。
「大丈夫? ついさっきバスにひかれたみたいな声だけど」
「それに近いかもしれない」
「二日酔い?」
「うん、かなりひどいやつ」と青豆は言った。「どうしてうちの電話番号がわかったの?」
「覚えてないの? 電話番号を書いて私にくれたじゃない。また近いうちに会おうって言って。私の電話番号もそっちのお財布に入っているはずだけど」
「そうだっけ。なんにも覚えてない」
「うん。ひょっとしてそうじゃないかって気がしたんだ。だから心配で電話してみた」とあゆみは言った。「無事におうちに帰れたかなと思って。いちおう六本木の交差点からタクシーに乗っけて行き先は言ったんだけど」
 青豆はため息をついた。「記憶はないけど、たどり着けたみたいね。目が覚めたらうちのベッドの中にいたから」
「よかった」
「あなたは今何をしているの?」
「仕事をしているよ、ちゃんと」とあゆみは言った。「十時からミニパトに乗って駐車違反の取り締まりをしていた。今は一休みしてるところ」
「大したものね」と青豆は感心して言った。
「さすがにちょっと寝不足だけどね。でもさ、ゆうべは楽しかったよ。あんなに盛り上がったの初めてだったな。青豆さんのおかげよね」
 青豆は指でこめかみを押さえた。「実を言うと、後半部分のことをあまりよく覚えてないんだ。つまり、あなたたちがこっちの部屋に来てからのことは」
「ふうん。それはもったいないな」とあゆみは真面目な声で言った。「あれからけっこうすごかったんだよ。四人でいろんなことやってさ。嘘みたいなこと。ポルノ映画みたいなやつ。私と青豆さんも、裸でレズの真似ごともやったしさ。あとはね……」
 青豆はあわてて話を遮った。「それはいいけど、コンドームはちゃんとつけてたかしら? よく覚えてないんで、それが心配だったんだ」
「もちろん。そういうところは、私がいちいち厳しく点検しておいたから大丈夫。なにしろ私は交通違反を取り締まる傍ら、区内の高校をまわって、女子生徒を講堂に集めてコンドームの正しいつけ方みたいなことを、けっこうこと細かに指導しているくらいだから」
「コンドームの付け方?」と青豆は驚いて言った。「どうしてまた警察がそんなことを高校生に教えるの?」
「もともとはデート・レイプの危険性とか、痴漢への対処とか、性犯罪の防止方法とか、学校をまわってそういう広報をするのが目的なんだけど、そのついでにというか、私個人のメッセージとして、そのへんを付け加えちゃうわけ。セックスをしちゃうのはある程度しょうがないから、妊娠と性病にだけはしっかり気をつけましょうね、みたいなこと。まあ、先生たちの手前そこまではっきりとは言わないけどね。だから、そのへんはもう職業的本能みたいになっているわけ。どれだけお酒が入っていても、決して怠りはないよ。ぜんぜん心配しなくていい。青豆さんはぴかぴかにクリーンだよ。コンドームのないところに挿入はない。それが私のモットー」
「ありがとう。それを聞いてほっとした」
「ねえ、私たちがゆうべどんなことしたか、詳しく聞きたくない?」
「また今度ね」と青豆は言った。そして肺の中にたまっていたもったりした空気を外に吐き出した。「いつかまた詳しく聞かせて。でも今はだめ。そんな話をされただけで、頭がぱっくりと二つに割れちゃいそう」
「わかった。また今度ね」とあゆみは明るい声で言った。「でもさ、青豆さん、今朝目が覚めてからずっと考えてたんだけどさ、私たちっていいチームが組めそうじゃない。また電話してかまわないかな? つまり、昨日みたいなことをしたくなったらってことだけど」
「いいよ」と青豆は言った。
「よかった」
「電話をしてくれてありがとう」
「お大事にね」とあゆみは言って電話を切った。
 
 午後の二時には、ブラック・コーヒーとうたた寝のおかげで、意識はずっとましになっていた。ありがたいことに頭痛も消えている。微かなだるさが身体に残っているだけだ。青豆はジムバッグを持って家を出た。もちろん特製のアイスピックは入っていない。着替えとタオルが入っているだけだ。いつものようにタマルが玄関で彼女を迎えた。
