第14章 天吾
ほとんどの読者がこれまで
目にしたことのないものごと
小松と天吾はいつもの場所で待ち合わせた。新宿駅の近くにある喫茶店だ。コーヒー一杯の値段は安くないが、席と席とのあいだに距離がとられているので、他人の耳を気にせずに話をすることができる。空気が比較的きれいで、害のない音楽が小さな音で流されている。例によって小松は二十分遅れてやってきた。小松が時間どおりにやってくることはまずないし、天吾が時間に遅れることはまずない。これはもう決定事項のようなものだ。小松は書類を入れる革の鞄を提げ、見慣れたツイードの上着に、紺色のポロシャツを着ていた。
「待たせて悪かったね」と小松は言ったが、とくに申し訳なく思っている風もなかった。いつもより機嫌がよさそうで、口元には明け方の三日月のような笑みが浮かんでいた。
天吾は肯いただけで、何も言わなかった。
「急がせて悪かった。いろいろと大変だっただろう」、小松は向かいの席に腰を下ろして、そう言った。
「大げさなことは言いたくないけど、自分が生きているのか死んでいるのか、それもよくわからないような十日間でした」と天吾は言った。
「しかしよくやってくれた。ふかえりの保護者の承諾も無事に得られたし、小説もしっかりと書き直された。たいしたもんだよ。浮世離れのした天吾くんにしちゃ実に上出来だ。見直したね」
天吾はその賞賛を聞き流した。「ふかえりの背景について書いた報告みたいなものは読んでくれました? 長いやつ」
「ああ読んだよ。もちろん。じっくりと読ませてもらった。なんというか、かなり複雑な成り行きだ。まるで大河小説の一部みたいな話だ。しかしそれはそれとして、あの戎野先生がふかえりの保護者になっているとは思ってもみなかったな。世間はおそろしく狭い。それで先生は俺のことについて何か言っていたかい?」
「小松さんのことを?」
「ああ、俺のことを」
「とくに何も言っていませんでした」
「そいつは妙だな」と小松はいかにも不思議そうに言った。「俺と戎野先生は昔一緒に仕事をしたことがあるんだ。大学の研究室まで原稿をもらいにいったことがあるよ。ずいぶん昔、俺がまだ若き編集者のころだがね」
「昔のことだから、忘れたんじゃありませんか。僕に小松さんというのはどんな人間かと質問してきたくらいですから」
「いいや」、小松はそう言って、むずかしい顔をして首を振った。「そんなことはない。絶対にあり得ない。あの先生は何ひとつ忘れない人だよ。おそろしいまでに記憶力の良い人だし、俺たちはそのときずいぶんいろんな話をしたからね……。しかしまあそれはいい。あれはなかなか一筋縄ではいかんおっさんだ。それで、君の報告によれば、ふかえりちゃんを取り巻く事情はかなりややこしそうだな」
「かなりややこしいどころじゃありません。僕らは文字通り爆弾を抱え込んでいるみたいなものですよ。ふかえりはあらゆる意味合いにおいて普通じゃない。ただのきれいな十七歳の女の子というだけじゃありません。ディスレクシアで、本をまともに読むこともできません。文章もろくに書けない。何らかのトラウマみたいなものを抱え込んで、それに関連して記憶の一部を失ってもいるようです。コミューンみたいなところで育ち、学校にもほとんど行っていない。父親は左翼の革命組織のリーダーで、『あけぼの』がらみの例の銃撃戦にも間接的ながらつながっているようです。引き取られた先はかつて高名だった文化人類学者のうちです。もし小説が話題になったら、マスコミが集まってきて、いろんな[#傍点]おいしい[#傍点終わり]事実を暴き立てるでしょう。大変なことになりますよ」
「うん、たしかに地獄の釜の蓋を開けたような騒ぎになるかもしれないな」と小松は言った。それでもまだ口元の微笑みは消えていない。
「じゃあ、計画は中止するんですか?」
「計画を中止する?」
「話が大きくなりすぎます。危険すぎる。原稿を元のものに差し替えましょう」
「ところがそう簡単にはいかない。君が書き直した『空気さなぎ』は既に印刷所にまわされて、ゲラ刷りになっているところだ。印刷があがったら、それはすぐさま編集長と出版部長と四人の選考委員のもとに届けられる。今さら『すみません。あれは間違いでした。見なかったことにして返して下さい』とは言えないんだよ」
天吾はため息をついた。
