第6章 天吾
親指の疼きでそれとわかる
天吾はその海辺の小さな町で規則正しい日々を送った。いったん生活のパターンを定めると、できるだけ乱れなくそれを維持するように努めた。自分でも理由はよくわからないが、そうすることが何より重要であるように思えた。朝に散歩をし、小説を書き、療養所に行って昏睡した父親のために適当な本を朗読する、そして宿に帰って眠る。そういう日々が単調な田植えの囃子《はやし》歌のように繰り返された。
温かい夜が数日続き、それから驚くほど冷ややかな夜がやってきた。そのような季節の変化とは無関係に、天吾は昨日の自分の振る舞いをそのままなぞるように生きていた。可能な限り無色透明な観察者になろうと試みた。息を潜め気配を殺し、[#傍点]そのとき[#傍点終わり]を静かに待ち受けた。一日と次の一日との間の相違が日毎に希薄になっていった。一週間が過ぎ、十日が過ぎていった。しかし空気さなぎは姿を見せなかった。午後遅く父親が検査室に運ばれていったあとのベッドには、哀れなほど小さな人型がくぼみとして残されているだけだった。
[#傍点]あれ[#傍点終わり]はあのとき一度きりのことだったのだろうか? 天吾は暮れなずむ狭い病室の中で唇を噛みながら思った。二度と再現することのない特別な顕示だったのだろうか? それともおれはただ幻影を見ただけなのだろうか? その問いかけに答えるものはなかった。遠い海鳴りと、ときおり防風林を吹き抜ける風の音が彼の耳にするすべてだった。
正しい行動を取っているという確信が、天吾には持てなかった。東京から遠く離れたこの海辺の町で、現実から置き去りにされたような療養所の一室で、ただ無駄に時間をつぶしているだけなのかもしれない。しかしもしそうだとしても、ここをあとにすることは天吾にはできそうにない。彼はかつてその部屋で空気さなぎを目にし、仄かな明かりの中で眠る小さな青豆の姿を目にしたのだ。その手にまで触れたのだ。たとえそれが一回限りのことであっても、いや、たとえ儚《はかな》い幻影であったとしても、許される限り長くそこに留まり、そのとき目にした情景を心の指でいつまでもなぞっていたかった。
天吾が東京に戻らず、その海辺の町にしばらく留まっていることがわかると、看護婦たちは彼に親しみを抱き始めた。彼女たちは作業の合間にちょっと手を休め、天吾と世間話をしていった。暇ができると、話をするためにわざわざ部屋を訪れることもあった。お茶や菓子を持ってきてくれたりもした。アップにして束ねた髪にボールペンを差した三十代半ばの大村看護婦と、頬の赤いポニーテイルの安達看護婦が、交代で天吾の父親の世話をした。金属縁の眼鏡をかけた中年の田村看護婦は玄関で受付をしていることが多かったが、人手が足りないときには代わりにやってきて、父親の面倒を見た。その三人がどうやら天吾に個人的な興味を持っているらしかった。
天吾も、夕方の特別なひとときを別にすれば時間をもて余していたから、彼女たちを相手にいろんな話をした。というか、質問されたことにはできるだけ正直に返事をした。予備校の講師として数学を教え、副業に注文を受けて細々とした文章を書いていること。父親が長年にわたってNHKの集金人を勤めてきたこと。小さい頃から柔道をやってきて、高校のとき県大会で決勝にまで進んだこと。しかし父親との長年の確執についてはいっさい口にしなかった。母親は死んだことになっているが、ひょっとしたら夫と幼い息子を捨ててどこかの男と駆け落ちをしたのかもしれない、といった話もしなかった。そんなことを持ち出すと話がややこしくなる。ベストセラー『空気さなぎ』の代筆をしたことももちろん言うわけにはいかない。空に月が二個見えることも口にしなかった。
彼女たちもそれぞれの身の上話をした。三人とも地元の出身で、高校を出て専門学校に入り、看護婦になった。療養所の仕事はおおむね単調で退屈で、勤務時間は長く不規則だが、生まれ育った土地で働けることはありがたいし、一般の総合病院に勤務して、日々生死の境目に直面して働くよりはストレスが少なかった。老人たちはゆっくりと時間をかけて記憶を失い、事態を理解しないまま静かに息を引き取っていった。血が流されることは少なく、苦痛も最小限に抑えられている。真夜中に救急車で運び込まれる患者もまずいないし、まわりで泣き叫ぶ家族もまずいない。生活費も安いから、それほど多くない給料でも不足なく暮らしていける。眼鏡をかけた田村看護婦は五年前に夫を事故で亡くし、近くの町で母親と二人で暮らしていた。ボールペンを髪に差した大柄な大村看護婦には小さな男の子が二人いて、夫はタクシーの運転手をしていた。若い安達看護婦は美容師をしている三歳年上の姉と二人で、町外れにアパートを借りて住んでいた。
「天吾くんは優しいのね」と大村看護婦が点滴のパックを取り替えながら言った。「毎日やってきて、意識のない人に本を読んであげるような家族はまずいないもの」
そう言われると天吾は居心地が悪くなった。「たまたま休暇がとれたから。でもそれほど長くはいられないと思う」
