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1Q84 (2-13)
日期:2018-10-13 22:16  点击:483
 第13章 青豆
      もしあなたの愛がなければ
 
 
「1Q84年」と青豆は言った。「私が今生きているのは1Q84年という名前で呼ばれる年であって、それは[#傍点]本当[#傍点終わり]の1984年ではない。そういうこと?」
「何が本当の世界かというのは、きわめてむずかしい問題だ」、リーダーと呼ばれる男はうつぶせになったままそう言った。「それは結局のところ形而上的な命題になってくる。しかし[#傍点]ここ[#傍点終わり]は本当の世界だ。そいつは間違いない。この世界で味わう痛みは、本物の痛みだ。この世界にもたらされる死は、本物の死だ。流されるのは本物の血だ。ここは[#傍点]まがい物[#傍点終わり]の世界ではない。仮想の世界でもない。形而上的な世界でもない。それはわたしが請け合う。しかしここは君の知っている1984年ではない」
「パラレル・ワールドのようなもの?」
 男は肩を小さく震わせて笑った。「君はどうやらサイエンス・フィクションを読みすぎているようだ。いや、違う。ここはパラレル・ワールドなんかじゃない。あちらに1984年があって、こちらに枝分かれした1Q84年があり、それらが並列的に進行しているというようなことじゃないんだ。1984年はもう[#傍点]どこにも[#傍点終わり]存在しない。君にとっても、わたしにとっても、今となっては時間といえばこの1Q84年のほかには存在しない」
「私たちはその時間性に[#傍点]入り込んで[#傍点終わり]しまった」
「そのとおり。我々はここに入り込んでしまった。あるいは時間性が我々の内側に入り込んでしまった。そしてわたしが理解する限り、ドアは一方にしか開かない。帰り道はない」
「首都高速道路の非常階段を降りたときに、それが起こったのね」と青豆は言った。
「首都高速道路?」
「三軒茶屋のあたりで」と青豆は言った。
「場所はどこでもかまわない」と男は言った。「君にとってはそれは三軒茶屋だった。でも具体的な場所が問題になっているのではない。ここではあくまで時間が問題なんだ。言うなれば線路のポイントがそこで切り替えられ、世界は1Q84年に変更された」
 何人かのリトル・ピープルが力を合わせて、線路を切り替える装置を動かしている光景を、青豆は想像した。真夜中に、青白い月の光の下で。
「そしてこの1Q84年にあっては、空に月がふたつ浮かんでいるのですね?」と彼女は質問した。
「そのとおり。月は二つ浮かんでいる。それが線路が切り替えられたことの[#傍点]しるし[#傍点終わり]なんだ。それによって二つの世界の区別をつけることができる。しかしここにいるすべての人に二つの月が見えるわけではない。いや、むしろほとんどの人はそのことに気づかない。言い換えれば、今が1Q84年であることを知る人の数は限られているということだ」
「この世界にいる人の多くは、時間性が切り替わったことに気づいていない?」
「そうだ。おおかたの人々にとってここは何の変哲もない、[#傍点]いつもの[#傍点終わり]世界なんだ。『これは本当の世界だ』とわたしがいうのは、そういう意味あいにおいてだよ」
「線路のポイントが切り替えられた」と青豆は言った。「もしそのポイントが切り替えられなかったら、私とあなたがこうしてここで会うこともなかった、そういうことでしょうか?」
「そればかりは誰にもわからない。蓋然性の問題だ。しかしおそらくそうだろう」
「あなたの言っていることは厳正な事実なのですか、それともただの仮説なのですか?」
「良い質問だ。しかしそのふたつを見分けるのは至難の業だ。ほら、古い唄の文句にもあるだろう。Without your love, it's a honkey-tonk parade」、男はメロディーを小さく口ずさんだ。「君の愛がなければ、それはただの安物芝居に過ぎない。この唄は知っているかな?」
「『イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン』」