「しかたない。時間をあと戻しすることはできない」と小松は言った。そしてマルボロを口にくわえ、目を細め、店のマッチで火をつけた。「あとのことは俺がよく考える。天吾くんは何も考えなくていい。もし『空気さなぎ』が賞を取っても、ふかえりはなるべく表に出さないようにしよう。人前に出たくない謎の少女作家、みたいなラインでうまくまとめていけばいい。俺が担当編集者として、スポークスマンみたいなかっこうになる。そのあたりの按配は心得ているから大丈夫だ」
「小松さんの能力を疑うわけじゃありませんが、ふかえりはそのへんの普通の女の子とは違います。人の言うとおりに黙って動いてくれるタイプじゃありません。自分がこうすると決めたら、誰がなんと言おうとそのとおりに実行します。意に染まないことは耳に入らないようにできているんです。そう簡単にはいきません」
小松は何も言わず、手の中でマッチ箱を何度も裏返していた。
「でもな、天吾くん、何はともあれ、ここまで来たらお互いもう腹を据えてやるしかないんだよ。まず第一に、君の書き直した『空気さなぎ』は見事な出来だ。予想を遥かに超えて素晴らしい。ほとんど完壁に近い。これなら間違いなく新人賞を取るし、話題になる。今更こいつを埋もれさせるようなことはできない。俺に言わせればそれは一種の犯罪だ。そしてさっきも言ったように、話はどんどん前に進んでいるんだ」
「一種の犯罪?」と天吾は小松の顔を見ながら言った。
「こういう言葉もある」と小松は言った。「『あらゆる芸術、あらゆる希求、そしてまたあらゆる行動と探索は、何らかの善を目指していると考えられる。それ故に、ものごとが目指しているものから、善なるものを正しく規定することができる』」
「何ですかそれは?」
「アリストテレスだよ。『ニーコマコス倫理学』だ。アリストテレスを読んだことはあるか?」
「ほとんどありません」
「読むといい。君ならきっと好きになれる。俺は読む本がなくなったときにはギリシャ哲学を読むことにしているんだ。飽きることがない。いつも何かそこから学べることがある」
「その引用のポイントはどこにあるんですか?」
「ものごとの帰結は即ち善だ。善は即ちあらゆる帰結だ。疑うのは明日にしよう」と小松は言った。「それがポイントだ」
「アリストテレスはホロコーストについてどう言っているんですか?」
小松は三日月のような笑みを更に深めた。「アリストテレスはここでは主に芸術や学問や工芸について語っているんだ」
小松とは決して短くはないつきあいだ。そのあいだに天吾は、この男の表の顔も見てきたし、裏の顔も見てきた。小松は業界の一匹狼的な存在で、好き勝手なことをやって生きているように見える。多くの人はその見かけにごまかされる。しかし前後の事情をよく頭に入れて、細かく観察すれば、彼の動きがなかなか綿密に計算されたものであることがわかる。将棋でいえば数手先まで読んでいる。奇策を好むのは確かだが、しかるべきところに一線を引いて、そこから足を踏み出さないように気をつけている。どちらかと言えば神経質な性格と言ってもいいくらいだ。彼の無頼的な言動の大半は表面的な演技に過ぎない。
小松は自分自身に、用心深くいくつかの保険をかけていた。たとえば彼はある新聞の夕刊に週に一度文芸関係のコラムを書いていた。そこでいろんな作家を褒めたり貶《けな》したりした。財すときの文章はかなり苛烈なものだった。そういう文章を書くのが彼は得意だった。匿名のコラムだが、業界の人間はみんな誰がそれを書いているのかを知っていた。当然の話だが、新聞に悪口を書かれることを好む人間はまずいない。だから作家たちは小松とはできるだけ事を構えないように注意していた。雑誌に執筆を依頼されれば、できるだけ断らないようにした。少なくとも何度かに一度は引き受けた。そうしないとコラムで何を書かれるかわかったものではない。
天吾は小松のそういう計算高い面があまり好きにはなれなかった。文壇を小馬鹿にしておきながら、一方でそのシステムを都合よく利用している。小松には編集者としての優れた勘が具わっていたし、天吾にはずいぶんよくしてくれた。小説を書くことについての彼の忠告はおおむね貴重なものだった。しかし天吾は一定の距離を置いて小松とつきあうように心がけていた。あまり近づきすぎて、下手に深入りしたところで足元の梯子を外されたりしたら、たまったものではない。そういう意味では天吾もまた用心深い人間だった。
