第3章 天吾
みんな獣が洋服を着て
午後になると天吾は父親の病室を訪れ、ベッドの隣に座って持参した本を開き、朗読した。五ページばかり朗読すると一休みし、また五ページばかり朗読した。自分がそのときに読んでいる本をただ声に出して読んだ。それは小説であったり、伝記であったり、自然科学についての本であったりした。大事なのは文章を声にすることであって、内容ではない。
父親にその声が聞こえているのかいないのか、天吾にはわからない。顔を見ている限り、反応はまったく見受けられなかった。痩せた貧相な老人は目を閉じ、ただ眠っていた。身体の動きはなく、息づかいさえ聞こえない。もちろん息はしているが、耳をすぐそばに寄せるか、あるいは鏡の曇りで点検するかしないと、その確認はできない。点滴液が身体の中に入り、カテーテルが僅かな排泄物を外に運び出す。彼がまだ生きていることを示すのは、それらの緩慢で静かな出入りだけだ。ときどき看護婦が電気シェーバーで髭を剃り、先の丸くなっている小さなはさみを使って、耳と鼻から出ている白い毛を切る。眉毛も切り揃える。意識はなくともそれらは伸び続ける。その男を見ていると、人間の生と死のあいだにどれほどの違いがあるのか、天吾にはだんだんわからなくなってくる。そもそも違いというほどのものがあるのだろうか。違いがあると我々はただ便宜的に思いこんでいるだけではないのか。
三時頃に医師がやってきて、天吾に病状の説明をした。説明は常に短く、内容はおおむね同一だった。病状には進展はない。老人はただ眠り込んでいる。生命力は徐々に減衰《げんすい》している。言い換えればそろそろとしかし確実に死に近づいている。医学的に打つべき手は今のところ何もない。ただ静かにここに寝かせているしかない。医師に言えるのはその程度のことでしかなかった。
夕方近くに二人の男性の看護人がやってきて、父親は検査室に運ばれ、検査を受けた。やってくる看護人はその日によって顔ぶれは違ったが、全員が無口だった。大きなマスクをしているせいもあるのだろうが、ひとことも口をきかなかった。一人は外国人のように見えた。小柄で浅黒く、マスク越しにいつも天吾に微笑みかけた。目を見れば、彼が微笑みかけていることがわかった。天吾も微笑みを浮かべて肯いた。
半時間から一時間の後に父親は病室に戻された。どんな検査がおこなわれているのか、天吾にはわからない。父親が運ばれていくと、彼は食堂に降りて温かい緑茶を飲み、十五分ばかり時間をつぶしてから病室に戻った。そのからっぽのベッドに再び空気さなぎが出現しているのではないか、その中に少女としての青豆が横たわっているのではないかという期待を抱きながら。しかしそんなことは起こらなかった。薄暗い病室には病人の匂いと、くぼみのついた無人のベッドが残されているだけだった。
天吾は窓際に立って外の風景を眺めた。芝生の庭の向こうには松の防風林が黒々と横たわり、その奥から波の音が聞こえた。太平洋の荒い波だ。多くの魂が集まって、銘々の物語を囁きあっているような、太く暗い響きがそこにはあった。その集まりは更に多くの魂の参加を求めているようだった。彼らは更に多くの語られるべき物語を求めているのだ。
天吾はその前、十月に二度ばかり、休みの日に日帰りで千倉の療養所を訪れていた。早朝の特急に乗ってそこに行き、父親のベッドのそばに座り、時々話しかけた。しかし応答らしきものはなかった。父親は仰向けになり、ただ深く眠り込んでいた。ほとんどの時間を、天吾は窓の外の風景を眺めて過ごした。そして夕方が近づくと、そこで[#傍点]何か[#傍点終わり]が起こるのを待ち受けた。しかし何ごとも起こらなかった。ただ静かに日が暮れ、部屋が淡い闇に包まれていくだけだった。彼はやがてあきらめて立ち上がり、最終の特急に乗って東京に戻った。
おれはもっとしっかり腰を据えて、父親に対面しなくてはならないのかもしれない、と天吾はあるとき思った。日帰りの見舞い程度では足りないのかもしれない。より深いコミットメントのようなものがそこには求められているのかもしれない。とくに具体的な根拠はないのだが、そんな気がした。
