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1Q84 (2-21)
日期:2018-10-13 22:22  点击:428
 第21章 青豆
      どうすればいいのだろう
 
 
 その夜、月を見るために青豆は、グレーのジャージの運動着の上下にスリッパというかっこうでベランダに出た。手にはココアのカップを持っていた。ココアを飲みたくなるなんてずいぶん久しぶりのことだ。戸棚の中にヴァン・ホーテンのココアの缶をみつけ、それを見ているうちに突然ココアが飲みたくなったのだ。雲ひとつなく晴れた南西の空に、月がくっきりと二個浮かんでいた。大きな月と小さな月。彼女はため息をつくかわりに、喉の奥で小さくうなった。空気さなぎからドウタが生まれ、月は二つになった。そして1984年は1Q84年に変わった。古い世界は消え、もうそこに戻ることはできない。
 ベランダに置かれているガーデンチェアに腰掛け、熱いココアを小さく一口ずつ飲み、目を細めて二つの月を見ながら、青豆は古い世界のことを思い出そうと努めた。しかし今のところ彼女に思い出せるのは、アパートの部屋に置いてきた鉢植えのゴムの木だけだった。それは今どこにあるのだろう? タマルは電話で約束したように、あの鉢植えの面倒を見てくれているのだろうか? 大丈夫。心配することはない、と青豆は自分に言い聞かせる。タマルは約束をまもる男だ。もし必要があれば、彼は迷うことなくあなたを殺すかもしれない。しかしもしそうなったとしても、彼は残されたあなたのゴムの木の面倒を最後まで見てくれるはずだ。
 しかしどうしてこんなに、あのゴムの木のことが気になるのだろう?
 それを残して部屋を出てくるまで、ゴムの木のことなんて、青豆はろくに考えもしなかった。それは本当にぱっとしないゴムの木だった。色つやも悪く、見るからに元気がなかった。値札はバーゲンで千八百円になっていたが、レジに持って行くと、何も言わないうちに向こうから千五百円にまけてくれた。交渉すれば更に安くなったかもしれない。きつと長いあいだ売れ残っていたのだろう。その鉢植えを抱えて家まで持って帰るあいだ、彼女はそんなものを衝動的に買ってしまったことをずっと後悔していた。それが見かけのぱっとしないゴムの木で、そのくせにかさばって持ちにくいからであり、なんといってもひとつの生命《いのち》を持つものだったからだ。
 生命を持つ何かを彼女が手にしたのは、それが生まれて初めてのことだった。ペットにせよ鉢植えにせよ、買ったこともないし、もらったこともないし、拾ったこともない。そのゴムの木が、彼女にとって生命あるものと生活をともにする最初の体験だった。
 老婦人の家の居間で、つばさに夜店で買ってやったという小さな赤い金魚を目にして、自分もそんな金魚がほしいと青豆は思った。[#傍点]とても強く[#傍点終わり]そう思った。その金魚から目をそらせることができなくなってしまったくらいだ。どうして急にそんなことを思ったのだろう? つばさがうらやましかったからかもしれない。青豆は夜店で誰かに何かを買ってもらったことなんて、ただの一度もない。夜店に連れて行ってもらったことすらない。聖書の教えにどこまでも忠実な「証人会」の熱心な信者である両親は、あらゆる俗世の祭りを侮蔑し、忌避した。
 だから青豆は自由が丘の駅の近くにあるディスカウント・ショップに行って、自分で金魚を買うことにした。誰も彼女のために金魚と金魚鉢を買ってくれないのなら、出かけていって自分で買うしかない。それでいいじゃないか、と彼女は思った。私はもう三十歳の大人なのだし、自分の部屋に一人で住んでいる。銀行の貸金庫には札束が硬い煉瓦のように積み上げてある。金魚を買うくらい、誰に気兼ねする必要もない。
 しかしペット売り場に行って、水槽の中でレースのような鰭《ひれ》をひらひらと動かしながら泳いでいる実際の金魚を目の前にしているうちに、青豆にはそれを買い求めることができなくなってしまった。金魚は小さく、自我や省察を欠いた無考えな魚のように見えたが、なんといっても完結したひとつの生命体だった。そこにある生命を、金を払って自分個人のものにするというのは、適切ではない行いのように彼女には思えた。それは幼いときの自分自身の姿を彼女に思い起こさせた。狭いガラスの鉢に閉じこめられたまま、どこに行くこともできない無力な存在。金魚自身はそんなことは気にもしていないように見えた。たぶん実際に気にしてもいないのだろう。とくにどこにも行きたくないのだろう。しかし青豆には、それがどうしても気になった。