「いくら暇ができたって、好んでここに来る人はいないわよ」と彼女は言った。「こんなことを言うのはなんだけど、よくなる見込みがまずない病気だものね。時間が経つにつれ、みんなだんだん気が滅入ってくるの」
「なんでもいいから本を読んでくれと父親に頼まれたんです。もっと前、まだ意識がいくらか残っているときに。それにここにいても、ほかにやることもないから」
「何を読んであげているの?」
「いろんなもの。僕がたまたま読んでいる本の、たまたま読んでいる箇所を声に出して読むだけです」
「今は何を読んでいるの?」
「アイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』」
看護婦は首を振った。「聞いたことがない」
「この本が書かれたのは一九三七年で、ディネーセンはデンマークの女性です。スエーデン人の貴族と結婚して第一次大戦の始まる前にアフリカに渡り、そこで農園を経営するようになりました。のちに離婚して、一人でその経営を引き継ぎました。そのときの体験を本にしたものです」
彼女は父親の体温を測り、記録表に数値を書き込んでから、そのボールペンをまた髪に差した。そして前髪を払った。「私も少しここで朗読を聴いていていいかしら」
「気に入るかどうかはわからないけれど」と天吾は言った。
彼女はスツールに腰を下ろし、脚を組んだ。骨格のしっかりとした、かたちのきれいな脚だった。いくぶん肉がつき始めている。「とにかく読んでみて」
天吾は続きをゆっくりと読み始めた。それはゆっくりと読まれなくてはならない種類の文章だった。アフリカの大地を流れる時間のように。
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暑く乾燥した四ヶ月のあと、長い雨期の始まるアフリカの三月、あたり一面はゆたかな成長と新緑と、かぐわしさとに満ちわたる。
しかし農園経営者は心をひきしめ、この自然の恵みに有頂天になるまいとする。降り注ぐ雨の音が弱まりはしないかと心配しながら、じっと耳をこらす。いま大地が吸い込んでいる水分は、農園で生きるあらゆる植物、動物、人間を、次におとずれる雨なしの四ヶ月間支えなければならないのだ。
農園内の道という道が、水のあふれ流れる小川にかわるのは、美しい眺めである。農園主は歌うようにはずんだ気持ちで、雫《しずく》をしたたらす花ざかりのコーヒー畠へと、泥の中を歩いてゆく。ところが、雨期のさなかに、ある夜突然雲が切れ、星々が輝くのが見える。すると農園主は家の外に出て空を見上げる。もっと雨を降らせてもらおうと、空にしがみついてしぼりあげようという風情である。農園主は空に向かって嘆願の叫びを投げる。「もっと雨を、どうぞ十分以上の雨を降らせて下さい。私の心はいま、あなたに向かって裸でさらされております。私に祝福を与えて下さらないならば、放してあげるわけには参りません。お望みなら、私を打ち倒して下さい。しかし、なぶり殺しはごめんです。性交中断は困ります。天にましますかたよ!」
[#ここで字下げ終わり]
「性交中断?」と眉をひそめて看護婦は言った。
「なんていうか、歯に衣《きぬ》を着せない言葉遣いをする人だから」
「それにしても、神さまに向かって口にするにはずいぶんリアルな言葉じゃない」
「たしかに」と天吾は同意した。
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雨期が終わったあと、変に涼しい曇り日がある。そんな日にはマルカ・ムバヤ、すなわち悪い年、旱魃《かんばつ》のときを思い出す。あのときキクユ族たちは乳牛を連れてきて、私の家のまわりで草を食べさせた。牛飼いの少年の誰かが笛を持っていて、ときどき何か短い調べを吹いた。その後も同じ曲を耳にするたびに、あの過ぎ去った日々のわれわれの苦しみと絶望のすべてを、私はありありと思い出すのだった。その調べには涙のにがさがこもっていた。しかし同時に、そのおなじ調べのなかに、私は意外にも、活力と不可解な優しさ、ひとつの歌を聞きとるのだった。あのつらい時期は、ほんとうにそんなにもつらいものだったのだろうか? あのころ、私たちには若さがあり、激しい希望に満ちていた。あの長く続いた苦難の日々こそ、私たちに固い団結をもたらしてくれたのだ。たとえ別の星に移されても、私たちはすぐにお互いを仲間として認めあえるに違いないほどに。そしてカッコウ時計、私の蔵書、芝生にいる痩せおとろえた牝牛たち、悲しげなキクユ族の老人たちは、互いにこう呼びあっていたのだった。「あんたもそこにいるのだね。あんたもやはり、このンゴング農園の一部分なのだね」と。こうしてあの苦難の時期は私たちを祝福し、そして去っていった。
[#ここで字下げ終わり]
「生き生きした文章ね」と看護婦は言った。「情景が目の前に浮かんでくる。アイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』」
「そう」