「そう、1984年も1Q84年も、原理的には同じ成り立ちのものだ。君が世界を信じなければ、またそこに愛がなければ、すべてはまがい物に過ぎない。どちらの世界にあっても、どのような世界にあっても、仮説と事実とを隔てる線はおおかたの場合目には映らない。その線は心の目で見るしかない」
「誰が線路のポイントを切り替えたのですか?」
「誰がポイントを切り替えたか? それもむずかしい問いかけだ。原因と結果という論法はここではあまり力を持たない」
「いずれにせよ、[#傍点]何らかの意思[#傍点終わり]によって私はこの1Q84年の世界に運び込まれた」と青豆は言った。「私自身の意思ではないものによって」
「そのとおりだ。君の乗った列車はポイントを切り替えられたことによって、この世界に運び込まれてきた」
「そこにはリトル・ピープルがかかわっているのですか?」
「この世界にはリトル・ピープルなるものがいる。少なくともこの世界においては彼らはリトル・ピープルと呼ばれている。しかしそれがいつも形を持ち、名前を持つとは限らない」
 青豆は唇を噛み、それについて考えた。そして言った。「あなたの話は矛盾したもののように私には思えます。もしリトル・ピープルなるものが線路を切り替えて、私を1Q84年に運び込んだとする。しかし、もし私がここであなたに対してやろうとしていることを、リトル・ピープルが望んでいないのだとしたら、どうして彼らはわざわざ私をここに運び込まなくてはならなかったのですか? 私を排除する方が、彼らの利益にはかなっているはずなのに」
「それを説明するのは簡単ではない」と男はアクセントを欠いた声で言った。「しかし君はなかなか頭の回転が速い。わたしの言わんとすることを漠然とでも理解してもらえるかもしれない。前にも言ったように、我々の生きている世界にとってもっとも重要なのは、善と悪の割合が、バランスをとって維持されていることだ。リトル・ピープルなるものは、あるいはそこにある[#傍点]何らかの意思[#傍点終わり]は、たしかに強大な力を持っている。しかし彼らが力を使えば使うほど、その力に対抗する力も自動的に高まっていく。そのようにして世界は微妙な均衡を保っていく。どの世界にあってもその原理は変わらない。我々が今このように含まれている1Q84年の世界にあっても、まったく同じことが言える。リトル・ピープルがその強い力を発揮し始めたとき、反リトル・ピープル的な力も自動的にそこに生じることになった。そしてその対抗モーメントが、君をこの1Q84年に引き込むことになったのだろう」
 その巨体を青いヨーガマットの上に、岸に打ち上げられた鯨のように横たえたまま、男は大きく息をした。
「さっきの鉄道のアナロジーに沿って話を進めるなら、こういうことになる。彼らは線路のポイントを切り替えることができる。その結果、列車はこちらのラインに入ってくる。1Q84年というラインだ。しかし彼らには、その列車に乗り合わせている乗客の一人一人を識別したり、選り分けたりすることまではできない。つまりそこには、彼らにとって[#傍点]望ましくない[#傍点終わり]人々も乗り合わせているかもしれないということだ」
「招かれざる乗客」と青豆は言った。
「そのとおりだ」
 雷鳴が轟いた。さっきよりその音はずっと大きくなっている。しかし雷光はなかった。音が聞こえるだけだ。奇妙だと青豆は思った。これほど近くで落雷があるのに、稲妻が光らない。雨も降り出さない。
「ここまではわかってもらえたかな?」
「聞いています」、彼女は針の先を首筋のポイントから既に外していた。彼女は針の先端を注意深く宙に向けていた。今は相手の話についていくことに神経を集中しなくてはならない。
「光があるところには影がなくてはならないし、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。カール・ユングはある本の中でこのようなことを語っている。
『影は、我々人間が前向きな存在であるのと同じくらい、よこしまな存在である。我々が善良で優れた完壁な人間になろうと努めれば努めるほど、影は暗くよこしまで破壊的になろうとする意思を明確にしていく。人が自らの容量を超えて完全になろうとするとき、影は地獄に降りて悪魔となる。なぜならばこの自然界において、人が自分自身以上のものになることは、自分自身以下のものになるのと同じくらい罪深いことであるからだ』
 リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。この場合、わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった。そのようにして均衡が維持された」
「あなたの娘?」
「そうだ。まず最初にリトル・ピープルなるものを導き入れたのがわたしの娘だ。彼女はそのとき十歳だった。今では十七になっている。彼らはあるとき暗闇の中から現れ、娘を通してこちらにやってきた。そしてわたしを代理人とした。娘がパシヴァ=知覚するものであり、わたしがレシヴァ=受け入れるものとなった。わたしたちにはたまたまそういう資質が具わっていたようだ。いずれにせよ、彼らがわたしたちを見つけた。わたしたちが彼らを見つけたわけではない」
「そしてあなたは自分の娘をレイプした」
「[#傍点]交わった[#傍点終わり]」と彼は言った。「その言葉の方が実相により近い。そしてわたしが交わったのはあくまで観念としての娘だ。交わるというのは多義的な言葉なのだ。要点はわたしたちがひとつになることだった。パシヴァとレシヴァとして」
 青豆は首を振った。「あなたの言っていることが理解できない。あなたは自分の娘と性交したのですか、しなかったのですか?」
「その答えはどこまでいっても、イエスでありノーだ」
「つばさちゃんについても同じことなのですか?」
「同じことだ。原理としては」
「しかしつばさちゃんの子宮は[#傍点]現実に[#傍点終わり]破壊されていた」
 男は首を振った。「君が目にしたのは観念の姿だ。実体ではない」
 会話の速い流れに青豆はついていくことができなかった。彼女は間を置き、呼吸を整えた。それから言った。
「観念が人の姿をとって、歩いて逃げてきたということですか?」
「簡単に言えば」
「私が目にしたつばさちゃんは実体ではなかった?」
「だから彼女は回収された」
「回収された」と青豆は言った。
「回収され、治癒されている。必要な治療を受けている」
「私はあなたの言うことを信じない」、青豆はきっぱりと言った。
「君を責めることはできそうにない」と男は感情を込めない声で言った。
 青豆はしばらくのあいだ言葉を失っていた。それから別の質問をした。「自分の娘を観念的に多義的に犯すことによって、あなたはリトル・ピープルの代理人になった。しかしあなたがリトル・ピープルの代理人となるのと同時に、彼女はその補償のために、あなたのもとを離れていわば敵対する存在になった。あなたが主張しているのは、つまりそういうことかしら?」
「そのとおりだ。彼女はそのために自らのドウタを捨てた」と男は言った。「しかしそう言われても、どんなことだかよく理解できないだろうね」
「ドウタ?」と青豆は言った。
「生きている影のようなものだ。そしてそこにはもう一人の人物が関わってくることになる。わたしの古くからの個人的な友人だ。信頼するに足る男だ。わたしは娘をその友人に託した。またそれほど前のことではないが、君もよく知っている川奈天吾くんがそこに新たに関わることになった。天吾くんとわたしの娘は、偶然によって引き合わされ、チームを組んだ」
 時間がそこで唐突に停止してしまったようだった。青豆はうまく言葉を見つけることができなかった。彼女は身体をこわばらせたまま、時間が再び動き出すのをじつと待っていた。
 男は続けた。「二人はそれぞれを補う資質を持ち合わせていた。天吾くんに欠けているものを絵里子が持ち、絵里子に欠けているものを天吾くんが持っていた。彼らは補いあい、力を合わせてひとつの作業を成し遂げた。そしてその成果は大きな影響力を発揮することになった。反リトル・ピープルのモーメントを確立する、という文脈においてね」
「チームを組んだ?」
「二人は恋愛関係や肉体関係にあるわけではない。だから心配をすることはない。もし君がそういうことを考えているなら、ということだが。絵里子は誰とも恋愛をしたりはしない。彼女は——そういう立場を超えたところにいる」
「二人の共同作業の成果というのはどんなことなのですか。具体的に言うと?」
