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1Q84 (2-16)
日期:2018-10-13 22:19  点击:578
 第16章 天吾
      まるで幽霊船のように
 
 
 明日になったとき、そこにいったいどんな世界があるのだろう?
「それはだれにもわからない」とふかえりは言った。
 
 しかし天吾が目覚めた世界は、前夜眠りについた世界に比べてさして変わりがあるようには見えなかった。枕元の時計は六時過ぎを指していた。窓の外はすっかり明るくなっていた。空気がくつきりと澄んでいて、カーテンの隙間から光がくさびのように差し込んでくる。夏もようやく終わりに近づいているようだった。鳥の声が鋭く鮮やかに聞こえる。昨日の激しい雷雨が幻のように感じられた。あるいは遠い過去に、どこか知らない場所で起こったことのように。
 目が覚めてまず最初に天吾の頭に浮かんだのは、ひょっとしてふかえりが夜のあいだに姿を消したのではないかということだった。しかしその少女は彼のとなりで、冬眠中の小動物のようにぐっすりと眠っていた。寝顔は美しく、細い黒髪が白い頬にかかって、複雑な模様を描いていた。耳は髪に隠されて見えなかった。寝息が小さく聞こえた。天吾はしばらくのあいだ部屋の天井を眺め、その小さなふいごのような寝息に耳を澄ませた。
 彼は昨夜の射精の感覚をまだはっきりと記憶していた。この少女の中に自分が実際に精液を放出したのだと思うと、彼の頭はひどく混乱した。それも[#傍点]たくさん[#傍点終わり]の精液だ。朝になってみると、それはあの激しい雷雨と同じように、現実に起こったことではないみたいに思えた。まるで夢の中での体験のようだ。十代のころに何度か夢精を体験した。リアルな性的な夢を見て、夢の中で射精して、それで目が覚める。出来事はすべて夢だが、射精だけは本物だ。感覚としてはそれによく似ていた。
 でもそれは夢精ではない。彼は間違いなくふかえりの中に射精した。彼女が導いて彼のペニスを自分の中に入れ、精液を有効に搾り取ったのだ。彼はただそれに従っていただけだ。そのとき彼の身体は完全に痺れていて、指一本動かすことはできなかった。そして天吾自身は小学校の教室に射精したつもりだった。でも何にしてもセイリはないからニンシンする心配はない、とふかえりは言う。そんなことが本当に起こったなんて、うまく呑み込めない。でも本当に起こったのだ。現実の世界で、現実のこととして。たぶん。
 彼はベッドを出て、服を着替え、台所に行って湯を沸かし、コーヒーを作った。コーヒーを作りながら、頭の中を整理しようとした。机の抽斗の中身を整理するように。しかしうまく整理はつかなかった。いくつかのものの位置を入れ替えただけだ。消しゴムのあったところにペーパークリップを入れ、ペーパークリップのあったところに鉛筆削りを入れ、鉛筆削りのあったところに消しゴムを入れる。混乱のひとつのかたちが、別のかたちに変わっただけだ。
 新しいコーヒーを飲み、洗面所に行ってFMラジオでバロック音楽の番組を聴きながら髭を剃った。テレマンの作曲した各種独奏楽器のためのパルティータ。いつもと同じ行動だ。台所でコーヒーを作り、それを飲み、ラジオで「バロック音楽をあなたに」を聴きながら髭を剃る。日々曲目だけが変わる。昨日はたしかラモーの鍵盤音楽だった。
 解説者が語っていた。
 
[#ここから1字下げ]
 十八世紀前半には作曲家としてヨーロッパ各地で高い評価を得たテレマンですが、十九世紀に入ってからはあまりの多作の故に、その作品は人々の軽侮を買うことになりました。しかしそれはなにもテレマンの責任ではありません。ヨーロッパ社会の成り立ちの変化に伴い、音楽の作られる目的が大きく変化したことが、このような評価の逆転を招いたのです。
[#ここで字下げ終わり]
 
 これが新しい世界なのか、と彼は思った。
 あらためてまわりの風景を見まわしてみた。やはり変化らしきものは見当たらない。軽侮する人々の姿も今はまだ見えない。しかしいずれにせよ、髭を剃る必要はある。世界が変わったにせよ変わらなかったにせよ、誰かが代わりに彼の髭を剃ってくれるわけではない。自分の手で剃るしかない。
 髭を剃ってしまうと、トーストを焼いてバターをつけて食べ、コーヒーをもう一杯飲んだ。寝室にふかえりの様子を見に行ったが、ずいぶん深く眠り込んでいるらしく、身動きひとつしなかった。さっきから姿勢も変わっていない。髪は頬の上で同じ模様を描いていた。寝息も前と同じように安らかだった。