「声もよかった。深みがあって、情感がこもっている。朗読に向いてるみたい」
「ありがとう」
看護婦はスツールに座ったまま、しばらく目を閉じ、やさしく呼吸をしていた。まるで文章の余韻に身を浸しているみたいに。彼女の胸の膨らみが白い制服の下で呼吸にあわせて上下するのが見えた。それを見ているうちに天吾は、年上のガールフレンドを思い出した。金曜日の午後、彼女の服を脱がせ、硬くなった乳首に指を触れているところを思い出した。彼女の吐く深い吐息と、その湿った性器。カーテンを引いた窓の外では密やかに雨が降っている。彼女の手のひらが天吾の睾丸の重さを量る。しかしそんなことを思い出しても、とくに性欲が高まるわけでもない。すべての情景と感触は薄い膜がかかったように漠然として、離れたところにある。
看護婦は少し後で目を開け、天吾を見た。天吾の考えていることなどすべて見とおしているというような視線だった。しかし彼女は天吾を責めているわけではなかった。彼女は淡い微笑みを浮かべたまま立ち上がり、天吾を見下ろした。
「もう行かなくちゃ」、看護婦は髪に手をやり、ボールペンがそこにあることを確かめてから、くるりと振り向いて部屋を出て行った。
だいたい夕方にふかえりに電話をかけた。いちにちとくに何ごとも起こらなかった、と彼女はそのたびに言った。電話のベルが何度か鳴ったが、言われたとおり受話器をとらなかった。それでいい、と天吾は言った。ベルは鳴らしっぱなしにしておけばいい。
天吾が彼女に電話をかけるときは、三度ベルを鳴らしてからいったん切り、またすぐにかけなおすという方法をとっていたが、その取り決めはなかなか守られなかった。最初のベルでふかえりが受話器を取ることの方が多かった。
「決められたとおりにしないとだめだよ」と天吾はそのたびに注意した。
「わかるからだいじょうぶ」とふかえりは言った。
「かけているのが僕だとわかるということ?」
「ほかのでんわにはでない」
まあそういうこともあるのだろうと天吾は思った。彼自身、小松からかかってきた電話はなんとなくそれとわかる。ベルがせわしなく神経質な鳴り方をするのだ。まるで指先で机の表面をとんとんと執拗に叩き続けているみたいに。でもそれはあくまで[#傍点]なんとなく[#傍点終わり]に過ぎない。確信を持って受話器を取るわけではない。
ふかえりの送っている日々は、天吾のそれに劣らず単調なものだった。アパートの部屋から一歩も外に出ず、一人でただじっとしている。テレビはないし、本も読まない。食事もろくにとらなかった。だから今のところ買い物に出る必要もない。
「うごかないからあまりたべるヒツヨウもない」とふかえりは言った。
「毎日一人で何をしているの?」
「かんがえごと」
「どんなことを考えているの?」
彼女はその質問には答えなかった。「カラスがやってくる」
「カラスは毎日一回来るんだ」
「いちどじゃなくなんどかやってくる」と少女は言った。
「同じカラスが?」
「そう」
「ほかには誰も来ない?」
「エネーチケーのひとがまたやってきた」
「この前来たのと同じエネーチケーのひと?」
「おおきなこえでカワナさんはドロボーだといっていた」
「うちのドアの前でそう叫んでいたわけ?」
「ほかのみんなにきこえるように」
天吾はそれについて少し考えた。「そのことは気にしなくていい。君には関係のないことだし、とくに害はないから」
「ここにかくれていることはわかっているといった」
「気にすることはない」と天吾は言った。「そんなこと向こうにはわからない。でまかせを言って脅しているだけだ。エネーチケーのひとはときどきそういう手を使う」
父親が同じ手を使うのを、天吾は何度か目にしていた。日曜日の午後、集合住宅の廊下に響き渡る悪意に満ちた声。脅迫とからかい。彼は指先でこめかみを軽く押さえた。記憶は様々な重い付属物を従えて蘇ってくる。
沈黙から何かを感じとったようにふかえりは尋ねた。「だいじょうぶ」
「大丈夫だよ。エネーチケーのひとのことは放っておけばいい」
「カラスもそういっていた」
「それはよかった」と天吾は言った。
空に月がふたつ浮かび、空気さなぎが父親の病室に出現するのを目にして以来、天吾は大抵のことには驚かないようになっていた。ふかえりがカラスと日々窓際で意見を交換して何の不都合があるだろう。
「僕はもう少しここにいようと思う。東京にはまだ帰れない。かまわないかな?」
「いたいだけそこにいたほうがいい」
そう言うと、間を置かずにふかえりは電話を切った。会話は一瞬にして消滅した。誰かが研ぎ澄まされた鉈《なた》を振り下ろして、電話線を断ち切ったみたいに。
それから天吾は小松の出版社の電話番号を回した。しかし小松は不在だった。午後一時頃に会社にちらりと姿を見せたが、やがていなくなって、今どこにいるかもわからないし、会社に戻ってくるかどうかもわからないということだった。とくに珍しいことではない。天吾は療養所の電話番号を残し、昼間ならだいたいそこにいるから、できれば連絡をほしいと言った。旅館の電話番号を教えて、真夜中に電話をかけられでもしたら困る。