十一月の半ば過ぎに、彼はまとめて休暇を取ることにした。父親が重体なので面倒をみなくてはならないと予備校には説明した。それ自体は嘘ではない。大学時代の同級生に代講を頼んだ。彼は天吾が細い交際の糸をなんとか維持している数少ない相手の一人だった。大学を出てからも、年に一度か二度ではあるが、連絡を取り合っている。変わり者の多い数学科でもとりわけ変わり者として通っていた男で、頭は抜群に切れる。しかし大学を出ても就職せず、研究室にも進まず、気が向いたら知り合いが経営している中学生相手の塾で数学を教えるくらいで、あとは雑多な本を読んだり、渓流釣りをしたりして、気ままに日々を送っていた。彼が教師としても有能であることを天吾はたまたま知っていた。彼はただ自分が有能であることに飽きているだけなのだ。それに実家が裕福だから、無理をして職に就く必要もない。以前にも一度、代講をしてもらったことがあり、そのときの生徒の評判も良かった。天吾が電話をかけて事情を説明すると、簡単に引き受けてくれた。
それから同居しているふかえりをどうするかという問題もあった。その浮き世離れした少女を長いあいだ自分のアパートに残していくのが妥当なことなのかどうか、天吾には判断がつかなかった。おまけに彼女はいちおう人目を避けてそこに「潜伏」しているのだ。だから彼はふかえり本人に尋ねてみた。一人でここで留守番をするのがいいか、それとも一時的にでもどこかほかの場所に移りたいか?
「あなたはどこにいく」とふかえりは真剣な目をして尋ねた。
「猫の町に行く」と天吾は言った。「父親の意識が戻らない。しばらく前から深く眠り込んでいる。長くはもたないかもしれないと言われた」
空気さなぎがある日の夕暮れ、病室のベッドに現れたことは黙っていた。その中に少女としての青豆が眠っていたことも。その空気さなぎが細部に至るまで、ふかえりが小説の中で描写したとおりのものであったことも。そしてそれが今一度目の前に現れることを、自分がひそかに期待していることも。
ふかえりは目を細め、口をまっすぐに結び、長いあいだ天吾の顔を正面から見つめていた。細かい字でそこに書かれたメッセージを読み取ろうとするみたいに。彼はほとんど無意識に自分の顔に手をやったが、何かがそこに書かれているという感触はなかった。
「それがいい」、ふかえりは少しあとでそう言って何度か肯いた。「わたしのことはしんぱいしなくていい。ここでるすばんをしている」。それから少し考えて付け加えた。「いまのところきけんはない」
「今のところ危険はない」と天吾は反復した。
「わたしのことはしんぱいしなくていい」と彼女は繰り返した。
「毎日電話をかけるよ」
「ねこのまちにおきざりにされないように」
「気をつける」と天吾は言った。
天吾はスーパーマーケットに行って、当分ふかえりが買い物に出なくても済むように、食料品をまとめて買い込んできた。どれも簡単に調理ができるものだ。彼女が料理を作る能力も意欲もほとんど持ち合わせていないことを天吾はよく知っていた。二週間後に家に帰ってきたら、生鮮食料品が冷蔵庫の中でどろどろになっていたというような事態は避けたかった。
着替えと洗面用具をビニールの袋に詰めた。あとは何冊かの本と、筆記用具と原稿用紙。いつものように東京駅から特急に乗り、館山で普通電車に乗り換え、二駅めの千倉で降りた。駅前の観光案内所に行って、比較的安い料金で泊まれる旅館を探した。シーズンオフだったから空き部屋は簡単に見つかった。主に釣りに来た人が泊まるための簡易旅館だ。狭いけれど清潔な部屋で、新しい畳の匂いがした。二階の窓からは漁港が見えた。朝食つきの部屋代は彼が予想していたよりも安かった。
どれくらい滞在することになるかはまだわからないが、とりあえず三日分の宿賃を前払いしておくと天吾は言った。旅館の女主人には異存はなかった。門限はいちおう十一時で、女性を連れ込むのは困ると彼女は(婉曲に)天吾に説明した。天吾にも異存はなかった。部屋に落ち着いてから療養所に電話をかけた。電話に出た看護婦に(いつもの中年の看護婦だ)、午後の三時頃に父親に面会に行きたいのだが、かまわないだろうかと尋ねた。かまわないと相手は言った。
