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1Q84 (2-1)
日期:2018-10-13 22:07  点击:735
 第1章 青豆
      あれは世界でいちばん退屈な町だった
 
 
 梅雨明けの公式な宣言はまだ出ていなかったが、空は真っ青に晴れ上がり、真夏の太陽が留保なく地上に照りつけていた。緑の葉をたっぷりと繁らせた柳は、久方ぶりに濃密な影を路面に揺らせている。
 タマルが玄関で青豆《あおまめ》を迎えた。暗い色合いの夏物のスーツを着て、白いシャツに無地のネクタイをしめていた。そして汗ひとつかいていない。彼のような大柄な男が、どんな暑い日にも汗をかかないというのは、青豆には常に大きな不思議だった。
 タマルは青豆を見て軽く肯き、よく聴き取れない短い挨拶を口にしただけで、あとはひと言もしゃべらなかった。いつものように二人で軽い会話を交わすこともなかった。後ろを振り返らず、長い廊下を先に立って歩き、青豆を老婦人の待っているところに案内した。たぶん誰かと世間話をするような気分でもないのだろうと彼女は推測した。犬が死んだことがこたえているのかもしれない。「番犬には替わりがいる」と彼は電話で青豆に言った。気候の話でもするみたいに。しかしそれが彼の本心ではないことは、青豆にもわかっていた。その雌のドイツ・シェパードは彼にとっては大事な存在だったし、長年にわたってお互いによく心を通わせていた。その犬が唐突にわけのわからない死に方をしたことを、彼は一種の個人的な侮辱、あるいは挑戦として受け取っていた。教室の黒板のように広いタマルの無言の背中を見ながら、彼の感じているであろう静かな怒りを、青豆は想像することができた。
 タマルは居間のドアを開け、青豆を中に入れ、自分は戸口に立って老婦人の指示を待った。
「今は飲み物はけっこうです」と老婦人はタマルに言った。
 タマルは黙って小さく肯き、ドアを静かに閉めた。部屋には老婦人と青豆が残された。老婦人の座ったアームチェアの隣りのテーブルに、丸いガラスの金魚鉢が置かれ、その中を二匹の赤い金魚が泳いでいた。どこにでもいる普通の金魚で、どこにでもある普通の金魚鉢だった。水の中には決まりごとのように、緑色の藻が浮かんでいた。青豆は何度もこの端正な広い居間を訪れていたが、金魚を目にするのは初めてだった。エアコンが弱く設定されているらしく、ときおり微かな涼風が肌に感じられた。彼女の背後のテーブルには、白い百合の花が三本入った花瓶が置かれていた。百合は大きく、瞑想に耽る異国の小さな動物のようにもったりしていた。
 老婦人は手振りで、青豆を隣りにあるソファに座らせた。庭に面した窓には白いレースのカーテンが引かれていたが、夏の午後の日差しはことのほか強かった。そんな光の中で、彼女はいつになく疲弊して見えた。細い腕で力無く頬杖をつき、大きな椅子の中に身体を落ち込ませていた。目はくぼみ、首のしわも増えていた。唇には色がなく、長い眉の外端は、まるで万有引力に抗することをあきらめたかのように、わずかに下に降りていた。血液の循環機能が低下しているのかもしれない、肌がところどころで粉を吹いたように白くなって見える。この前に会ったときから、少なくとも五歳か六歳は老け込んでいる。そして今日のところ、そのような疲れが外に滲みだしてくるのを、老婦人はとくに気にとめていないように見えた。普通ではないことだ。少なくとも青豆が見ているところでは、彼女は常に外見を身ぎれいにし、自分の内にある気力を残らず動員し、姿勢をまっすぐに正し、表情を引き締め、老いの徴候をひとかけらも外に洩らすまいと努めていた。そしてその努力は常に刮目《かつもく》すべき成功を収めていた。
 今日はこの家の中の、いろんなことがいつもとは違っている、と青豆は思った。部屋の中の光さえ、普段とは違った色に染まっている。そしてこの優雅なアンティーク家具に満ちた、天井の高い部屋にはいささか不似合いな、ありふれた金魚と金魚鉢。
 老婦人はそのまましばらく口を開かなかった。彼女は椅子の肘掛けに頬杖をついたまま、青豆の横にある空間の一点を眺めていた。しかしその一点に特別なものは何も浮かんでいないことは、青豆にはわかっていた。彼女はただ視線のかりそめのやり場を必要としているだけだ。
「喉が渇いていますか?」と老婦人は静かな声で尋ねた。
「いいえ、喉は渇いていません」と青豆は答えた。
「そこにアイスティーがあります。よければグラスに注いで飲んで下さい」
 老婦人は入り口の近くにあるサービス・テーブルを指さした。そこには氷とレモンの入ったアイスティーのジャーが置かれていた。隣りに色違いの切り子細工のグラスが三つあった。
「ありがとうございます」と青豆は言った。しかしそのままの姿勢で、次の言葉を待っていた。