この前小松と話をしたのは、九月も終わりに近い頃だった。短い電話での会話だった。それ以来彼からまったく連絡はないし、天吾の方からも連絡はしていない。八月の終わりから三週間ばかり、彼はどこかに姿を消していた。「身体の具合が良くないので、しばらく休みを取りたい」という要領を得ない電話が会社に一本入っただけで、それっきり連絡がないということだった。ほとんど行方不明の状態だった。もちろん気にはなったが、とくに真剣に心配したというほどではない。小松には生来気まぐれなところがあるし、基本的に自分の都合でしか動かない人間だ。そのうちに何ごともなかったような顔をして、ふらりと職場に復帰することだろう。
もちろん会社という組織の中で、そんな身勝手な行動は許されるものではない。しかし彼の場合、同僚の誰かがなんとかつじつまを合わせて、面倒な事態が到来するのを防いでくれた。人望があるというのでは決してないが、彼のために尻ぬぐいをしてくれる奇特な人間がなぜかいつもどこかにいた。会社の方も多少のことなら見て見ないふりをした。自己本位で協調性がなく、傍若無人な性格だが、こと仕事に関しては有能な人間だったし、今のところ『空気さなぎ』というベストセラーを一人で仕切った男だ。そう簡単にクビにはできない。
小松は天吾の予想通り、ある日予告もなく会社に姿を現し、とくに事情を説明するでもなく、誰に詫びるでもなく、そのまま仕事に復帰した。知り合いの編集者が、用事があって電話をかけてきたついでに彼にそのことを教えてくれた。
「で、小松さんの身体の具合はもう良くなったんですか?」と天吾はその編集者に尋ねた。
「ああ、べつに元気みたいだよ」と彼は言った。「前よりいくぶん無口になったような気がするけどね」
「無口になった?」と天吾は少し驚いて言った。
「まあなんというか、[#傍点]より[#傍点終わり]社交的でなくなった、ということだよ」
「本当に身体の具合が悪かったんですか?」
「そんなこと俺にはわからん」と編集者は投げやりな声で言った。「本人はそう言っている。信じるしかあるまいよ。でもまあ、無事に戻ってきてくれたおかげで、たまっていた案件は着実に片づいている。あの人がいないあいだは、なにしろ『空気さなぎ』がらみであれこれあって、こっちも大変だったんだよ」
「ところで『空気さなぎ』といえば、ふかえりの失踪事件はどうなりました?」
「どうもならない。同じままだよ。事態の進展は見られず、少女作家の行方は杳《よう》としてわからない。関係者一同、途方に暮れている」
「新聞を読んでいるけど、最近はその関係の記事をさっぱり見かけませんね」
「メディアはこの件からおおむね手を引くか、あるいは慎重に距離をとっている。警察も目立った動きは見せていない。詳しいことは小松さんに訊いてくれ。ただね、さっきも言ったように彼はここのところいささか口数が減った。というか、全体的になんとなくあの人らしくないんだ。自信たっぷりなところが影をひそめて、内省的になったというか、一人で考え込んでいることが多くなった。気むずかしくもなった。ときどきまわりに人がいることを忘れてしまっているみたいに見えることがある。まるで一人で穴ぼこに入っているみたいに」
「内省的」と天吾は言った。
「実際に話してみるとわかると思うよ」
天吾は礼を言って電話を切った。
数日後の夕方に天吾は小松に電話をかけてみた。小松は会社にいた。知り合いの編集者が言ったように、小松のしゃべり方はいつもとは違っていた。普段は淀みなくすらすらと切れ目なく話が続くのだが、そのときはどことなく歯切れが悪く、天吾と話をしながら、一方でほかの何かについて休みなく思いを巡らせているような印象があった。何か悩み事があるのかもしれないと天吾は思った。いずれにせよ、それはいつものクールな小松らしくなかった。悩み事があろうが、ややこしい案件を抱えていようが、そんなことは顔にも出さず、とにかく自分のスタイルとペースを一貫して崩さないのが小松の流儀なのだ。
「身体の具合はもういいんですか?」と天吾は尋ねてみた。
「身体の具合?」
「だって具合が悪くてけっこう長く会社を休んでいたんでしょう?」
「ああ、そうだな」と小松は思い出したように言った。短い沈黙があった。「それはもういいんだ。そのことについてはいつか遠からず、あらためて話をしよう。今のところはまだ要領良く話せない」
[#傍点]いつか遠からず[#傍点終わり]、と天吾は思った。小松の口ぶりには何かしら奇妙な響きが聞き取れた。そこには適切な距離感のようなものが欠けていた。口にされる言葉はどことなく平板で、奥行きがない。
天吾はそのとき、適当に話を切り上げて、自分から電話を切った。『空気さなぎ』やふかえりの話題もあえて持ち出さなかった。その話題に及ぶことを避けているような雰囲気が、小松の口調にうかがえたからだ。だいたい小松が何かを[#傍点]要領良く話せない[#傍点終わり]なんていうことが、これまでに一度でもあっただろうか?
