第15章 青豆
いよいよお化けの時間が始まる
青豆はクローゼットから予備の毛布を取りだし、男の大きな身体にかけた。それからもう一度首筋に指を当て、動脈の鼓動が完全に失われていることを確認した。その「リーダー」と呼ばれた人物は既に別の世界に移動していた。それがどのような世界であるかはわからない。しかし1Q84年でないことはたしかだ。そしてこちら側の世界においては、彼はもう「死者」と呼ばれる存在に変わっていた。微かな声さえ立てず、まるで寒気を感じたように身体を一瞬小さく震わせただけで、生と死を隔てる分水嶺をその男は越えていった。一滴の出血もなかった。今ではすべての苦痛から解放され、青いヨーガマットの上にうつぶせになって音もなく死んでいる。彼女の仕事はいつものように素速く、的確だった。
青豆は針の先端にコルクを刺し、ハードケースにしまった。それをジムバッグに入れた。ビニールのポーチからヘックラー&コッホを取りだし、スエットパンツのウェストバンドに突っ込んだ。安全装置は解除され、薬室には弾丸が送り込まれている。背骨にあたる堅固な金属の感触は彼女をほっとさせた。窓際に行って厚いカーテンを引き、部屋をもう一度暗くした。
それからジムバッグを手に取り、ドアに向かった。ドアノブに手をかけて後ろを振り返り、暗闇の中でうつぶせになっている大きな男の姿を今一度見やった。熟睡しているようにしか見えない。最初に目にしたときと同じように。彼が絶命していることを知るものは、この世界に青豆しかいない。いや、たぶんリトル・ピープルは知っている。だからこそ彼らは雷を鳴らすのをやめたのだ。今さらそんな警告を送っても無益であることがわかっているからだ。彼らの選んだ代理人は既に生命を絶たれていた。
青豆はドアを開け、目をそばめながら明るい部屋に足を踏み入れた。音がしないようにそっとドアを閉めた。坊主頭はソファに座ってコーヒーを飲んでいた。テーブルの上にはルームサービスでとったらしいコーヒーポットと、サンドイッチを盛った大きなトレイがあった。サンドイッチは半分ばかりに減っていた。使われてないコーヒーカップが二つその脇に置かれている。ポニーテイルはドアのわきに置かれたロココ調の椅子に、さっきと同じように背中を直立させて座っていた。二人とも長いあいだ同じ姿勢で、無言のまま時間を過ごしていたようだった。部屋の中にはそういう保留された空気が漂っていた。
青豆が部屋に入ると、坊主頭は手にしていたコーヒーカップをソーサーの上に置き、静かに立ち上がった。
「終わりました」と青豆は言った。「今は眠られています。かなり時間もかかりました。筋肉の負担も大きかったと思います。寝かせておいてあげてください」
「眠られている」
「ぐっすりと」と青豆は言った。
坊主頭は青豆の顔をまっすぐに見た。彼女の目を深いところまでのぞき込んだ。それから変わったところはないか検分するようにその視線をゆっくりつま先まで下ろし、また目を上げて顔を見た。
「それは普通のことなのですか」
「筋肉の激しいストレスが解消されて、そのせいで深く眠り込んでしまう人はよくいらつしゃいます。特別なことではありません」
坊主頭は居間と寝室を隔てる戸口のところまで歩いて行って、静かにドアノブをまわし、ドアを小さく開けて中をのぞき込んだ。何かあったときにすぐに拳銃を取り出せるように、青豆は右手をスエットパンツの腰にあてていた。男は十秒ばかり様子をうかがっていたが、やがて顔を引っ込め、ドアを閉めた。
「どれくらい眠られるのでしょう?」と彼は青豆に尋ねた。「あのままいつまでも床に寝かせておくわけにはいきません」
「二時間ほどで目を覚まされるはずです。それまではできるだけあのままの姿勢にしておいてください」
坊主頭は腕時計に目をやり、時刻をたしかめた。それから軽く肯いた。
「わかりました。しばらくそのままにしておきます」と坊主頭は言った。「シャワーをお使いになりますか?」
「シャワーは必要ありません。ただもう一度着替えさせてください」
「もちろん。化粧室を使ってください」
青豆はできることなら着替えなんかせず、一刻も早くその部屋を立ち去りたかった。しかし相手に不審感を抱かせない方がいい。来たときに服を着替えたのだ。帰りにも同じように着替える必要がある。彼女は浴室に行ってスエットの上下を脱いだ。汗で湿った下着をとり、バスタオルで身体の汗を拭いてから、新しいものに換える。そしてもともと着ていたコットンパンツと白いブラウスを身につける。拳銃はコットンパンツのベルトの下に、外からは見えないように挟み込む。身体をいろいろに動かし、動作が不自然に見えないことを確認する。石けんで顔を洗い、ヘアブラシで髪をとかす。それから洗面台の大きな鏡に向かって、いろんな角度に顔を思い切りしかめる。緊張でこわばった筋肉をほぐすためだ。ひとしきりそれをやってから通常の顔に戻す。長くしかめ面を続けたあとでは、通常の顔がどんなだったか思い出すのに少し手間がかかる。しかし数度の試行錯誤のあとで、それらしきところに落ち着くことができる。青豆は鏡を睨み、じっくりその顔を点検する。問題ない、と彼女は思った。通常の顔だ。微笑みを浮かべることだってできる。手も震えていない。視線もしっかりしている。いつもどおりのクールな青豆さんだ。