 青豆は細長いかたちのサンルームに通された。大きなガラス窓が庭に向かって開いているが、レースのカーテンが引かれ、外からは見えないようになっている。窓際には観葉植物が並んでいた。天井の小さなスピーカーからは穏やかなバロック音楽が流れていた。ハープシコードの伴奏のついたリコーダー・ソナタだ。部屋の中央にはマッサージ用のベッドが置かれ、その上に老婦人が既にうつぶせになっていた。彼女は白いローブを着ていた。
 タマルが部屋を出て行くと、青豆は身体を動かすときのかっこうに着替えた。青豆が服を脱いでいく様子を、老婦人は台の上から首を曲げて眺めていた。青豆は裸の身体を同性に見られていてもとくに気にしない。スポーツ選手をしていればそんなことは日常茶飯事だし、老婦人だってマッサージを受けるときはほとんど裸に近いかっこうになる。そのほうが筋肉の具合を確かめやすいからだ。青豆はコットンパンツとブラウスを脱ぎ、ジャージの上下を着込んだ。それから脱いだ服を畳み、部屋の隅に重ねて置いた。
「あなたはとてもひきしまった身体をしています」と老婦人は言った。そして身体を起こしてローブをとり、薄い絹の上下だけになった。
「ありがとうございます」と青豆は言った。
「私も昔はそういう身体をしていました」
「わかります」と青豆は言った。本当にそうだろうと青豆は思った。七十代を迎えた今でも、彼女の身体には若い当時の面影がしっかりと残っていた。体型は崩れていないし、乳房にもそこそこの張りがあった。節制した食事と、日常の運動が彼女の中の自然な美しさを保っていた。そこにはまた適度な美容整形手術も加わっているはずだ、と青豆は推測する。定期的なしわ取りと、目元と口元のリフトアップ。
「今でも素敵な身体をされています」と青豆は言った。
 老婦人は軽く唇を曲げた。「ありがとう。でも昔とは比べものにならない」
 青豆はそれには返事をしなかった。
「その身体を私はずいぶん楽しんだし、相手もずいぶん楽しませました。私の言いたいことはわかるでしょう?」
「わかります」
「どう、あなたは楽しんでいますか?」
「ときどき」と青豆は言った。
「ときどきでは足りないかもしれない」と老婦人はうつぶせになったまま言った。「そういうことは若いあいだにしっかり楽しんでおかないといけない。心ゆくまでね。年取ってそういうことができなくなってからは、昔の記憶で身体を温めることになりますから」
 青豆は昨夜のことを思い出した。彼女の肛門にはまだかすかに挿入感が残っている。そんな記憶が果たして老後の身体を温めてくれるものだろうか?
 青豆は老婦人の身体に手を置き、筋肉ストレッチングを念入りに始めた。さっきまで少し残っていた身体のだるさも今では消えていた。ジャージの上下に着替え、老婦人の身体に指を触れたときから、彼女の神経は明瞭に研ぎすまされた。
 青豆は地図の道筋を辿るように、老婦人の筋肉をひとつひとつ指先で確かめていった。それぞれの筋肉の張り具合や、硬さや、反発の度合いを、青豆は細かく記憶していた。ピアニストが長い曲を暗譜してしまうのと同じだ。こと身体に関しては、そういう綿密な記憶力が青豆には具わっている。仮に彼女が忘れたとしても、指先が記憶している。どこかの筋肉に少しでもいつもと違う感触があれば、彼女はそこに様々な角度から、様々な強さの刺激を与えた。そしてどんな反応が返ってくるかを確かめた。そこに生じるのが痛みなのか、快感なのか、あるいは無感覚なのか。こわばって詰まっている部分は、単にほぐすだけではなく、老婦人が自分の力でその筋肉を動かせるように指導した。もちろん自らの力だけでは解消しづらい部分もある。そういうところは念入りにストレッチする。しかし筋肉が何よりも評価し歓迎するのは、日常的な自助努力なのだ。
「ここは痛みますか?」と青豆は尋ねた。腿の付け根部分の筋肉がいつもよりずっとこわばっている。意地悪いほど硬直している。彼女は骨盤の隙間に手を入れて、太腿を特別な角度に少しだけ曲げた。
「とても」と老婦人は顔を歪めながら言った。
「けっこうです。痛みを感じるのは良いことです。痛みを感じなくなったら、まずいことになります。もう少し痛みますが、我慢できますか?」