 それからまたひとしきり、老婦人は沈黙をまもっていた。話さなくてはならないことがあるのだが、それを口にすることによって、そこに含まれている事実が、事実としてより確実なものになってしまうかもしれない。できることならそのポイントを少しでも先に延ばしたい。そのような意味合いが込められた沈黙だった。彼女は隣りの金魚鉢にちらりと目をやった。それからあきらめたように、ようやく青豆の顔を正面から見た。唇はまっすぐに結ばれ、その両端は意識的にわずかに持ち上げられていた。
「セーフハウスの番をしていた犬が死んだことは、タマルから聞きましたね? 説明のつかない死に方をしたことを」と老婦人は尋ねた。
「聞きました」
「そのあとで、つばさがいなくなりました」
 青豆は軽く顔をしかめた。「いなくなった?」
「姿を消してしまったのです。おそらく夜のあいだに。今日の朝にはもういなくなっていました」
 青豆は唇をすぼめ、口にすべき言葉を探した。言葉はすぐに出てこなかった。「でも……この前にうかがったお話では、つばさちゃんはいつも誰かと一緒に寝ているということでしたが。同じ部屋で、用心のために」
「そうです。しかしその女性は、いつになくぐっすりと眠り込んでしまって、彼女がいなくなったことにまったく気がつかなかったそうです。夜が明けたときには、つばさの姿は布団の中にはありませんでした」
「ドイツ・シェパードが死んで、その翌日につばさちゃんがいなくなった」と青豆は確認するように言った。
 老婦人は肯いた。「そのふたつの出来事のあいだに関連性があるのかどうか、今のところ確かなことはわかりません。でもおそらく繋がりはあると私は考えています」
 青豆はこれという理由もなく、テーブルの上の金魚鉢に目をやった。老婦人も青豆の視線を追うように、それに目をやった。二匹の金魚はいくつかのひれを微妙に動かしながら、ガラスで作られた池の中を涼しげに行き来していた。夏の光がその鉢の中で不思議な屈折を見せ、神秘に満ちた深海の一部をのぞき込んでいるような錯覚を起こさせた。
「この金魚はつばさのために買ったものです」と老婦人は青豆の顔を見て、説明するように言った。「麻布の商店街で小さなお祭りがあったので、つばさを連れて散歩に行きました。部屋の中に閉じこもっているばかりでは、身体によくないと思ったのです。もちろんタマルも一緒でしたが。そこの夜店で鉢といっしょにこの金魚を買いました。あの子は金魚にとても興味を惹かれたようでした。自分の部屋に置いて、一日中飽きもせずに眺めていました。でもあの子がいなくなってしまったので、ここに持ってきました。私もここのところよく金魚を眺めています。何もせず、ただじっと眺めているのです。不思議な話ですが、たしかに見飽きることはないようです。これまで金魚を熱心に眺めたことなんて一度もなかったのだけれど」
「つばさちゃんの行きさきに心当たりのようなものは?」と青豆は尋ねた。
「心当たりはありません」と老婦人は言った。「あの子が訪ねていける親戚の家もありません。私が知る限り、この世界のどこにも行き場のない子なのです」
「誰かに無理に連れて行かれたという可能性は?」
 老婦人は目に見えない小蝿でも追い払うように、小さく神経質に首を振った。「いいえ、あの子は[#傍点]ただ[#傍点終わり]あそこから出て行ったのです。誰かがやってきて無理に連れていったわけではありません。もしそんなことがあったら、まわりの人たちは目を覚ましています。あそこにいる女性たちはただでさえ眠りが浅いのです。つばさは自分でそうしようと決めて出て行ったのだと思います。足音を立てずに階段を降りて、静かに玄関の鍵を外し、ドアを開けて外に出て行ったのです。私にはその光景が想像できます。あの子が出て行っても犬は吠えません。犬は前の夜に死んでいます。服を着替えていきませんでした。すぐそこに着替えが畳んで置いてあったのにもかかわらず、パジャマ姿のまま行ってしまったのです。お金も一銭も持っていないはずです」
 青豆の顔にはさらに歪みが加えられた。「一人きりで、パジャマ姿のまま?」
 老婦人は肯いた。「そうです。十歳の女の子が一人きりでパジャマ姿で、まったくお金も持たず、夜中にいったいどこに行けるものでしょう。常識では考えにくいことです。しかし私にはなぜか、それがとくべつ異様なこととも思えないのです。いえ、今ではそれはむしろ起こるべくして起こったのだ、という気さえしています。だからあの子の行方を捜してもいません。何もせず、ただこうして金魚を眺めているだけです」
 老婦人は金魚鉢にちらりと目をやった。それから再びまっすぐ青豆の顔を見た。
「今ここで捜しまわっても無駄なことがわかっているからです。あの子はもう私たちの手の及ばないところに行ってしまっています」
 彼女はそう言うと、頬杖をつくのをやめ、長いあいだ体内にためていた息をゆっくりと外に吐き出した。両手は膝の上に揃えて置かれた。
「でも、どうして出て行ったりしたのでしょう」と青豆は言った。「セーフハウスにいれば守られているし、ほかに行き場所もないのに」