しかし坊主頭はさっき、寝室から出てきたばかりの彼女の顔をじつと見つめていた。そこに彼は涙のあとを認めたかもしれない。ずいぶんたくさん泣いたから、その形跡は少しは残っていたはずだ。そう思うと青豆は落ち着かない気持ちになった。筋肉のストレッチングをしながらどうして涙をこぼさなくてはならなかったのか、と相手は不思議に思うかもしれない。何か異様なことが起こったのではないか、と疑念を抱くかもしれない。そして彼は寝室のドアを開け、あらためてリーダーの様子を見に行き、彼の心臓が停止していることを発見する……。
青豆は腰のうしろに手をやり、拳銃のグリップを確認する。落ち着かなくては、と彼女は思う。怯えてはならない。怯えは顔に出るし、それは相手に疑念を抱かせる。
彼女は最悪の状況を覚悟しながら、左手にジムバッグを提げ、用心深く浴室を出た。右手はすぐに拳銃にのばせるようにしてある。しかし部屋の中に変わった様子はなかった。坊主頭は腕組みをして部屋の真ん中に立ち、目を細めて何ごとかを考えていた。ポニーテイルは、相変わらず入り口の椅子に座り、部屋の中を冷静に観察していた。彼は爆撃機の機関銃手のような、静かな一対の目を持っていた。孤独で、青い空を見続けるのになれている。目が空の色に染まっている。
「疲れたでしょう」と坊主頭が言った。「よかったらコーヒーをいかがですか。サンドイッチもあります」
青豆は言った。「ありがとう。でもけっこうです。仕事の直後はおなかがすかないんです。一時間くらいすると少しずつ食欲が出てきます」
坊主頭は肯いた。そして上着の内ポケットから分厚い封筒を取りだし、その重みを手の中で確かめてから、青豆に差し出した。
男は言った。「失礼ですが、うかがっている料金よりは余分に入っているはずです。先ほども申し上げましたとおり、今回の件はくれぐれも内聞に願います」
「口止め料ということですか」と青豆は冗談めかして言った。
「なにかと余分なお手間を取らせた、ということです」と男はにこりともせず言った。
「金額とは関係なく秘密は厳守します。それも私の仕事のうちです。外に話が漏れることはありません」と青豆は言った。そして受け取った封筒をそのままジムバッグの中に入れた。「領収書はご入り用ですか?」
坊主頭は首を振った。「不要です。これは我々のあいだだけのことです。あなたはそれを収入として申告する必要はありません」
青豆は黙って肯いた。
「ずいぶん力が必要だったでしょう」と坊主頭が探るように質問した。
「いつもよりは」と彼女は言った。
「普通の人ではありませんから」
「そのようです」
「かけがえのない方です」と彼は言った。「そして長いあいだ激しい肉体の痛みに苦しんでこられました。我々の苦しみや痛みを、いわば一身に引き受けておられるのです。そのような痛みが少しでも減じられればというのが我々の願いです」
「根本的な原因がわからないので、確かなことは言えませんが」と青豆は言葉を選びながら言った。「[#傍点]少しは[#傍点終わり]痛みが減じられたのではないかと思います」
坊主頭は肯いた。「お見受けしたところ、あなたもかなり消耗されたようだ」
「そうかもしれません」と彼女は言った。
青豆と坊主頭が話をしているあいだ、ポニーテイルはドアのわきに座って、部屋の中を無言で観察していた。顔は動かず、目だけが動いている。表情はまったく変化を見せない。二人の会話が彼の耳に入っているのかどうかもわからない。孤独で、寡黙《かもく》で、どこまでも注意深い。敵の戦闘機の小さな…機影を雲間に求めている。それは最初は芥子粒のようにしか見えない。
青豆は少し迷ってから、坊主頭に質問をした。「余計なことかもしれませんが、コーヒーを飲んだり、ハム・サンドイッチを食べたりすることは、教団の戒律に反しないのですか?」
坊主頭は振り向いて、テーブルの上に載っているコーヒーポットとサンドイッチのトレイに目をやった。そして微かな笑みに似たものを唇に浮かべた。
「我々の教団にはそれほど厳しい戒律があるわけではありません。酒と煙草はいちおう禁止されています。性的なものごとについての禁制もある程度あります。しかし食べ物については比較的自由です。普段は質素なものしか口にしませんが、コーヒーもハム・サンドイッチも、とくに禁じられてはいません」
青豆は意見を述べず、ただ肯いた。
「多くの人が集まるわけですから、ある程度の規律はもちろん必要になります。しかし固定された形式に目が向かいすぎると、本来の目的が見失われかねません。戒律や教義はあくまで便宜的なものなのです。大事なのは枠ではなく、その中にあるものです」
「そしてリーダーがそこに中身を与えるのですね」
「そうです。我々の耳には届かない声を、あの方は聴くことができます。特別な方です」、坊主頭はもう一度青豆の目を見た。そして言った。「今日はご苦労様でした。ちょうど雨もあがったようです」
「ひどい雷だった」と青豆は言った。
「とても」と坊主頭は言った。しかし彼は雷や雨にはとくに興味を抱いていないように見えた。
青豆は会釈をしてジムバッグを提げ、戸口に向かった。