とにかくそれが小松と話をした最後だった。九月の末だ。それからもう二ヶ月以上が経過した。小松は電話をかけて長話をするのが好きな男だ。もちろん相手を選ぶのだろうが、頭に浮かんだことを片端から口に出しながら考えをまとめていく傾向がある。そして天吾はそんな彼のために、言うなればテニスの壁打ちボードのような役割を果たしてきた。気が向けば、用事がなくてもしょっちゅう天吾に電話をかけてきた。それもおおむねとんでもない時刻に。気が向かなければずっと長く電話をしてこないこともある。しかし二ヶ月以上もまったく音信がないというのは珍しいことだった。
たぶん誰ともあまり話をしたくない時期なのだろうと天吾は思った。誰だってそういう時期はある。たとえ小松にだって。そして天吾としても、彼と急いで語り合わなくてはならないような用件はなかった。『空気さなぎ』の売れ行きも止まり、もうほとんど世間の話題に上らなくなったし、行方不明のふかえりが実はどこにいるかもわかっている。もし小松の方に用事があれば、電話をかけてくるだろう。電話がかかってこなければ、それは用事がないということだ。
しかしそろそろ電話をかけた方がよさそうだと天吾は思った。「そのことについてはいつか遠からず、あらためて話をしよう」という小松の言葉が、頭の隅に不思議に引っかかったままになっていたからだ。
天吾は予備校の講義を代行してくれている友人に電話をかけ、様子を訊いた。とくに問題もなくやっている、と相手は言った。それでお父さんの具合は?
「ずっと変わりなく昏睡している」と天吾は言った。「呼吸はしているし、体温も血圧も低い数値だけど、いちおう安定している。でも意識はない。苦痛もたぶんない。夢の世界に行ったきりみたいだ」
「悪くない死に方かもな」とその男はとくに感情を込めずに言った。彼が言いたいのは「こういう言い方はあるいは無神経かもしれないけれど、しかし考えようによってはある意味悪くない死に方かもしれないな」ということだ。前置きの部分が抜け落ちている。大学の数学科に何年か籍を置くと、そういう省略的な会話に慣れてしまう。とくに不自然だとも思わなくなる。
「最近月を見たことはある?」と天吾はふと思いついて尋ねてみた。最近の月の様子について出し抜けに質問されて、とくに不審に思わない相手はおそらくその友人くらいだろう。
相手は少し考えた。「そういえば最近月を見た記憶はないな。月がどうかしたのか?」
「暇があったら一度見ておいてくれないかな。感想が聞きたいんだ」
「感想。感想って、どんな見地から?」
「どんな見地でもかまわない。月を見て思ったことを聞きたいんだ」
やや間があった。「何を思うかというのは、表現としてまとめにくいかもしれない」
「いや、表現は気にしなくていい。大事なのはその端的な特質みたいなことだ」
「月を見てその[#傍点]端的な特質[#傍点終わり]についてどう思うか?」
「そう」と天吾は言った。「何も思わなければ、それでかまわないから」
「今日は曇りだから月は出ないと思うけど、今度晴れたときに見ておくようにする。つまり、もし覚えていたらだけど」
天吾は礼を言って電話を切った。もし覚えていたら。それが数学科出身者の問題点のひとつだ。自分に直接関心のない事象に関しては、記憶の寿命はびっくりするほど短い。
面会の時間が終わって療養所をあとにするとき、受付のデスクに座っている田村看護婦に天吾は挨拶した。「ご苦労様。おやすみなさい」と彼は言った。
「天吾くんはあと何日くらいここにいられるの?」と彼女は眼鏡のブリッジを押さえながら尋ねた。勤務はもう終わったらしく、看護婦の制服ではなく、プリーツのついた葡萄色のスカートと、白いブラウスと、グレーのカーディガンという格好になっていた。
天吾は立ち止まって考えた。「まだ決めていません。成り行き次第です」
「お仕事はまだしばらく休んでいられるの?」
「代講を頼んでおいたから、まだ少しは大丈夫です」
「あなた、いつもどこでご飯を食べているの?」と看護婦は尋ねた。
「そのへんの町の食堂です」と天吾は言った。「旅館では朝ご飯しか出ないから、近くの適当な店に入って、定食を食べたり、丼ものを食べたり、そんなところです」
「おいしい?」
「とくにうまいというものではないです。あまり気にしなかったけど」
「そんなんじゃだめよ」と看護婦はむずかしい顔をして言った。「もっとしっかりと滋養のあるものを食べないと。だってあなた、ここのところ立ったまま寝ている馬みたいな顔をしているわよ」