「もちろん」と老婦人は言った。いちいち尋ねるまでもない。老婦人は我慢強い性格だった。大抵のことは黙して耐える。顔は歪めても悲鳴は上げない。彼女のマッサージを受けて、大きな強い男たちが思わず悲鳴を上げるのを、青豆はこれまで何度も見てきた。だから老婦人の意志の強さにはいつも感服しないわけにはいかなかった。
 青豆は右手の肘を挺子《てこ》の支点のように固定し、老婦人の太腿を更に曲げた。ごきっという鈍い音が聞こえ、関節が移動した。老婦人が息を呑んだ。しかし声は出ない。
「これであとは大丈夫です」と青豆は言った。「楽になります」
 老婦人は大きく息を吐いた。額に汗が光っていた。「ありがとう」と彼女は小さな声で言った。
 たっぷり一時間かけて、青豆は老婦人の身体を徹底的にほぐし、筋肉を刺激し、引きのばし、関節を緩めた。それはかなりの痛みを伴うものだった。しかし痛みのないところに解決はない。青豆はそれを知っていたし、老婦人もそれを知っていた。だから二人はほとんど無言のまま、その一時間を過ごした。リコーダー・ソナタはいつの間にか終わり、コンパクトディスク・プレーヤーは沈黙していた。庭にやってくる鳥の声のほかには何も聞こえなかった。
「ずいぶん身体が軽くなったような気がします」としばらく経ってから老婦人が言った。彼女はぐったりとうつぶせになっていた。マッサージ用のベッドの上に敷かれた大きなバスタオルが汗で暗く染まっていた。
「よかった」と青豆は言った。
「あなたがそばにいてくれて、とても助かります。いなくなるときっとつらいでしょうね」
「大丈夫ですよ。いなくなるつもりは今のところありません」
 老婦人は迷ったように、少し沈黙を挟んでから質問した。「立ち入ったことを訊くようだけど、あなたには好きな人はいるのかしら?」
「好きな人はいます」と青豆は言った。
「それはよかった」
「しかし残念ながら、その人は私のことが好きではありません」
「いささか妙な質問かもしれませんが」と老婦人は言った。「どうしてその相手はあなたのことを好きにならないのかしら? 客観的に見て、あなたはとても魅力的な若い女性だと思うのだけれど」
「その人は私が存在していることさえ知らないからです」
 老婦人は青豆が言ったことについてしばらく考えをめぐらせていた。
「あなたが存在している事実を相手に伝えようという気持ちは、あなたの側にはないのですか?」
「今のところありません」と青豆は言った。
「何か事情があるのかしら? あなたが自分の方からは接近できないという」
「事情もいくらかあります。でもほとんどは私自身の気持ちの問題です」
 老婦人は感心したように青豆の顔を見た。「私はこれまでいろんな風変わりな人に会ってきたけれど、あなたもそのうちの一人かもしれない」
 青豆は口元をわずかに緩めた。「私にはとくに変わったところなんてありません。自分の気持ちに率直なだけです」
「一度自分で決めたルールはしっかり守る」
「そうです」
「そしていくぶん頑固で、怒りっぽい」
「そういうところもあるかもしれません」
「でも昨夜はちょっと羽目をはずしたのね?」
 青豆は顔を赤らめた。「それがわかるんですか?」
「肌を見ればわかる。匂いでわかる。男のあとがまだ身体に残っている。歳をとればいろんなことがわかるようになるのよ」
 青豆はほんの少し顔を歪めた。「そういうのが必要なんです。ときどき。あまりほめられたことじゃないとはわかっていますが」
 老婦人は手を伸ばして、青豆の手の上にそっとかさねた。「もちろん。そういうこともたまには必要です。気にすることはありません。責めているわけではないのだから。でもあなたはもっと[#傍点]普通に[#傍点終わり]幸福になってもいいような気がするのです。好きな人と結ばれてハッピーエンドになるというようなことがね」
「そうなればいいと、私も思っています。しかしそれはむずかしいでしょう」
「どうして?」
 青豆はそれには答えなかった。説明するのは簡単ではない。
「もし個人的なことで、誰かに相談したくなったら、私に相談して下さい」と老婦人は言って、重ねていた手を引き、フェイスタオルで顔の汗を拭いた。「どんなことでも。私にしてあげられることが何かあるかもしれませんから」
「ありがとうございます」と青豆は言った。
「ときどき羽目を外すだけでは解消しないこともあります」
「おっしゃるとおりです」