「ちょっと待って下さい」と坊主頭が背後から呼び止めた。鋭い声だった。
青豆は部屋の中央で立ち止まり、後ろを振り向いた。心臓が鋭く乾いた音を立てていた。彼女の右手はさりげなく腰にあてられた。
「ヨーガマット」とその若い男は言った。「あなたはヨーガマットを持って行くのを忘れています。寝室の床に敷き放しになっている」
青豆は微笑んだ。「今その上で熟睡しておられますし、身体をどかせて抜き取るわけにもいきません。よかったら差し上げます。高価なものではありませんし、けっこう使い込んであります。不必要なら捨ててください」
坊主頭は少し考えていたが、やがて肯いた。「お疲れ様でした」と彼は言った。
青豆が戸口に近づくと、ポニーテイルが椅子から立ち上がり、ドアを開けてくれた。そして小さく会釈をした。この人はとうとうひとことも口をきかなかった、と青豆は思った。彼女は会釈を返し、彼の前をすり抜けようとした。
しかしその一瞬、暴力的な思念が強烈な電流のように青豆の肌を貫いた。ポニーテイルの手がさっと伸びて、彼女の右腕をつかもうとした。それはきわめて迅速で的確な動作であるはずだった。空中の蝿をつかめそうなくらいの速さだ。そういう生々しい一瞬の気配がそこにはあった。青豆の全身の筋肉がこわばった。鳥肌が立ち、心臓が一拍分スキップした。息が詰まり、背筋を氷の虫が這った。意識が激しい白熱光に晒された。この男にここで右腕をとられたら、拳銃に手をのばすことができなくなってしまう。そうなったら私には勝ち目はない。この男は私が[#傍点]何か[#傍点終わり]をおこなったことを感じ取っている。この部屋の中で[#傍点]何か[#傍点終わり]がもちあがったことを直感的に認知している。何かはわからないが、ひどく不適切なことが。彼の本能は「この女を捕らえなくてはならない」と告げている。床にねじ伏せ、思い切り体重をかけ、ひとまず肩の関節を外してしまうことを命じている。しかしそれはあくまで直感に過ぎない。確証はない。単なる思い違いであった場合には、ひどく面倒な立場に置かれることになる。彼は激しく迷い、そして結局あきらめた。判断し指示を下すのはあくまで坊主頭であり、彼にはその資格はない。彼は右手の衝動を必死に押さえ込み、肩の力を抜いた。青豆はポニーテイルの意識がその一秒か二秒のあいだに通過した一連の段階を、ありありと感知することができた。
青豆はカーペットの敷かれた廊下に出た。振り返ることなくエレベーターに向けて、そのまっすぐな廊下を淡々と歩いた。ポニーテイルはどうやらドアの外に顔を出して、彼女の動きを目で追っているようだった。その鋭い刃物のような視線を、青豆は背中に感じ続けた。体中の筋肉がひどくむずむずしたが、決して振り返らなかった。振り返ってはならない。廊下の角を曲がって、そこでやっと張り詰めていた力が抜けた。しかしまだ安心はできない。次に何が起こるかはわからない。彼女はエレベーターの下りボタンを押し、それがやってくるまで(やってくるまでに永遠に近い時間がかかった)、手を後ろにまわして拳銃のグリップを握っていた。ポニーテイルが思い直してあとを追ってきたら、いつでもそれを引き抜けるように。その強靭な手で自分の身体をつかまれる前に、迷いなく相手を撃たなくてはならない。あるいは迷いなく自分を撃たなくてはならない。そのどちらを選ぶべきか、青豆には判断がつかなかった。最後まで判断がつかないかもしれない。
しかしあとを追ってくるものはいなかった。ホテルの廊下はひっそりと静まりかえったままだった。エレベーターのドアが[#傍点]ちん[#傍点終わり]と音を立てて開き、青豆はそこに乗り込んだ。ロビー階のボタンを押し、ドアが閉まるのを待った。そして唇を噛みながら階数の表示を睨んでいた。エレベーターを降り、広いロビーを歩いて抜け、玄関で客待ちをしているタクシーに乗り込んだ。雨はもうすっかりあがっていたが、車はまるで水の中をくぐり抜けてきたみたいに全身から水滴をしたたらせていた。新宿駅西口まで、と青豆は言った。タクシーが発車してホテルを離れると、彼女は身体の中にたまっていた空気を大きく外に吐き出した。そして目を閉じ、頭を空っぽにした。しばらくのあいだ何も考えたくない。
強い吐き気を感じた。胃の中にあるものがそっくり喉もとまでこみ上げてくるような感覚があった。でもなんとかそれを奥の方に押し戻した。ボタンを押して窓ガラスを半分開け、湿った夜の空気を肺の奥に送り込んだ。シートに身をもたせかけ、何度も深く呼吸をした。口の中に不吉なにおいがあった。身体の中で何かが腐りだしているようなにおいだった。
彼女はふと思い出してコットンパンツのポケットの中を探り、二枚のチューインガムをそこに見つけた。細かく震える手で包装紙をはぎとり、口に入れてゆっくりと噛んだ。スペアミント。懐かしい香り。それがなんとかうまく神経をなだめてくれた。顎を動かしているうちに、口の中の嫌なにおいも少しずつ薄らいでいった。私の身体の中で何かが実際に腐っているわけではない。恐怖が私をおかしくしているだけだ。