「理由はわかりません。でも犬が死んだことが、その引き金になっているような気がします。ここに来て以来、あの子は犬をとてもかわいがっていましたし、犬もあの子にことのほかなついていました。仲の良い親友のような関係だったのです。だから犬が死んだことで、それもあのような血なまぐさい、原因不明の死に方をしたことで、つばさはずいぶんショックを受けていました。当然のことです。アパートにいた人たちはみんなショックを受けていました。しかし今になって思えば、あの犬の無惨な死は、つばさに向けられたメッセージのようなものだったのかもしれません」
「メッセージ?」
「ここにいてはならないというメッセージです。おまえがここに隠れていることはわかっている。おまえはここを出て行かなくてはならない。そうしないと更に悪いことがまわりの人々の身に起こるかもしれない。そういうメッセージです」
 老婦人の指は膝の上で架空の時間を細かく刻んでいた。青豆は話の続きを待った。
「おそらくあの子はそのメッセージの意味を理解し、自らここを去ったのでしょう。去りたくて去ったのではないはずです。ほかに行き場もないということをわかった上で、出て行かざるを得なかったのです。そう考えるとやりきれなくなります。まだ十歳の子供がそんな決心をしなくてはならないなんて」
 青豆は手を伸ばして老婦人の手を握りしめたいと思った。しかし思いとどまった。話はまだ終わっていない。
 老婦人は続けた。「私にとっては言うまでもなく大きな衝撃でした。身体の一部をもぎ取られたような気持ちです。あの子を自分の子供として正式に引き取ろうと思っていたのですから。もちろんものごとがそんなに簡単には運ばないだろうことはわかっていました。困難を承知の上で、なおかつ望んだことです。もしうまくいかなかったとしても、誰かに苦情を申し立てられる筋合いではありません。しかし正直なところ、この年になるとひどく身体にこたえます」
 青豆は言った。「でもつばさちゃんはそのうちに、ある日突然戻ってくるかもしれませんよ。お金も持っていないし、ほかに行くところもないのですから」
「そう考えたいところだけど、そんなことは起こらないでしょう」と老婦人はどことなく抑揚を欠いた声で言った。「あの子はまだ十歳ですが、それなりに思うところがあり、決心をしてここを出て行ったのです。自分から戻ってくることはおそらくありません」
 青豆は「失礼します」と言って立ち上がり、ドアの近くにあるサービス・テーブルに行き、青い切り子細工のグラスにアイスティーを注いだ。とくに喉は渇いていなかったが、席を立って一拍間を置きたかった。彼女はソファに戻ってアイスティーを一口飲み、グラスをテーブルのガラスの上に置いた。
「つばさの話はとりあえずここまでです」と老婦人は、青豆がソファに身体を落ち着けるのを待って言った。そして気持ちに区切りをつけるように、首筋をまっすぐ伸ばし、身体の前で両手の指をしっかりと組んだ。
「これから先は『さきがけ』とそのリーダーの話をしましょう。彼について知り得たことを、あなたにお話しします。それが今日あなたにここに来てもらったいちばん大事な用件です。もちろん結果的に、つばさに関わった用件にもなるわけですが」
 青豆は肯いた。それは彼女の予測していたことでもあった。
「この前にもお話ししたように、そのリーダーという人物を、私たちは何があっても処理しなくてはなりません。つまり[#傍点]あちらの世界に移ってもらう[#傍点終わり]ということです。あなたも知ってのとおり、この人物は十歳前後の少女をレイプすることを習慣にしています。すべて初潮をまだ迎えていない少女たちです。そのような行為を正当化するために、勝手な教義をでっちあげ、教団のシステムを利用しています。私はそれについてできる限り詳しく調査をしました。しかるべき筋に調査を依頼し、いささかのお金を使いました。簡単なことではありませんでした。予想したよりたくさんの金額が必要とされました。しかし何はともあれ、これまでこの男にレイプされたと思われる少女を四人まで特定することができました。その四人目がつばさです」
 青豆はアイスティーのグラスをとって一口飲んだ。味はなかった。口の中に綿が入っていて、すべての味を吸収してしまうみたいに。
「詳細はまだ判明していないのですが、四人の少女のうちの少なくとも二人は、今もなお教団の中で生活しています」と老婦人は言った。「彼女たちはリーダーの側近として巫女のような役目を果たしているということです。一般信者の前に姿を現すことはありません。その少女たちが自分の意思で教団の中に残っているのか、あるいは逃げ出せなくて、そこに留まらざるを得なかったのか、それはわかりません。彼女たちとリーダーとのあいだに今でも性的な関係があるのかどうか、それも判明していません。しかしいずれにせよ、リーダーと彼女たちは同じところで生活をしているようです。まるで家族のように。リーダーの住居のあるエリアは完全なオフリミットで、一般信者は近寄ることができません。多くのものごとが謎に包まれています」