「立ったまま寝ている馬?」と天吾は驚いて言った。
「馬は立ったまま眠るんだけど、見たことある?」
天吾は首を振った。「ありません」
「ちょうど今のあなたみたいな顔をしてるの」とその中年の看護婦は言った。「洗面所に行って鏡で自分の顔を見てくるといいわ。ちょっと見には眠っているとはわからないんだけど、よく見ると眠っているの。目は開いていても、なんにも見てない」
「馬は目を開けたまま眠るんですか?」
看護婦は深く肯いた。「あなたと同じように」
天吾は一瞬、洗面所に行って鏡を見てみようとしたが、思い直してやめた。「わかりました。もっと滋養のあるものを食べるようにします」
「ねえ、よかったら焼き肉を食べに行かない?」
「焼き肉ですか」。天吾はあまり肉を食べない。嫌いなわけではないが、肉を食べたいと思うことが日常的にほとんどない。でも彼女にそう言われると、久しぶりに肉を食べてもいいような気持ちになった。たしかに身体が滋養を求めているのかもしれない。
「今晩これからみんなで焼き肉を食べに行こうって話になってるの。あなたもいらっしゃい」
「みんな?」
「六時半で上がりになる人たちと待ち合わせて、三人で行くの。どう?」
あとの二人はボールペンを髪に差した子持ちの大村看護婦と、小柄な若い安達看護婦だった。その三人はどうやら職場を離れても仲が良いらしい。天吾は彼女たちと一緒に焼き肉を食べることについて考えてみた。生活の簡素なペースをできるだけ乱したくはないが、断る口実も思いつけなかった。この町で天吾が暇をもてあましていることは周知の事実である。
「もしお邪魔じゃなければ」と天吾は言った。
「もちろん邪魔なんかじゃないわよ」と看護婦は言った。「邪魔になるような人を義理で誘ったりしないもの。だから遠慮しないで一緒にいらっしゃい。たまには健康な若い男性が加わるのも悪くない」
「まあ、健康なことは確かだけど」と天吾は心許ない声で言った。
「そう、それがいちばん」と看護婦は職業的見地から断言した。
同じ職場に勤務する三人の看護婦が、一緒に[#傍点]上がり[#傍点終わり]になることは簡単ではない。しかし彼女たちは月に一度、無理をしてなんとかその機会をこしらえた。そして三人で町に出て「滋養のあるもの」を食べ、酒を飲んでカラオケを歌い、それなりに羽目を外し、余剰エネルギー(とでも言うべきもの)を発散した。彼女たちにはそういう気晴らしがたしかに必要だった。田舎町の生活は単調だし、職場で目にするのは医師と同僚の看護婦を別にすれば、あとは活気と記憶を失った老人ばかりだ。
三人の看護婦はとにかくよく食べ、よく飲んだ。天吾はとてもそのペースについていけなかった。だから彼女たちが楽しく盛り上がっているそばで、おとなしく調子をあわせ、焼き肉を適当に食べ、酔い過ぎないように注意しながら生ビールを飲んだ。焼き肉屋を出ると近所のスナックに移って、ウィスキーのボトルをとり、カラオケを歌うことになった。三人の看護婦は順番に自分の持ち歌を歌い、それから一緒になってキャンディーズの歌を振り付けつきで歌った。たぶん普段から練習しているのだろう。なかなか堂に入っていた。天吾はカラオケが苦手だったが、うろ覚えに覚えている井上陽水の曲を一曲だけ歌った。
普段はあまりしゃべらない若い安達看護婦も、アルコールが入ると快活で大胆になった。赤らんだ頬も酔いが回ると、ほどよく日焼けしたような健康的な色になった。他愛のない冗談にくすくす笑い、隣にいる天吾の肩に自然にしなだれかかった。髪にいつもボールペンを差している長身の大村看護婦は、淡い紺色のワンピースに着替え、髪を下ろしていた。髪を下ろすと三歳か四歳くらい見かけが若くなり、声のトーンが一段低くなった。てきぱきとした職業的な身のこなしが影をひそめ、動作がいくぶん気怠《けだる》くなり、別の人格を身につけたみたいに見えた。金属縁の眼鏡をかけた田村看護婦だけは、見かけも人格もとくに変化しなかった。
「子供たちは今夜は、近所の人に面倒をみてもらってるの」と大村看護婦は天吾に言った。「主人は夜勤で家にいない。そういうときくらい、ばあっと心おきなく楽しまないとね。気晴らしって大事よ。そう思うでしょう、ねえ、天吾くん」
彼女たちは天吾のことを今では、川奈さんでもなく、天吾さんでもなく、天吾くんと呼んでいた。まわりの大抵の人間は彼のことをなぜか自然に「天吾くん」と呼ぶようになる。予備校の生徒たちでさえ、陰ではそう呼んでいた。