でもとにかくこれですべては終わった、と青豆は思った。もうこれ以上私が人を殺す必要はない。そして私は正しいことをしたのだ、青豆は自分にそう言い聞かせた。あの男は殺されて当然の行いをしてきた。その報いを受けただけだ。そしてまた——たまたまではあるが——殺されることを本人が強く求めていた。私は相手の望み通りの安らかな死を与えた。間違ったことはしていない。ただ法律に反しているだけだ。
しかしどれだけそう自分に言い聞かせても、心の底から納得することができなかった。彼女はついさっき[#傍点]普通ではない[#傍点終わり]人間をこの手で殺してきたのだ。鋭い針先がその男の首筋に音もなく沈み込んでいく感触を、まだはっきり覚えていた。そこには[#傍点]普通ではない[#傍点終わり]手応えがあった。そのことが青豆の心を少なからずかき乱していた。彼女は両方の手のひらを広げてしばらく眺めた。何かが違っている。いつもとはぜんぜん違う。しかし何がどう違っているのかを見きわめることができない。
その男の言ったことを信じるなら、彼女が殺害したのは預言者だった。神の声を預かるものだ。しかしその声の主は神ではない。おそらくはリトル・ピープルなるものだ。預言者は同時に王であり、王は殺されることを運命づけられている。つまり彼女は運命が寄越した刺客なのだ。そして彼女はその王であり預言者である存在を暴力的に消去することによって、世界の善悪のバランスを保ったのだ。その結果、彼女は死んでいかなくてはならない。でもそのとき彼女は取り引きをした。その男を殺害し、事実上自分の命を放棄することによって、天吾の命が救われる。それが取り引きの内容だ。[#傍点]もしその男の言ったことを信じるなら[#傍点終わり]、だ。
しかし青豆は彼の言ったことを基本的に信じないわけにはいかなかった。彼は狂信者ではないし、死んでいく人間は嘘をつかない。そして何よりも、彼の言葉には説得力があった。大きな碇のように重い説得力だ。すべての船はその大きさと重さに相応しい碇を持つ。どれほどあさましい行いをなしたにせよ、あの男は確かに大きな船を思わせる人間だった。青豆はそれを認めないわけにはいかない。
運転手に見えないようにヘックラー&コッホをベルトから抜き、安全装置をかけてポーチにしまった。五百グラムほどの堅牢な、致死的な重みが彼女の身体から取り除かれた。
「さっきはひどい雷でしたね。雨もすごかったし」と運転手が言った。
「雷?」と青豆は言った。それはなんだかずっと昔の出来事のように思えた。つい三十分前のことなのに。そういえば雷が鳴っていた。「そうね。すごい雷だった」
「天気予報ではそんなことぜんぜん言ってなかったんですけどね。一日良い天気だってことでしたが」
彼女は頭をめぐらせた。何かを言わなくては。でもうまい言葉が浮かんでこない。頭の働きがずいぶん鈍くなっているみたいだ。「天気予報ってあたらないものだから」と彼女は言った。
運転手はミラーの中の青豆をちらりと見た。しゃべり方がどことなく不自然だったのかもしれない。運転手は言った。「道路の水があふれて、地下鉄赤坂見附駅の構内に流れ込んで、線路が水浸しになったそうです。狭い地域にまとめて雨が降ったせいです。銀座線と丸ノ内線が一時運転を中止しています。さっきラジオのニュースでそんなこと言っていました」
集中豪雨のために地下鉄の運行が停止した。それは私の行動に何か影響を与えるのだろうか? 頭を素速く働かせなくては。私は新宿駅に行き、コインロッカーから旅行バッグとショルダーバッグを出す。それからタマルに電話をかけ、指示を受ける。もしそれが新宿から丸ノ内線を使わなくてはならないものごとであれば、話はいくぶん面倒になるかもしれない。逃げのびるための時間の余裕は二時間しかない。二時間たてば、彼らはリーダーが目を覚まさないことを不審に思い、おそらく隣室に様子を見に行き、その男が息を引き取っていることを発見するだろう。彼らはすぐに行動を開始する。
「丸ノ内線はまだ動き出していないのかしら?」と青豆は運転手に尋ねた。
「どうかな。わかりませんね。ラジオのニュースをつけますか?」
「ええ、お願い」
リーダーの言によれば、リトル・ピープルがあの雷雨をもたらした。彼らは赤坂付近の狭い地域に雨を激しく集中させ、おかげで地下鉄が停まってしまった。青豆は首を振った。そこには何か目論見があるのかもしれない。ものごとはそうすんなり計画通りには運ばない。
運転手はラジオをNHKにあわせた。音楽番組をやっていた。一九六〇年代後半に流行った、日本人の歌手が歌うフォークソングの特集だった。青豆はそれらの歌を子供の頃にラジオで聴いて漠然と記憶していたが、懐かしいとはまったく思わなかった。むしろ不快な思いが胸の中にこみあげてきた。それらの曲が彼女に思い出させるのは、思い出したくもない種類のものごとばかりだった。しばらく我慢してその番組を聴いていたが、どれだけ待っても地下鉄の運行状態についてのニュースはなかった。
「すみません。もういいからラジオを消してくれますか」と青豆は言った。「とにかく新宿駅に行って様子を見ることにします」
運転手はラジオを消した。「新宿駅、きつと混んでますよ」と彼は言った。
新宿駅は言われたとおり、ひどく混み合っていた。新宿駅で国電と接続する丸ノ内線が停まってしまったために、人の流れに混乱が生じ、人々は右往左往していた。帰宅ラッシュの時間は過ぎていたが、それでも人混みをかき分けて歩くのはやっかいな作業だった。
