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1Q84 (3-4)
日期:2018-10-13 22:27  点击:470
 第4章 牛河
      オッカムの剃刀
 
 
 麻布の屋敷に住むその老婦人が、何らかのかたちで「さきがけ」のリーダーの暗殺に関係しているかもしれないという考えに、牛河はどうしても馴染めなかった。牛河は彼女の身辺をひととおり洗ってみた。名の知れた、社会的地位のある人間だったから、調査に手間はかからない。夫は戦後実業界の大物の一人で、政界にも影響力を持っていた。事業の中心は投資と不動産だが、大型小売店舗や輸送関連事業といった、その周辺に展開する分野にも関わりを深めていた。一九五〇年代半ばに夫が亡くなったあとは彼女が事業を継いだ。彼女には経営の才能があり、とりわけ危機を察知する能力に恵まれていた。六〇年代後半、彼女は会社が経営の手を広げすぎていると感じ、いくつかの部門の株式を高値のうちに計画的に売却し、組織を徐々にダウンサイズした。そして残された部門の体力強化に力を注いだ。おかげで間もなくやってきたオイルショックの時代を、傷口を最小限に抑えて乗り切り、潤沢な資金をストックすることができた。彼女は他人にとっての危機を自分にとっての好機に変える術を心得ていた。
 今では事業の経営からは身を引き、七十代の半ばを迎えている。豊かな資産もあるし、誰に煩わされることもなく広い屋敷で悠々自適の生活を送っていた。裕福な家に生まれ、資産家と結婚し、夫と死別したあとは更に裕福になった。そんな女性がどうして計画的殺人を企図しなくてはならないのだろう。
 しかし牛河はその老婦人について、より深く調査を続けてみることにした。ひとつにはほかに手がかりらしきものが見当たらなかったからであり、ひとつには彼女が運営している「セーフハウス」の様子にいささか気になるところがあったからだ。家庭内暴力に悩む女性たちのために無償で隠れ家を提供するという行為自体には、とりたてて不自然なところはない。健全で有益な社会奉仕だ。彼女には経済的な余力があるし、そのような身の上の女性たちは、受けた厚意に深く感謝することだろう。しかしそのアパートはあまりにも警戒が念入りだった。頑丈な門扉と錠前、ドイツ・シェパード、何台ものカメラ。牛河はそこに何かしら過剰なものを感じとらないわけにはいかなかった。
 牛河は最初に老婦人の居住している土地と家屋の名義を確認した。それは公開されている情報であり、役所に足を運べばすぐにわかる。土地も家屋もすべて彼女単独の個人の名義になっていた。担保にも入っていない。単純明快だ。個人資産ということで、年間の固定資産税は相当な金額になるが、毎年その程度の金額を支払うくらい、おそらく何でもないことなのだろう。きたるべき相続税もずいぶん高額になるはずだが、それもとくに気にかけていないらしい。金持ちにしては珍しい。牛河の知る限りでは、金持ちくらい税金を払うことを憎み嫌う人種はいない。
 夫が亡くなってからは、一人でその広い屋敷に住んでいるということだった。もちろん一人暮らしとはいっても、使用人が何人か住み込んでいるはずだ。子供は二人いて、長男が事業を継いでいる。長男には子供が三人いる。結婚した長女は十五年前に病死している。そちらには子供はいない。
 その程度の知識は簡単に得られた。しかしそこから一歩突っ込んで、彼女の個人的な背景をより深く知ろうとすると、突然堅い壁に突き当たる。先に進むための道筋はすべて閉ざされている。壁は高く、扉には幾重にも鍵がかけられている。牛河にわかったのは、この女性には私的な部分を世間の目に晒すつもりはみじんもないということだった。そしてその方針を貫くために、相当な手間と金が注ぎ込まれているようだ。彼女はどのような質問にも応じず、どのような発言もしない。どれだけ資料を漁っても彼女の写真を目にすることはなかった。
