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1Q84 (3-7)
日期:2018-10-13 22:29  点击:422
 第7章 牛河
      そちらに向かって歩いていく途中だ
 
 
 麻布の老婦人についての情報の収集を、牛河はいったんあきらめなくてはならなかった。彼女のまわりに巡らされたガードがあまりにも強固で、どの方向から手を伸ばしても必ずどこかで高い壁にぶつかることがわかったからだ。「セーフハウス」の様子をもう少しうかがってみたかったが、近辺をこれ以上うろつくのは危険だった。監視カメラが設置されているし、牛河はただでさえ人目を引く外見だ。一度相手を警戒させてしまうとあとがやりにくくなる。ひとまず柳屋敷から離れ、ほかのルートを探ってみることにしよう。
 思いつける「ほかのルート」といえば、青豆の身辺をもう一度洗い直すことくらいだ。この前はつきあいのある調査会社に資料の収集を依頼し、自分でも足を使って聞き込みをした。青豆についての詳細なファイルを作成し、様々な角度から検証をおこなった末に、危険性はないと判断した。スポーツ・クラブのトレーナーとして腕は確かだし、評価も高い。少女時代に「証人会」に属していたが、十代になって脱会し教団とはきっぱり縁を切っている。トップに近い成績で体育大学を卒業し、スポーツ・ドリンクを売り物にする中堅の食品会社に就職し、ソフトボール部の中心選手として活躍した。部活動でも仕事でもとても優秀な人材だったと同僚は語っていた。意欲的だし頭の回転も速い。まわりの評判も良い。しかし口数は少なく、交際が広い方ではなかった。
 数年前に突然ソフトボール部を辞め、会社を退職し、広尾の高級スポーツ・クラブにインストラクターとして就職した。それによって収入は三割ほど増加した。独身、一人暮らし。どうやら今のところ恋人はいないらしい。いずれにせよ不審な背景や不透明な要素はまったく見当たらなかった。牛河は顔をしかめ、深くため息をつき、読み返していたファイルを机の上に放り出した。俺は何かを見落としたのだ。見落としてはならない、きわめて重要なポイントを。
 
 牛河は机の抽斗から住所録を出して、ある電話番号を回した。何かの情報を非合法的に取得する必要が生じたときには、いつもそこに電話をかける。相手は牛河より更に薄暗い世界を生息場所にしている人種だ。金さえ払えば大抵の情報は手に入れてくれる。当然ながら相手のガードが固ければ固いほど料金は高くなる。
 牛河が求めている情報は二つあった。ひとつは今も「証人会」の熱心なメンバーである青豆の両親についての個人情報だった。「証人会」は全国の信者の情報を中央で管理していると牛河は確信していた。日本国中に「証人会」信者の数は多いし、本部と各地支部とのあいだの行き来や物流は盛んだ。中央に蓄積情報がなければ、システムは円滑に動かない。「証人会」の本部は小田原市郊外にあった。広い敷地に立派なビルが建ち、パンフレットを印刷する自前の工場があり、全国からやってくる信者のための集会場や宿泊所がある。すべての情報はそこに集められ、厳重に管理されているに違いない。
 もうひとつは青豆が勤務するスポーツ・クラブの営業記録だった。彼女がそこでどのような勤務をしていたか、いつ誰を相手に個人レッスンをやっていたか。こちらの情報は「証人会」ほど厳重には管理されていないだろう。しかし「すみませんが、青豆さんの勤務に関する記録を見せていただけませんか」と申し出て、快く見せてもらえるものではない。
 牛河は名前と電話番号を留守番電話のテープに残した。三十分後に電話がかかってきた。
「牛河さん」とかすれた声が言った。