 切り子のグラスがテーブルの上で汗をかき始めていた。老婦人は間を置いて呼吸を整えてから、また話を続けた。
「ひとつ確かなことがあります。四人のうちの最初の犠牲者は、リーダーの実の娘だということです」
 青豆は顔をしかめた。顔の筋肉がひとりでに動いて、大きく歪んだ。何かを言おうと思ったが、言葉は音声にならなかった。
「そうです。その男はいちばん最初に実の娘を犯したと考えられています。七年前、その子が十歳のときに」と老婦人は言った。
 
 老婦人はインターフォンの受話器をとりあげ、シェリー酒の瓶とグラスを二つ、タマルに持ってこさせた。そのあいだ二人は押し黙って、それぞれの抱えた思いを整理していた。タマルがトレイにシェリー酒の新しい瓶と、上品な細いクリスタルのグラスを二つ載せて運んできた。彼はそれらをテーブルの上に並べ、それから鳥の首でもひねるみたいに、きっぱりとした的確な動作で瓶の蓋を開けた。そして音を立ててグラスに注いだ。老婦人が肯くと、タマルは一礼して部屋を出て行った。彼はあいかわらずひと言も口をきかなかった。足音さえ立てなかった。
 犬のことだけではなかったのだ、と青豆は思った。自分の目の前から少女が(それも老婦人が何よりも大事にしている少女が)消えてしまったことが、タマルを深く傷つけているのだ。正確にはそれは彼の責任とは言えない。住み込みで働いているわけではないし、特別な用件がない限り、夜になれば歩いて十分ばかりのところにある自分の家に帰って眠る。犬が死んだのも少女が消えたのも、彼がいない夜のあいだに起こったことだ。どちらをとっても防ぎようもないことだった。彼の仕事はあくまで老婦人と「柳屋敷」を警護することであり、敷地の外にあるセーフハウスの安全維持までは手が回りきらない。しかしそれでもなお、それらの出来事はタマルにとっては個人的な失点であったし、自分に向けられた許しがたい侮辱だった。
「あなたにはその人物を処理する用意ができていますか?」と老婦人は青豆に尋ねた。
「できています」と青豆ははっきり返事をした。
「これは簡単な仕事ではありません」と老婦人は言った。「もちろんあなたにやってもらっていることは、いつだって簡単な仕事ではありません。しかし今回は[#傍点]とりわけそうだ[#傍点終わり]ということです。私の方でやれるだけのことは力を尽くしてやりますが、どこまであなたの安全を確保できるか、私にもまだ確信が持てないのです。おそらくそこにはいつも以上のリスクが含まれるでしょう」
「それは承知しています」
「前にも言ったことですが、あなたを危険な場所に送り込むようなことを、私はしたくありません。しかし正直なところ、今回の件については選択の余地が限られています」
「かまいません」と青豆は言った。「その男をこの世界に生かしておくことはできません」
 老婦人はグラスを手に取り、シェリーを一口なめるように飲んだ。それからまたしばらく金魚を眺めていた。
「夏の午後に常温のシェリー酒を飲むのが私は昔から好きなのです。暑いときに冷たいものを飲むのはあまり好きではありません。シェリー酒を飲んでしばらくすると、少し横になって眠ります。知らないうちに眠ってしまうのです。眠りから覚めると、少しだけ暑さが消えています。いつかそのようにして死ねるといいのにと思っています。夏の午後にシェリー酒を少し飲み、ソファに横になって知らないうちに眠ってしまって、そのまま二度と起きなければと」
 青豆もグラスを手にとって、シェリー酒を少しだけ飲んだ。青豆はその酒の味があまり好きではない。しかしたしかに何かが飲みたい気分だった。アイスティーのときとは違って、今度はいくらか味が感じられた。アルコールのきつい刺激が舌を刺した。
「正直に答えてほしいのですが」と老婦人は言った。「あなたは死ぬのが怖い?」
 返事をするのに時間はかからなかった。青豆は首を振った。「とくに怖くありません。私が私として生きていることに比べれば」
 老婦人ははかない笑みを口元に浮かべた。老婦人はさっきよりいくらか若返って見えた。唇にも生気が戻っていた。青豆との会話が彼女を刺激したのかもしれない。あるいは少量のシェリー酒が効果を発揮したのかもしれない。
「でもあなたには好きな男の人が一人いたはずですね」
「はい。しかし私がその人と現実に結ばれる可能性は、限りなくゼロに近いものです。ですからここで私が死んだとしても、それによって失われるのもまた、限りなくゼロに近いものでしかありません」
 老婦人は目を細めた。「その男の人と結ばれることはないだろうとあなたが考える、具体的な理由はあるのですか?」
「とくにありません」と青豆は言った。「私が私であるという以外には」
「あなたの方からその人に対して、何か働きかけをするつもりはないのですね?」
 青豆は首を振った。「私にとって何より重要なのは、自分が彼を心から深く求めているという事実です」