 とりあえず予定はなかった。予備校の講義もない。誰かが訪ねてくるでもなく、誰かを訪ねるつもりもない。今日一日、何をしようと彼の自由だ。天吾は台所のテーブルに向かって小説の続きを書いた。万年筆を使って、原稿用紙を字で埋めていった。いつものようにすぐに彼はその作業に意識を集中した。意識のチャンネルが切り替わり、ほかのものごとはあっさりと視野から消えてしまった。
 
 ふかえりが目覚めたのは九時前だった。彼女はパジャマを脱いで、天吾のTシャツを着ていた。ジェフ・ベックの日本ツアーのTシャツ、彼が千倉まで父親を訪ねて行ったときに着ていたものだ。一対の乳首がそこにくっきりと浮き上がっていた。それは否応なく天吾に昨夜《ゆうべ》の射精の感覚を思い出させた。ひとつの年号が歴史的事実を思い起こさせるように。
 FMラジオはマルセル・デュプレのオルガン曲を流していた。天吾は小説を書くのをやめ、彼女のために朝食を作った。ふかえりはアールグレイを飲み、トーストに苺ジャムをつけて食べた。彼女はまるでレンブラントが衣服のひだを描くときのように、注意深く時間をかけてトーストにジャムを塗った。
「君の本はどれくらい売れたんだろう?」と天吾は尋ねた。
「くうきさなぎのこと」とふかえりは尋ねた。
「そう」
「しらない」とふかえりは言った。そして眉を軽くひそめた。「とてもたくさん」
 彼女にとって数はそれほど重要なファクターではないのだ、と天吾は思った。彼女の「とてもたくさん」という表現は、広い野原に見渡す限り生えているクローバーを想起させた。クローバーが示すのはあくまで「たくさん」という概念であって、誰にもその数は数えられない。
「たくさんの人が『空気さなぎ』を読んでいる」と天吾は言った。
 ふかえりは何も言わず、ジャムの塗り具合を点検した。
「小松さんに会わなくちゃならない。なるべく早い機会に」と天吾はテーブル越しにふかえりの顔を見ながら言った。彼女の顔にはいつものようにどんな表情も浮かんでいなかった。「君はもちろん小松さんに会ったことはあるよね?」
「キシャカイケンのときに」
「話はした?」
 ふかえりはただ小さく首を振った。ほとんど話はしていないということだ。
 その場の情景がありありと想像できた。小松はいつものようにすさまじいスピードで、思っていることを——あるいはとくに思ってもいないことを——しゃべりまくり、彼女はそのあいだほとんど口を開かない。相手の言うこともろくに聞いていない。小松の方はそんなことは気にもしない。もし「相容れる見込みのない人々の組み合わせ」のサンプルをひとつ具体的に示せと誰かに言われたら、ふかえりと小松を持ち出せばいい。
 天吾は言った。「ずいぶん長く小松さんに会っていない。連絡ももらっていない。あの人もここのところずいぶん忙しかっただろう。『空気さなぎ』がベストセラーになったことで、どたばたに巻き込まれていたからね。でも顔をつき合わせて、いろんな問題について真剣に話し合うべき時期になっている。せっかく君もここにいるんだ。良い機会だ。一緒に会ってみないか?」
「さんにんで」
「うん。その方が話が早いだろう」
 ふかえりはそれについて少し考えていた。あるいは何かを想像していた。それから言った。
「かまわない。もしそれができるのなら」
 [#傍点]もしそれができるのなら[#傍点終わり]、と天吾は頭の中で復唱した。そこには予言的な響きがあった。
「できないかもしれないと君は思う」と天吾はおそるおそる尋ねた。
 ふかえりはそれには答えなかった。
「もしできたとしたら、彼に会う。それでかまわないかな」
「あってなにをする」
「会って何をするか?」と天吾は質問を反復した。「まずお金を返す。『空気さなぎ』を書き直した報酬として、まとまったお金がこのあいだ僕の銀行口座に振り込まれた。でも僕としてはそんなものを受け取りたくないんだ。なにも『空気さなぎ』を書き直したことを後悔しているんじゃない。その作業は僕を刺激してくれたし、良い方向に僕を導いてくれた。自分で言うのもなんだけど、出来は良いと思う。事実、評価も高いし本も売れている。仕事を引き受けたこと自体は間違っていなかったと思う。ただしここまで話が大きくなるとは思わなかった。もちろん引き受けたのは僕だし、その責任を取らなくちゃならないことは確かだ。でもとにかくこのことで報酬を受け取るつもりはない」