「川奈さんはずっと眠っておられます」と彼女は言った。
そのようにして海辺の「猫の町」での天吾の日々が始まった。朝早く起きて海岸を散歩し、漁港で漁船の出入りを眺め、それから旅館に戻って朝食をとった。出てくるものは毎日判で押したように同じ、鯵の干物と卵焼きと、四つ切りにしたトマト、味付けのり、シジミの味噌汁とご飯だったが、なぜかいつもうまかった。朝食のあとで小さな机に向かって原稿を書いた。久しぶりに万年筆を使って文章を書くのは楽しかった。知らない土地で普段の生活から離れて仕事をするのも、気分が変わって悪くなかった。漁港からは帰港する漁船の単調なエンジンの響きが聞こえてきた。天吾はその音が好きだった。
月が二つ浮かんだ世界で展開される物語を彼は書いた。リトル・ピープルと空気さなぎの存在する世界だ。その世界はふかえりの『空気さなぎ』から借り受けたものだが、今ではすっかり彼自身のものになっていた。原稿用紙に向かっているあいだ、彼の意識はその世界で暮らしていた。万年筆を置いて机を離れても、意識はまだそちらに留まっていることがあった。そういうときには、肉体と意識が分離しかけているような特別な感覚があり、どこまでが現実の世界でどこからが架空の世界なのか、うまく判別できなくなった。きっと「猫の町」に入り込んだ主人公もそれに似た気分を味わったのだろう。世界の重心がわからないうちによそに移動してしまう。そのようにして主人公は(おそらく)永遠に、町を出る列車に乗ることができなくなる。
十一時になると掃除のために部屋を出なくてはならなかった。彼は時間が来ると書くのをやめ、外に出てゆっくり駅前まで歩き、喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。軽くサンドイッチを食べることもあったが、だいたいは何も食べなかった。そしてそこに置いてある朝刊を手に取り、自分に関係のある記事が何か出ていないか念入りにチェックした。しかしそれらしい記事は目につかなかった。『空気さなぎ』はとっくの昔にベストセラー・リストから姿を消していた。一位になっているのは『食べたいものを食べたいだけ食べて痩せる』というダイエット本だった。素晴らしいタイトルだ。中身がまったくの白紙でも売れるかもしれない。
コーヒーを飲み終え、新聞をひととおり読んでしまうと、天吾はバスで療養所に行った。そこに着くのはだいたい一時半から二時のあいだだった。受付でいつも看護婦と少し世間話をした。天吾が町に滞在し、毎日父親の部屋を訪れるようになると、看護婦たちは前より心もち優しく、親しみを持って彼に接するようになった。まるで放蕩息子の帰還を穏やかに受け入れる家族のように。
一人の若い看護婦は天吾の顔を見ると、いつも恥ずかしそうに微笑んだ。彼に少なからず興味を持っているようにも見えた。小柄で髪をポニーテイルにして、瞳が大きく頬が赤い。たぶん二十代の始めだろう。しかし空気さなぎの中で眠っていた少女の姿を目にして以来、天吾は青豆のことしか考えられなくなっていた。ほかの女たちはみんな彼にとって、そばをたまたま行き過ぎていく淡い影に過ぎなかった。彼の頭の片隅には常に青豆の姿があった。この世界のどこかに青豆が生きている——そういう手応えがあった。そして青豆もおそらく天吾を探し求めているのだろう。だからこそ彼女はあの夕方、特別な通路をとおって、自分に会いに来てくれたのだ。彼女も天吾のことを忘れてはいない。
[#傍点]自分が目にしたものが、もし幻覚でなかったとすれば[#傍点終わり]。
ときどき何かの折に、年上のガールフレンドのことを思い出した。今はいったいどうしているのだろう。彼女は[#傍点]失なわれてしまった[#傍点終わり]と夫は電話で言った。だからもう二度と天吾に会うことはできないのだと。失なわれてしまった。その表現は今でも天吾を落ち着かない不安な気持ちにする。そこには疑いの余地なく不吉な響きがある。