 港区の電話帳に彼女の名前は掲載されていた。牛河はその番号に電話をかけてみた。どんなことでも実際に正面から試してみるのが牛河の流儀だ。ベルが二度も鳴らないうちに男が電話に出た。牛河は偽名を使い、適当な証券会社の名前を名乗り、「お手持ちの投資ファンドのことで、奥様におうかがいしたいことがあるのですが」と切り出した。相手は「奥様は電話には出られません。用件はすべて私がうかがいます」と言った。機械で合成して作ったような事務的な声だった。会社の規則で本人以外に内容を教えることはできないので、そういうことであれば、数日を要するが郵便で書類を送らせていただくことになると牛河は言った。そうしてもらいたいと相手は言った。そして電話を切った。
 老婦人と話せなくても牛河はとくにがっかりしなかった。もともとそこまでは期待していない。彼が知りたかったのは、プライバシーを護るために彼女がどの程度神経を使っているかということだった。神経は十分に使われていた。彼女はその屋敷の中で、何人かの人々によって厚く護られているようだった。そういう雰囲気が電話に出た男の——おそらくは秘書だろう——口調からも伝わってきた。電話帳には彼女の名前が印刷されている。しかし彼女と直接話ができる相手は限られており、それ以外の相手は砂糖壷に潜り込もうとする蟻のようにあっさりとつまみ出される。
 
 牛河は賃貸物件を探しているふりをして近隣の不動産業者をまわり、セーフハウスとして使われているアパートについてそれとなく事情を尋ねてみた。ほとんどの業者はその住所にそんなアパートが存在していることすら知らなかった。このあたりは東京でも有数の高級住宅街だ。基本的に高額物件しか扱わないし、木造二階建て賃貸アパートになんて毛ほども関心を持っていない。彼らは牛河の顔と服装を一見しただけで、ろくすっぽ相手にもしてくれなかった。雨に濡れた疥癬病みの、尻尾のちぎれた犬がドアの隙間から入り込んできても、もう少し温かく扱われるのではないかという気がしたくらいだ。
 ほとんどあきらめかけたとき、かなり昔からやっているらしい地元の小さな不動産屋が牛河の目を引いた。そこで店番をしていた黄ばんだ顔をした老人が「ああ、あれはね」という感じで、進んで事情を教えてくれた。二級品のミイラのようなひからびた相貌の男だったが、そのあたりのことなら隅から隅まで知っていたし、誰でもいいから話し相手を求めていた。
「あの建物は緒方さんの奥さんがもっておってね、ああ、昔は賃貸アパートになっていたようだ。なんで緒方さんがそんなものを持っていたのか、事情は知らない。アパート経営をしなくちゃならないという境遇の人じゃないからね。おおかた使用人の宿舎みたいなかたちで使っていたんだろう。今はなんか知らないが、ああ、家庭内暴力に悩む女の人のための駆け込み寺みたいになっておるらしい。どっちみち不動産屋の飯のタネにはならんよ」
 老人はそう言うと、口を開けずにコゲラのような声で笑った。
「ほう、駆け込み寺ですか」と牛河は言って、老人にセブンスターを一本勧めた。老人は煙草を受け取り、牛河のライターで火をつけてもらい、いかにもうまそうに吸った。セブンスターもそれくらいうまそうに吸われると本望だろうと牛河は思った。
「亭主にぶん殴られて、顔を腫らして逃げ出してきた女を、ああ、あそこに匿うんだ。もちろん家賃なんて取らないやね」
「社会奉仕みたいなことですかね」と牛河は言った。
「ああ、そんなところだ。アパートが一棟余っているから、それを使って困った人を助けようってわけだ。何せとてつもない大金持ちだからね、損得なんぞ気にせんで好きなことができる。私ら庶民とは違うさ」
「しかし緒方さんの奥さんはなんでまたそういうことを始めたんでしょうね。なんかきっかけみたいなものがあったんでしょうか」
「さあねえ、なにせお金持ちだからね、道楽みたいなもんじゃないか」
「でもたとえ道楽だとしても、困っている人のために進んで何かをするっていうのはいいことじゃありませんか」と牛河はにこやかに言った。「お金の余っている人がみんな進んでそういうことをするわけじゃありません」