 ふかえりは肩を小さくすぼめるような動作をした。
 天吾は言った。「確かにそのとおりだ。そんなことをしても、事態は何ひとつ変わらないかもしれない。でも僕としては、自分の立場をはっきりさせておきたいんだ」
「だれにたいして」
「主に僕自身に対して」と天吾はいくぶん声を落として言った。
 ふかえりはジャムの瓶のふたを手に取って珍しいものでも見るように眺めた。
「でも、ひょっとしたらもう遅すぎるかもしれない」と天吾は言った。
 ふかえりはそれについて何も言わなかった。
 
 一時過ぎに小松の会社に電話をかけたとき(午前中に小松が出社することはない)、電話に出た女性は、小松はこの数日会社を休んでいると言った。しかしそれ以上のことを彼女は知らなかった。あるいは何かを知っていたとしても、天吾に教えるつもりはないようだった。天吾は彼女に頼んで、顔見知りの別の編集者に電話をまわしてもらった。その男が編集をしている月刊誌のために、天吾はペンネームを使って短いコラムのようなものを書いていた。その編集者は二つか三つ年上で、同じ大学を出ていたこともあり、天吾に好意を持ってくれていた。
「小松さんはもう一週間仕事を休んでいる」とその編集者は言った。「三日めに、身体の具合が思わしくないのでしばらく休むという電話が本人からあった。それ以来出社していない。出版部の連中はみんな頭を抱えているよ。なにしろ小松さんは『空気さなぎ』の担当編集者になって、あの本に関することは一人で仕切ってきた。本人は雑誌の担当だけど、部署なんか無視してしつかり囲い込んで、ほかの誰にもいじらせなかった。だから今ここで休まれると、ほかの人間ではとても対応ができないんだよ。まあ、身体の具合が悪いのならしょうがないとしか言えないんだけどね」
「どんな風に具合が悪いんですか?」
「わからないよ。ただ具合が悪いとしか本人は言わなかった。それだけ言って電話を切ってしまった。以来まったく連絡がない。尋ねたいことがあって家に電話をかけても繋がらない。留守番電話になったままだ。それで弱っているんだ」
「小松さんには家族はいないんですか?」
「一人暮らしだよ。奥さんと子どもが一人いたが、ずいぶん前に離婚しているはずだ。本人は何も言わないから、詳しいことはわからんけど、そういう噂だ」
「いずれにせよ一週間休んで一度しか連絡が来ないってのも変ですね」
「しかしまあ君も知っての通り、常識の通用する人ではないからね」
 天吾は受話器を握ったままそれについて考えた。そして言った。「たしかに何をしでかすかわからない人です。社会通念が欠けているし、身勝手なところもあります。でも僕の知る限り、仕事に関しては無責任な人じゃない。『空気さなぎ』がこんなに売れているときに、いくら身体の具合が悪いにせよ、その仕事を途中で放り出して、会社にろくに連絡も入れないなんてことはあり得ませんよ。そこまでひどくはない」
「言えてるな」とその編集者は同意した。「一度自宅に足を運んで、様子を確かめた方がいいかもしれない。ふかえりの失踪がらみで『さきがけ』とのごたごたもあったし、彼女の行方もまだわかっていない。何かがあったということも考えられる。まさか小松さんが仮病を使って休みを取り、ふかえりをどこかに匿っているってようなこともあるまいがね」
 天吾は黙っていた。目の前にふかえり本人がいて、綿棒で耳の掃除をしているとは言えない。
「この件に限らず、あの本に関してはどうもひっかかるところがある。本が売れるのはけっこうだが、もうひとつ釈然としないんだ。俺だけじゃない。社内でも多くの人間がそう感じている。……ところで天吾くんは小松さんに何か用事があったの?」
「いや、とくに用事はありません。しばらく話をしてないから、どうしてるかなと思っただけです」
「彼もここのところずいぶん忙しかった。そういうストレスもあったのかもしれない。とにかく『空気さなぎ』はうちの会社始まって以来のベストセラーだ。今年のボーナスが楽しみだよ。天吾くんはあの本をもう読んだか?」
「もちろん応募原稿のときに読みました」
「そういえばそうだな。君は原稿の下読みをしていたんだ」
「よく書けた面白い小説です」
「ああ、確かに内容はいいよ。読むだけの価値はある」
 天吾はその言い方に不吉な響きを聞き取った。「でも何か気になる?」