「それを説明するためにはもうひとつ別のアナロジーを持ち出す必要がある。言うなれば、二人はウィルスに対する抗体のようなものを立ち上げたんだ。リトル・ピープルの作用をウィルスとするなら、彼らはそれに対する抗体をこしらえて、散布した。もちろんこれは一方の立場から見たアナロジーであって、リトル・ピープルの側からすれば、逆に二人がウィルスのキャリアであるということになる。ものごとはすべて合わせ鏡になっている」
「それがあなたの言う補償行為ですね?」
「そういうことだ。君の愛する人物と、わたしの娘が力を合わせてそのような作業を成し遂げた。つまり君と天吾くんとは、この世界において文字通り踵《きびす》を接していることになる」
「でもそれは[#傍点]たまたまではない[#傍点終わり]、ともあなたは言った。つまり私は何らかのかたちある意思に導かれてこの世界にやってきた。そういうことかしら?」
「そのとおりだ。君はかたちある意思に導かれ、目的を持ってここにやってきた。この1Q84年の世界に。君と天吾くんとがどのようなかたちにせよ、ここで関わりを持つようになったのは、決して偶然の所産ではない」
「それはどんな意思で、どんな目的なの?」
「それを説明することはわたしの任ではない」と男は言った。「申し訳ないが」
「どうして説明ができないの?」
「意味が説明できないということではない。しかし言葉で説明されたとたんに失われてしまう意味がある」
「じゃあ、違う質問をします」と青豆は言った。「それはどうして私でなくてはならなかったのかしら?」
「それがどうしてだか、君にはまだわかっていないらしい」
 青豆は何度も強く首を振った。「どうしてだか、私にはわかりません。[#傍点]ぜんぜん[#傍点終わり]」
「きわめて簡単なことだ。それは君と天吾くんが、互いを強く引き寄せ合っていたからだ」
 青豆はそのまま長いあいだ沈黙を保っていた。額にうっすらと汗がにじむのを青豆は感じた。目に見えない薄い膜で、顔全体を覆われたような感触があった。
「引き寄せ合っている」と彼女は言った。
「互いに、とても強く」
 怒りに似た感情がわけもなく彼女の中にこみ上げてきた。そこにはかすかな吐き気の予感さえあった。「そんなことは信じられません。彼が私のことなんかを覚えている[#傍点]はずがない[#傍点終わり]」
「いや、天吾くんは君がこの世界に存在することをちゃんと覚えているし、君を求めてもいる。そして今に至るまで、君以外の女性を愛したことは一度もない」
 青豆はしばらく言葉を失っていた。そのあいだ激しい落雷は、短い間隔を置いて続いていた。雨もようやく降り出したようだった。大きな雨粒がホテルの部屋の窓を強く叩き始めた。しかしそんな音は青豆の耳にはほとんど届かなかった。
 男は言った。「信じる信じないは君の自由だ。しかし信じた方がいい。紛れのない真実なのだから」
「会わなくなってからもう二十年も経つのに、彼が私のことをまだ覚えているというの? まともに口をきいたことすらないのに」
「誰もいない小学校の教室で、君は天吾くんの手を強く握った。十歳のときに。そうするには、あらん限りの勇気を振り絞らなくてはならなかったはずだ」
 青豆は激しく顔を歪めた。「どうして[#傍点]あなたが[#傍点終わり]そんなことを知っているの?」
 男はその質問には答えなかった。「天吾くんはそのことを決して忘れなかった。そして君のことをずっと考えてきた。今でも君のことを考え続けている。信じた方がいい。わたしにはいろんなことがわかる。たとえば君は今でも、自慰行為をするときに天吾くんのことを考える。彼の姿を思い浮かべる。そうだね?」
 青豆は口を小さく開けたきり、すべての言葉を失っていた。ただ浅く呼吸をしているだけだ。
 男は続けた。「何も恥ずかしがることはない。人の自然な営みだ。彼も同じことをしている。そのときに君のことを考えている。今でも」
「[#傍点]どうして[#傍点終わり]そんなことをあなたが……」
「何故わたしにそんなことがわかるのか? 耳を澄ませばわかる。声を聴くことがわたしの仕事なのだから」
 彼女は大声で笑い出したくもあったし、同時に泣き出したくもあった。しかしそのどちらもできなかった。彼女はその中間に立ちすくんだまま、どちらにも重心を移せず、ただ言葉を失っていた。