 老婦人の家の居間で見たときには、そんなことはまったく感じなかった。魚はとても優雅に、とても楽しげにガラス鉢を泳いでいた。夏の光が水の中に揺れていた。金魚と生活をともにするのは、素晴らしい考えのように思えた。それは彼女の生活にいくらかでも潤いを与えてくれるはずだった。しかし駅前のディスカウント・ショップのペット売り場では、金魚の姿は青豆を息苦しくさせただけだった。青豆は水槽の中の小さな魚たちをしばらく眺めてから、唇を堅く結んだ。だめだ。私にはとても金魚を飼うことなんてできない。
 そのとき、店の隅に置かれたゴムの木が目についた。それはいちばん目立たない場所に押しやられ、見捨てられた孤児のようにそこで身をすくませていた。少なくとも青豆の目にはそのように映った。色つやもなく、形のバランスも悪かった。しかし彼女はろくに考えもせず、それを買い求めた。気に入って買ったわけではない。買わずにいられなかったから買っただけだ。実際の話、持って帰って部屋に置いたあとでも、たまに水をやるときのほかにはほとんど目もくれなかった。
 でもいったんあとに残してくると、もうそれを二度と見ることはないのだと思うと、青豆は何故かそのゴムの木のことが気になってしかたなかった。混乱し、叫び出したくなったときによくそうするように、彼女は大きく顔をしかめた。顔中の筋肉が極限近くまで引き伸ばされた。そして彼女の顔は別の人間の顔のようになった。これ以上はしかめられないというところまで顔をしかめ、それをいろんな角度にねじ曲げてから、青豆はようやく顔を元に戻した。
 どうしてこんなにあのゴムの木のことが気になるのだろう?
 
 いずれにせよ、タマルは間違いなくあのゴムの木を大事に扱ってくれる。私なんかよりは、ずつと丁寧に、責任をもって面倒を見てくれるはずだ。彼は生命のあるものを世話し、愛おしむことに慣れている。私とは違う。彼は犬を自分の分身のように扱う。老婦人の家の植木だって、暇があれば庭を巡って細かいところまで点検している。孤児院にいるときには、要領の悪い年下の少年を身体を張って保護していた。私にはそんなことはとてもできない、と青豆は思う。私には他人の生命を引き受ける余裕はない。自分一人の生命の重みに耐え、自分の孤独に耐えていくだけで精いっぱいなのだ。
 孤独という言葉は、青豆にあゆみのことを思い出させた。
 あゆみはどこかの男の手で、ラブホテルのベッドに手錠で縛り付けられ、暴力的に犯され、バスローブの紐で首を絞められて死んだ。犯人は青豆の知る限り、まだ逮捕されていない。あゆみには家族もいたし、同僚もいた。しかし彼女は孤独だった。そんなひどい死に方をしなくてはならなかったほどに孤独だった。そして私は彼女の求めに応じてやることができなかった。彼女は私に向かって何かを求めていた。間違いなく。でも私には護らなくてはならない私の秘密があり、孤独があった。あゆみとはどうしても分かち合うことのできない種類の秘密であり、孤独だった。彼女はなぜよりによって私なんかに心の交流を求めなくてはならなかったのだろう。この世界にほかにいくらでも人はいるはずなのに。
 目を閉じると、アパートのがらんとした部屋に残してきた、鉢植えのゴムの木の姿が思い浮かんだ。
 [#ゴシック体]どうしてこんなにあのゴムの木のことが気になるのだろう。[#ゴシック体終わり]
 
 それからひとしきり青豆は泣いた。いったいどうしたのだろう、と青豆は小さく首を振りながら思う、このところ私は泣きすぎている。彼女は泣きたくなんかなかった。あのろくでもないゴムの木のことを考えながら、どうして私が涙を流さなくてはならないのだ。しかしこぼれ出る涙を抑えることができなかった。彼女は肩を震わせて泣いた。私にはもう何も残されていない。みすぼらしいゴムの木ひとつ残されていない。少しでも価値あるものは次々に消えていった。何もかもが私のもとから去っていった。天吾の記憶の温もりのほかには。
 もう泣くのはやめなくては、と彼女は自分に言い聞かせる。私は今こうして天吾の中にいるのだ。あの『ミクロの決死圏』の科学者みたいに——そうだ『ミクロの決死圏』というのが映画のタイトルだった。映画のタイトルを思い出せたおかげで、青豆はいくらか気持ちを立て直すことができた。彼女は泣くのをやめる。いくら涙をこぼしても、それで何かが解決するわけではない。もう一度クールでタフな青豆さんに戻らなくてはならない。
 誰がそれを求めているのか?