「そりゃま、いいことっていや、たしかにいいことだ。おれも昔は女房をしょっちゅうぶん殴ったから、偉そうなことは言えねえけどさ」と老人は言って、歯の欠けた口を大きく開けて笑った。妻をたびたび殴ったことが、人生における特筆すべき喜びであるみたいに。
「それで、今は何人くらいの人がそこに住んでいるんでしょうね」と牛河は尋ねてみた。
「毎朝散歩して前を通りかかるが、外からじゃなんにも見えん。しかしいつも何人かの人は住まっておるようだ。世間には女房を殴る男はたんといるみたいだ」
「世のためになることをする人間よりは、ためにならないことをする人間の方がずっと多いですから」
 老人はまた口を大きく開けて笑った。「あんたの言うとおりだ。この世の中、良いことをする人間よりは、ろくでもないことをする人間の方が数としちゃずっと多い」
 その老人はどうやら牛河のことが気に入ったみたいだった。牛河はなんとなく落ち着かない気持ちになった。
「ところでその緒方さんの奥さんというのは、どのような方なんでしょうね?」と牛河はさりげなく尋ねた。
「緒方さんの奥さんのことはね、ああ、よくわからんのだよ」、枯れ木の精のように厳しく眉をひそめて老人は言った。「ずいぶんひっそり暮らしておられる方だからな。長い間ここでこの商売をしておるけど、たまにちらっと遠くから見かける程度だ。出かけるときは運転手つきの車だし、買い物は全部女中さんがやる。秘書みたいなのが一人いてね、その男がだいたいのことを仕切っている。何しろ育ちの良い上に大金持ちときてるから、私ら下賎《げせん》のものとじかに言葉を交わしたりはしないんだよ」、彼は顔をぐいとしかめ、その皺の中から牛河に目配せをした。
「私ら下賎のもの」という集団は、どうやらその黄ばんだ顔をした老人自身と牛河が中心になってできているらしかった。
 牛河は尋ねた。「緒方さんの奥さんはどれくらい前からその『家庭内暴力に悩む女性たちのためのセーフハウス』の活動をしておられるのでしょうね?」
「うーん、たしかなことはよくわからん。駆け込み寺云々の話だって、人から聞いた話だからさ。いつ頃からそういうことをしておられたのかなあ。ただあのアパートにかなり頻繁に人が出入りするようになったのは、四年ほど前だ。四年か五年か、そんなものだ」、老人は湯飲みを手に取り、冷めた茶を飲んだ。「そのあたりから門が新しくなり、警備が急にものものしくなった。なにしろセーフハウスっていうくらいだ。誰でも簡単に入れるようじゃ、中にいる人間だっておちおち暮らせないわな」
 それから老人はふと現実に戻ったように、探るような目で牛河を見た。「それで、あんたは手頃な家賃のアパートを探しておるんだね?」
「そういうことです」
「じゃあよそに行くことだ。ここらはとびっきりのお屋敷町だし、賃貸物件があったとしても、大使館勤務の外国人向けの高額物件ばかりだ。昔はね、金持ちじゃない普通の人だってけっこうこのへんに住んでいた。私らもそういう物件を扱って商売ができてた。でも今じゃそんなものどこにもありゃしない。だからそろそろ店仕舞いしようかと思うているところだ。東京都心の地価は狂ったように上がっていくし、私ら零細業者にはとてもじゃないが扱いきれんようになっている。あんたも金が余っているんじゃないなら、ほかの場所を探した方がいい」
「そうしますよ」と牛河は言った。「自慢じゃないですが、金はぜんぜん余っちゃいません。よそを探してみましょう」
 老人は煙草の煙をため息混じりにふうっと吐いた。「しかしもし緒方さんの奥さんが亡くなったら、あの屋敷も早晩消えちまうよ。息子さんはなにせやり手だからね、こんな一等地の広い地所を無駄に遊ばせちゃおかない。間を置かずにぶっつぶして超高級マンションを建てるさ。ひょっとしたら今頃もう手回し良く図面くらい引いているかもな」
「そうなると、このあたりのおっとりした雰囲気も変わってくるでしょうね」
「ああ、そりゃがらっと違ってくるさ」
「息子さんってのは、どんなご商売ですか?」