「今も言ったように、君の『空気さなぎ』の書き直しは完壁に近い。たいしたものだ」と小松は話を続けた。「ただし一カ所だけ、ただの一カ所だけ、できることなら書き直してもらいたいところがある。今じゃなくてもいい。新人賞のレベルではあれで十分だ。賞をとって、雑誌掲載になる段階であらためて手を入れてくれればいい」
「どんなところですか?」
「リトル・ピープルが空気さなぎを作り上げたとき、月が二つになる。少女が空を見上げると、月が二つ浮かんでいる。その部分は覚えているよな?」
「もちろん覚えています」
「俺の意見を言わせてもらえれば、その二つの月についての言及が十分ではない。書き足りない。もっと細かく具体的に描写してもらいたい。注文といえばその部分だけだ」
「たしかに描写がいくぶん素っ気ないかもしれません。ただ僕としては、あまり説明的になって、ふかえりの原文が持っている流れを崩したくなかったんです」
小松は煙草をはさんだ手を上にあげた。「天吾くん、こう考えてみてくれ。読者は月がひとつだけ浮かんでいる空なら、これまで何度も見ている。そうだよな? しかし空に月が二つ並んで浮かんでいるところを目にしたことはないはずだ。ほとんどの読者がこれまで目にしたことの[#傍点]ない[#傍点終わり]ものごとを、小説の中に持ち込むときには、なるたけ細かい的確な描写が必要になる。省いてかまわないのは、あるいは省かなくてはならないのは、ほとんどの読者が既に目にしたことの[#傍点]ある[#傍点終わり]ものごとについての描写だ」
「わかりました」と天吾は言った。小松の言い分はたしかに筋が通っている。「そのふたつの月が出てくる部分の描写は、もっと綿密なものにします」
「けっこう。それで完壁になる」と小松は言った。そして煙草をもみ消した。「あとは言うことない」
「僕が書いたものを小松さんに褒められるのは嬉しいですが、今回に限ってはどうも素直には喜べません」と天吾は言った。
「君は、急速に成長している」、小松は言葉を句切るようにゆっくりと言った。「書き手として、作家として、成長している。そいつは素直に喜んだ方がいい。『空気さなぎ』を書き直したことによって、君は小説について多くのことを学んだはずだ。次に君が自分自身の作品を書くときには、それがずいぶん役に立つはずだよ」
「次があればいいんですが」
小松はにやりと笑った。「心配することない。君はやるべきことはやった。今度は俺の出番だ。ベンチに下がってのんびりゲームの成り行きを見ていればいい」
ウェイトレスがやってきて、グラスに冷たい水を注いだ。天吾はそれを半分飲んだ。飲んでしまってから水なんて飲みたくなかったことに気がついた。
「人間の霊魂は理性と意志と情欲によって成立している、と言ったのはアリストテレスでしたっけ?」と天吾は尋ねた。
「それはプラトンだ。アリストテレスとプラトンは、たとえて言うならメル・トーメとビング・クロスビーくらい違う。いずれにせよ昔はものごとがシンプルにできていたんだな」と小松は言った。「理性と意志と情欲が会議を開き、テーブルを囲んで熱心に討論しているところを想像すると楽しくないか?」
「誰が勝てそうにないか、だいたい予測はつきますが」
「俺が天吾くんに関して気に入っているのはね」と小松は人差し指を宙に上げて言った。「そのユーモアのセンスだ」
これはユーモアなんかじゃない、と天吾は思った。しかし口には出さなかった。
天吾は小松と別れたあと、紀伊国屋書店に入って本を何冊か買い、近くのバーでビールを飲みながら、買った本を読んだ。あらゆる時間の中で、彼がもっともくつろげるはずの時間だった。書店で新刊書を買い、そのへんの店に入って、飲みものを手にそのページを開く。
しかしその夜はなぜか読書に神経を集中することができなかった。いつもは幻影の中で見る母親の姿が彼の目の前にぼんやりと浮かび、いつまでも消えなかった。彼女は白いスリップの肩紐をはずし、かたちの良い乳房をむき出しにし、男に乳首を吸わせている。その男は父親ではない。もっと大柄で若々しく、顔立ちも整っている。ベビーベッドには幼児である天吾が目を閉じ、寝息をたてて眠っている。母親は男に乳首を吸われながら、忘我の表情を顔に浮かべている。その表情は、彼の年上のガールフレンドがオーガズムを迎えるときの表情にどことなく似ていた。