青豆はようやくコインロッカーにたどり着き、ショルダーバッグと人造革の黒い旅行バッグを取り出した。旅行バッグには貸金庫から出した現金が入っている。ジムバッグからいくつかの品物を出して、ショルダーバッグと旅行バッグに分けて移し替えた。坊主頭から受け取った現金の入った封筒、拳銃を入れたビニールのポーチ。アイスピックの入ったハードケース。不要になったナイキのジムバッグは近くのコインロッカーに入れ、百円硬貨を入れて鍵をかけた。回収するつもりはない。彼女の身元がたどれるものは何も入っていない。
彼女は旅行バッグをさげて駅の構内を歩きまわり、公衆電話を探した。どこの公衆電話も混み合っていた。電車が止まったせいで帰宅が遅れるという電話をかける人々が、長い列を作って順番を待っていた。青豆は軽く顔をしかめた。どうやらリトル・ピープルは、そう簡単には私を逃亡させてはくれないみたいだ。リーダーの言うところによれば、彼らは私に直接手を出すことはできない。しかし別の手段で搦手《からめて》から私の行動を妨げることはできる。
青豆は電話の順番を待つのはあきらめ、駅を出て少し歩き、目についた喫茶店に入ってアイスコーヒーを注文した。店のピンク電話も使用中だったが、さすがに人は並んでいない。彼女は中年の女の背後に立って、彼女の長話が終わるのをじっと待った。女は不快そうにちらちらと青豆を見ていたが、五分ばかり話をつづけてからあきらめて電話を切った。
青豆はありったけの小銭を電話に入れ、記憶していた番号を押した。三度呼び出し音があり、それから「ただいま留守にしております。ご用の方は発信音のあとにメッセージをお残し下さい」とテープの無…機的な声が告げた。
発信音が聞こえ、青豆は受話器に向かって言った。「ねえタマルさん、そこにいるのなら出てくれる?」
受話器がとられた。「ここにいる」とタマルが言った。
「よかった」と青豆は言った。
タマルはその声の中に、いつもとは違う切迫した響きを感じとったようだった。「大丈夫か?」と彼は尋ねた。
「今のところは」
「仕事はうまくいったか?」
青豆は言った。「深く眠っている。これ以上はないというくらい深く」
「なるほど」とタマルは言った。心からほっとしているようで、声にそれが滲み出ていた。感情を表に出さないタマルにしては珍しいことだ。「そう伝えておく。きつと安心されるだろう」
「簡単なことではなかったけれど」
「わかっている。でも仕事は完了した」
「なんとかね」と青豆は言った。「この電話は安全?」
「特別な回線を使っている。心配しなくていい」
「新宿駅のコインロッカーから旅行用の荷物を出した。このあとは?」
「時間の余裕は?」
「一時間半」と青豆は言った。彼女は簡単に事態を説明した。あと一時間半たったら二人のボディーガードは隣室をチェックし、リーダーが息をしていないことを発見するだろう。
「一時間半あれば十分だ」とタマルは言った。
「発見したら、あの人たちはすぐ警察に知らせるかしら」
「そいつはわからん。昨日教団本部に警察の捜査が入ったばかりだ。今のところ事情聴取という程度で、まだ本格的な捜索までは行ってないが、ここで教祖が変死したりすれば、かなり面倒なことになりかねない」
「つまり公にすることなく、自分たちで処理するかもしれない?」
「連中はそれくらいは平気でやる。明日の新聞を見ればどうなったかはわかる。彼らが教祖の死を警察に届けたか、届けなかったか。俺はギャンブルが好きじゃない。しかしもしどちらかに賭けなくちゃならないとしたら、届け出をしない方に賭けるね」
「自然な現象だと思ってくれないかしら」
「見た目では判断はつかない。綿密な司法解剖でもしないかぎり、自然死か殺人かもわかるまい。しかしいずれにせよ、連中はまず最初にあんたの話を聞こうとするはずだ。なにしろ生きたリーダーに最後に会った人間だからな。そしてあんたが住居を引き払い、どこかに姿を隠したと知ったら、当然ながらそれは自然死ではあるまいと類推する」
「そして彼らは私の行方を探し始める。全力をあげて」
「まず間違いなく」とタマルは言った。
「うまく姿を消せるかしら?」
「プランは立ててある。綿密なプランだ。そのプランに沿って注意深く、我慢強く行動すれば、まず誰にも見つからない。いちばんまずいのは怯えることだ」
「努力はしている」と青豆は言った。
「努力し続けるんだ。素速く行動し、時間を自分の味方につけるんだ。あんたは注意深く、我慢強い人間だ。いつものようにやればいい」
青豆は言った。「赤坂のあたりで集中豪雨があって、地下鉄が停まっている」
「知っている」とタマルは言った。「でも心配しなくていい。地下鉄を使う予定はない。これからタクシーを拾って、都内のセーフハウスに行ってもらう」
「都内? どこか遠くに行くっていう話じゃなかった?」
「もちろん遠くに行く」とタマルはゆっくり言い聞かせるように言った。「しかしその前にいくつか準備が必要になる。名前や顔を変えなくてはならない。それに今回はきつい仕事だった。あんたもきっと気持ちがたかぶった状態にあるだろう。そういうときにあわてて動いても、ろくなことにはならない。しばらくそのセーフハウスに身を隠しているんだ。大丈夫、俺たちがしっかりサポートする」