「これは編集者としての勘みたいなものだ。とてもよく書けている。そいつは確かだ。しかしいささかよく[#傍点]書けすぎている[#傍点終わり]んだ。十七歳の新人の女の子にしてはね。そして著者は目下行方不明だ。編集者にも連絡がとれない。そして誰も乗り合わせていない昔の幽霊船みたいに、本だけがベストセラーの水路を順風満帆、まっすぐに進んでいる」
 天吾は曖昧な声を出した。
 相手は続けた。「不気味で、ミステリアスで、話がうますぎる。ここだけの話だけど、ひょっとして小松さんが作品にかなり手を入れたんじゃないかっていう憶測も社内では囁かれている。常識の範囲を超えてね。まさかとは思うけど、もしそうだとしたら、俺たちはやばい爆弾を抱えこんでいることになる」
「あるいはただ幸運がうまく重なっているだけかもしれませんよ」
「だとしても、そんなことはいつまでも続かない」とその編集者は言った。
 天吾は礼を言って電話を切った。
 
 天吾は受話器を置いてからふかえりに言った。「一週間ほど前から小松さんは会社を休んでいる。連絡がつかない」
 ふかえりは何も言わなかった。
「僕のまわりでいろんな人が次々に姿を消していくみたいだ」と天吾は言った。
 ふかえりはやはり何も言わなかった。
 人の表皮細胞は毎日四千万個ずつ失われていくのだという事実を天吾はふと思い出した。それらは失われ、はがれ、目に見えない細かい塵となって空中に消えていく。我々はあるいはこの世界にとっての表皮細胞のようなものなのかもしれない。だとすれば、誰かがある日ふっとどこかに消えてしまったところで不思議はない。
「ひょっとして次は僕の番かもしれない」と天吾は言った。
 ふかえりはコンパクトに首を振った。「あなたはうしなわれない」
「どうして僕は失われないんだろう?」
「オハライをしたから」
 天吾はそれについて数秒間考察してみた。しかしもちろん結論は出なかった。いくら考えても無駄なことは初めからわかっている。それでもまったく考える努力をしないというわけにもいかない。
「いずれにせよ、今すぐ小松さんと会うことはできない」と天吾は言った。「お金を返すこともできない」
「おかねはもんだいではない」、ふかえりは言った。
「それでは、いったい何が問題なんだろう?」と天吾は質問してみた。
 もちろん答えは返ってこなかった。
 
 天吾は昨夜決心したとおり、青豆の行方を捜すことにした。一日がかりで集中してやれば何か手がかりくらいは得られるはずだ。しかし実際にやってみると、それは予想していたほど簡単な作業ではないことが判明した。彼はふかえりを部屋に残して(「誰が来てもドアを開けるんじゃないよ」と何度も言い聞かせた)、電話局の本局に行った。そこには日本全国の電話帳がすべて揃えられており、閲覧することが可能だった。彼は東京二十三区の電話帳を片端から繰って、そこに青豆という名前を探し求めた。彼女本人ではなくても、おそらく親戚がどこかに住んでいるはずだ。その人に青豆の消息を尋ねればいい。
 しかしどの電話帳にも青豆という名前を持つ人は見当たらなかった。天吾は地域を全東京に広げた。やはり一人も見つからない。それから捜索範囲を関東一円に広げた。千葉県、神奈川県、埼玉県……そこでエネルギーと時間が尽きた。電話帳の細かい活字を睨んでいたおかげで、目の奥が痛んだ。
 いくつかの可能性が考えられた。
 
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1)彼女は北海道の歌志内《うたしない》市郊外に住んでいる。
(2)彼女は結婚して姓を「伊藤」に変えた。
(3)彼女はプライバシーを護るために電話帳に名前を出さない。
(4)彼女は二年前の春に悪性インフルエンザで死んだ。
[#ここで字下げ終わり]
 
 可能性はそれ以外にいくらでもあるはずだ。電話帳だけに頼るのは無理がある。日本全国の電話帳を残らず調べるわけにはいかない。北海道にたどり着くころには来月になっているかもしれない。何かほかの方法をみつけなくてはならない。
 天吾はテレフォン・カードを買って電話局のブースに入り、卒業した市川市の小学校に電話をかけ、同窓会の連絡をしたいということで、青豆の登録住所を調べてもらった。親切で暇そうな女性事務員が卒業生名簿を繰ってくれた。青豆は五年生の途中で転校したので、卒業生ではない。従って卒業生名簿には名前が載っていないし、現在の住所もわからない。しかし当時の転居先の住所なら調べることができる。知りたいか?