天吾は以前、好奇心から彼女に頼んだことがあった。ねえ、一度白いスリップを着てきてくれないかな、と。「いいわよ」と彼女は笑って言った。「今度着てきてあげる。そういうのが好きなのなら。ほかにもっと注文はある? なんでも聞いてあげるから、恥ずかしがらずに言ってみて」
「できたら白いブラウスを着てきてくれないかな。なるべくシンプルなやつ」
彼女は先週、白いブラウスに白いスリップというかっこうでやってきた。彼はブラウスを脱がせ、スリップの肩紐をずらせ、その下にある乳首を吸った。彼の幻影に出てくる男がやっているのと同じかっこうで、同じ角度で。そのときに軽い立ちくらみのような感覚があった。頭にぼんやり霞がかかったようになり、前後の事情が不明になった。どんよりとした感覚が下半身に生まれ、それが急速に膨らんでいった。気がついたときには、彼は身を震わせて激しく射精していた。
「ねえ、どうしたの? もう出しちゃったの?」と彼女はびつくりして訊いた。
何が起こったのか、天吾にはよくわからなかった。しかし彼は彼女のスリップの腰のあたりに射精していた。
「悪かった」と天吾は謝った。「そんなつもりはなかったんだけど」
「別に謝らなくていいわよ」とガールフレンドは天吾を励ますように言った。「こんなのちょこちょこっと水道で洗えばいいだけのことなんだから。ただの[#傍点]いつものやつ[#傍点終わり]でしょ。お醤油とか赤ワインとかを出されたりすると、落とすのにちょっと困るかもしれないけど」
彼女はスリップを脱ぎ、洗面所に行って精液のついた部分をもみ洗いした。そしてシャワーカーテンのロッドにそれを干した。
「刺激が強すぎたのかしら」と彼女は言って優しく微笑んだ。そして手のひらで天吾の腹部をゆつくりと撫でた。「白いスリップが好きなのね、天吾くんは」
「そういうんじゃないんだよ」と天吾は言った。しかし自分がそんな頼み事をした本当の理由を説明することはできなかった。
「何かそういう妄想みたいなものがあるのなら、なんでもお姉さんに打ち明けてね。しっかり協力してあげるから。私も妄想って大好き。多かれ少なかれ、妄想がなくっちゃ人は生きていけないのよ。そう思わない? それで、この次も白いスリップをつけてきてほしい?」
天吾は首を振った。「もういいよ。一度でいい。ありがとう」
その幻影に出てくる、母親の乳首を吸っている若い男が、自分の生物学的な父親ではないのか、天吾はよくそう考えた。なぜなら自分の父親ということになっている人物——NHKの優秀な集金人——は、あらゆる点で天吾には似ていなかったからだ。天吾は背が高く、がっしりした体格で、額が広く、鼻が細く、耳のかたちは丸まってくしゃくしゃしている。父親はずんぐりとして背が低く、風采もあがらなかった。額が狭く、鼻は扁平で、耳は馬のように尖っている。天吾とは顔のつくりが、ほとんど対照的と言ってもいいくらいに違う。天吾がどちらかというとのんびりした鷹揚な顔立ちであるのに比べて、父親は神経質で、いかにも吝嗇《りんしょく》そうな顔をしていた。多くの人が二人を見比べて、親子には見えないというようなことを口にした。
しかし天吾が父親に対して違和感を感じたのは、顔立ちよりはむしろ精神的な資質や傾向についてだった。父親には知的好奇心と呼べそうなものがまるで見受けられなかったのだ。たしかに父親は満足な教育を受けていなかった。貧しい家に生まれ、系統立った知的システムを自分の中に確立する余裕もなかった。そのような境遇については天吾もある程度気の毒だとは思う。しかしそれにしても、普遍的なレベルでの知識を得たいという基本的な願望——それは人にとって多かれ少なかれ自然な欲求ではないかと天吾は考える——が、その男にはあまりにも希薄だった。生きていく上での実際的な知恵はそれなりに働いたが、努力して自らを高め、深化させ、より広くより大きな世界を眺めたいという姿勢は、まったく見いだせなかった。