 老婦人は感心したようにしばらく青豆の顔を見つめていた。「あなたはとてもきっぱりとした考え方をする人ですね」
「そうする必要があったのです」と青豆は言った。そしてシェリー酒のグラスをかたちだけ唇に運んだ。「好んでそうなったわけではありません」
 沈黙が少しのあいだ部屋を満たした。百合の花は頭を垂れ続け、金魚は屈折した夏の光の中を泳ぎ続けた。
「リーダーとあなたが二人きりになる状況を設定することは可能です」と老婦人は言った。「簡単なことではありませんし、時間もかなりかかるでしょう。しかし最終的には、私にはそれができます。そこであなたは[#傍点]いつもと同じこと[#傍点終わり]をしてくれればいいのです。ただし今回、あなたはそのあと姿を消さなくてはなりません。顔の整形手術を受けてもらいます。今の仕事ももちろん辞め、遠いところに行きます。名前も変えます。これまであなたがあなたとして持っていたものを、すっかり捨ててもらわなくてはなりません。別の人間になるのです。あなたはもちろんまとまった額の報酬を受け取ります。そのほかすべての物事に私が責任を持ちます。それでかまいませんか?」
 青豆は言った。「さっきも申し上げましたとおり、私には失うものはありません。仕事も、名前も、東京での今の暮らしも、私にとってはさして意味を持たないものです。異存はありません」
「顔が変わってしまうことも」
「今よりよくなるのかしら?」
「あなたがそう望むのであれば、もちろんそれは可能です」と老婦人は真面目な顔で答えた。
「もちろん程度というものはありますが、あなたの希望に沿って顔を作ることはできます」
「ついでに豊胸手術もしてもらった方がいいかもしれませんね」
 老婦人は肯いた。「それは良い考えかもしれません。もちろん人目を欺くためにということですが」
「冗談です」と青豆は言って、それから表情を和らげた。「あまり自慢できたものではありませんが、私としては胸はこのままでかまいません。軽くて持ち運びが楽ですし、それに今さら違うサイズの下着に買い換えるのも面倒ですから」
「それくらい好きなだけ買ってあげます」
「それも冗談です」と青豆は言った。
 老婦人も微笑を浮かべた。「ごめんなさい。あなたが冗談を言うことにあまり慣れていなかったものだから」
「整形手術を受けることには抵抗はありません」と青豆は言った。「これまで整形手術を受けたいと思ったことはありませんが、今それを拒否する理由もありません。もともと気に入っている顔ではありませんし、とくに気に入ってくれた人もいません」
「お友だちも失うことになりますよ」
「友だちといえるような人は私にはいません」と青豆は言った。それから彼女はふとあゆみのことを思い出した。私が何も言わずに突然姿を消してしまったら、あゆみは淋しく思うかもしれない。あるいは裏切られたように感じるかもしれない。でもあゆみを友だちと呼ぶことにはそもそもの最初から無理があった。警官を友だちにするには、青豆はあまりにも危険な道を歩んでいる。
「私には二人の子どもがいました」と老婦人は言った。「男の子と、三歳下の妹。娘の方は死にました。前にも言ったように、自殺をしたのです。彼女には子供はいません。息子の方は、いろんな事情があり、私とは長いあいだうまくいっていません。今では口をきくこともほとんどありません。孫が三人いますが、久しく会っていません。しかしもし私が死んだら、私の保有している財産の多くは一人息子と、その子供たちのところに遺贈されるはずです。ほとんど自動的に。最近は昔と違って、遺言状というものはそれほど効力を持たないのです。それでも今のところ、私には自由になるお金がかなりあります。もしあなたが今回の仕事をうまく成し遂げてくれたら、あなたのためにその多くを譲りたいと思っています。誤解しないでほしいのですが、何もあなたをお金で買い取ろうというつもりはありません。私が言いたいのは、私はあなたのことを、どちらかというと実の娘のように感じているということです。あなたが私の本当の娘であればよかったのにと思っています」
 青豆は静かに老婦人の顔を見ていた。老婦人は思い出したように、手にしていたシェリー酒のグラスをテーブルの上に置いた。そして後ろを振り向き、百合の艶やかな花弁に目をやった。その豊満な匂いを嗅ぎ、それからもう一度青豆の顔を見た。
「さっきも言った通り、私はつばさを引き取って養女にしようと考えていました。なのに結局彼女を失ってしまいました。あの子の力になってあげることもできませんでした。ただ手をこまねいて、夜の暗闇の中に一人で消えていくのを見送っていただけです。そして今度は、これまでになく危険な場所にあなたを送り込もうとしています。本当ならこんなことはしたくない。でも残念ながら今のところ、目的を果たす方法はほかに見あたりません。私にできることといえば、その現実的な埋め合わせをするくらいです」