「怯えることはない」と男は言った。
「[#傍点]怯える[#傍点終わり]?」
「君は怯えている。かつてヴァチカンの人々が地動説を受け入れることを怯えたのと同じように。彼らにしたところで、天動説の無謬性《むびゅうせい》を信じていたわけではない。地動説を受け入れることによってもたらされるであろう新しい状況に怯えただけだ。それにあわせて自らの意識を再編成しなくてはならないことに怯えただけだ。正確に言えば、カトリック教会はいまだに公的には地動説を受け入れてはいない。君も同じだ。今まで長いあいだ身にまとってきた、固い防御の鎧を脱ぎ捨てなくてはならないことを怯えている」
 青豆は両手で顔を覆ったまま、何度かしゃくり上げた。そんなことをしたくはなかったのだが、ひとしきり自分を抑えることができなかった。彼女はそれを笑いに見せかけたかった。しかしそれはかなわぬことだった。
「君たちは言うなれば、同じ列車でこの世界に運び込まれてきた」と男は静かな声で言った。
「天吾くんはわたしの娘と組むことによって反リトル・ピープル作用を立ち上げ、君は別の理由からわたしを抹殺しようとしている。言い換えるなら、君たちはそれぞれに、とても危険な場所でとても危険なことをしている」
「[#傍点]何らかの意思[#傍点終わり]がそうすることを私たちに求めたということ?」
「おそらくは」
「いったい何のために?」、口に出してから、それが無駄な発言であることに青豆は気づいた。答えが返ってくる見込みのない質問だ。
「もっとも歓迎すべき解決方法は、君たちがどこかで出会い、手に手を取ってこの世界を出ていくことだ」と男は質問には答えずに言った。「しかしそれは簡単なことではない」
「簡単なことではない」と青豆は無意識に相手の言葉を繰り返した。
「残念ながら、ごく控えめに表現して、簡単なことではない。率直に言えばおおむね不可能なことだ。君たちが相手にしているのは、それをどのような名前で呼ぼうと、痛烈な力だ」
「そこで——」と青豆は乾いた声で言った。そして咳払いをした。彼女の混乱は今では収まっていた。今はまだ泣くべき時ではない、と青豆は思った。「そこで、あなたの提案が出てくるわけですね。私があなたに苦痛のない死を与えることの見返りに、あなたは何かを私に差し出すことができる。違う選択肢のようなものを」
「君はとてもわかりがいい」と男はうつぶせになったまま言った。「そのとおりだ。わたしの提案は君と天吾くんとに関係した選択肢だ。心愉しいものではないかもしれない。しかし少なくともそこには選択の余地がある」
 
「リトル・ピープルはわたしを失うことを恐れている」と男は言った。「なぜなら彼らにはわたしの存在がまだ必要だからだ。わたしは彼らの代理人としてきわめて有用な人間だ。わたしのかわりを見つけるのは簡単ではない。そして今の時点では、わたしの後継者はまだ用意されていない。彼らの代理人になるには様々な困難な条件を満たす必要があるし、わたしはその条件をすべて満たす希な存在だった。彼らはわたしを失うことを恐れている。今ここでわたしを失えば、一時的な空白が生じる。だから彼らは、君がわたしの命を奪うことを妨げようとしている。まだしばらくはわたしを生かしておきたいのだ。外で鳴っている雷は彼らの怒りのしるしだ。しかし彼らは君に直接手を出すことができない。ただ怒りの警告を与えているだけだ。同じ理由で彼らは君の友だちを、おそらくは巧妙なやり方で死に追い込んでいった。そして彼らはこのままでは、天吾くんに何らかのかたちで危害を及ぼすことだろう」
「危害を及ぼす?」
「天吾くんはリトル・ピープルと、彼らの行っている作業についての物語を書いた。絵里子が物語を提供し、天吾くんがそれを有効な文章に転換した。それが二人の共同作業だった。その物語はリトル・ピープルの及ぼすモーメントに対抗する抗体としての役目を果たした。それは本として出版され、ベストセラーになった。そのせいでリトル・ピープルは一時的にせよ、いろんな可能性を潰され、いくつかの行動を制限されることになった。『空気さなぎ』という題名を耳にしたことはあるだろう」