「そうですね。たしかに」と天吾は同意した。
「私たちにはね、こういうことが必要なの」と田村看護婦はサントリー・オールドの水割りを飲みながら言った。「私たちだって当たり前のナマミの人間なんだもの」
「制服を脱いだら、ただの女のヒト」と安達看護婦が言った。そして何か意味深いことを口にしたみたいに一人でくすくす笑った。
「ねえ、天吾くん」と大村看護婦が言った。「こんなこと訊いちゃっていいかな?」
「どんなことでしょう?」
「天吾くんにはつきあってる女の人っているのかな?」
「うん、そういう話を聞きたい」と安達看護婦がジャイアント・コーンを、大きな白い歯でぽりぽりと噛《かじ》りながら言った。
「簡単には言いにくい話だけど」と天吾は言った。
「簡単には言いにくい話、けっこうじゃない」と世慣れた田村看護婦が言った。「私たちたっぷり時間があるんだもの、そういうの大歓迎よ。天吾くんの簡単じゃない話って、いったいどんなものでしょうね」
「始まり、始まり」と安達看護婦が言って小さく手を叩き、くすくす笑った。
「とくに面白い話でもないです」と天吾は言った。「月並みだし、取り留めもないし」
「じゃあ、結論だけでいいから聞かせてよ」と大村看護婦は言った。「つきあってる人はいるの、いないの?」
天吾はあきらめて言った。「結論からいえば、今のところつきあっている人はいないみたいです」
「ふうん」と田村看護婦が言った。そして指でグラスの氷をからからとかきまわし、その指を舐めた。「よくないな、それは。よくありませんねえ。天吾くんみたいな若くて健やかな男性が、親しくおつきあいする相手もいないなんて、もったいないじゃないの」
「身体にもよくない」と大柄な大村看護婦が言った。「長いあいだ一人でため込んでいると、頭もだんだんぼけてくるよ」
若い安達看護婦がまたくすくす笑った。「頭がぼけちゃう」と彼女は言った。そして指の先で自分のこめかみをつついた。
「ちょっと前までは、そういう相手が一人いたんだけど」と天吾は言い訳するように言った。
「でも[#傍点]ちょっと前[#傍点終わり]にいなくなっちゃったのね?」と田村看護婦が眼鏡のブリッジを指で押さえて言った。
天吾は肯いた。
「つまり、ふられたのかな?」と大村看護婦が言った。
「どうだろう」と天吾は首をひねった。「でもそういうことかもしれない。きっとふられたんでしょうね」
「ねえ、ひょっとしてその人って、天吾くんよりけっこう年上だったんじゃない?」と田村看護婦が目を細めて訊いた。
「ええ、そうですけど」と天吾は言った。どうしてそんなことがわかるんだろう。
「ほらね、言ったとおりでしょう」と田村看護婦が得意そうにほかの二人に向かって言った。ほかの二人は肯いた。
「私はこの子たちに言ってたんだ」と田村看護婦は天吾に言った。「天吾くんはきっと年上の女の人とつきあってるって。そういうのってね、女には匂いでわかるの」
「くんくん」と安達看護婦が言った。
「おまけに人妻だったりして」と大村看護婦が気怠い声で指摘した。「違う?」
天吾は少し迷ってから肯いた。今更嘘をついても仕方ない。
「悪いやつ」、若い安達看護婦が指先で天吾の太腿をとんとんとつついた。
「いくつ年上だったの?」
「十歳」と天吾は言った。
「ほほう」と田村看護婦が言った。
「そうか、天吾くんは練れた年上の人妻にたっぷりとかわいがってもらったんだ」と子持ちの大村看護婦が言った。「いいなあ。私もがんばっちゃおうかな。孤独で心優しい天吾くんを慰めてあげちゃおうか。こう見えてまだまだ、悪くない身体してるんだよ」
彼女は天吾の手をとって自分の胸に押しつけようとした。ほかの二人がそれをなんとか押しとどめた。酔っぱらって多少の羽目は外しても、看護婦と患者の付き添い家族との一線は保たれなくてはならない、彼女たちはそう考えているようだった。あるいはそんな現場を誰かに目撃されることを恐れているのかもしれない。なにしろ狭い町だし、その手の噂はあっという間に広がる。大村看護婦の夫が異常に嫉妬深い性格だという可能性も考えられる。天吾としてもこれ以上の面倒に巻き込まれることは避けたかった。
「でも天吾くんは偉いわよ」、田村看護婦が話題を変えるべく言った。「こんな遠くまでやってきて、毎日何時間もお父さんの枕もとで本を朗読してあげて……なかなかできることじゃない」