「あなたは自分を損なうようなことは何もしていない」と老婦人は言った。「何ひとつ。それはわかっていますね?」
「わかっています」と青豆は言った。そのとおりだと青豆は思う。自分を損なうようなことは何もしていない。それでも何かは静かにあとに残るのだ。ワインの瓶の底の澱《おり》のように。
 
 大塚|環《たまき》が死んだ前後のことを、青豆は今でもよく思い出す。そしてもう彼女と会って話をすることができないのだと思うと、身体を引き裂かれたような気持ちになる。環は青豆が生まれて初めてつくった親友だった。どんなことでも隠さずに打ち明けあうことができた。環の前にはそんな友だちは青豆には一人もいなかったし、彼女のあとにも一人も出てこなかった。ほかに代わりはない。もし彼女と出会わなかったら、青豆の人生は今よりも更に惨めな、更に薄暗いものになっていたはずだ。
 二人は同い年で、都立高校のソフトボール部のチームメイトだった。青豆は中学校から高校にかけて、とにかくソフトボールという競技に熱意を捧げた。最初は気が進まないまま、メンバーが足りないからということで、誘われて適当にやっていたのだが、やがてそれは彼女の生き甲斐になった。彼女は強風に吹き飛ばされそうになっている人が柱にしがみつくみたいに、その競技にしがみついて生きた。彼女にはそういう何かが必要だったのだ。そして本人も気がつかなかったのだが、青豆はもともと運動選手として抜きんでた資質を持っていた。中学校でも高校でもチームの中心選手になり、彼女のおかげでチームはトーナメントを面白いように勝ち進んだ。それは青豆に自信のようなもの(正確には自信とは言えないが、それに近いもの)を与えてくれた。チームの中で自分が決して小さくない存在意義を持ち、たとえ狭い世界の中とはいえ、そこで明確なポジションが与えられたことが、青豆には何より嬉しかった。[#傍点]私は誰かに求められているのだ[#傍点終わり]。
 青豆は投手で四番打者で、文字通り投打の中心だった。大塚環は二塁手でチームの要で、キャプテンもっとめていた。環は小柄ではあったが、優れた反射神経を持っていたし、脳味嗜の使い方を知っていた。状況を素早く、複合的に読みとることもできた。投球のたびにどちらに身体の重心を傾ければいいかを心得ていたし、打者がボールを打つと、ボールが飛んだ方向を即座に見定め、的確な位置にカバーに走った。そんなことができる内野手はなかなかいない。彼女の判断力のおかげでどれくらいピンチを救われたかわからない。青豆のような長距離打者ではないが、バッティングは鋭く確実で、足も速かった。また環はリーダーとしても優秀だった。チームを統合し、作戦を立て、有益な助言をみんなに与え、励ました。指導は厳しかったが、まわりの選手たちの信望を得ていた。おかげでチームは日を追って強くなり、東京都の大会では決勝戦まで残った。インターハイにも出た。青豆と環は関東選抜チームのメンバーにも選ばれた。
 青豆と環はお互いの優れた部分を認め合い、どちらからともなく自然に親しくなり、やがては無二の親友になった。チームの遠征のときには、二人で一緒に長い時間を過ごした。二人はそれそれの生い立ちを包み隠さずに語り合った。青豆は小学校五年生のときに心を決めて両親と袂《たもと》を分かち、母方の叔父の家にやっかいになった。叔父の一家は事情を理解し、家族の一員として暖かく迎えてくれたが、それでもやはりそこは他人の家だった。彼女はひとりぼっちで、情愛に飢えていた。生きていく目的や意味をどこに求めればいいのかわからないまま、つかみどころのない日々を送っていた。環の家庭は裕福で社会的地位もあったが、両親の仲がきわめて悪かったせいで、家の中は荒廃していた。父親はほとんど帰宅せず、母親はしばしば錯乱状態に陥った。頭痛がひどく何日もベッドから起きあがれないこともあった。環と弟はほとんど捨て置かれた状態だった。二人の子供は食事の多くを近所の食堂やファーストフード店や出来合いの弁当で済ませていた。彼女たちはそれぞれに、ソフトボールに熱中しなくてはならない事情があったのだ。