 知りたい、と天吾は言った。
 天吾はその住所と電話番号をメモした。東京都足立区の住所で、「田崎孝司方」とあった。彼女はどうやらそのとき両親の家を出たようだ。きっと何か事情があったのだろう。駄目だろうとは思いながら、天吾はいちおうその番号をダイアルしてみた。予想通りその電話番号はもう使用されていなかった。なにしろ二十年も前のことだ。番号案内に電話をかけて、住所と田崎孝司という名前を告げたが、そのような名前では電話は登録されていないと言われた。
 それから天吾は「証人会」の本部の電話番号を調べてみた。しかしどれだけ調べても電話帳には彼らの連絡先は掲載されていなかった。「洪水の前」でも「証人会」でも、あるいはそれに類するいかなる名前でも、記載はなかった。職業別電話帳の「宗教団体」の項にも見当たらなかった。天吾はしばらく悪戦苦闘したのちに、おそらく彼らは誰からも連絡なんかしてもらいたくないのだろう、という結論に達した。
 それは考えてみれば妙な話だった。彼らは好きなときに勝手に人に会いに来る。こちらがスフレを焼いているときでも、ハンダ付けをしているときでも、髪を洗っているときでも、ハツカネズミを調教しているときでも、二次関数について考えているときでも、そんなことにはおかまいなく呼び鈴を鳴らして、あるいはドアをノックして、「一緒に聖書を勉強しませんか?」とにこやかな顔で誘いかける。向こうからやってくるのはかまわない。しかし(たぶん信者にならない限り)こちらからは自由に会いに行けない。簡単な質問ひとつできない。不便といえば不便な話だ。
 しかしたとえ電話番号を調べだして連絡がついたとしても、そのガードの固さから見て、彼らがこちらの要請に応じて、個々の信者についての情報を親切に開示してくれるとは考えづらかった。彼らからしてみればきっと、ガードを固くしなくてはならない理由があるのだろう。その極端で風変わりな教義の故に、信仰の頑迷さの故に、世間の多くの人々は彼らを嫌い、環ましく思っていた。いくつかの社会問題を引き起こし、その結果迫害に近いものを受けたこともある。そのような決して好意的とは言えない外の世界から自分たちのコミュニティーを守ることがおそらく、彼らの習性のひとつになっているのだろう。
 いずれにせよそこでとりあえず、青豆の捜索の道は閉ざされてしまった。それ以上どんな捜索方法が残されているのか、天吾には急には思いつけなかった。青豆というのはかなり珍しい姓だ。一度聞いたら忘れられない。ところがその名前を持った一人の人間の足取りを辿ろうとすると、あっという間もなく堅い壁にぶつかってしまう。
 あるいは「証人会」の信者に直接聞いてまわるのが手っ取り早いかもしれない。本部に正面から尋ねても、おそらく怪しまれて何も教えてはもらえないだろうが、そのへんの信者に個人的に尋ねれば、親切に教えてくれそうな気がする。しかし天吾は「証人会」の信者を一人として知らなかった。そして考えてみればこの十年近く、「証人会」の信者の訪問を受けたことは一度もない。どうして彼らは来てほしいときに来てくれなくて、来てほしくないときに限って来るのだろう?