 青豆は黙って耳を澄ませていた。老婦人が沈黙すると、ガラス戸の向こうからくつきりとした鳥のさえずりが聞こえた。ひとしきり暗いてからどこかに去っていった。
「その男は何があろうと[#傍点]処理[#傍点終わり]されなくてはなりません」と青豆は言った。「それが今何より大事なことです。私をそのように大事に思って下さることには深く感謝しています。ご存じだとは思いますが、私はわけがあって両親を捨てた人間です。わけがあって、子供の頃に両親に見捨てられた人間です。肉親の情みたいなものとは無縁な道を歩むことを余儀なくされました。一人で生き延びるためには、そういう心のあり方に自分を適応させなくてはならなかったのです。容易なことではありませんでした。ときどき自分が何かの残り津みたいに思えたものです。意味のない、汚らしい残り津みたいに。ですから、そのように言っていただけることをとてもありがたく思います。しかし考え方や生き方を変えるにはいささか遅すぎます。でもつばさちゃんはそうではありません。彼女にはまだ救いがあるはずです。簡単にあきらめないでください。希望を失わずにあの子を取り返して下さい」
 老婦人は肯いた。「私の言い方が悪かったようです。もちろんつばさのことはあきらめてはいません。何があろうと全力を尽くしてあの子を取り戻すつもりでいます。しかし見てのとおり、今の私はあまりに疲れすぎています。あの子の力になれなかったことで、深い無力感にとりつかれています。今しばらくの時間が必要です。活力を取り戻すために。それとも私はもう歳を取りすぎたのかもしれません。どれだけ待っても、そんな力はもう二度と戻ってこないのかもしれない」
 青豆はソファから立ち上がって、老婦人のところに行った。アームチェアの肘掛けに腰を下ろし、手を伸ばしてその細くてすらりとした上品な手を握りしめた。
 青豆は言った。「あなたはとんでもなくタフな女性です。ほかの誰よりも強く生きていけます。今はがっかりして、お疲れになっているだけです。横になって少しお休みになった方がいい。目が覚めたときには元のようになっているはずです」
「ありがとう」と老婦人は言って青豆の手を握りかえした。「たしかに少し眠った方がいいかもしれません」
「私はそろそろ失礼します」と青豆は言った。「連絡をお待ちしています。身辺も整理しておきます。そんなにたくさん荷物があるわけでもありませんが」
「身軽に移動できるようにしておいて。足りないものがあれば、私のほうですぐに用意できますから」
 青豆は老婦人の手を放し、立ち上がった。「おやすみなさい。何もかもきっとうまくいきます」
 老婦人は肯いた。そして椅子の中で目を閉じた。青豆はもう一度テーブルの上の金魚鉢に目をやり、百合の匂いを吸い込み、その天井の高い居間をあとにした。
 玄関ではタマルが彼女を待っていた。五時になっていたが、太陽はまだ空高くにあり、その勢いはまったく失われていなかった。彼の黒いコードバンの靴は例によってきれいに磨き上げられ、その光を眩しく反射していた。ところどころに白い夏の雲が見えたが、それは太陽の邪魔をしないように、隅の方に身を寄せていた。梅雨が明けるにはまだ早すぎたが、ここのところ何日か真夏を思わせる日が続いていた。蝉の声が庭の木立の中から聞こえた。その声はまだそれほど大きくはない。どちらかといえば遠慮がちなものだ。しかしそれは確実な先触れだった。世界の仕組みはいつもどおりに維持されていた。蝉が鳴き、夏の雲が流れ、タマルの革靴にはひとつの曇りもない。しかし青豆にはそれがなぜか新鮮なことのように思えた。世界がこうして変わりなく維持されていることが。
「タマルさん」と青豆は言った。「少し話していいかな。時間はある?」
「いいよ」とタマルは言った。表情は変わらない。「時間はある。時間を潰すのが俺の仕事の一部だからな」彼は玄関を出たところにあるガーデンチェアに腰を下ろした。青豆も隣りの椅子に腰を下ろした。突きだした軒が陽光を遮り、二人は涼しげな陰の中にいた。新しい草の匂いがした。
「もう夏だな」とタマルは言った。
「蝉も鳴き始めた」と青豆は言った。
「今年は蝉が鳴き始めるのがいつもより少し早いみたいだ。この一帯はこれからまたしばらくうるさくなる。耳が痛くなるくらいな。ナイアガラ漫布の近くの町に泊まったとき、ちょうどそんな音がしていた。朝から晩まで途切れなくそれが続くんだ。百万匹もの大小の蝉が鳴いているような音が」
「ナイアガラに行ったことがあるんだ」
 タマルは肯いた。「あれは世界でいちばん退屈な町だったな。俺は一人でそこに三日もいて、滝の音を聴く以外に何ひとつすることがなかった。音がやかましくて本も読めなかった」
「ナイアガラで一人で三日も何をしていたの?」
 タマルはそれには答えなかった。小さく首を振っただけだ。
 タマルと青豆はしばらく何も言わずささやかな蝉の声に耳を澄ませていた。
「ひとつ頼みごとがあるの」と青豆は言った。