それでも結局のところ、彼女の存在も少しずつ遠いものになっていった。彼女と過ごした午後は、既にその意味合いをまっとうした過去の出来事としてしか思い起こせなかった。天吾はそのことを後ろめたく思った。しかしいつの間にか重力は変化し、ポイントは移動を終えていた。ものごとが元に戻ることはもうない。
父親の居室に入ると、天吾はベッドのそばの椅子に座り、短い挨拶をした。そして前日の夕方から今までに自分が何をしたのか、ひととおり順を追って説明をした。もちろん大したことはしていない。バスで町に戻り、食堂に入って簡単な夕食をとり、ビールを一本飲み、旅館に帰って本を読む。十時には眠る。朝起きると町を散歩し、食事をして、二時間ばかり小説を書く。毎日が同じことの繰り返しだ。それでも天吾は意識のない男に向かって、自分の行動をかなり細かいところまで日々報告した。相手からはむろん何の反応も戻ってこない。壁に向かって語りかけているのと同じだ。すべては習慣的な儀式に過ぎない。しかし時には単なる反復が少なからぬ意味を持つこともある。
それから天吾は持参した本を朗読する。決まった本があるわけではない。そのときに自分が読んでいる本の、そのときに読んでいる箇所を声に出して読むだけだ。電動芝刈り機の取扱説明書がたまたま手元にあれば、それを読み上げたことだろう。天吾はできるだけ明瞭な声で、相手が聞き取りやすいように、ゆっくりと文章を読んだ。それが唯一彼の留意する点だった。
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表の稲妻は次第に強くなって、暫くの間は、青い光で往来を照らしっぱなしに明るくすることもあったが、雷の音は聞こえなかった。鳴っているのかもしれないけれど、自分の気持ちに締まりがなくなった為に、聞き取れないのだと云う風にも思われた。往来の雨水が皺になって流れている。その上を踏んで、まだ後から後からとお客が店に入ってくるらしい。
一緒に来た友達が人の顔ばかり見ているので、どうしたのかと思ったが、さっきから口も利かない。まわりがざわざわして、隣の席からも向こうの席からも、相客がこちらに押してくる様で息が苦しくなった。
誰かが咳払いをしたか、或いは食べ物が喉につかえてむせたのか、変な声をしたと思ったが、くんくんと云った調子は、犬の様であった。
不意にひどい稲光りがして、家の中まで青い光が射し込み、店の土間にいる人々を照らした。そのとたんに屋根の裂ける様な雷が鳴ったので、驚いて立ち上がったら、土間にいっぱい詰まっているお客の顔が、一どきにこちらを向いた様であったが、その顔は犬だか狐だか解らないけれど、みんな獣が洋服を着て、中には長い舌で口のまわりを舐め廻しているのもあった。
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そこまで読んで、天吾は父親の顔を見た。「おしまい」と彼は言った。作品はそこで終了していた。
反応はない。
「何か感想は?」
父親はやはり返事をしなかった。
ときにはその朝に書いた小説原稿を読んで聞かせることもあった。読み上げたあとで気になった部分にボールペンで手を入れ、書き直した部分をもう一度読み上げた。その響きにまだ納得できなければ、更に手を入れた。そしてまたそれを読み上げた。
「書き直した方が良くなった」と彼は父親に向かって同意を求めるように言った。しかしもちろん父親は意見を表明しなかった。たしかに良くなったとも、いや前の方がまだ良かったとも、どっちにしても大して変わりはないとも言わなかった。落ちくぼんだ目をまぶたで閉ざしているだけだ。鎧戸《よろいど》を重く下ろした不幸な家のように。
天吾はときどき椅子から立ち上がって身体を大きく伸ばし、窓際に行って外の風景を眺めた。曇りの日が何日か続き、雨の降る日があった。途切れなく降り続く午後の雨は、松の防風林を暗く重く濡らした。その日は波の音はまったく聞こえなかった。風もなく、ただ雨が空からまっすぐ落下しているだけだ。その中を黒い鳥たちが群れをなして飛んでいった。そういう鳥たちの心もやはり暗く湿っていた。病室の中も湿っていた。枕や本や机や、そこにあるすべてが湿り気を含んでいた。しかし天候や湿気や、風や波の音とは関係なく、父親は途切れることのない昏睡の中にいた。麻痺が慈悲深い衣のように、彼の全身を包んでいる。天吾は一休みしてから、また朗読の続きにかかった。その狭い湿った部屋の中で、彼にできることはほかに何もなかった。