「基本的には不動産業だよ。ああ、要するに私らと同業だ。とはいっても、やってることは月とすっぽん、ロールスロイスと[#傍点]ちゃりんこ[#傍点終わり]くらい違う。あちらは資本を動かして、でかい物件を自分でどんどんこしらえていく。よくできた仕組みになっていて、うまい汁は一滴残らず自分で吸う。こっちには[#傍点]おこぼれ[#傍点終わり]ひとつまわっちゃこない。ひでえ世の中になったもんさ」
「さっきまわりを歩いて、ぐるっと拝見してきたんですが、いや、感心しましたね。まことに立派なお屋敷です」
「ああ、このへんでもいちばんのお屋敷だ。あの見事な柳の木がそっくり切り倒されてしまうかと思うと、想像するだけで胸が痛むさ」、老人はそう言って、いかにもつらそうに首を振った。
「緒方さんの奥さんにももうちっと長生きしてもらわんとね」
「まったくですね」と牛河は同意した。
 
 牛河は「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」に連絡をしてみた。驚いたことに、電話帳にはそのとおりの名前で番号が掲載されていた。何人かの弁護士たちが中心になりボランティアで運営している非営利団体だ。老婦人のセーフハウスはその団体と連携して、家から逃げ出してきた行き場のない女性たちを引き受けている。牛河は彼の事務所の名前で面会を申し込んだ。例の「新日本学術芸術振興会」だ。資金援助の可能性があることを彼は匂わせた。そして面会の日時が設定された。
 牛河は彼らに名刺を差し出し(天吾に渡したのと同じ名刺だ)、社会に貢献している優れた非営利団体を年にひとつ選び、助成金を支給することがこの法人の目的のひとつであると説明した。その候補のひとつに「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」が入っている。スポンサーが誰であるかは明らかにすることができないが、助成金の使い途はまったく自由であり、年度末に一度簡単な報告書を出す以外に義務は伴わない。
 相手の若い弁護士は牛河の風体をひととおり観察し、あまり好ましい印象は抱かなかったようだった。牛河の姿かたちは初対面の相手に好感や信頼感を与えるようにはできていない。しかし彼らは運営資金に慢性的に不足していたし、どのような援助であれ歓迎しないわけにはいかなかった。だからいくぶん疑念の余地を残しながらも、牛河の話をとりあえず受け入れた。
 活動の内容をもう少し詳しくうかがいたいと牛河は言った。弁護士は「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」の成立の経緯を説明した。どのようにして彼らがこの団体を立ち上げるにいたったかについて。牛河にはそんな話は退屈なだけだったが、いかにも興味深そうな顔をして相手の説明に耳を傾けた。的確な相づちを打ち、大きく肯き、神妙な顔をした。そうしているうちに相手もだんだん牛河に馴染んできた。見かけほど胡散臭《うさんくさ》い人物ではないのかもしれないと思い始めたようだった。牛河は訓練された聞き手だったし、彼のいかにも誠実な耳の澄ませ方は、たいていの場合相手の心を和ませた。
 彼は機会を捉え、「セーフハウス」の方向にさりげなく話題を移した。家庭内暴力から逃げ出してきた気の毒な女性たちは、行き場が見つけられない場合、どこに身を寄せることになるのだろうと尋ねた。理不尽な強風に翻弄《ほんろう》される木の葉のごとき彼女たちの運命を、心から気遣っているような表情を顔に浮かべて。
「そのような場合に備えて、いくつかのセーフハウスを我々は用意しています」と若い弁護士は言った。
「セーフハウスと申しますと?」
「一時的な避難先です。数多くはありませんが、そのような場所が篤志家《とくしか》によっていくつか提供されています。中にはアパートを丸ごと一棟提供してくださった方もおられます」
「アパートを丸ごと一棟」と牛河は感心したように言った。「そういう方が世の中にはおられるのですね」