 問題を抱えた孤独な少女たちには、語り合うべきことが山ほどあった。夏休みには二人だけで旅行をした。そして話すべきことが一時的になくなったとき、彼女たちはホテルのベッドの中で、お互いの裸の身体を触り合った。あくまで突発的な一度きりの出来事であり、二度と繰り返されなかったし、それについて口にされることもなかった。しかしそのことがあって二人の関係はより深く、より共謀的なものになった。
 高校を出て体育大学に進んでからも、青豆はソフトボールを続けた。女子ソフトボールの選手として全国的に高い評価を得ていたので、私立の体育大学から勧誘され、特別な奨学金を受けることができた。そして大学のチームでもやはり中心選手として活躍した。ソフトボールをやりながら、一方で彼女はスポーツ医学に興味を持ち、その勉強を真剣に始めた。マーシャル・アーツにも興味を持った。大学に在籍しているあいだにできるだけ多くの知識と専門技術を身につけておきたかった。のんびり遊んでいるような暇はない。
 環は一流の私立大学の法学部に進んだ。高校を卒業すると、彼女はソフトボール競技とは縁を切った。成績の優秀な環にとっては、ソフトボールはただの通過点に過ぎなかった。彼女は司法試験を受けて、法律家になるつもりだった。しかし進んだ道はちがっても、二人は無二の親友であり続けた。青豆は家賃を免除された大学の学生寮に住み、環はあいかわらず荒廃した——しかし経済的な余裕を与えてくれる——自宅から通学していた。二人は週に一度は一緒に食事をし、そこでつもる話をした。どれだけ話しても話題が尽きることはなかった。
 環は大学一年生の秋に処女を失った。相手はテニス同好会の一年上の先輩だった。集まりのあとで彼の部屋に誘われ、そこでほとんど無理やりに犯された。彼女は相手の男に好意を持っていないわけではなかった。だからこそ誘われるまま一人で彼の部屋に行ったわけだが、暴力的に性行為を強要されたことに、またそのときに相手が見せた身勝手で粗暴な態度に、大きなショックを受けた。それで同好会もやめてしまったし、しばらく欝状態に陥ってしまった。その出来事は環の心に深い無力感を残していったようだった。食欲もなくし、一ヶ月で六キロも痩せた。環が相手の男に求めていたのは、理解と思いやりのようなものだった。それさえ示してくれたなら、また時間をかけて準備段階を作ってくれたなら、身体を与えること自体はそれほどの問題ではなかったはずなのに。環にはどうしても理解できなかった。なのになぜあんな風に暴力的にならなくてはならなかったのか? そんな必要なんてどこにもないのに。
 青豆は彼女を慰め、その男に何らかの方法で制裁を加えるべきだと忠告した。しかし環はそれには同意しなかった。私自身が不注意なところもあったし、今さらどこかに訴え出たところでどうにもならないだろうと彼女は言った。誘われるまま一人で彼の部屋に行った私にも責任がある。たぶん忘れてしまうしかないのよ、と環は言った。しかしその出来事によって親友がどれほど深く心に傷を負ったか、青豆には痛いほどよくわかった。それは処女性の喪失とか、そういう表面的な問題ではない。人の魂の神聖さの問題なのだ。そこに土足で踏み込んでくるような権利は誰にもない。そして無力感というのは、どこまでも人を蝕んでいくものなのだ。
 だから青豆がかわりに個人的な制裁を加えることにした。彼女は男の住んでいるアパートの住所を環から聞き出し、製図図面を入れるプラスチックの大型筒にソフトボール用のバットを入れて、そこに行った。その日、環は親戚の法事か何かがあって金沢に行っていた。それは彼女のアリバイになるはずだ。男が部屋にいないことは前もって確かめておいた。ドライバーとハンマーを使って鍵を壊し、部屋に入った。それからバットにタオルを幾重にも巻き、なるべく音を立てないように気をつけながら、部屋の中にあるものを片端から叩き壊していった。テレビから、ライトスタンドから、時計から、レコードから、トースターから、花瓶から、壊せるものはひとつ残らず壊した。電話のコードは鋏で切断した。本は背表紙を裂いてばらばらにし、歯磨きチューブやシェービング・クリームは中身をそっくりカーペットの上にばらまいた。ベッドにはソースをかけた。抽斗の中のノートは引き裂いた。ペンと鉛筆は折った。電球はすべて叩き割った。カーテンとクッションには包丁で裂け目を入れた。タンスの中のシャツもすべて鋏で切った。下着と靴下の抽斗にはトマト・ケチャップをたっぷりかけておいた。冷蔵庫のヒューズを抜いて窓の外に捨てた。水洗便器の水槽のストッパーを外して壊した。シャワーヘッドも潰した。破壊は念入りで、隅々まで徹底していた。部屋はしばらく前に新聞の写真で見た、砲撃後のベイルートの市街地の光景に近いものになった。
 