彼は窮屈な世界で、狭量なルールに従って、汲々と生きていながら、その狭さや空気の悪さをとくに苦痛として感じることもないようだった。家の中で本を手に取るところを目にしたこともない。新聞さえとらなかった(NHKの定時ニュースを見ればそれで十分だと彼は言った)。音楽にも映画にもまったく興味はなかった。旅行に出たことさえない。いささかなりとも興味があるのは、自分の受け持っている集金ルートだけらしい。彼はその地域の地図をつくり、そこにいろんな色のペンでしるしをつけ、暇さえあればそれを点検していた。まるで生物学者が染色体を区分けするみたいに。
それに比べれば、天吾は小さい時から数学の神童と見なされていた。算数の成績は抜群だった。小学校三年生のときに高校の数学の問題を解くこともできた。ほかの学科についても、とくに努力らしい努力をしなくても成績は飛び抜けてよかった。そして暇があればむさぼるように本を読んだ。好奇心が強く、パワーショベルで土をすくうみたいに、多岐にわたる知識を片端から効率よく吸収していった。だから父親の姿を見るたびに、そんな狭量で無教養な男の遺伝子が、自分という存在の少なくとも半分を生物学的に占めているという事実が、どうしても呑み込めなかった。
自分の本当の父親はどこかべつのところにいるはずだ、というのが少年時代の天吾の導き出した結論だった。天吾は何らかの成り行きによって、この父親と称する、しかし実はまったく血の繋がっていない男の手によって育てられてきたのだ。ディッケンズの小説に出てくる不運な子供たちと同じように。
その可能性は少年時代の天吾にとって、悪夢であるのと同時に、大いなる希望でもあった。彼はむさぼるようにデイッケンズを読んだ。最初に読んだのは『オリバー・ツイスト』で、それ以来ディッケンズに夢中になってしまった。図書館にある彼の作品のほとんどを読破した。そのような物語の世界を周遊しながら、自分の身の上について、あれこれとなく想像に耽った。その想像は(あるいは妄想は)彼の頭の中でどんどん長いものになり、複雑なものになっていった。パターンはひとつだったが、バリエーションは無数に生まれた。いずれにせよ自分の本来の居場所はここではない、と天吾は自分に言い聞かせた。僕は間違った橿の中に、間違って閉じこめられているのだ。本当の両親はきっと偶然の正しい導きによって、いつの日か僕を見つけ出すことだろう。そして僕はこの狭苦しく醜い橿の中から救い出され、本来あるべき場所に戻される。そして美しく平和で自由な日曜日を獲得することになる。
天吾の学校での成績が図抜けて優秀であることを、父親は喜んだ。そのことで得意にもなった。近所の人々に自慢したりもした。しかしそれと同時に、心のどこかで息子の聡明さや能力の高さを面白くなく思っている節も見受けられた。天吾が机に向かって勉強をしているとしばしば、おそらくは意図的にその邪魔をした。家事をいいつけたり、どうでもいいような不都合な点を見つけて、しつこく小言を言ったりした。小言の内容は常に同じだった。自分が集金人として、時には罵声を浴びせかけられながら、毎日どれほど長い距離を歩き回り、身を粉にして仕事をしているか。それに比べてお前はどんなに気楽な、恵まれた生活を送っているか。自分が天吾くらいの年の時には、どれくらい家でこきつかわれ、ことあるごとに父親や兄に鉄拳の制裁を受けてきたか。食べ物も十分に与えられず、家畜同然に扱われてきたか。学校の成績がちょっといいからといって、いい気になられては困る。父親はそんなことをいつまでもくどくどとしゃべり続けた。
この男は僕にうらやみを感じているのかもしれない、と天吾はあるときから思うようになった。僕という人間のあり方が、あるいは僕の置かれている立場が、この男には妬ましくてしょうがないのだろう。しかし父親が実の息子を妬むというようなことが、実際にあるものだろうか? もちろん子供である天吾にはそんなむずかしい判断はできない。しかし父親の言動からにじみ出てくるある種の[#傍点]いじましさ[#傍点終わり]のようなものを、天吾は感じ取らないわけにはいかなかったし、それが生理的に我慢できなかった。いや、ただうらやむというだけではない。この男は息子の中にある何かを憎んでもいる、天吾はしばしばそう感じた。天吾という人間そのものを憎んでいるのではない。彼の中に含まれている[#傍点]何か[#傍点終わり]を父親は憎んでいる。それを許せないと感じている。