 新聞に三行広告を出すという手もある。「青豆さん、至急連絡を下さい。川奈」、馬鹿げた文章だ。それにたとえそんな広告を目にしても、青豆がわざわざ連絡をしてくるとは天吾には思えなかった。警戒されるのがおちだ。川奈というのもそれほど頻繁には見かけない名前だ。しかし天吾には、青豆が自分の名前をまだ覚えているとはとても思えなかった。川奈——誰だろう? とにかく彼女は連絡なんかしてこない。だいたいどこの誰が新聞の三行広告なんて読むだろう。
 あとは大きな興信所に捜査を依頼するという手段もある。彼らはその手の人捜しには慣れているはずだ。そのためのいろんな手段やコネクションを持っている。これだけ手がかりがあれば、あっという間に見つけ出してくれるかもしれない。おそらくそれほど高い料金も請求されないはずだ。しかしそれは最後の手段として取っておいた方がいいかもしれない、と天吾は思った。まずは自分の足を使って捜してみよう。自分に何ができるものか、もう少し知恵を絞ってみた方がいいような気がする。
 
 あたりが薄暗くなってから部屋に帰ると、ふかえりは床に座って一人でレコードを聴いていた。年上のガールフレンドが残していった古いジャズのレコードだ。部屋の床にはデューク・エリントン、ベニー・グッドマン、ビリー・ホリデイといった人々のレコード・ジャケットが散らばっていた。そのときターンテーブルの上で回転していたのは、ルイ・アームストロングの歌う『シャンテレ・バ』だった。印象的な歌だ。それを聴くと、天吾は年上のガールフレンドのことを思い出した。セックスとセックスとのあいだに二人でよくそのレコードを聴いた。その曲の最後の部分で、トロンボーンのトラミー・ヤングはすっかりホットになって、打ち合わせどおりにソロを終わらせることを忘れ、ラスト・コーラスを八小節ぶん余分に演奏してしまう。「ほら、ここのところ」と彼女は説明してくれた。レコードの片面が終わると、裸のままベッドを出て、隣の部屋までLPレコードを裏返しに行くのはもちろん天吾の役目だった。彼はそのことを懐かしく思い出した。そんな関係がいつまでも続くとはもちろん考えてはいなかった。しかしこれほど唐突な終わり方をするとも思わなかった。
 ふかえりが安田恭子の残していったレコードを熱心に聴いている姿を見ていると、不思議な気がした。彼女は眉を寄せ、意識を集中し、その古い時代の音楽の中に何か音楽以外のものを聞き取ろうとしているみたいに見えた。あるいは目をこらして、その響きの中に何かの影を見出そうとしているようにも見えた。
「そのレコードは気に入った?」
「なんどもきいた」とふかえりは言った。「かまわなかった」
「もちろんかまわない。でもひとりでいて退屈はしない?」
 ふかえりは小さく首を振った。「かんがえることがある」
 天吾は昨夜、雷雨のさなかに二人のあいだに起こったことについて、ふかえりに質問してみたかった。[#傍点]どうしてあんなことをしたのか[#傍点終わり]と。ふかえりが自分に対して性欲を抱くとは、天吾には考えられなかった。だからそれは性欲とは無関係なところで成立した行為であるはずだ。だとしたら、それはいったい何を意味するのだろう。
 しかしそんなことを正面から質問しても、まともな答えが返ってくるとは思えない。それにいかにも平和で穏やかな九月の宵に、正面きってそんな話題を持ち出すのは、天吾としてももうひとつ気が進まなかった。それは暗黒の時刻に暗黒の場所で、激しい雷鳴に囲まれながら、ひっそりとおこなわれた行為なのだ。日常の中に持ち出すと意味あいが変質してしまうかもしれない。
「君には生理がない」と天吾は別の角度から質問してみた。イエス・ノーで答えられるところから始めてみよう。
「ない」とふかえりは簡潔に答えた。
「生まれてから一度も?」
「いちども」
「僕が口出しするようなことじゃないのかもしれないけど、君はもう十七だし、それでまだ一度も生理がないというのは普通じゃないみたいに思える」
 ふかえりは小さく肩をすぼめた。
「そのことでお医者に行ったことはある?」
 ふかえりは首を振った。「いってもやくにはたたない」
「どうして役に立たないんだろう?」