 牛河は求めている情報の詳細を相手に伝えた。その男と顔を合わせたことはない。常に電話でやりとりをする。集められた資料は速達便で送られてくる。声はかすれ気味で、ときどき軽い咳払いが混じる。喉に問題があるのかもしれない。電話の向こうにはいつも完全な沈黙がある。まるで完壁な防音装置を施した部屋から電話をかけているみたいだ。聞こえるのは相手の声と、耳障りな息づかいだけだ。ほかには何も聞こえない。そして聞こえる音はすべて少しずつ誇張されている。気味の悪いやつだと牛河はいつも思った。世の中は気味の悪いやつらで満ちているみたいだ(はたから見れば俺もそのうちの一人かもしれないが)。彼はその相手をひそかにコウモリと名付けていた。
「どちらの場合も、青豆という名前のからんだ情報をとればいいんですね」とコウモリはかすれた声で言った。咳払いがあった。
「そう。あまりない名前だ」
「情報は根こそぎ必要なんですね」
「青豆という名前が絡んでいれば、どんなものでもかまわない。できることなら顔を判別できる写真も手に入れたい」
「ジムの方は簡単でしょう。誰かに情報を盗まれるなんて考えてもいないはずです。でも『証人会』はちと厳しいですよ。でかい組織だし、資金もたっぷりあるし、ガードをしっかり固めてるでしょう。宗教団体は接近するのがもっともむずかしい相手のひとつです。個人の機密保護の問題もあるし、税金の問題もからんでますから」
「できそうかな?」
「やってできなくはないでしょう。扉を開くそれなりの手はあります。それより難しいのは扉を開いたあと、また閉めておくことです。そうしないとミサイルに追尾されかねません」
「戦争みたいだ」
「戦争そのものです。おっかないものが出てくるかもしれません」と相手はかすれた声で言った。彼がその戦いを楽しんでいるらしいことが、声の調子からわかった。
「それで、やってもらえるのかな?」
 軽い咳払いがあった。「やってみましょう。でもそれなりに高くつきそうですよ」
「おおまかに言って、どれくらいになるんだろう?」
 相手は目安になる金額を言った。牛河は小さく息を呑んでからそれを受け入れた。とりあえず個人的に用意できる金額だし、結果さえ出せばそれくらいは後日請求できる。
「時間はかかるのかな?」
「どうせ急ぐんでしょう?」
「急いでいる」
「正確な予測はできませんが、一週間から十日は必要になると思います」
「それでけっこう」と牛河は言った。ここは相手のペースに合わせるしかない。
「資料が揃ったらこちらから電話をかけます。十日のうちには必ず連絡を入れます」
「もしミサイルに追尾されなければ」と牛河は言った。
「ということです」とコウモリは何でもなさそうに言った。
 
 牛河は電話を切ると、椅子の上で背中を反らせ、しばらく考え込んだ。コウモリがどのようにして情報を「裏口」から収集するのか、牛河にはわからない。尋ねたところで答えが返ってこないことはわかっている。いずれにせよ、不正な手段が用いられることだけは確かだ。まず内部の人間の買収が考えられる。いざとなれば不法侵入のようなこともあるかもしれない。コンピュータが絡んでいれば話は更にややこしくなる。
 情報をコンピュータで管理する官庁や会社の数はまだ限られている。費用も手間もかかりすぎる。しかし全国規模の宗教団体ならそれくらいの余裕はあるはずだ。牛河自身はコンピュータについてはほとんど何も知らない。しかしそれでも情報収集にコンピュータが欠かせないツールになりつつあることは理解していた。国会図書館に通い、新聞の縮刷版やら年鑑やらを机に積み上げ、一日がかりで情報を探る時代はやがて過去のものになっていくだろう。そして世界はコンピュータ管理者と侵入者たちの血なまぐさい戦場になりはてるかもしれない。いや、[#傍点]血なまぐさい[#傍点終わり]というのとは違う。戦いであるからには、いくらかの血は流されるだろう。でも匂いはしない。妙ちくりんな世界だ。牛河は匂いや痛みがきちんと存在する世界が好きだった。たとえその匂いや痛みが、時として耐え難いものになるとしてもだ。しかしいずれにせよ牛河のようなタイプは確実に、そして急速に時代遅れの遺物と化していくだろう。