本を朗読するのに飽きると、天吾はただ黙ってそこに座り、眠り続ける父親の姿を眺めた。そしてその脳の中でいったいどのような物事が進行しているのだろうと推測した。そこには——その古い鉄床《かなとこ》のように頑なな頭蓋骨の内側には——いったいどんな姿かたちをした意識が身を潜めているのだろう。それともそこにはもう何ひとつ残されていないのだろうか。見捨てられた家屋のように、家財や器具は残らず運び去られ、かつて住んでいた人々は気配も残さず消え失せてしまったのだろうか。しかしもしそうだとしても、その壁や天井には、時々の記憶や光景が焼き付けられているはずだ。長い時間によって培《つちか》われたものは、それほどあっけなく無の中に吸い込まれたりはしない。父親はこの海辺の療養所の簡素なベッドに横たわりながら、同時に内奥にある空き屋のひっそりとした暗闇の中で、余人の目には映らない光景や記憶に囲まれているのかもしれない。
やがて頬の赤い若い看護婦がやってきて、天吾に微笑みかけ、それから父親の体温を測り、点滴液の残りをチェックし、たまった尿の量を確認した。ボールペンでボードの用紙に数字をいくつか書き込んだ。すべてはマニュアルとして定められているのだろう、仕草は自動的でてきぱきしていた。そんな一連の動作を目で追いながら、海辺の小さな町の療養所で、治癒の見込みのない認知症の老人たちの世話をしながら生活するというのは、どんな気持ちのするものなのだろうと天吾は思った。彼女は若く健康そうに見えた。糊のきいた白い制服の下でその乳房と腰は、コンパクトではあるが必要なだけの質量を具えていた。滑らかそうな首筋にはうぶ毛が金色に光っていた。胸のプラスチックの名札には「安達」と名前が書かれていた。
いったい何が、このような忘却と緩慢な死の支配する辺鄙《へんぴ》な場所に彼女を運んできたのだろう。彼女が看護婦として有能で勤勉であることを天吾は知っていた。まだ若いし、手際も良い。もし望めば違う種類の医療の現場にだって行けたはずだ。もっと活発で、もっと興味深いところに。なぜわざわざこんな寂しいところを職場として選んだのだろう? 天吾はその理由や経緯を知りたいと思った。もし尋ねれば、彼女は率直に答えてくれたはずだ。そういう気配はうかがえた。しかしできるだけそういうことにかかわらない方がいいだろうと天吾は思った。なんといってもここは猫の町だ。彼はいつか列車に乗って、もとの世界に戻らなくてはならない。
定められた作業を完了すると、看護婦はボードを戻し、天吾に向かってぎこちなく微笑んだ。
「とくに変化はありません。いつもと同じです」
「安定している」と天吾はできるだけ明るい声で言った。「よく言えば」
彼女は半ば申し訳なさそうな微笑みを顔に浮かべ、首をわずかに傾げた。そして彼の膝の閉じられた本に目をやった。「それを読んであげているの?」
天吾は肯いた。「聞こえているかどうか怪しいものだけど」
「それでも、いいことだと思う」と看護婦は言った。
「いいも悪いも、ほかにできることを思いつけないから」
「でも誰もがみんな、できることをするわけじゃない」
「たいていの人は僕と違って生活をするのに忙しいから」と天吾は言った。
看護婦は何かを言いかけて迷った。しかし結局、何も言わなかった。彼女は眠っている父親の姿を見て、それから天吾を見た。
「お大事に」と彼女は言った。
「ありがとう」と天吾は言った。
安達看護婦が出ていくと、天吾はしばらく間を置いてから、朗読の続きにかかった。
夕方になって父親が車のついた寝台で検査室に運ばれていくと、天吾は食堂に行ってお茶を飲み、そこの公衆電話からふかえりに電話をかけた。
「何か変わりはない?」と天吾はふかえりに尋ねた。
「とくになにもない」とふかえりは言った。「いつもとおなじ」
「僕の方も変わりはない。毎日同じことをしている」
「でもじかんはまえにすすんでいる」