 ふかえりはそれにも答えなかった。天吾の質問が聞こえた気配もなかった。彼女の耳には質問の適正・不適正を感じ取る特別な弁がついていて、それが半魚人の鰓蓋《えらぶた》みたいに、必要に応じて開いたり閉じたりするのかもしれない。
「リトル・ピープルもそのことに絡んでいるのかな?」と天吾は尋ねた。
 やはり答えはない。
 天吾はため息をついた。昨夜の出来事の解明に近づくための質問を、天吾はそれ以上ひとつも思いつけなかった。細いあやふやな道はそこで途切れ、その先は深い森になっていた。彼は足もとを確かめ、まわりを見回し、天を仰いだ。それがふかえりと会話をするときの問題点だ。すべての道はどこかで必ず途切れてしまう。ギリヤーク人なら、道がなくなってもそのまま進み続けることができるかもしれない。しかし天吾には無理だ。
「僕は今ある人を捜している」と天吾は切り出した。「女の人だ」
 ふかえり相手にそんな話を持ち出したところでどうなるわけでもない。それはよくわかっている。しかし天吾は誰かにその話をしたかった。誰でもいい、青豆について自分が考えていることを、声に出して話してしまいたかった。そうしておかないと、青豆がまた少し自分から遠のいていくような気がした。
「もう二十年も会ったことがない。最後に会ったのは十歳のときだ。彼女も同じ歳だ。僕らは小学校の同じクラスにいた。いろんなやり方で調べてみたけれど、彼女の足取りを辿ることができない」
 レコードが終わった。ふかえりはレコードをターンテーブルから取りあげ、目を細めてそのビニールの匂いを何度か嗅いだ。それから盤に指紋をつけないように注意しながら紙袋に収め、その紙袋をレコード・ジャケットに収めた。まるで眠りかけている子猫を寝床に移すみたいにそっと、慈愛深く。
「あなたはそのひとにあいたい」とふかえりは疑問符抜きで尋ねた。
「僕にとって大事な意味を持つ人だから」
「二十ねんずっとそのひとをさがしてきた」とふかえりは尋ねた。
「いや、そうじゃない」と天吾は言った。そしてそれに続く言葉を探し求めるあいだ、テーブルの上で両手の指を組み合わせた。「実を言えば、捜し始めたのは今日のことだ」
 ふかえりはよくわからないという表情を顔に浮かべた。
「きょうのこと」と彼女は言った。
「そんなに大事な相手なのに、どうして今日まで一度も捜さなかったのか?」と天吾はふかえりの代わりに言った。「良い質問だ」
 ふかえりは黙って天吾の顔を見ていた。
 天吾は頭の中にある考えをひととおり整理した。それから言った。「僕はたぶん長いまわり道をしてきたんだろう。その青豆という名前の女の子は——なんて言えばいいんだろう——長いあいだずっと変わることなく僕の意識の中心にいた。僕という存在にとってのひとつの大事な[#傍点]おもし[#傍点終わり]の役割を果たしていた。にもかかわらずというか、それがあまりにも中心にあったために、かえってその意味を掴み切れなかったみたいだ」
 ふかえりはじっと天吾の顔を眺めていた。その少女が彼の言っていることを少しでも理解しているのかどうか、顔つきからはわからなかった。しかしそれはどうでもいい。天吾は半ば自分自身に向けて語りかけていた。
「でもやっとわかってきたんだ。彼女は概念でもないし、象徴でもないし、喩《たと》えでもない。温もりのある肉体と、動きのある魂を持った現実の存在なんだ。そしてその温もりや動きは、僕が見失ってはならないはずのものなんだ。そんな当たり前のことを理解するのに二十年もかかった。僕はものを考えるのに手間がかかる方だけど、それにしてもいささかかかり過ぎだな。あるいはもう遅すぎるかもしれない。でもなんとしてでも彼女を捜し出したいんだ。もし仮に手遅れであったとしても」
 ふかえりは床の上に膝をついたまま、身体をまっすぐに伸ばした。ジェフ・ベックのツアーTシャツに、乳首のかたちがまたくっきりと浮かび上がった。
「アオマメ」とふかえりは言った。
「そう。青い豆と書く。珍しい名前だ」
「そのひとにあいたい」とふかえりは疑問符抜きで質問した。
「もちろん会いたい」と天吾は言った。
 ふかえりは下唇を噛みしめながら、しばらく何ごとかを考えていた。それから顔を上げ、思慮深げに言った。「そのひとはすぐちかくにいるかもしれない」

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