 それでもとくに悲観的な気持ちにはならなかった。彼は自分に本能的な勘が具わっていることを知っていた。特殊な嗅覚器官によってまわりの様々な匂いを嗅ぎ分けることができた。肌に感じる痛みから、風向きの変化を掴むことができた。それはコンピュータにはできない作業だ。それらの能力は数値化したり、システム化したりできない種類のものだからだ。厳重にガードされたコンピュータに巧妙にアクセスし、情報を引き出すのは侵入者の仕事だ。しかしどんな情報を引き出せばいいかを判断し、引き出された膨大な情報から役に立つものだけを選び出す作業は、生身の人間にしかできない。
 俺はたしかに時代遅れのみっともない中年男かもしれない、と牛河は思った。いや、[#傍点]かもしれない[#傍点終わり]なんてものじゃない。疑いの余地なく、時代遅れのみっともない中年男だ。しかし俺には、ほかの人間があまり持ちあわせていないいくつかの資質がある。天性の嗅覚と、いったん何かにしがみついたら放さないしつこさだ。これまでそいつを頼りに飯を食ってきた。そしてそんな能力がある限り、たとえどんな妙ちくりんな世の中になっても、俺は必ずどこかで飯を食っていける。
 俺はあんたに追いつくよ、青豆さん。あんたはなかなか頭が切れる。腕もいいし、用心深い。しかしね、俺はしっかり追いつく。待っていてくれ。今あんたの方に向かって歩いていく途中だ。足音は聞こえるかね? いや、聞こえないはずだ。俺は亀のように足音を忍ばせて歩くからね。でも一歩また一歩と俺はあんたに近づいている。
 しかし逆に牛河の背後に迫っているものもあった。時間だ。牛河にとって青豆を追跡することは、同時に時間の追跡を振り切ることでもあった。早急に青豆の行方を見つけ出し、背後関係を明らかにし、それを盆に載せて「はいどうぞ」と教団の連中に差し出さなくてはならない。与えられた時間は限られている。三ヶ月後にすべてがわかりましたというのではたぶん遅すぎる。これまでのところ牛河は、彼らにとって有用な人間だった。有能で融通が利き、法律の知識を持ち、口が固い。システムから離れて自由に行動することができる。しかし所詮は金で雇われた何でも屋に過ぎない。彼らの身内でも仲間でもないし、信仰心などかけらもない。教団にとって危険な存在となれば、あっさり排除されてしまうかもしれない。
 
 コウモリからの電話を待つあいだ、牛河は図書館に行って「証人会」の歴史や現在の活動状況について詳しく調べた。メモを取り、必要な部分はコピーした。図書館に行って調べものをするのが彼には苦にならない。頭脳に知識が蓄積されていく実感を得るのが好きだった。それは子供の頃に身に付いた習慣だった。
 図書館での調べものが終わると、青豆の住んでいた自由が丘の賃貸アパートに足を運び、そこが空き部屋になっていることをもう一度確認した。郵便受けにはまだ青豆の名札が出ていたが、部屋には人が住んでいる気配はなかった。その部屋の賃貸を扱っている不動産屋にも足を運んでみた。そのアパートに空き部屋があるという話を聞いたんだけど、契約することはできるだろうか、と牛河は尋ねた。
「空いてることは空いてますが、来年二月アタマまでは入居できませんよ」と不動産業者は言った。現在の居住者とのあいだに交わされた賃貸契約が切れるのは来年の一月末で、それまでの家賃は従来どおり毎月支払われることになっている。
「荷物はすべて運び出され、電気もガスも水道も移転手続きがすんでいます。それでも賃貸契約は続いています」
「一月の末まで空家賃を払っているわけだ」
「そういうことです」と不動産屋は言った。「契約中の賃料は全額払うから、部屋はそのままにしておいてほしいということでした。もちろん家賃を払ってもらえれば、こちらが文句を言う筋合いはありません」
「妙な話ですね。誰も住んじゃいないのに、無駄なお金を払うなんて」