「そのとおり」と天吾は言った。「時間は毎日一日分前に進んでいる」
そして進んでしまったものを元に戻すことはできない。
「さっきまたカラスがやってきた」とふかえりは言った。「おおきなカラス」
「あのカラスは夕方になるといつもうちの窓際にやってくるんだ」
「まいにちおなじことをしている」
「そのとおりだ」と天吾は言った。「僕らと同じように」
「でもじかんのことはかんがえない」
「カラスは時間のことは考えないはずだ。時間の観念はおそらく人間にしかないものだから」
「どうして」
「人間は時間を直線として捉える。長いまっすぐな棒に刻み目をつけるみたいにね。こっちが前の未来で、こっちが後ろの過去で、今はこのポイントにいる、みたいに。それはわかる?」
「たぶん」
「でも実際には時間は直線じゃない。どんなかっこうもしていない。それはあらゆる意味においてかたちを持たないものだ。でも僕らはかたちのないものを頭に思い浮かべられないから、便宜的にそれを直線として認識する。そういう観念の置き換えができるのは、今のところ人間だけだ」
「でもわたしたちのほうがまちがっているのかもしれない」
天吾はそれについて考えた。「時間を直線として捉えることが間違っているかもしれないということ?」
返事はない。
「もちろんその可能性はある。僕らが間違っていて、カラスが正しいのかもしれない。時間はぜんぜん直線みたいなものじゃないのかもしれない。それはねじりドーナツみたいなかたちをしているのかもしれない」と天吾は言った。「しかし人間はおそらく何万年も前からそうやって生きてきたんだ。つまり時間を永遠に続く一直線として捉え、そのような基本的認識のもとに行動をしてきた。そしてこれまでのところ、そうすることにとくに不都合や矛盾は見いだせなかった。だから経験則としてそれは正しいはずだ」
「ケイケンソク」とふかえりは言った。
「多くのサンプルを通過させることによって、ひとつの推論を事実的に正しいと見なすことだよ」
ふかえりはしばらく黙っていた。彼女がそれを理解したのかしなかったのか、天吾にはわからなかった。
「もしもし」と天吾は相手の存在を確認した。
「いつまでそこにいる」とふかえりは疑問符なしで質問した。
「いつまで僕が千倉にいるかということ?」
「そう」
「わからない」と天吾は正直に言った。「納得がいくまでここにいるとしか、今のところは言えないんだ。納得のいかないことがいくつかある。もうしばらく成り行きを見てみたい」
ふかえりはまた電話口で黙り込んだ。彼女がいったん黙ると気配そのものが消滅してしまう。
「もしもし」と天吾はまた声をかけた。
「でんしゃにのりおくれないように」とふかえりは言った。
「気をつけるよ」と天吾は言った。「電車に乗り遅れないようにする。そちらの方は大丈夫?」
「すこしまえにひとりひとがやってきた」
「どんな人?」
「エネーチケーのひと」
「NHKの集金人?」
「シュウキンニン」と彼女は疑問符抜きで質問した。
「その人と話をした?」と天吾は尋ねた。
「なにをいっているのかわからなかった」
NHKがどういうものなのか、そもそもわかっていないのだ。いくつかの基本的な社会知識が彼女には具わっていない。
天吾は言った。「話が長くなるから、電話では細かく説明できないけど、簡単に言えばそれは大きな組織で、たくさんの人がそこで働いている。日本中の家をまわって毎月のお金を集めている。でも僕や君がお金を払う必要はない。僕らは何も受けとっていないから。とにかく鍵は開けなかったね?」
「かぎはあけなかった。いわれたように」
「それでいい」
「でもドロボーといわれた」
「それは気にしなくていい」と天吾は言った。
「わたしたちはなにもぬすんでいない」
「もちろん。君も僕も何も悪いことをしていない」
ふかえりはまた電話口で黙り込んだ。
「もしもし」と天吾は言った。
ふかえりは返事をしなかった。彼女は既に電話を切ってしまったのかもしれない。しかしそれらしい音も聞こえなかった。
「もしもし」と天吾はもう一度、今度はいくらか大きな声で言った。
ふかえりは小さく咳払いをした。「そのひとはあなたのことをよくしっていた」