 [#傍点]私が[#傍点終わり]それを求めている。
 そして彼女はあたりを見回す。空にはまだ二つの月が浮かんでいる。
「それがしるしだぞ。空をよく注意して見てるがいい」とリトル・ピープルの一人が言った。小さな声のリトル・ピープルだ。
「ほうほう」とはやし役がはやした。
 
 そのときに青豆はふと気がつく。今こうして月を見上げている人間が、自分一人ではないことに。道路をはさんだ向かいにある児童公園に一人の若い男の姿が見えた。彼は滑り台のてっぺんに腰を下ろして、彼女と同じ方向を見つめていた。その男は私と同じように二個の月を目にしている。青豆は直感的にそれを知った。間違いない。彼は私と同じものを見ている。[#傍点]彼にはそれが見える[#傍点終わり]のだ。この世界には二個の月がある。しかしこの世界に生きているすべての人間に二個の月が見えるわけではない、とリーダーは言った。
 しかしその若い大柄な男が、空に浮かんだ一対の月を目にしていることに疑いの余地はなかった。何を賭けてもいい。私にはそれがわかる。彼はあそこに座って、黄色い大きな月と、苔むしたような緑色をした小さないびつな月を見ている。そして彼は二つの月がそこに並んで存在する意味について、考えを巡らせているように見えた。その男も、心ならずもこの1Q84年という新しい世界に漂流してきた人々の一人なのだろうか。そしてその世界の意味を掴みきれずに戸惑っているのかもしれない。きつとそうに違いない。だからこそ夜の公園の滑り台の上にのぼって、ひとりぼっちで月を見つめ、頭の中にあらゆる可能性や、あらゆる仮説を並べ、綿密に検証しなくてはならないのだ。
 いや、そうじゃないかもしれない。あの男はひょっとしたら、私を捜してここまでやってきた「さきがけ」の追跡者の一人かもしれない。
 そのとたんに心臓の鼓動が速くなり、[#傍点]きん[#傍点終わり]という耳鳴りがした。青豆の右手は無意識に、ウェストバンドにはさんだ自動拳銃を探し求めた。彼女の手はその硬いグリップを思い切り握り締めた。
 しかしどう見ても、男の様子にはそんな切迫した雰囲気は感じられなかった。暴力の気配も見受けられない。彼は一人で滑り台のてっぺんに座り、手すりに頭をもたせかけ、空に浮かんだ二個の月をまっすぐ見上げて、長い省察に耽っているだけだ。青豆は三階のベランダにいて、彼はその下にいた。青豆はガーデンチェアに腰掛け、不透明なプラスチックの目隠し板と金属の手すりの隙間から、その男を見下ろしている。もしこちらを見上げても、向こうからは青豆の姿は見えないはずだ。それに男は空を見上げるのに夢中で、自分がどこかから誰かにみられているかもしれないという考えは、頭をよぎりもしないようだった。
 彼女は気持ちを落ち着け、胸に溜めていた息を静かに吐き出した。そして指の力を抜き、拳銃のグリップから手を放し、同じ姿勢でその男を観察し続けた。青豆の位置からは、彼の横顔しか見えない。公園の水銀灯が高いところから彼の姿を明るく照らし出している。背の高い男だ。肩幅も広い。硬そうな髪は短くカットされ、長袖のTシャツを着ている。その袖は肘のところまで折り上げられている。ハンサムというのではないが、感じの良いしっかりとした顔立ちだ。頭の格好も悪くない。もっと年をとって髪が薄くなってもきっと素敵なはずだ。
 それから青豆は唐突に知る。
 [#ゴシック体]それは天吾だった。[#ゴシック体終わり]