「私もちと心配になって、家主さん立ち会いのもとに中をいちおう見させてもらいました。ミイラ化した死体が押入の中に転がっていたなんてことになったら困りますからね。でもなんにもありゃしません。とてもきれいに掃除してありました。ただ空っぽのままおいてあるだけです。どういう事情があるかはわかりませんが」
 青豆はもちろんその部屋にはもう住んでいない。しかし彼らは何らかの理由で、青豆がまだ名義上はそこに部屋を借りていることにしておきたいのだ。そのために四ヶ月ぶんの空家賃を払っている。この連中は用心深く、また資金に不自由もしていない。
 
 きっちり十日後の昼過ぎにコウモリから麹町《こうじまち》の牛河の事務所に電話がかかってきた。
「牛河さん」とかすれた声が言った。背景は例によって無音だ。
「牛河です」
「今お話ししてもかまいませんか?」
 かまわないと牛河は言った。
「『証人会』のガードはがちがちでした。でもそれは予想していたことです。青豆関係の情報を無事入手することはできました」
「追尾ミサイルは?」
「今のところ姿は見えません」
「それはよかった」
「牛河さん」と相手は言った。そして何度か咳き込んだ。「申し訳ないんですが、煙草を消していただけませんか?」
「煙草?」、牛河は自分の指にはさまれたセブンスターを見た。その煙は静かに天井に向けて立ち上っていた。「ああ、たしかに煙草は吸っているけれど、でもこれは電話だよ。どうしてそんなことがわかるのかな」
「もちろん匂いはここまではきません。でもそういう息づかいを電話口で耳にしてるだけで、呼吸が苦しくなるのです。極端なアレルギー体質なものですから」
「なるほど。そこまでは気がつかなかった。申し訳なかった」
 相手は幾度か咳払いをした。「いや、牛河さんのせいじゃありません。気がつかないのは当然です」
 牛河は煙草を灰皿に押しつけて消し、その上から飲みかけていたお茶をかけた。席を立って、窓を大きく開けまでした。
「煙草はしっかり消したし、窓を開けて部屋の空気も入れ換えたよ。まあ、外の空気も大して清浄とは言えないけどね」
「申し訳ありません」
 沈黙が十秒ばかり続いた。完全な静寂がそこにあった。
「それで『証人会』の情報は得られたんだね?」と牛河は尋ねた。
「ええ。ただしかなりの分量です。なにしろ青豆一家は長年にわたる熱心な信者ですから、関係資料もわんさとあります。必要なものと必要じゃないものはそっちで判別していただけますか」
 牛河は同意した。むしろ望むところだ。
「スポーツ・クラブについてはとくに問題はありませんでした。ドアを開けて中に入り、用を済ませて、外に出てドアを閉めただけです。しかし時間が制限されていたので、根こそぎということになり、こちらも分量が多くなりました。とにかくそのふたつの資料をまとめてどさりとお渡しします。いつものように料金と引き替えになりますが」
 コウモリが口にした金額を牛河はメモした。見積もりより二割ばかり高くなっている。しかし受け入れる以外の選択肢はない。
「今回は郵便を使いたくないので、使いのものが明日のこの時刻に、直接そちらにうかがいます。現金を用意しておいて下さい。そしていつもと同じく領収書は出せません」
 わかっていると牛河は言った。
「それからこれは前にも申し上げたことですが、念のために繰り返します。ご要望のあったトピックについて、引き出せる情報はすべて入手しました。ですからもし牛河さんがその内容にご不満を持たれたとしても、こちらとしては責任はとれません。技術的にできる限りのことはやったからです。報酬は労働に対するものであり、結果に対するものではありません。求めていた情報がなかったから金を返せと言われても困ります。それもご承知願えますね」
 承知していると牛河は言った。
「それから青豆さんの写真はどうしても手に入りませんでした」とコウモリは言った。「すべての資料からとても丹念に写真が取り去られています」
「わかった。それはいい」と牛河は言った。