 青豆は肯いた。「新聞で本についての記事を見かけたことがあります。出版社の広告も。本は読んでいませんが」
「『空気さなぎ』を実質的に書いたのは天吾くんだ。そして今、彼は新しい自分の物語を書いている。彼はそこに、つまり月の二つある世界の中に、自らの物語を[#傍点]発見した[#傍点終わり]んだよ。絵里子という優れたパシヴァが、彼の中にその抗体としての物語を立ち上げさせた。天吾くんはレシヴァとしての優れた能力を具えていたようだ。君をここに連れてきたのも、言いかえるならその車両に君を乗せたのも、彼のそんな能力かもしれない」
 青豆は淡い闇の中で厳しく顔をしかめた。なんとか話についていかなくてはならない。「私はつまり、天吾くんの物語を語る能力によって、あなたの言葉を借りるならレシヴァとしての力によって、1Q84年という別の世界に運び込まれたということなのですか?」
「少なくともそれがわたしの推測するところだ」と男は言った。
 青豆は自分の両手を見つめた。その指は涙で湿っていた。
「このままでいけば、かなりの確率で天吾くんは抹殺されるだろう。彼は今のところ、リトル・ピープルなるものにとっていちばんの危険人物になっている。そしてここはあくまで本物の世界だ。本物の血が流され、本物の死がもたらされる。死はもちろん永久的なものだ」
 青豆は唇を噛んだ。
「このように考えてみてほしい」と男は言った。「君がもしここでわたしを殺し、この世界から削除したとする。そうすればリトル・ピープルが天吾くんに危害を及ぼす理由はなくなる。わたしというチャンネルが消滅してしまえば、天吾くんとわたしの娘がどれだけそのチャンネルを妨害したところで、彼らにとってはもはや脅威ではなくなってしまうからだ。リトル・ピープルはそんなものは放っておいて、よそに行って別のチャンネルを探す。別の成り立ちをしたチャンネルを。それが彼らにとっての最優先事項になる。それはわかるかな?」
「理屈としては」と青豆は言った。
「しかしその一方わたしが殺されれば、わたしの作った組織が君を放ってはおかない。君を見つけ出すまでにいくらか時間がかかるかもしれない。君はきっと名前を変え、住む場所を変え、おそらくは顔も変えるだろうからね。それでもいつか彼らは君を追い詰め、厳しく罰するだろう。そういう緊密で暴力的で、後戻りのできないシステムを[#傍点]わたしたち[#傍点終わり]は作り上げたのだ。それがひとつの選択肢だ」
 青豆は彼の言ったことを頭の中で整理した。男はそのロジックが青豆の頭の中に染み込むのを待った。
 男は続けた。「逆に、もし君がここでわたしを殺さなかったとする。君はこのままおとなしく引き上げる。わたしは生き延びる。そうすればリトル・ピープルは、わたしという代理人を護るために、全力を尽くして天吾くんを排除しようと努めるだろう。彼のまとった護符はまだそれほど強くはない。彼らは弱点をみつけ出し、何かしらの方法をもって天吾くんを破壊しようとするはずだ。これ以上の抗体の流布を彼らは許容できないから。そのかわり君の脅威はなくなり、故に君が罰せられる理由はなくなる。それがもうひとつの選択肢だ」
「その場合天吾くんは死に、私は生き残る。この1Q84年の世界に」、青豆は男の言ったことを要約した。
「おそらく」と男は言った。
「でも天吾くんが存在しない世界では、私が生きる意味もない。私たちが出会う可能性は永久に失われてしまうのだから」
「君の観点からすれば、そういうことになるかもしれない」
 青豆は唇をきつく噛みしめ、その状況を頭の中に想像した。
「でもそれは、ただ[#傍点]あなたがそう言っている[#傍点終わり]というに過ぎない」と彼女は指摘した。「私があなたの言い分を、そのまま信じなくてはならない根拠や裏付けのようなものはありますか?」
 男は首を振った。「そのとおり。根拠や裏付けはどこにもない。ただわたしがそう言っているだけだ。しかしわたしの持っている特殊な力はさきほど目にしたはずだ。あの置き時計には糸はついてないよ。そしてとても重いものだ。行って調べてみるといい。わたしの言っていることを受け入れるか受け入れないか、そのどちらかだ。そして我々にはもうあまり時間は残されていない」