 そんなことはあり得ないと青豆は思う。彼女は短くきっぱり、何度か首を振る。とんでもない思い違いに決まっている。いくらなんでもそんなことが都合良く起こるわけがない。彼女は正常に呼吸をすることができない。身体のシステムが混乱をきたしている。意思と行為がうまくつながらない。もう一度その男をよく眺めなくてはと思う。しかしなぜか目の焦点をあわせることができない。なんらかの作用によって、左右の視力が突然大きく異なってしまったみたいだった。彼女は無意識に大きく顔を歪める。
 [#ゴシック体]どうすればいいのだろう?[#ゴシック体終わり]
 彼女はガーデンチェアから立ち上がり、あたりを意味もなく見まわす。それから居間のサイドボードの中にニコンの小型双眼鏡が置いてあったことをはっと思い出し、それを取りに行く。双眼鏡を持って急いでベランダに戻り、滑り台の上を見る。若い男はまだそこにいる。さっきと同じ姿勢のままだ。こちらに横顔を向け、空を見上げている。彼女は震える指で双眼鏡の焦点をあわせ、横顔を間近に見る。息を止め、意識を集中する。間違いない。[#傍点]それは天吾だ[#傍点終わり]。たとえ二十年という歳月を経ていても、青豆にはそれがわかる。天吾以外の誰でもない。
 青豆がいちばん驚いたのは、天吾の見かけが十歳のときからほとんど変化していないことだった。十歳の少年が、そのまま三十歳になってしまったみたいだ。子供っぽいというのではない。もちろん身体は遥かに大きくなっているし、首も太くなり、顔の造作も大人らしくなっている。表情にも深みが出ている。膝に置かれた手は大きく、力強かった。二十年前に小学校の教室で、彼女が握った手とはずいぶん違う。しかしそれでも、その体躯が醸し出す雰囲気は、十歳のときの天吾そのままだった。しっかりとした厚みのある身体は彼女に、自然な温もりと深い安心感を与えてくれた。彼女はその胸に頬を寄せたいと思った。[#傍点]とても強く思った[#傍点終わり]。青豆はそのことを嬉しく思った。そして彼は児童公園の滑り台の上に座って空を見上げ、彼女が見ているのと同じものを熱心に見つめていた。二個の月だ。そう、私たちは同じものを目にすることができるのだ。
 [#ゴシック体]どうすればいいのだろう?[#ゴシック体終わり]
 
 どうすればいいのか、青豆にはわからなかった。彼女は双眼鏡を膝の上に置き、両手を思い切り握り締めた。爪が食い込んでしっかりとあとがついてしまうくらい。握り締められた拳は細かくぶるぶると震えていた。
 [#ゴシック体]どうすればいいのだろう?[#ゴシック体終わり]
 彼女は自分の激しい息づかいを聞いていた。彼女の身体がいつの間にか、真ん中からふたつに裂けてしまったようだった。一方の半分は天吾が目の前にいるという事実を進んで受け入れようとしていた。そしてもう一方の半分は、その事実を受け入れることを拒否し、どこか見えないところに押しやってしまおうとしていた。そんなことは起こってもいないのだ、と思いこもうとしていた。その正反対の方向に向かう二つの力が、彼女の中で激しくせめぎ合っていた。どちらもそれぞれの目指すところに激しく彼女を引っ張っていこうとしていた。いたるところで肉がちぎれ、関節がばらばらになり、骨が砕けてしまいそうだった。
 青豆はそのまま公園まで走っていって、滑り台の上にあがり、そこにいる天吾に語りかけたかった。でもなんて言えばいいのだろう。口の筋肉の動かし方がよくわからない。それでも彼女はなんとか言葉を絞り出すだろう。私の名前は青豆、二十年前に市川の小学校の教室であなたの手を握った。私のことを覚えている?