数学は天吾に有効な逃避の手段を与えてくれた。数式の世界に逃げ込むことによって、現実というやっかいな艦を抜け出すことができた。頭の中のスイッチをオンにさえすれば、自分がそちらの世界に苦もなく移行できるという事実に、小さい頃から気づいていた。そしてその限りのない整合性の領域を探索し、歩きまわっているかぎり、彼はどこまでも自由だった。彼は巨大な建物の曲がりくねった廊下を進み、番号のふられたドアを次々に開けていった。新しい光景が眼前に開けるたびに、現実の世界に残してきた醜い痕跡は薄れ、あっさりと消え去っていった。数式の司る世界は、彼にとっての合法的な、そしてどこまでも安全な隠れ場所だった。天吾はその世界の地理を誰よりも正確に理解していたし、的確に正しいルートを選ぶことができた。誰もあとを追いかけてくることはできなかった。そちらの世界にいるあいだは、現実の世界が押しつけてくる規則や重荷をきれいに忘れ、無視することができた。
数学が壮麗な架空の建物であったのに対して、ディッケンズに代表される物語の世界は、天吾にとっては深い魔法の森のようなものだった。数学が絶え間なく天上に伸びていくのと対照的に、森は彼の眼下に無言のうちに広がっていた。その暗い頑丈な根は、地中深く張り巡らされていた。そこには地図はなく、番号のふられたドアもなかった。
小学校から中学校にかけて、彼は数学の世界に夢中でのめりこんでいた。その明快さと絶対的な自由が何よりも魅力的であり、また生きていく上で必要だったからだ。しかし思春期に足を踏み入れたあたりから、それだけでは足りないのではないかという気持ちが着々と膨らんでいった。数学の世界を訪れているあいだは何の問題もない。すべては思うままに進んでいる。行く手を阻むものはない。しかしそこを離れて現実の世界に戻ってくると(戻ってこないわけにはいかない)、彼がいるのは前と変わらぬ惨めな橿の中だった。状況は何ひとつ改善されてはいない。むしろ逆に枷が重くなっているようにさえ思える。だとすれば、数学がいったい何の役に立つのだろう。それはただの一時的な逃避の手段に過ぎないではないか。むしろ現実の状況を悪化させていくだけではないのか?
そういう疑問が膨らんでいくに連れて、天吾は自分と数学の世界とのあいだに、意識して距離を置くようになった。それとともに、物語の森が彼の心をより強く惹きつけるようになっていった。もちろん小説を読むことだってひとつの逃避ではあった。本のページを閉じれば、また現実の世界に戻ってこなくてはならない。しかし小説の世界から現実に戻ってきたときは、数学の世界から戻ってきたときほどの厳しい挫折感を味わわずにすむことに、天吾はあるとき気がついた。なぜだろう? 彼はそれについて深く考え、やがてひとつの結論に達した。物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。
年齢を重ねるにつれて、そのような物語的な示唆のあり方が、天吾の関心をますます惹きつけるようになっていった。数学は大人になった今でも、彼にとっての大きな喜びのひとつだ。予備校で学生たちに数学を教えていると、子供のころに感じたのと同じ喜びが自然にわき上がってくる。その観念的な自由の喜びを誰かと分かち合いたいと思う。それは素晴らしいことだ。しかし天吾は今では、数式の司る世界に自分を留保なくのめり込ませることができなくなっていた。どんなに遠くまでその世界を探索したところで、自分が本当に求めている解答は手に入らないということがわかっていたからだ。
天吾は小学校五年生のとき、ずいぶん考え抜いた末に、父親に向かって宣言した。
日曜日に、これまでのようにお父さんと一緒にNHK受信料の集金にまわるのは、もうやめたい。その時間を使って自分の勉強もしたいし、本も読みたいし、どこかに遊びにも行きたい。お父さんにはお父さんの仕事があるように、僕には僕のやるべきことがある。僕はほかのみんなと同じような当たり前の生活を送りたいんだ。
天吾はそれだけのことを言った。短く、しかし筋道を立てて。