「それはどこにあるの?」
「高円寺」とタマルは言った。
高円寺、と青豆は思った。そして爪の先で前歯を小さく叩いた。高円寺には土地勘がまったくない。
タマルは住所とマンションの名前を言った。いつものように青豆はメモをとらず、すべてを頭に刻み込んだ。
「高円寺の南口。環七の近くだ。部屋番号は三〇三。入り口のオートロックは二八三一を押せば開く」
タマルは間を置いた。三〇三と二八三一と青豆は頭の中で繰り返した。
「鍵は玄関マットの裏側にガムテープでとめてある。部屋には当座の生活に必要なものが揃っているし、しばらくは外に出なくて済むようになっている。俺の方から連絡をする。三度ベルを鳴らしてから切り、二十秒後にかけなおす。そちらからはできるだけ連絡してほしくない」
「わかった」と青豆は言った。
「連中はタフだったか?」とタマルは尋ねた。
「そばにいた二人は腕が立ちそうに見えた。少しばかりひやっとすることもあった。でもプロじゃない。あなたとはレベルが違う」
「俺みたいな人間はあまりいない」
「たくさんいても困るかもしれない」
「あるいは」とタマルは言った。
青豆は荷物を持って駅の構内にあるタクシー乗り場に向かった。そこにも長い列ができていた。地下鉄の運行はまだ復旧していないようだ。しかしとにかくそこに並んで、我慢強く順番を待たないわけにはいかない。選択の余地はないのだから。
苛立ちを顔に浮かべた多くの通勤客たちに混じってタクシーの順番を待ちながら、彼女はセーフハウスの住所と名前と部屋番号、オートロックの解除番号とタマルの電話番号を、頭の中で繰り返し復唱した。修行僧が山のてっぺんにある岩の上に座って、大事なマントラを唱えるみたいに。青豆はもともと記憶力には自信がある。それくらいの情報なら苦労もなく暗記できる。しかし今の彼女にとっては、それらの数字が命綱だった。ひとつでも忘れたり間違えたりしたら、生き延びていくのがむずかしくなる。頭に深く刻み込んでおかなくてはならない。
彼女がようやくタクシーに乗り込んだとき、リーダーの死体を残して部屋を出てから、おおよそ一時間が経過していた。ここまで、予定していた時間の二倍近くかかっている。おそらくリトル・ピープルがその時間を稼いだのだ。赤坂に集中豪雨を降らせ、地下鉄を停めて人々の帰宅の足を乱し、新宿駅を混雑させ、タクシーを不足させ、青豆の行動を遅らせた。そのようにして彼女の神経をじわじわと締め上げている。冷静さを失わせようとしている。いや、それらはあくまで偶然の一致なのかもしれない。たまたまそうなっただけかもしれない。私はありもしないリトル・ピープルの影に怯えているだけかもしれない。
青豆は運転手に行き先を告げると、シートに深くもたれこんで目を閉じた。あのダークスーツの二人組は今ごろ、腕時計で時刻を確かめながら、教祖が目覚めるのを待っているはずだ。青豆はその姿を想像した。坊主頭はコーヒーを飲みながら、いろんなことを考えている。考えるのは彼の役目である。考えて判断する。あまりにもリーダーの眠りが静かすぎる、と彼はいぶかっているかもしれない。リーダーはいつも物音を立てずに深くひっそりと眠る。鼾《いびき》や寝息を立てることもない。とはいえ、そこには常に気配というものがある。二時間は熟睡するとあの女は言った。筋肉の回復のために、それくらいは安静にしておかなくてはならないのだと。まだ一時間しかたっていない。しかし何かが彼の神経に障る。様子を確かめてみた方がいいかもしれない。どうしたものかと彼は迷っている。
でも本当に危険なのはポニーテイルの方だ。部屋を出るときにポニーテイルが瞬間的に示した暴力の気配を、青豆はまだ鮮明に記憶していた。無口だが鋭い勘を持った男だ。おそらく格闘技術にも優れているはずだ。予想していたよりずっと腕が立ちそうだ。青豆のマーシャル・アーツの心得くらいでは歯が立たないだろう。拳銃に手を回す余裕だって与えてもらえないだろう。しかしありがたいことに彼はプロではない。直感を行動に移す前に、理性を働かせる。誰かから指示を受けることに慣れてしまっている。タマルとは違う。タマルなら、まず相手を取り押さえ、無力化しておいてからものを考えるだろう。最初に行動がある。直感を信用し、論理的な判断はあとにまわす。一瞬の躊躇が手遅れになることを彼は知っている。
そのときのことを思い出すと、脇の下に汗がうっすらにじんだ。彼女は無言で首を振った。私は幸運だったのだ。少なくとも現場で生け捕りにされることは免れた。これからはじゅうぶん注意しなくてはならない。タマルの言うとおりだ。注意深く、我慢強くなることが何よりも大事になる。気を抜いた一瞬に危機は訪れる。