「ええ。我々の活動が新聞や雑誌に取り上げられますと、何らかのかたちで協力したいという方から連絡があります。そういう人々の申し出なしには、この組織を運営していくことはできません。ほとんど持ち出しで活動している状態ですから」
「とても意義ある活動をなさっておられる」と牛河は言った。
 弁護士は無防備な微笑みを顔に浮かべた。自分が正しいことをしていると確信している人間くらい騙《だま》しやすい相手はいないと牛河はあらためて思った。
「今は何人くらいの女性がそのアパートに暮らしておられるのでしょう?」
「そのときどきによって数は違いますが、そうですね、だいたい四人から五人というところでしょう」と弁護士は言った。
「そのアパートを提供されたという篤志家ですが」と牛河は言った。「どのような経緯でこの運動に関わってこられたのでしょうね。そこには何かきっかけのようなものがあると思うのですが」
 弁護士は首をかしげた。「そこまでは私にもわかりかねます。ただそれ以前にも、個人的な範囲で同じような活動はしておられたようです。いずれにしましても、こちらといたしましては、ただありがたくご厚意を受け取るだけです。向こうから説明がなければ、理由まではいちいちうかがいません」
「もちろんです」と牛河は肯いて言った。「ところで、そのセーフハウスの場所なんかについては、内密にしておられるのでしょうね」
「ええ、女性たちは安全に保護されなくてはなりませんし、また多くの篤志家も匿名に留まることを望まれています。なんといっても暴力行為の絡んでいることですから」
 そのあともしばらく話を続けたが、相手の弁護士からそれ以上の具体的な情報を聞き出すことはできなかった。牛河にわかったのは次のような事実だった。「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」が本格的に活動を開始したのは四年前だが、ほどなくある「篤志家」から連絡があり、今は使っていないアパート一棟をセーフハウスとして提供したいという申し出がなされた。彼らの活動が新聞に紹介され、それを読んだその「篤志家」が連絡してきたのだ。絶対に名前を明らかにしないことが協力の条件だった。しかし話の流れからいって、その「篤志家」が麻布の老婦人であり、「セーフハウス」が彼女の所有する木造アパートであることに疑問の余地はなかった。
「どうもお時間をとらせました」と牛河はその理想家肌の若い弁護士に篤く礼を言った。「充実した有益な活動をなさっておられるようです。今回のお話を持ち帰り、来たる理事会に諮《はか》らせていただきます。近いうちにご連絡を差し上げられると思います。活動のいっそうのご発展をお祈りしております」
 
 牛河が次にやったのは、老婦人の娘の亡くなった経緯を調べることだった。彼女は運輸省のエリート官僚と結婚し、死亡時はまだ三十六歳だった。死因まではわからない。夫は妻の死後まもなく運輸省を去った。探り当てられた事実はそこまでだった。夫が運輸省を急に退官した理由もわからないし、その後彼がどのような道を歩んだかも不明だ。彼の退官は妻の死と関連しているのかもしれないし、関連していないのかもしれない。運輸省は一般市民に対して親切に積極的に省内の情報を公開してくれる役所ではない。しかし牛河には鋭い嗅覚が具わっていた。そこには[#傍点]何か不自然なもの[#傍点終わり]がある。その男が妻を失った悲しみのあまりキャリアを捨て、職場を去り、世間から身を隠したとは、牛河にはどうしても思えなかった。
 牛河の理解するところでは、三十六歳で病死する女性の数はそれほど多くない。もちろんまったくないわけではない。人はどんな年齢であれ、どれほど恵まれた環境にあれ、突然病を得て命を落とすことがある。癌があり、脳腫瘍があり、腹膜炎があり、急性肺炎がある。人の身体は脆く不確かなものだ。しかし裕福な環境にある女性が三十六歳で鬼籍に入るとき、それは確率的に言って、自然死であるよりは事故死か自殺であることの方が多い。