父親はもちろんひどく腹を立てた。ほかの家庭がどうであれ、そんなものはうちとは関係ない。うちにはうちのやり方がある、と父親は言った。何が当たり前の生活だ。偉そうなことを言うんじゃない。当たり前の生活について、お前に何がわかるというのだ。天吾は反論しなかった。じつと黙っていただけだ。何を言っても話が通じないだろうことは最初からわかっていた。それならそれでいい、と父親は言った。親の言うことをきけないやつに、これ以上食事を与えることはできない。とっとと家を出て行け。
天吾は言われたとおり、荷物をまとめて家を出て行った。もともと腹は決まっていたし、父親がどれだけ腹を立てても、怒鳴り散らしても、たとえ手を上げたとしても(実際には上げなかったけれど)、ちっとも怖いとは思わなかった。艦から出て行っていいと許可されたことで、むしろほっとしたくらいだった。
とはいえ十歳の子供には、一人で自活していく手だてはない。しかたなく放課後、クラスの担任の教師に、自分の置かれている状況を正直に打ち明けた。今夜泊まるところもないのだと。そして日曜日に父親と一緒にNHK受信料の集金ルートをまわることが、自分にとってどれくらい心の負担になっているかを説明した。担任の先生は三十代半ばの独身女性だった。あまり美しいとは言えなかったし、ひどい格好の分厚い眼鏡をかけていたが、公正で心の温かい人柄だった。小柄な体格で、普段は無口で温厚なのだが、見かけによらず短気なところがあり、いったん怒り出すと人ががらりと変わり、誰にも止められなくなった。人々はみんなその落差に唖然とした。しかし天吾はその先生のことがけっこう気に入っていた。彼女が怒り出しても、天吾はとくに怖いとも思わなかった。
彼女は天吾の話を聞き、彼の気持ちを理解し、同情してくれた。天吾をその晩、自分の家に泊めてくれた。居間のソファに毛布を敷いて寝かせてくれた。朝ご飯も作ってくれた。そして翌日の夕刻、天吾を伴って父親のところに行き、長く話をした。
天吾は席を外しているようにと言われたので、二人のあいだでどんな話し合いがもたれたのか、それはわからない。しかし結局のところ、父親としても矛を収めないわけにはいかなかった。いくら腹を立てたからといって、十歳の子供を一人で路頭に迷わせるわけにはいかない。親には子供の扶養義務があると法律で定められている。
話し合いの結果、天吾は日曜日を好きなように過ごしてかまわないということになった。午前中を家事にあてなくてはならないが、そのあとは何をしてもいい。それは天吾が生まれて初めて父親から勝ち取った、かたちのある権利だった。父親は腹を立てて、しばらくのあいだ口をきかなかったが、天吾にとってはとるに足らないことだ。彼は遥かに重要なものを手にしていた。それは自由と自立への第一歩だった。
小学校を出てから、その担任の教師には長いあいだ会わなかった。たまに案内の来る同窓会に出れば会うことはできたのだろうが、天吾はそんなものに顔を出すつもりはなかった。その小学校に関して楽しく思い出せることなんてほとんど何ひとつない。それでもときどきその女教師のことは思いだした。なにしろ一晩うちに泊めてもらった上に、頑迷このうえない父親を説得してもらったのだ。簡単には忘れられない。
彼女と再会したのは高校二年生のときだった。天吾はそのとき柔道部に属していたが、ふくらはぎを痛めて、二ヶ月ばかり柔道の試合に出ることができなかった。そのかわりに彼は、ブラスバンドの臨時の打楽器奏者として駆り出された。コンクールが目前に近づいているというのに、二人いた打楽器奏者の一人が突然転校することになり、もう一人が悪性のインフルエンザにかかり、二本のスティックが持てる人間なら誰でもいいから手助けにほしいという窮境に、吹奏楽部は追い込まれていた。たまたま脚の怪我をして手持ちぶさたにしている天吾が音楽教師の目にとまり、たっぷり食事をつけて、期末のレポートを大目に見るからという条件で、演奏練習に駆り出された。
天吾はそれまで打楽器を演奏した経験は一度もなかったし、興味を持ったこともなかったのだが、実際にやってみると、それは彼の頭脳の資質に驚くほどしつくりと馴染んだ。時間をいったん分割して細かいフラグメントにし、それを組み立てなおし、有効な音列に変えていくことに、彼は自然な喜びを感じた。すべての音が図式となって、頭の中に視覚的に浮かんだ。そして海綿が水を吸うように、彼は様々な打楽器のシステムを理解していった。音楽教師に紹介されて、ある交響楽団で打楽器奏者をつとめている人のところに行き、ティンパニの演奏について手ほどきを受けた。数時間のレッスンで、彼はその楽器のおおよその構造と演奏法を習得した。譜面は数式に似ていたから、読み方を覚えるのはそれほどむずかしくなかった。