 青豆はチェストの上の置き時計に目をやった。時計の針は九時少し前を指していた。時計の置かれた位置は[#傍点]ずれ[#傍点終わり]ていた。妙な角度に向けられている。さっき空中に持ち上げられ、落とされたせいだ。
 男は言った。「この1Q84年において今のところ、君たち二人を同時に助けることはできそうにない。選択肢は二つ。ひとつはおそらくは君が死に、天吾くんが生き残る。もうひとつはおそらくは彼が死に、君が生き残る。そのどちらかだ。心愉しい選択肢ではないと、最初に断ったはずだよ」
「でもそれ以外の選択肢は存在しない」
 男は首を振った。「今の時点では、そのふたつからどちらかひとつ選ぶしかない」
 青豆は肺の中の空気を集めてゆっくり吐き出した。
「気の毒だとは思う」と男は言った。「もし君がそのまま1984年にとどまっていれば、こんな選択を迫られるようなことはなかったはずだ。しかしそれと同時に、もし1984年にとどまっていれば、天吾くんが君のことをずっと思い続けてきたという事実を、君が知るすべはなかっただろう。こうして1Q84年に運ばれて来たからこそ、何はともあれ、君はその事実を知ることになった。君たちの心がある意味では結びあわされているという事実を」
 青豆は目を閉じた。泣くまいと彼女は思った。まだ泣くべき時ではない。
「天吾くんは、本当に私のことを求めているのですか。あなたは嘘偽りなくそう断言できるのですか?」、青豆はそう尋ねた。
「天吾くんは今に至るまで君以外の女性を誰一人、心から愛したことはない。それは疑いの余地のない事実だ」
「それでも、私を捜すことはしなかった」
「君だって彼の行方を捜そうとはしなかった。そうじゃないか?」
 青豆は目を閉じて、一瞬のあいだに長い歳月を振り返り、見渡した。高い丘に上り、切り立った断崖から眼下に海峡を見渡すみたいに。彼女は海の匂いを感じることができた。深い風の音を聞き取ることができた。
 彼女は言った。「私たちはもっと前に、勇気を出してお互いを捜しあうべきだったのね。そうすれば私たちは本来の世界でひとつになることもできたのに」
「仮説としてはそうだ」と男は言った。「しかし1984年の世界にあっては、君はそんな風に[#傍点]考えることすら[#傍点終わり]なかったはずだ。そのように原因と結果がねじれたかたちで結びついている。そのねじれはどれだけ世界を重ねても解消されることはあるまい」
 青豆の目から涙がこぼれた。彼女はこれまでに自分が失ってきたもののために泣いた。これから自分が失おうとしているもののために泣いた。それからやがて——どれくらい泣いていたのだろう——もうこれ以上泣くことができないというポイントが訪れた。感情が目に見えない壁に突きあたったみたいに、涙がそこで尽きた。
「いいでしょう」と青豆は言った。「確かな根拠はない。何ひとつ証明されてはいない。細かいところはよく理解できない。しかしそれでも、私はあなたの提案を受け入れなくてはならないようです。あなたが望むとおり、あなたをこの世界から消滅させます。苦痛のない一瞬の死を与えます。天吾くんを生き延びさせるために」
「わたしと取り引きをするということだね」
「そうです。私たちは取り引きをします」
「君はおそらく死ぬことになるよ」と男は言った。「君は追い詰められて罰せられる。その罰し方はあるいは酷いものになるかもしれない。彼らは狂信的な人々だ」
「かまいません」
「君には愛があるから」
 青豆は肯いた。
「愛がなければ、すべてはただの安物芝居に過ぎない」と男は言った。「唄の文句と同じだ」
「私があなたを殺せば、本当に天吾くんは生き残れるのね?」
 男はしばらくのあいだ黙っていた。それから言った。「天吾くんは生き残る。わたしの言葉をそのまま信じていい。それはわたしの命と引き替えに間違いなく与えることのできるものだ」
「私の命とも」と青豆は言った。
「命と引き替えにしかできないこともある」と男は言った。
 青豆は両方の手を堅く握りしめた。「でも本当のことをいえば、私は生きて天吾くんとひとつになりたかった」
 沈黙がしばらくのあいだ部屋に降りた。雷鳴もそのあいだは轟かなかった。すべてが静まりかえっていた。
「できることならそうさせてあげたい」と男は静かな声で言った。「わたしとしてもね。しかし気の毒だが、そういう選択肢はないんだ。1984年においてもなかったし、1Q84年においてもない。それぞれに違う意味合いにおいて」