 タマルはいくらか興味を惹かれたようだった。青豆はそうしょっちゅう頼みごとをするタイプではない。
 彼女は言った。「ちょっと普通じゃない頼み事なの。不愉快に思ったりしないでくれるといいんだけど」
「俺にできるかできないかはわからんけれど、聞くだけは聞いてみよう。いずれにせよ、礼儀としてご婦人の頼み事を不愉快に思ったりはしない」
「拳銃がひとつ必要なの」と青豆は事務的な声で言った。「ハンドバッグに入るくらいのサイズ。反動が少なくて、それでいてある程度の破壊力があり、性能に信頼の置けるもの。モデルガンの改造品とか、フィリピン製のコピーものみたいなのは困る。使うとしても一度しか使わない。弾丸もたぶん一発あればいい」
 沈黙があった。そのあいだタマルは青豆の顔から目をそらさなかった。その視線は一ミリも動かなかった。
 タマルは念を押すようにゆっくりと言った。「この国では一般市民が拳銃を所持することは、法律で禁止されている。それは知っているね?」
「もちろん」
「念のために言っておくが、俺はこれまで刑事責任を問われたことは一度もない」とタマルは言った。「言い換えれば、前科はないということだよ。司法の側に見落としのようなことがいくつかあったかもしれない。そこまではあえて否定しない。しかし記録の上からいえば、俺はまったく健全な市民だ。清廉潔白、汚点ひとつない。ゲイではあるけれど、それは法律に反していない。税金は言われたとおりに納めているし、選挙で投票もする。俺が投票する候補者が当選したためしはないけどな。駐車違反の罰金だって期限内に全部払った。スピード違反で捕まったことはこの十年間一度もない。国民健康保険にも入っている。NHKの受信料も銀行振り込みで払っているし、アメリカン・エクスプレスとマスターカードを持っている。そんなことをするつもりは今のところないが、もし望むなら三十年の住宅ローンを組むことだってできるはずだ。そして自分がそのような立場にあることを、俺としては常々喜ばしく思っている。あんたはそういう社会の礎石と言ってもおかしくない人物に向かって、拳銃の手配を頼んでいるんだ。それはわかっているのか?」
「だから気を悪くしないでくれるといいんだけどって言ったじゃない」
「ああ、それは聞いたよ」
「申し訳ないとは思うけど、あなたのほかには、そんなことを頼めそうな人は一人も思いつかなかったから」
 タマルは喉の奥で小さなくぐもった音を立てた。それは押し殺されたため息のように聞こえなくもなかった。「もし仮に俺がそういう手配のできる立場にあったならということだけど、常識的に考えて、俺はたぶんあんたにこう質問するだろうね。いったいそれで誰を撃つつもりなのかって」
 青豆は人差し指で自分のこめかみをさした。「たぶんここを」
 タマルはその指をしばらく無表情に眺めていた。「その理由は、と俺は更に質問するだろうな」
「つかまりたくないから。死ぬのは怖くない。刑務所に行くのも、おそろしく不愉快ではあるけれど、まあ許容するしかないと思う。しかしわけのわからない連中に捕らえられて、拷問されたりするのは困る。私としては誰の名前も出したくないから。言う意味はわかるでしょう?」
「わかると思う」
「誰かを撃つつもりはないし、銀行を襲うつもりもない。だから二十連発セミオートマチックみたいな大げさなものはいらない。コンパクトで反動の少ないものがいい」
「薬という選択肢もある。拳銃を手に入れるより、その方が現実的だ」
「薬は取り出して飲み込むまでに時間がかかる。カプセルをかみ砕く前に口の中に手を突っ込まれたら、身動きがとれなくなる。でも拳銃があれば、相手を牽制しながらものごとを処理することができる」
 タマルはそれについてしばらく考えていた。右側の眉がいくらか持ちあげられた。
「俺としては、できることならあんたを失いたくない」と彼は言った。「俺はあんたのことがわりに気に入っているんだ。つまり個人的に」
 青豆はほんの少し微笑んだ。「人間の女にしては、ということ?」
 タマルは表情を変えずに言った。「男にせよ女にせよ、あるいは犬にせよ、俺はそれほど多くの相手を気に入るわけじゃない」
「もちろん」と青豆は言った。
「しかしそれと同時に、マダムの安寧と健康を護るのが、俺の目下の最重要事項になっている。そして俺はなんというか、ある種のプロだ」
「言うまでもなく」
「そういう観点から見て、俺にどんなことができるものか、ちょっと調べてみようと思う。保証はできない。しかしひょっとしたら、あんたの要望にこたえられる知り合いを見つけることができるかもしれない。ただしこれはきわめて微妙なものごとだ。通信販売で電気毛布を買うのとはわけが違う。返事できるまでに、一週間くらいはかかるかもしれない」
「それでかまわない」と青豆は言った。
 タマルは目を細め、蝉の鳴いている木立を見上げた。「いろんなことがうまくいくことを祈っている。それが妥当なことであれば、俺にできる限りのことはする」