 環は頭の良い娘だったし(学校の成績に関しては青豆には及びもつかない)、ソフトボールの試合では隙のない、注意深いプレイヤーだった。青豆がピンチに陥ると、すぐにマウンドにやってきて、有益な助言を手短に与え、にっこり笑い、グラブで彼女のお尻をぽんと叩いて、守備位置に戻っていった。視野が広く、心が温かく、ユーモアの感覚もそなわっていた。学業においても努力家だったし、弁も立った。そのまま勉強を続けていれば優秀な法律家になれたはずだ。
 ところが男たちを前にすると、彼女の判断力は見事なまでにばらばらにほどけてしまった。環はハンサムな男が好きだった。いわゆる面食いだ。そしてその傾向は、青豆の目から見れば、ほとんど病の域にまで達していた。どんなに素晴らしい人柄の男がいても、優秀な能力を持った男がいても、そして彼らが誘いをかけてきても、外見が好みに合わなければ、環はまったく心を惹かれなかった。彼女が関心を抱くのはなぜかいつも、甘い顔立ちの内容空疎な男たちだった。そして男のことになると、環はひどく頑なになり、青豆が何を言っても耳を貸さなかった。普段は青豆の意見に素直に耳を傾け、尊重するのだが、ボーイフレンドに対する批判だけは一切受け付けなかった。青豆もそのうちにあきらめて、忠告するのをやめてしまった。そんなことで言い合いをして、環との友情を損ないたくはなかった。結局のところそれは環の人生なのだ。好きなようにさせるしかない。いずれにせよ大学にいるあいだ、環は多くの男たちとつきあい、いつも何かしらのトラブルに巻き込まれ、裏切られ傷つけられ、最後には捨てられた。そのたびに半狂乱に近い状態になった。二度中絶手術をした。男女関係について言えば、環はまさに生まれながらの被害者だった。
 青豆は決まったボーイフレンドを作らなかった。誘われてときどきデートはしたし、中にはなかなか悪くない相手もいたのだが、深い関係になることはなかった。
「恋人もつくらないで、ずっと処女のままでいるつもり?」と環は青豆に尋ねた。
「忙しいからね」と青豆は言った。「私には日々の生活を送っていくのがやっとなの。ボーイフレンドと遊んでいるような余裕はない」
 環は学部を卒業すると、大学院に残って司法試験の準備をした。青豆はスポーツ・ドリンクと健康食品の会社に就職して、そこでソフトボールを続けた。環はやはり自宅から通学し、青豆は代々木八幡にある会社の寮に住んだ。学生時代と同じように、週末に二人は会って食事をし、飽きることなくいろんな話をした。
 環は二十四歳のときに二歳上の男と結婚した。婚約すると同時に大学院に通うのをやめ、法律の勉強を続けることもあきらめた。夫がそれを許さなかったからだ。青豆は相手の男に一度だけ会ったことがある。資産家の息子で、予想通り端整ではあるがいかにも深みのない顔立ちをしていた。趣味はヨット。口先はうまく、知恵はそれなりに働きそうだが、人柄に厚みがなく、言葉には重みがない。いつもどおりの環好みの男だ。そしてそこには何かしら不吉なものさえ感じられた。最初から青豆はその男が気に入らなかった。向こうも彼女のことはあまり気に入らなかったかもしれない。
「この結婚はうまくいくわけはないよ」と青豆は環に言った。余計な口出しはしたくなかったが、これはなんといっても結婚なのだ。ただの恋愛ごっこではない。昔からの大事な親友として、黙って見過ごすわけにはいかない。二人はそのときに初めて激しい口論をした。環は結婚に反対されたことでヒステリックになり、青豆にきつい言葉をいくつか投げかけた。そこには青豆がもっとも聞きたくない言葉も含まれていた。青豆は結婚式にも行かなかった。