タクシーの運転手は言葉づかいの丁寧な中年の男だった。彼は地図を持ち出し、車を停めてメーターを切り、親切に番地を調べ、そのマンションを見つけてくれた。青豆は礼を言ってタクシーを降りた。六階建ての洒落た造りの新築マンションだった。住宅街の真ん中にある。入り口には人けはない。青豆は二八三一を押してオートロックを解除し、玄関の自動ドアを開け、清潔だが狭いエレベーターで三階にあがった。エレベーターを降りると、まず非常階段の位置を確認した。それからドアマットの裏にガムテープでとめられた鍵をとり、それを使って部屋に入った。玄関のドアを開けると自動的に入り口の照明がつく仕掛けになっている。部屋の中には新築の建物特有の匂いがした。置かれている家具も電気製品もすべてまったくの新品らしく、使用された形跡は見当たらなかった。きつと箱から出して、ビニールの包装を解いたばかりなのだろう。それらの家具や電気製品は、マンションのモデルルームをしつらえるために、デザイナーによって一括して買い揃えられたもののように見えた。シンプルなデザインで、機能的で、生活の匂いが感じられない。
入り口の左手に食堂兼居間がある。廊下があって洗面所と浴室があり、その奥に部屋がふたつあった。ひとつの寝室にはクイーンサイズのベッドが置かれていた。ベッドメークも済んでいる。窓のブラインドは閉じられている。通りに面した窓を開けると、環状七号線の交通の音が遠い海鳴りのように聞こえた。閉めるとほとんど何も聞こえない。居間の外に小さなベランダがあり、そこから通りを隔てて小さな公園が見おろせた。ぶらんこと滑り台、砂場、そして公衆便所がある。高い水銀灯が不自然なほど明るくあたりを照らし出している。大きなケヤキの木があたりに枝を張っている。部屋は三階だが、近隣に高い建物はなく、人目を気にする必要もなかった。
青豆はついさっき引き払ってきた、自由が丘の自分のアパートの部屋を思い出した。古い建物で、あまり清潔とは言えず、ときどきゴキブリが出たし、壁も薄かった。愛着のある住まいとはとても言えなかった。しかし今ではそれが懐かしかった。このしみひとつない真新しい部屋にいると、自分が記憶と個性を剥奪された匿名の人間になったような気がした。
冷蔵庫を開けると扉のところにハイネケンの缶ビールが四本冷えていた。青豆は一本を開けて一口だけ飲んだ。二一インチのテレビをつけ、その前に座ってニュースを見た。雷と集中豪雨についての報道があった。赤坂見附駅構内が水浸しになり、丸ノ内線と銀座線が停まったことがトップニュースとして報じられた。溢れた水が駅の階段を滝のように流れていた。雨合羽を着た駅員たちが、駅の入り口に土嚢《どのう》を積んでいたが、それはどう見ても遅きに失していた。地下鉄はまだ停まったまま、復旧の見込みはついていない。テレビのレポーターがマイクを差し出し、帰宅の足を失った人々の意見を聞いていた。「朝の天気予報では今日は一日快晴だと言っていました」と苦情を述べる人もいた。
ニュースを最後まで見たが、「さきがけ」のリーダーが死亡したニュースはもちろんまだ報じられなかった。あの二人組は、隣室で二時間が経過するのを待っているはずだ。それから彼らは真実を知ることになる。彼女は旅行バッグの中からポーチを取りだし、ヘックラー&コッホを出して、食卓の上に置いた。新しい食卓の上に置かれたドイツ製の自動拳銃は、ひどく無骨で寡黙に見えた。そしてどこまでも黒々としていた。しかしおかげで、まったく無個性だった部屋にひとつの集約点が生まれたようだった。「自動拳銃のある風景」と青豆はつぶやいた。まるで絵画の題みたいだ。いずれにせよ、これからはこいつを肌身離さず持っていなくてはならない。いつでもすぐ手に取れるようにしておかなくてはならない。ほかの誰かを撃つにせよ、自分自身を撃つにせよ。
大きな冷蔵庫の中には、いざとなれば半月くらいここに籠城できるだけの食品が用意されていた。野菜と果物、すぐに食べられるいくつかの加工食品。冷凍庫の中ではいろんな種類の肉と魚とパンが硬く凍っていた。アイスクリームまである。食品棚には様々なレトルト食品、缶詰と調味料がひととおり並んでいた。米と麺類もある。ミネラル・ウォーターもたっぷりある。ワインも赤と白が二本ずつ用意してあった。誰が用意したのかはわからないが、用意は周到だった。欠けているものはとりあえず思いつけない。
いくらか空腹を感じたので、彼女はカマンベール・チーズを取りだし、それを切ってクラッカーと一緒に食べた。チーズを半分食べてから、セロリを一本よく洗い、マヨネーズをつけて丸ごと腐った。
それから彼女はベッドルームに置かれているタンスの抽斗を順番に開けてみた。いちばん上にはパジャマと薄手のバスローブが入っていた。ビニールのパックに入ったままの新品だ。とても用意がいい。次の抽斗にはTシャツとソックスが三組、ストッキング、下着の替えも入っていた。どれも家具のデザインに合わせたような白いシンプルなもので、どれもやはりビニールのパックに入っている。おそらくセーフハウスの女性たちに与えられるのと同じものなのだろう。素材は良かったが、そこにはいかにも「支給品」という雰囲気が漂っていた。
洗面所にはシャンプーや、コンディショナーや、スキンクリームや、オーデコロンがあった。彼女が必要とするものはすべて揃っていた。青豆は普段ほとんど化粧をしないから、必要な化粧品は限られている。歯ブラシと歯間ブラシと歯磨きのチューブもあった。ヘアブラシも、綿棒も、剃刀も、小さな鋏も、生理用品も周到に用意されていた。トイレット・ペーパーとティッシュ・ペーパーはしっかりストックされている。バスタオルとフェイスタオルはきれいに畳まれて、戸棚の中に積み上げられていた。すべては念入りに整えられている。