「その集金人が?」
「そう。エネーチケーのひと」
「そして君のことを泥棒だと言った」
「わたしのことをいっていたのではない」
「僕のことを言っていた?」
ふかえりは返事をしなかった。
天吾は言った。「いずれにせようちにはテレビはないし、僕はNHKから何かを盗んでいるわけじゃない」
「でもかぎをあけないことではらをたてていた」
「それはかまわない。腹を立てさせておけばいい。でも何を言われても、ドアの鍵は絶対に開けちゃだめだよ」
「かぎはあけない」
そう言い終えるとふかえりは唐突に電話を切った。あるいは唐突ではないのかもしれない。彼女にとってはそこで受話器を置くことが自然で論理的なおこないだったのかもしれない。しかし天吾の耳には、それはどちらかといえば唐突な電話の切り方として響いた。何にせよふかえりが何をどう考え、どう感じるかについて推測しても無駄なことは天吾にもよくわかっていた。経験則として。
天吾は受話器を置き、父親の部屋に戻った。
父親はまだ部屋には戻されていなかった。ベッドのシーツには彼のくぼみがまだ残っていた。しかしそこにはやはり空気さなぎの姿はなかった。淡く冷ややかな夕闇に染められていく部屋の中には、ついさっきまでそこに存在した人のささやかな痕跡が残されているだけだった。
天吾はため息をついて椅子に腰を下ろした。そして膝の上に両手を置き、そのシーツのくぼみを長いあいだ見つめていた。それから立って窓際に行き、外に目をやった。防風林の上には晩秋の雲がまっすぐにたなびいていた。久しぶりに美しい夕焼けの気配があった。
NHKの集金人がどうして自分のことを「よく知っている」のか、天吾にはわからなかった。この前NHKの集金人がやってきたのは、一年ほど前のことだ。そのときに彼は戸口で、部屋の中にテレビがないことを集金人に丁寧に説明した。自分はテレビというものをまったく見ないのだと。集金人はその説明に納得はしなかったが、ぶつぶつと嫌みを口にしただけで、それ以上はとくに何も言わずに帰って行った。
今日やってきたのはそのときの集金人なのだろうか? たしかその集金人も彼のことを「泥棒」と呼んだような記憶がある。しかし同じ集金人が一年ぶりにやってきて、天吾のことを「よく知っている」と言うのはいささか奇妙だった。二人はただ戸口で五分ばかり立ち話をしたに過ぎない。
まあいい、と天吾は思った。とにかくふかえりは鍵を開けなかった。集金人が再訪問することはあるまい。彼らはノルマに追われ、支払いを拒否する人々との不快な言い合いに疲れている。だから無駄な労力を省くために面倒なところは迂回して、徴収しやすいところから受信料をとる。
天吾は再び父親の残していったベッドのくぼみに目をやった。そして父親が履き潰してきた多くの靴のことを思った。日々集金ルートを踏破することによって、父親は長い歳月のあいだに数え切れないほどの靴を葬ってきた。どれも同じような見かけの靴だ。黒くて底の厚い、きわめて実務的な安物の革靴だった。それらはぼろぼろにほつれ、擦り切れ、踵がいびつになるまで酷使された。そのような激しく変形した靴を目にするたびに、少年時代の天吾の胸は痛んだものだった。彼が気の毒に思ったのは父親に対してではなく、むしろ靴に対してだった。それらの靴は、利用されるだけ利用されて今は死に瀕した哀れな使役動物を連想させた。
しかし考えてみれば、今の父親そのものが、死にかけている使役動物のようなものではないか。擦り切れた革靴と同じようなものではないか。
天吾はもう一度窓の外に目をやり、西の空に夕焼けが色を濃くしていく様子を眺めた。そして仄かな青白い光を放つ空気さなぎのことを思い、その中に横たわって眠っている少女時代の青豆のことを思った。
あの空気さなぎはまたここに現れるのだろうか?
時間は本当に直線のかたちをしているのだろうか?
「どうやら手詰まりみたいだ」と天吾は壁に向かって言った。「変数が多すぎる。いくら元神童でも答えを出すのは無理だ」
もちろん壁は返事を返さない。意見も口にしない。彼らは無言のうちに夕焼けの色を反映させているだけだ。