音楽教師は彼の優れた音楽的才能を発見して驚喜した。君には複合リズムの感覚が生まれつき具わっているみたいだ。音感も素晴らしい。このまま専門的に勉強すればプロになれるかもしれない、と教師は言った。
ティンパニはむずかしい楽器だが、独特の深みと説得力があり、音の組み合わせに無限の可能性が秘められている。彼らがそのときに練習していたのは、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』のいくつかの楽章を抜粋し、吹奏楽器用に編曲したものだった。それを高校の吹奏楽部のコンクールで「自由選択曲」として演奏するのだ。ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』は高校生が演奏するには難曲だった。そして冒頭のファンファーレの部分では、ティンパニが縦横無尽に活躍する。バンドの指導者である音楽教師は、自分が優秀な打楽器奏者を抱えていることを計算に入れてその曲を選んだのだ。ところが先に述べたような理由で、急にその打楽器奏者がいなくなったものだから、頭を抱え込んでしまった。当然のことながら、代役の天吾の果たす役割が重要なものになった。しかし天吾はプレッシャーを感じることもなく、その演奏を心から楽しんだ。
コンクールの演奏が無事に終わったあと(優勝はできなかったが上位入賞することができた)、その女教師が彼のところにやってきた。そして素晴らしい演奏だったと褒めてくれた。
「一目で天吾くんだとわかったわ」とその小柄な教師は言った(天吾には彼女の名前が思い出せなかった)。「とても上手なティンパニだと思ってよくよく顔を見たら、なんと天吾くんだった。昔よりもっと大きくなっていたけど、顔を見ればすぐにわかった。いつから音楽を始めたの?」
天吾はそのいきさつを簡単に説明した。彼女はそれを聞いて感心した。「あなたにはいろんな才能があるのね」
「柔道の方がずっと楽ですが」と天吾は笑って言った。
「ところで、お父さんは元気?」と彼女は尋ねた。
「元気にしています」と天吾は言った。しかしそれはでまかせだった。父親が元気にしているかどうかなんて彼のあずかり知るところではないし、とくに考えたくもない問題だった。その頃には天吾はもう家を出て寮生活を送っていたし、父親とは長いあいだ口をきいてもいない。
「どうして先生はこんなところに来たんですか?」と天吾は尋ねた。
「私の姪が、べつの高校のブラスバンド部でクラリネットを吹いていて、ソロをとるから聴きに来てくれって言われたの」と彼女は言った。「あなたはこれからも音楽を続けるの?」
「脚が治ったらまた柔道に戻ります。なんといっても柔道をやっていれば、食いっぱぐれがないんです。うちの学校は柔道に力を入れていますからね。寮にも入れるし、食堂の食券も一日三食支給されます。吹奏楽部じゃそうはいきません」
「できるだけお父さんの世話にはなりたくないのね?」
「あのとおりの人ですから」と天吾は言った。
女教師は微笑んだ。「でも惜しいわ。こんなに豊かな才能を持ち合わせているのに」
天吾はその小さな女教師をあらためて見下ろした。そして彼女のアパートに泊めてもらったときのことを思い出した。彼女の住んでいる、とても実務的でござつばりした部屋を頭に思い浮かべた。レースのカーテンと、いくつかの鉢植え。アイロン台と読みかけの本。壁にかかっていた小さなピンク色のワンピース。寝かせてもらったソファの匂い。そして今、彼女が自分の前に立って、まるで若い娘のようにもじもじしていることに天吾は気がついた。自分がもう十歳の無力な少年ではなく、十七歳の大柄な青年になっていることにもあらためて気づいた。胸が厚くなり、髭もはえて、もてあますほど立派な性欲もある。そして彼は年上の女性と一緒にいると、不思議に落ち着くことができた。
「会えてよかった」とその教師は言った。
「僕もお会いできて嬉しいです」と天吾は言った。それは彼の本当の気持ちだった。しかしどうしても彼女の名前を思い出すことができなかった。