 そう言えばいいのか?
 ほかにもう少しましな言い方があるはずだ。
 もう一人の彼女は「このままベランダにじつと隠れていろ」と命令していた。あなたにできることは、もう何もない。そうじゃないか? あなたは昨夜、リーダーと取り引きをした。あなたは自分の命を捨てることによって、天吾を救う。彼をこの世界で生き延びさせる。それが取り引きの内容だ。契約は既に結ばれてしまった。リーダーをあちら側の世界に送り込み、自分の命を差し出すことにあなたは同意した。今ここで天吾に会って昔話をして、それでどうなるというのだ。それにもし彼が、あなたのことなんか覚えてもいなかったとしたら、あるいは「不気味なお祈りをするみっともない女の子」としてしか覚えていなかったとしたら、どうするつもりなのだ。もしそうなったら、あなたはどんな心を抱いて死ぬことになるだろう?
 そう考えると、彼女の身体は硬くこわばり、細かく震えだした。彼女はその震えを抑制することができなくなった。ひどい風邪をひいたときの悪寒に似ていた。身体の芯まで凍りついてしまいそうだ。彼女は自分の身体を両腕で抱きしめるようにして、ひとしきりその寒さに震えていた。しかしそのあいだも、滑り台の上に座って空を見上げている天吾から目を離さなかった。目を離したとたんに彼がどこかに消えてしまいそうな気がした。
 天吾の腕に抱かれたいと彼女は思った。彼のあの大きな手で身体を愛撫されたい。そして彼の温もりを全身に感じたい。身体を隅から隅まで撫でてほしい。そして温めてほしい。私の身体の芯にあるこの寒気を取り除いてほしい。それから私の中に入って、思い切りかきまわしてほしい。スプーンでココアを混ぜるみたいに、ゆっくりと底の方まで。もしそうしてくれたなら、この場ですぐに死んだってかまわない。本当に。
 
 いや、本当にそうだろうか、と青豆は思う。そんなことになったら、私はもう死にたくないと思うかもしれない。いつまでもいつまでも彼と一緒にいたいと思うかもしれない。死ぬ決心なんて朝日を受けた露みたいに、あっさり蒸発して消えてしまうかもしれない。あるいは彼を殺してしまいたいと思うかもしれない。ヘックラー&コッホで彼をまず撃ち殺し、そのあとで自分の脳味嗜を撃ち抜くかもしれない。そこで何が起こるか、自分が何をしでかすか、まるで予測がつかない。
 [#ゴシック体]どうすればいいのだろう?[#ゴシック体終わり]
 どうすればいいのか、彼女には判断できない。息づかいが激しくなる。様々な思いが入れ替わり、すれ違う。考えをひとつにまとめることができない。何が正しくて、何が正しくないのか。彼女にわかっていることはたったひとつしかない。今すぐここで彼のその太い腕に抱かれたいということだ。そのあとのことは、そのあとのことだ。それは神様だか悪魔だかが勝手に決めればいい。
 
 青豆は決心する。洗面所に行き、タオルで顔に残っていた涙のあとを拭う。鏡に向かって髪を素早く整える。とりとめのないでたらめな顔をしている。目は赤く血走っている。着ている服だってひどいものだ。色の槌せたジャージの上下で、ウェストバンドには九ミリの自動拳銃が突っ込まれ、背中に奇妙な膨らみを作っている。二十年間会いたいと焦がれ続けてきた相手の前に出ていくようなかっこうじゃない。どうしてもう少しまともな服を身につけておかなかったのだろう。しかし今更どうしようもない。着替えているような余裕はない。彼女は素足にスニーカーを履き、ドアに鍵もかけず、マンションの非常階段を三階ぶん駆け下りる。そして道路を横切り、人気のない公園に入り、滑り台の前に行く。しかしそこにはもう天吾の姿はない。水銀灯の人工的な光を受けた滑り台の上は無人だ。月の裏側よりも暗く冷たく、がらんとしている。
 あれは錯覚だったのだろうか?