クローゼットを開けてみた。ひょっとしたらその中には、彼女のサイズのワンピースと、彼女のサイズの靴がずらりと揃えられているかもしれない。それがアルマーことフェラガモであれば、言うことはないのだが。しかし予想に反してクローゼットは空っぽだった。いくらなんでもそこまではやらない。彼らはどのあたりまでが周到で、どのあたりからがやり過ぎになるかを心得ている。ジェイ・ギャツビーの図書室と同じだ。本物の書物は揃える。しかしページを切ることまではしない。それにここにいるあいだ、外出着が必要とされるような状況はまずないはずだ。必要ではないものを彼らは用意しない。しかしハンガーだけはたっぷりと用意されている。
青豆は旅行バッグの中から持ってきた服を取りだし、ひとつひとつしわがよっていないことを確かめてからそのハンガーにかけた。そんなことをせず、服をバッグに入れっぱなしにしておいた方が、逃走中の身にとって何かと都合の良いことはわかっていた。しかし青豆がこの世界においてなにより嫌いなのは、折りじわのよった服を着ることだった。
私は冷徹なプロの犯罪者にはなれそうにない、と青豆は思った。まったく、こんなときに服の折りじわが気になるなんてね。そしてあゆみといつか交わした会話をふと思い出した。
[#ここからゴシック体]
「ベッドのマットレスのあいだに現ナマを隠しておいて、やばくなるとそれをひっつかんで窓から逃げる」
「そう、それぞれ」とあゆみは言って、指をぱちんと鳴らした。「なんだかスティーブ・マックイーンの『ゲッタウェイ』みたい。札束とショットガン。そういうのって好きだな」
[#ここでゴシック体終わり]
それほど楽しい生活でもないよ、と青豆は壁に向かって言った。
それから青豆は浴室に行って着ている服を脱ぎ、シャワーを浴びた。熱い湯を浴びて、身体に残っていた嫌な汗を流した。浴室を出て、キッチン・カウンターの前に座り、タオルで濡れた髪を拭きながら、缶ビールの残りをまた一口飲んだ。
今日一日でいくつかのものごとがしっかりと前に進んでしまった、と青豆は思った。歯車が[#傍点]かちん[#傍点終わり]と音を立ててひとつ進んだ。一度前に進んだ歯車があとに戻ることはない。それが世界のルールなのだ。
青豆は拳銃を手に取り、上下をひっくり返して、銃口を上向きに口の中に入れた。歯の先端にあたる鋼鉄の感触はひどく硬く冷たかった。グリースの微かな匂いがした。こうやって脳を撃ち抜けばいいのだ。撃鉄を起こし、引き金を絞る。それですべてはあっけなく終了する。何かを考える必要もない。逃げ回る必要もない。
青豆は自分が死んでいくことをとくに怖いとは思わなかった。私は死に、天吾くんは生き残る。彼はこの先1Q84年を、月が二つあるこの世界を生きていくことになる。しかしそこには私は[#傍点]含まれていない[#傍点終わり]。この世界で私が彼と出会うことはない。どれだけ世界を重ねても、私が彼に出会うことはない。少なくともそれがリーダーの言ったことだ。
青豆は部屋の中をあらためてゆっくりと見渡した。まるでモデルルームだ、と彼女は思った。清潔で統一感があって、必要なものはすべて揃っている。しかし無個性でよそよそしい、ただの[#傍点]はりぼて[#傍点終わり]だ。もし私がこんなところで死ぬことになるとしたら、それはあまり心愉しい死に方とは言えないだろう。でもたとえ舞台背景を好ましいものに替えたところで、心愉しい死に方なんていうものが果たしてこの世界に存在するだろうか。それに考えてみれば結局のところ、我々の生きている世界そのものが、巨大なモデルルームみたいなものではないのか。入ってきてそこに腰を下ろし、お茶を飲み、窓の外の風景を眺め、時間が来たら礼を言って出て行く。そこにあるすべての家具は間に合わせのフェイクに過ぎない。窓にかかった月だって紙で作られたはりぼてかもしれない。
でも私は天吾くんを愛している、と青豆は思った。小さくそう口にも出した。[#傍点]私は天吾くんを愛している[#傍点終わり]。これは安物芝居なんかじゃない。1Q84年は切れば血の出る現実の世界なのだ。痛みはどこまでも痛みであり、恐怖はどこまでも恐怖である。空にかかった月ははりぼての月ではない。本物の月だ。本物の[#傍点]一対の[#傍点終わり]月だ。そしてこの世界で、私は天吾くんのために進んで死を受け入れたのだ。それがフェイクだとは誰にも言わせない。
青豆は壁にかかった円形の掛け時計に目をやった。ブラウン社のシンプルなデザイン。ヘックラー&コッホとマッチしている。その時計の他にこの部屋の壁にかかっているものはない。時計の針は十時をまわっていた。そろそろあの二人組がリーダーの死体を発見する時刻だ。
ホテル・オークラの優雅なスイートルームの寝室で、一人の男が息を引き取っている。体の大きな、[#傍点]普通ではない[#傍点終わり]男だ。彼はあちらの世界に移ってしまった。誰をもってしても何をもってしても、もうこちら側に引き戻すことはできない。
そしていよいよお化けの時間が始まる。