 しかし青豆と環はほどなく仲直りをした。新婚旅行から戻ってきたすぐあと、環は青豆のところに予告もなくやってきて、自分の非礼を詫びた。あのときに口にしたことはみんな忘れてほしいと言った。私はどうかしていた。新婚旅行のあいだじゅう、ずっとあなたのことを考えていた。そんなこと気にしなくていいよ、もう何も覚えていないから、と青豆は言った。そして二人はしっかり抱き合った。冗談を言って笑い合った。
 それでも結婚後、二人が顔を合わせる機会は急速に減った。手紙のやりとりは頻繁におこなわれたし、電話で話もした。しかし環には、二人で会うための時間を都合することがかなわないようだった。うちのことがいろいろと忙しいから、と環は言い訳をした。専業主婦というのもこれでなかなか大変なものなのよ、と。しかしその口ぶりには、彼女が外で誰かと会うことを夫は望んでいないらしいという感触があった。また環は夫の両親と同じ敷地に同居しており、自由に外出することもむずかしそうだった。青豆が環の新居に招待されることもなかった。
 結婚生活はうまくいっている、と環はことあるごとに青豆に言った。夫は優しいし、夫の両親も親切な人たちだ。生活にも不自由はない。ときどき週末に江の島までヨットに乗りに行く。法律の勉強をやめたことも別に惜しくない。司法試験のプレッシャーはけっこう大きかったから。こういう平凡な生活が、私には結局いちばん向いていたのかもしれない。そのうちに子供も作るだろうし、そうなったらただのそのへんの退屈なお母さんよ。あなたにももう相手にしてもらえないかもね。環の声はいつも明るかったし、彼女の口にすることを疑わなくてはならない理由もなかった。それはよかったね、と青豆は言った。本当によかったと彼女は思った。不吉な予感が的中するよりは、はずれた方が良いに決まっている。環の中でたぶん何かが落ち着き場所を見つけたのだろう、と青豆は推測した。あるいは、そう考えようと努めた。
 ほかには友だちと呼べるような相手もいなかったから、環との接点が希薄になると、青豆の日々の生活はなんとなく手持ちぶさたなものになってしまった。ソフトボールにも前ほど意識を集中することができなくなってきた。環が自分の生活から遠のいていくことで、その競技に対する興味そのものが薄らいでしまったようだった。青豆は二十五歳になっていたが、まだ処女のままだった。気持ちが落ち着かなくなると、ときどき自慰行為をした。そういう生活をとくに淋しいとも思わなかった。誰かと個人的な深い関わりを持つことが、青豆には苦痛だった。それならむしろ孤独なままでいる方がいい。
 
 環が自殺したのは、二十六歳の誕生日を三日後に控えた、風の強い晩秋の日だった。彼女は自宅で首を吊って死んだ。翌日の夕方、出張から帰宅した夫がそれを発見した。
「家庭内には問題はなかったし、不満を耳にしたこともありません。自殺の原因はまったく思い当たりません」と夫は警察に言った。夫の両親も同様のことを言った。
 でもそれは嘘だった。夫の絶え間ないサディスティックな暴力によって、環は身体的にも精神的にも傷だらけになっていた。夫のとる行為は偏執的な領域にまで近づいていた。夫の両親もそれをおおむね承知していた。警察も検死のときに、彼女の身体の状態を見て事情を察していたが、それは表沙汰にはならなかった。夫を呼んで事情聴取がおこなわれたものの、彼女の死因は明らかに自殺だったし、彼女が死んだとき夫は北海道に出張していた。彼が刑事罰に問われることはなかった。環の弟がそんな事情を後日、青豆にこっそり打ち明けてくれた。
 暴力は最初からあったし、時を追うにしたがってますます執拗で陰惨なものになっていったということだ。しかし環は、その悪夢のような場所から逃げ出すことができなかった。青豆に対してそんなことは一言も言わなかった。相談したところで、返ってくる答えは初めからわかっていたからだ。今すぐその家を出なさい、そう言われるに決まっている。[#傍点]しかしそれができないのだ[#傍点終わり]。
 自殺の直前に、最後の最後になって、環は青豆に長い手紙を書き送った。自分が最初から間違っていて、青豆が最初から正しかったのだと、手紙の冒頭にあった。彼女は最後をこう結んでいた。
 