「それにもう顔は変えられているかもしれませんしね」とコウモリは言った。
「あるいは」と牛河は言った。
 コウモリは何度か咳払いをした。「それでは」と彼は言って電話を切った。
 牛河は受話器を戻し、ため息をつき、新しい煙草を口にくわえた。煙草にライターで火をつけ、電話機に向かってゆっくり煙を吐きかけた。
 
 翌日の午後、若い女が牛河の事務所を訪れた。まだ二十歳にもなっていないかもしれない。身体の線がきれいに出た丈の短い白いワンピースを着て、やはり白い艶のあるハイヒールを履き、パールのイヤリングをつけていた。小柄な割に耳たぶが大きかった。身長は一五〇センチを少し超えたくらいだろう。髪はまっすぐで長く、澄んだ大きな目をしていた。見習いの妖精みたいに見えなくもない。彼女は牛河の顔を正面から見て、忘れがたいとても貴重なものを目にしたみたいに、明るく親しげに微笑んだ。小さな唇のあいだからきれいに揃った白い歯が愉しそうにのぞいていた。もちろん営業用の微笑みかもしれない。しかしそれにしても、初対面で牛河の顔を見てたじろがない人間は珍しい。
「ご請求のあった資料をお持ちしました」と女は言って、肩に提げた布バッグの中から分厚い大型の書類封筒をふたつ取りだした。そしてまるで古代の石版を運ぶ巫女のように両手で掲げ持って、牛河の机の上に置いた。
 牛河は机の抽斗から用意しておいた封筒を出し、女に渡した。彼女は封を切って一万円札の束を取りだし、そこに立ったまま金額を数えた。手慣れた数え方だった。細い美しい指が素速く動く。数え終わると札束を封筒に戻し、封筒を布バッグに入れた。それから牛河に向かって前よりも更に大きく親しく微笑みかけた。お目にかかれてこんな嬉しいことはない、というように。
 この女性はコウモリといったいどういう関係にあるのだろうと牛河は想像を巡らせた。しかしもちろんそれは牛河には何の関係もないことだ。この娘はただの連絡係に過ぎない。「資料」を手渡し、報酬を受け取る。それが彼女に与えられたおそらく唯一の役割だ。
 その小柄な女が部屋から出て行ったあと、長いあいだ牛河は割り切れない気持ちでドアをじっと見つめていた。彼女が背後に閉じていったドアだ。部屋の中にはまだ彼女の気配が強く残っていた。ひょっとしたらその女は、気配を残していくのと引き替えに、牛河の魂の一部を持ち去ったのかもしれない。彼は新しく生じたその空白を胸の奥に感じることができた。どうしてそんなことが起こるのだろう、と牛河は不思議に思った。そしてそれはいったい何を意味するのか?
 十分ばかり経って、牛河はようやく気を取り直して書類封筒を開けた。封筒は粘着テープで幾重にも封をされていた。中にはプリントアウトやら、コピーされた資料やら、オリジナルの書類やらがまぜこぜに詰まっている。どうやったのかは知らないが、短期間のあいだによくこれだけの資料を手に入れられたものだ。いつもながら感心しないわけにはいかなかった。しかしそれと同時に牛河は、その書類の束を前にして深い無力感に襲われることになった。こんなものをいくら漁ったところで結局どこにもたどり着けないのではないのか? 俺は大金を支払って無用な紙くずの束を手に入れただけではないのか? それはどれだけ目をこらして覗き込んでも底が見えないほどの無力感だった。そして辛うじて目に映るものはすべて、死の先触れのような薄暗い黄昏に包まれている。これもあの女が残していった[#傍点]何か[#傍点終わり]のせいかもしれないと彼は思った。あるいは持ち去っていった[#傍点]何か[#傍点終わり]のせいかもしれない。
 しかし牛河はなんとか気力を回復した。夕方までかけて辛抱強くその資料に目を通し、必要と思える情報を項目別にひとつひとつノートに書き写していった。意識をその作業に集中することで、得体の知れない無力感をようやくどこかに追いやることができた。そして部屋が暗くなり、卓上の明かりをつけるころには、高い料金を払っただけの価値はあったと牛河は考えていた。
 