 いや違う、錯覚なんかじゃない、彼女は息を切らせながらそう思う。天吾はほんの少し前までそこにいたのだ。間違いなく。彼女は滑り台の上にあがり、そこに立ってあたりを見回す。どこにも人影は見えない。しかしまだそんな遠くには行っていないはずだ。ほんの数分前まで彼はここにいた。四分か五分、それ以上はかかっていない。今から走れば追いつける距離だ。
 しかし青豆は思い直した。彼女はほとんど力ずくで自分を押しとどめる。いや、だめだ、そんなことはできない。彼がどちらの方向に歩いていったかだってわからないのだ。夜の高円寺の街をあてもなく走りまわって、天吾の行方を捜すような真似はしたくない。それは私がとるべき行動ではない。青豆がベランダのガーデンチェアの上でどうしようかと迷いに迷っているあいだに、天吾は滑り台を降り、どこかに歩き去ってしまった。考えてみればそれが私に与えられた運命なのだ。私は迷い、迷い続け、判断能力を一時的に失い、そのあいだに天吾は去っていった。それが私の身に起こったことなのだ。
 結果的にはそれでよかったのだ、と青豆は自分に言い聞かせる。おそらくそれがいちばん正しいことだった。少なくとも私は天吾に巡り合えた。通りを一本隔てて彼の姿を目にし、彼の腕の中に抱かれるという可能性に身体を震わせることができた。たとえ数分間であっても、私はその激しい喜びと期待を全身で味わうことができた。彼女は目を閉じ、滑り台の手すりを握りしめ、唇を噛みしめる。
 青豆は天吾がとっていたのと同じ姿勢で、滑り台の上に腰を下ろし、南西の空を見上げた。そこには大小二個の月が並んで浮かんでいた。それからマンションの三階のベランダに目をやった。部屋の明かりがついている。彼女はついさっきまで、その部屋のベランダからここにいる天吾を見つめていた。そのベランダには、彼女の深い迷いがまだ残って漂っているようだった。
 1Q84年、それがこの世界に与えられた名称だ。私は半年ばかり前にその世界に入り、そして今、出て行こうとしている。意図せずにそこに入り、意図してそこから出て行こうとしている。私が去ったあとも、天吾はそこにとどまる。天吾にとってそれがどのような世界になるのか、私にはもちろんわからない。見届けるすべもない。でもそれでかまわない。私は彼のために死んでいこうとしている。私自身のために生きることはできなかった。そんな可能性は私からあらかじめ奪われてしまっていた。でもそのかわり、彼のために死ぬことができる。それでいい。私は微笑みながら死んでいくことができる。
 嘘じゃない。
 
 青豆は滑り台の上に残された天吾の気配を、僅かでもいいから感じ取ろうと努めた。しかしそこにはどのようなぬくもりも残されていなかった。秋の予感を含んだ夜の風がケヤキの葉の間を抜けて、そこにあるすべての痕跡を消し去ろうとしていた。それでも青豆はいつまでもそこに座って、二つ並んだ月を見上げていた。その感情を欠いた奇妙な光を身に浴びていた。様々な種類の物音がひとつに入り混じった都会の騒音が、通奏低音となって彼女を取り囲んでいた。首都高速道路の非常階段に巣を張っていたちっぽけな蜘蛛のことを彼女は思い出した。あの蜘蛛はまだ生きて巣を張っているのだろうか?
 彼女は微笑んだ。
 [#傍点]私には用意ができている[#傍点終わり]、彼女はそう思った。
 でもその前に、ひとつだけ訪れなくてはならない場所がある。

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