若い安達看護婦が首を軽く傾げて言った。「うん、とても偉いと思うな。そういうところ尊敬しちゃう」
「私たちはね、いつも天吾くんのことをほめてるんだよ」と田村看護婦は言った。
天吾は思わず顔を赤らめた。彼がこの町にいるのは父親の看護をするためではない。仄かに発光する空気さなぎと、そこに眠っている青豆の姿をもう一度目にしたいからだ。それが天吾がこの町に留まっているほとんど唯一の理由だ。昏睡している父親の看護はあくまで名目に過ぎない。でもそんなことをありのまま打ち明けるわけにはいかない。そうなるとまず「空気さなぎとは何か」という話から始めなくてはならない。
「これまで何もしてあげられなかったから」、天吾は狭い木の椅子の上で、大きな身体をぎこちなく縮めながら、言いにくそうに言った。しかしそんな彼の態度も看護婦たちには謙虚な仕草に映っただけだ。
天吾はもう眠いからと言って席を立ち、一人で先に宿に引き上げたかったが、うまくその潮時がつかめなかった。もともと強引に何かをするという性格ではない。
「でもさ」と大村看護婦が言った。そしてひとつ咳払いした。「話はまた元に戻るんだけど、どうしてその十歳上の人妻と別れちゃったのかな。けっこううまくやってたんでしょ? ご亭主にばれちゃったとか、そういうのかしら?」
「どうしてかは僕にもわからない」と天吾は言った。「あるときからぱったり連絡がこなくなって、それっきりだから」
「ふうん」と若い安達看護婦が言った。「その人、天吾くんに飽きちゃったのかしら」
長身の子持ちの大村看護婦が首を横に振った。そして人差し指を一本きりっと宙に立てて、若い看護婦に向かって言った。「あんたはね、まだ世の中がわかってないよ。ぜんぜんわかってない。四十歳の亭主持ちの女が、こんな若くて健康でおいしそうな男の子をつかまえて、しっぽりよろしくやっておいて、『どうもありがとう。ご馳走様。はい、さようなら』なんてことはね、まずあり得ないの。逆はあったとしてもね」
「そういうものかしら」と安達看護婦は首を軽く傾げながら言った。「そのへんはよくわからないなあ」
「そういうものなの」と子持ちの大村看護婦が断言した。石碑に鑿《のみ》で刻まれた文字を何歩か退いて確かめるような目つきで、天吾をひとしきり眺め、それから一人で肯いた。「あんただってそのうち年を取ればわかる」
「あーあ、私なんてもうずいぶんご無沙汰だよ」と田村看護婦が椅子に深くもたれ込んで言った。
それからひとしきり、三人の看護婦は天吾の知らない誰かの(おそらく同僚の看護婦の一人だろう)性的遍歴についてのうわさ話に耽っていた。天吾は水割りウィスキーのグラスを手に、そんな三人の姿を見ながら『マクベス』に出てくる三人の魔女を思い浮かべた。「きれいはきたない。きたないはきれい」という例の呪文を唱えながら、マクベスに邪悪な野心を吹き込む魔女たちだ。もちろん天吾は三人の看護婦を邪悪な存在だと見なしたわけではない。親切で率直な女性たちだ。熱心に仕事をし、父親の面倒もよく見てくれる。彼女たちは職場で過重労働を押しつけられ、漁業を基幹産業とする小さな町で刺激的とは言いがたい生活を送り、一月に一度そのストレスを発散しているだけだ。しかしそれぞれに世代の異なる、三人の女性のエネルギーがひとつにまとまる様子を目の前にしていると、スコットランドの荒野の風景が自然に頭に浮かんだ。空はどんよりと曇り、雨混じりの冷ややかな風がヒースのあいだを吹き抜けていく。
大学時代に英語の授業で『マクベス』を読んだが、妙に心に残る一節があった。
By the pricking of my thumbs,
Something wicked this way comes,
Open, locks,
Whoever knocks.
親指の疼《うず》きが教えるところ
よこしまなものがこちらにやってくる
ノックがあれば誰であれ、錠前よ開け
どうしてその一節だけを今でも明確に暗記しているのだろう。戯曲の中で誰がその台詞を口にしたのか、それすら覚えていないというのに。しかしその一節は天吾に、高円寺のアパートのドアを執拗にノックするNHKの集金人のことを思い出させた。天吾は自分の親指を見つめた。疼きはない。それでもシェイクスピアの踏む巧妙な音韻にはいかにも不吉な響きがあった。
Something wicked this way comes,
ふかえりが錠前を開かなければいいのだが、と天吾は思った。