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 日々の生活は地獄です。しかし私にはこの地獄から抜け出すことがどうしてもできません。ここを抜け出したあと、どこに行けばいいのかもわからないから。私は無力感というおぞましい牢獄に入っています。私は進んでそこに入り、自分で鍵を閉めて、その鍵を遠くに投げ捨ててしまったのです。この結婚はもちろん間違いでした。あなたの言ったとおりです。でもいちばん深い問題は夫にでもなく、結婚生活にでもなく、私自身の中にあります。私の感じるあらゆる痛みは、私が受けるに相応しいものです。誰を非難することもできません。あなたは私にとってのただ一人の友だちであり、この世の中で私が信頼することのできるただ一人の人です。でも私にはもう救いはありません。できれば私のことをいつまでも覚えていて下さい。いつまでも二人でソフトボールをやっていられればよかったのだけれど。
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 青豆はその手紙を読んでいるうちに、ひどく気分が悪くなってきた。身体が震えて止まらなくなった。環の家に何度電話をかけても、誰も受話器を取らなかった。録音メッセージに繋がるだけだ。彼女は電車に乗って、世田谷の奥沢にある彼女の家まで足を運んだ。高い塀のある大きな屋敷だった。門のインターフォンを鳴らしたが、やはり返事はなかった。中で犬が吠えているだけだ。あきらめて引き上げるしかなかった。もちろん青豆には知りようもないことだが、そのときには環はもう息を引き取っていたのだ。彼女は階段の手すりに紐をかけて、ひとりぼっちでそこにぶらさがっていた。静まりかえった家の中に、電話のベルや、チャイムが空しく鳴り響いていただけだ。
 環の死を知らされたとき、青豆はほとんど驚かなかった。きっと頭のどこかでそれを予期していたのだろう。悲しみも湧いてこなかった。どちらかと言えば事務的な返事をし、電話を切って椅子に腰を下ろし、それからかなり時間が経ってから、身体の中のあらゆる体液が外にこぼれ出ていくような感覚があった。長いあいだ椅子から立ち上がれなかった。会社に電話を入れて、体の具合が悪いということで何日か休みをとり、家の中にただじっと閉じこもっていた。食事もせず、眠りもせず、水さえほとんど飲まなかった。葬儀にも出なかった。彼女の中で何かが、かちりと音を立てて入れ替わってしまったような感覚があった。これを境にして私はもう以前の私ではなくなる、青豆はそう強く感じた。
 あの男には制裁を加えなくてはならない、青豆はそのときにそう心を決めた。何があろうと世の終わりを確実に与えなくてはならない。そうしなければ、あいつは別の誰かを相手にまた同じことを繰り返すに違いない。
 青豆はたっぷり時間をかけて周到に計画を練った。首の後ろのどのポイントをどの角度で、鋭い針で刺せば相手を瞬時に死に至らしめることができるか、彼女はその知識を持っていた。もちろん誰にでもできることではない。でも彼女にはできる。必要なのは、その微妙きわまりないポイントを短い時間のうちに探り当てる感覚を磨くことと、その行為に適した道具を手に入れることだ。彼女は工具を揃え、時間をかけて、小さな細身のアイスピックのように見える特殊な器具を作り上げた。その針先は容赦のない観念のように鋭く冷たく尖っていた。そして彼女は様々な方法で念入りに練習を積んだ。そしてこれでいいと納得した上で、それを実行に移した。躊躇なく、冷静に的確に、王国をその男の頭上に到来させた。彼女はそのあとでお祈りさえ唱えた。祈りの文句は彼女の口からほとんど反射的に出てきた。
 
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 天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与え下さい。アーメン。
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 青豆が周期的に、そして激しく男の身体を求めるようになったのは、そのあとのことだった。

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11/25 03:33