 [#傍点]仮定してみよう[#傍点終わり]、と牛河は思った。ここはひとつ高名な「オッカムの剃刀《かみそり》」の法則に従って、なるったけシンプルに仮説を積み上げてみよう。無用な要因はとりあえず排除し、論理のラインを一本にしぼって物事を眺めてみよう。
 老婦人の娘は病死したのではなく、自殺したのだと仮定してみようではないか。牛河は両手をこすり合わせながらそう考えた。自殺を表向き病死と世間に向けて偽ることは、さしてむずかしいことではない。とりわけ資力と影響力を持つ人間にとっては。もうひとつ先に進んで、娘は家庭内暴力にさらされて人生に絶望し、自らの命を絶ったのだと仮定してみようではないか。それもあり得ないことではない。世間でエリートと呼ばれる人々の決して少なくはない部分が——あたかも社会的割りあてを進んで余分に引き受けるかのごとく——鼻持ちならない性格や、陰湿な歪んだ性向を有していることは、一般によく知られる事実である。
 さて、もしそうなった場合、母である老婦人はどうするだろう? これも運命だ、仕方ないと思い、そのままあきらめるだろうか? いや、そんなことはあるまい。娘を死に追いやる原因となったものに対して相応の報復を加えようとするはずだ。老婦人がどのような人間であるかが、牛河には今ではおおよそわかっていた。胆力のある聡明な女性であり、明瞭なビジョンを持ち、心に決めたことはすかさず実行に移す。そのためには自分が持っている資力と影響力を行使することを惜しまない。愛するものを傷つけ、損ない、結果的に命まで奪った人間を、彼女がそのまま放置しておくわけがない。
 実際にどのような種類の報復がその夫に対してなされたのか、牛河には知りようがなかった。その人物の足取りは文字通り宙に消えている。老婦人がその男の命を奪ったとまでは思えない。用心深く冷静な女性だ。広い視野も持っている。そこまであからさまなことはしないだろう。とはいえ何らかの痛烈な措置がとられたことに間違いはあるまい。そして何がなされたにせよ、彼女が不都合な痕跡をあとに残しておくとは考えがたい。
 しかし娘を奪われた母親の怒りと絶望は、ただ個人的な復讐を遂げるというだけには留まらない。彼女はある日新聞で「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」の活動を知り、協力を申し出る。自分は現在ほとんど使われていない賃貸アパートを都内に一棟所有しており、行き場のない女性たちのためにそれを無償で提供できる。これまでにも何度か、同じような目的のためにそこを使ったことがあるので、おおよその勝手はわかっている。ただし名前は表に出さないでもらいたい。団体を主宰している弁護士たちはもちろんその申し出に感謝する。公的な団体と連繋することによって、彼女の復讐心はより広汎で有用で、より前向きなものへと昇華される。そこには契機があり動機がある。
 そこまでの推測はいちおう筋の通ったものに思えた。具体的な根拠はない。すべては仮説の積み重ねに過ぎない。しかしそういうセオリーを当てはめれば、多くの疑問はとりあえず解消される。牛河は唇を舐めながら、両手をごしごしとこすり合わせた。しかしそこから先がいささかあやふやになる。
 老婦人は通っているスポーツ・クラブで、青豆という若い女性インストラクターと知り合い、どのようなきっかけがあったのかは知らないが、心の密約を結ぶことになる。そして周到な準備を整え、青豆をホテル・オークラの一室に送り込み、「さきがけ」のリーダーを死に至らせる。殺害方法は不明だ。あるいは青豆は特殊な殺人技術に長《た》けていたのかもしれない。その結果リーダーは、忠実で有能なボディーガードたちに厳重に警護されていたにもかかわらず、命を落とすことになった。
 その辺りまでは危なっかしいなりにも仮説の糸をつないでいける。しかし「さきがけ」のリーダーと「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」とのあいだにどんなつながりがあるのかということになると、牛河は途方に暮れる。彼の思考はそこで行く手を阻まれ、つながれてきた仮説の糸は鋭い剃刀によってあっけなく断ち切られる。
 