「ありがとう。この次がおそらく私の最後の仕事になると思う。ひょっとしたらもうタマルさんに会うこともないかもしれない」
 タマルは両手を広げ、手のひらを上に向けた。まるで砂漠の真ん中に立って、雨が降ってくるのを待ち受けている人のように。でも何も言わなかった。大きな分厚い手のひらだった。ところどころに傷がついている。それは身体の一部というよりは、巨大な重機の部品のように見えた。
「さよならを言うのはあまり好きじゃない」とタマルは言った。「俺は両親にさよならを言う機会さえ持てなかった」
「亡くなったの?」
「生きているか死んでいるかも知らない。俺はサハリンで終戦の前の年に生まれた。サハリン南部は日本の領土になって当時樺太と呼ばれていたが、一九四五年の夏にソビエト軍に占領されて、両親は捕虜になった。父親は港湾施設で働いていたらしい。日本人の民間人捕虜の大半はほどなく本国に送還されたが、俺の両親は労働者として送られてきた朝鮮人だったから、日本には戻してもらえなかった。日本政府は引き取りを拒否した。終戦とともに朝鮮半島出身者はもう大日本帝国臣民ではなくなったという理由で。ひどい話だ。親切心ってものがないじゃないか。希望すれば北朝鮮には行けたが、南には戻してもらえなかった。ソビエトは当時韓国の存在を認めていなかったからな。俺の両親は釜山《プサン》近郊の漁村の出身で、北に行く気はなかった。親戚も知り合いも北には一人もいない。まだ赤ん坊だった俺は、日本人の帰国者の手に託されて、北海道に渡った。当時のサハリンの食糧事情は最悪に近いものだったし、ソビエト軍の捕虜の扱いもひどかった。両親には俺のほかに何人か小さな子供がいたし、俺をそこで育てることはむずかしそうだった。先に一人で北海道に帰しておいて、あとで再会できると思ったんだろう。あるいは体《てい》よく厄介払いをしたかっただけかもしれん。詳しい事情はわからん。いずれにせよ再会することはなかった。両親はたぶん今でもサハリンに残っているはずだ。まだ死んでいなかったらということだが」
「両親のことは何も覚えていない?」
「何ひとつ覚えていない。別れたときはまだ一歳とちょっとだったからな。俺はしばらくその夫婦に育てられたあと、函館近郊の山中にある孤児のための施設に入れられた。その夫婦にも俺の面倒をずっとみるような余裕はなかったんだろう。カトリックの団体が運営している施設だが、それはタフな場所だったよ。終戦直後にはやたらたくさん孤児がいて、食糧も暖房も不足していた。生き延びるためにはいろんなことをしなくちゃならなかった」、タマルは自分の右手の甲にちらりと目をやった。「そこでかたちだけの養子縁組をして日本国籍をとり、日本人の名前をもらった。田丸健一。本名は朴《バク》としかわからん。そして朴という名前の朝鮮人は星の数ほどいる」
 青豆とタマルはそこに並んで座り、それぞれに蝉の声に耳を澄ませていた。
「新しい犬を飼った方がいい」と青豆は言った。
「マダムにもそう言われている。アパートには新しい番犬が必要だってな。しかしなかなかそういう気持ちになれないんだ」
「気持ちはわかる。でも見つけた方がいい。私は人に忠告できるような立場にはないけれど、そう思う」
「そうするよ」とタマルは言った。「訓練を受けた番犬はやはり必要だ。なるべく早く犬屋に連絡しよう」
 青豆は腕時計に目をやった。そして立ち上がった。日没までにはまだしばらく時間がある。しかし空には夕暮れの気配がわずかにうかがえた。青の中に、別の色合いの青が混じり始めていた。シェリー酒の酔いが少し身体に残っていた。老婦人はまだ眠っているだろうか?
「チェーホフがこう言っている」とタマルもゆっくり立ち上がりながら言った。「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない、と」
「どういう意味?」
 タマルは青豆の正面に向き合うように立って言った。彼の方がほんの数センチだけ背が高かった。「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すなということだよ。もしそこに拳銃が出てくれば、それは話のどこかで発射される必要がある。無駄な装飾をそぎ落とした小説を書くことをチェーホフは好んだ」
 青豆はワンピースの袖をなおし、ショルダーバッグを肩にかけた。「そしてあなたはそのことを気にしている。もし拳銃が登場したら、それは必ずどこかで発砲されることになるだろうと」
「チェーホフの観点からすれば」
「だからできることなら私に拳銃を渡したくないと考えている」
「危険だし、違法だ。それに加えてチェーホフは信用できる作家だ」
「でもこれは物語じゃない。現実の世界の話よ」
 タマルは目を細め、青豆の顔をじっと見つめた。それからおもむろに口を開いた。「誰にそんなことがわかる?」

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11/25 01:41