「1984年においては、私と天吾くんの歩む道がクロスすることさえなかった。そういうこと?」
「そのとおりだ。君たち二人はまったく関わりを持たぬまま、お互いのことを考えながら、おそらくはそれぞれ孤独に年老いていっただろう」
「しかし1Q84年においては、少なくとも私は、彼のために自分が死んでいくことを知ることができる」
 男は何も言わず、大きく呼吸をした。
「ひとつ教えてほしいことがあります」と青豆は言った。
「わたしに教えられることなら」と男はうつぶせになったまま言った。
「天吾くんは、私が彼のために死んでいったことを、何かのかたちで知ることになるのでしょうか。それとも何も知らないままに終わるのでしょうか?」
 男は長いあいだその質問について考えていた。「それはおそらく君次第だ」
「私次第」と青豆は言った。そしてわずかに顔を歪めた。「それはどういうこと?」
 男は静かに首を振った。「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ。それ以上のことはわたしにも言えない。実際に死んでみるまでは、死ぬというのがどういうことなのか、正確なところは誰にもわからない」
 
 青豆はタオルをとって顔の涙を丁寧にぬぐってから、床に置いた細身のアイスピックを手に取り、繊細な先端が欠けていないことを今一度点検した。そして右手の指先で、さっき探り当てた首の後ろの致死的なポイントを探した。彼女はその位置を頭に刻み込んでいたし、すぐに見つけることができた。青豆は指の先でそのポイントをそっと押さえ、手応えを測り、自分の直感に間違いがないことを今一度確認した。それから何度もゆっくり深呼吸をして、心臓の鼓動を整え、神経を落ち着けた。頭の中をクリアにしなくてはならない。彼女は天吾に対する想いをそこから一時的に払拭した。憎しみや、怒りや、戸惑いや、慈悲の心をどこか別の場所に封印した。失敗は許されない。意識を[#傍点]死そのもの[#傍点終わり]に集中させなくてはならない。光線の焦点をくっきりとひとつに結ぶように。
「仕事を片付けてしまいましょう」と青豆は穏やかに言った。「私はこの世界からあなたを排除しなくてはならない」
「そしてわたしは与えられたすべての痛みを離れることができる」
「すべての痛みや、リトル・ピープルや、様相を変えてしまった世界や、いろんな仮説や……そして愛を」
「[#傍点]そして愛を[#傍点終わり]。そのとおりだ」と男は自らに語りかけるように言った。「わたしにも愛する人々がいた。さあ、それぞれの仕事を片付けてしまおう。青豆さん、君はおそろしく有能な人だ。わたしにはそれがわかる」
「あなたも」と青豆は言った。彼女の声は既に、死をもたらすものの不思議な透明性を帯びていた。「あなたもおそらくとても有能で優秀な人なのでしょう。あなたを殺さなくても済む世界がきっとあったはずなのに」
「その世界はもうない」と男は言った。それが彼の口にした最後の言葉になった。
 [#傍点]その世界はもうない[#傍点終わり]。
 青豆は尖った針先を、首筋のその微妙なポイントに当てた。意識を集中して角度を正しく調整した。そして右手の拳を空中に上げた。彼女は息を殺し、じっと合図を待った。もう何も考えるまい、と彼女は思った。我々はそれぞれの仕事を片付けてしまう、それだけのことだ。何を考える必要もない。説明される必要もない。ただ合図を待ち受けるだけだ。その拳は岩のように堅く、心を欠いていた。
 稲妻のない落雷が窓の外でひときわ激しく轟いた。雨がばらばらと窓に当たった。そのとき彼らは太古の洞窟にいた。暗く湿った、天井の低い洞窟だ。暗い獣たちと精霊がその入り口を囲んでいた。彼女のまわりで光と影がほんの一瞬ひとつになった。遠くの海峡を、名もない風が一息に吹き渡った。それが合図だった。合図にあわせて、青豆は拳を短く的確に振り下ろした。
 すべては無音のうちに終わった。獣たちと聖霊は深い息を吐き、包囲を解き、心を失った森の奥に戻っていった。

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