 教団が牛河に今求めているのは、二つの疑問に対する答えだった。ひとつは「リーダーの殺害を企図したのは誰か」であり、もうひとつは「青豆は今どこにいるのか」だ。
 青豆について事前調査をおこなったのは牛河だった。彼はその前にも同種の調査を何度かやってきた。言うなれば手慣れた業務だ。そして彼女はクリーンだという結論を牛河は出した。どのような角度から見ても不審な点は見当たらない。教団にもそのように報告した。そして青豆はホテル・オークラのスイート・ルームに呼ばれ、筋肉ストレッチングを施した。彼女が帰ったあとリーダーは絶命していた。青豆はそのままどこかに姿を消した。まるで風に吹かれた煙のように。彼らはそのことで牛河に対して、ごく控え目に言ってかなり強い不快感を抱いているはずだ。牛河の調査が十分ではなかったと考えている。
 しかし実際には、彼はいつもどおり隙のない調査をおこなった。坊主頭に対しても述べたように、牛河は仕事については手抜きを一切しない。電話の通話記録を事前にチェックしなかったのはたしかに手落ちだが、よほど疑わしいケースでもなければ、通常そこまではやらない。そして彼の調べた限りにおいては、青豆に怪しい点はひとつとして見当たらなかった。
 いずれにせよ牛河としては、彼らにいつまでも不快感を抱かせておくわけにはいかない。金払いは申し分ないが、剣呑な連中だ。リーダーの遺体が秘密裏に処理されたことを知っているだけでも、牛河は既に彼らにとって危険人物になっている。自分が有用な人材であり、生かしておく価値のあることを、手に取れるかたちにして示さなくてはならない。
 リーダー殺害に麻布の老婦人が関与しているという具体的な証拠はない。今のところすべては仮説推測の域を出ない。しかし立派な柳の木が繁るその広い邸宅の中には、何かしら重い秘密が潜んでいる。牛河の嗅覚はそのように告げていた。その真相を彼はこれから暴かなくてはならない。簡単な作業ではあるまい。相手のガードは堅く、そこには間違いなくプロの手が入っている。
 やくざだろうか?
 あるいはそうかもしれない。実業界、とくに不動産業界は世間の目の届かないところでやくざと取り引きをしていることが多い。荒っぽい仕事はそういう連中に任せる。老婦人が彼らの力を利用するというのもないことではない。しかし牛河はそれに対しては否定的だった。老婦人はそういう人種と関わり合うには育ちが良すぎる。とくに「家庭内暴力に悩む女性たち」を保護するために、やくざの力を利用するとは考えにくかった。おそらく彼女は自前の警護体制を整えているのだろう。洗練された個人的なシステムを。金はかかるだろうが、彼女は金には不自由していない。そしてそのシステムは必要に応じて暴力的な傾向を帯びるかもしれない。
 もし牛河の仮説が正しければ、青豆は老婦人の助力を得て、今頃どこか遠方にある隠れ家に身を潜めているはずだ。丁寧に足跡を消され、新しいアイデンティティーを与えられ、名前も変えているだろう。ひょっとしたら外見も違っているかもしれない。そうなると、牛河が今やっているような細々とした個人の調査では、その足取りを辿るのはまず不可能になる。
 とりあえずこの麻布の老婦人の線にしがみついているしかなさそうだった。なんらかのほころびをそこにみつけ、そのほころびから青豆の足取りを推し測っていくしかない。うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。しかし鋭い嗅覚と、しがみついたら放さない粘り強さが牛河の身上だ。そしてそれ以外にいったいどんな語るに足る資質が俺にあるだろう、と牛河は自らに問いかけた。人に向かって誇れるような能力が、何かそのほかにあるだろうか?
 [#傍点]何ひとつない[#傍点終わり]、と牛河は確信を持って自らに答えた。

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