 まずスポーツ・クラブの方から「資料」を読み始めた。青豆は四年前にこのクラブに就職し、主に筋力トレーニングとマーシャル・アーツのプログラムを担当した。いくつかのクラスを立ち上げ、その指導をおこなった。彼女がトレーナーとして高い能力を持ち、会員のあいだでも人気のあることは資料からじゅうぶんに読みとれた。一般クラスを主催すると同時に個人指導も引き受けていた。料金はもちろん高くなるが、決められた時間どおりにクラスに通えない人々や、あるいはより私的な環境を望む人々には好都合なシステムだ。青豆にはそのような「個人顧客」もかなり多くついていた。
 青豆がいつ、どこで、どのように「個人顧客」を指導したかは、コピーされた日程表で辿ることができた。青豆はクラブで個別に彼らを指導することもあれば、自宅まで出かけていって指導することもあった。顧客の中には名の知れた芸能人もいれば、政治家もいた。柳屋敷の女主人である緒方静恵は顧客の中では最高齢だった。
 緒方静恵との繋がりは青豆がクラブに勤めるようになって間もなく始まり、青豆が姿を消す直前まで続いていた。ちょうど柳屋敷の二階建てアパートが「家庭内暴力に悩む女性たちのための相談室」のためのセーフハウスとして本格的に用いられるようになった時期からだ。偶然の一致かもしれないし、そうではないかもしれない。いずれにせよ記録によれば、二人の関係は時を追ってより密接なものになっていったようだ。
 青豆と老婦人の間には個人的な絆が生まれたのかもしれない。牛河の勘はその気配を感じとっていた。もともとはスポーツ・クラブのインストラクターと「顧客」として始まった関係だ。それがどこかの時点で性質を変えた。事務的な記述を日付順に目で追いながら、牛河はその「時点」を特定しようと努めた。そこで何かが起こり、あるいは何かが明らかになり、それを境に二人はただのインストラクターと顧客との関係ではなくなった。年齢や立場の差を超え、近しい個人と個人の関係になった。そこでは精神の密約のようなものさえ結ばれたかもしれない。そしてやがてその密約がしかるべき経路を辿り、ホテル・オークラにおけるリーダーの殺害に至ったのだ。牛河の嗅覚はそう告げていた。
 どんな経路だろう? そしてどんな密約だろう?
 牛河の推測はそこまでは及ばない。
 しかしおそらくそこには「家庭内暴力」という因子が絡んでいる。見たところそれは老婦人にとって重要な個人的テーマになっているようだ。記録によれば、緒方静恵が最初に青豆と接触を持ったのは、青豆の主催した「護身術」のクラスだった。七十歳を過ぎた女性が護身術のクラスに参加するのはあまり一般的なこととは言えないだろう。[#傍点]暴力的なるもの[#傍点終わり]を巡る何らかの因子が、老婦人と青豆をそこで結びつけたのかもしれない。
 あるいは青豆自身も家庭内暴力の被害者だったのかもしれない。そしてリーダーは家庭内暴力の加害者であったのかもしれない。彼らはそのことを知って、リーダーに制裁を加えようとしたのかもしれない。しかしそれらはどれもあくまで「かもしれない」というレベルの仮説でしかない。そしてその仮説は牛河の知っているリーダーの人間像にはそぐわないものだった。もちろん人間は、たとえそれがどんな人間であれ、心の底まではうかがい知れないものだし、リーダーはただでさえ奥の深い人物だ。なにしろひとつの宗教団体を主宰する人間だ。聡明で知的ではあるが、得体の知れないところもある。しかし仮に彼が実際に激しい家庭内暴力をふるうような人間であったとしても、その事実は彼らがあれほど周到な殺人計画を練り、アイデンティティーを捨て、社会的地位を危険にさらしまでして、なおかつ実行に移さなくてはならないほど重大な意味を持つことだったのだろうか?
 いずれにせよ、リーダーの殺害は思いつきで感情的に行われたことではない。そこには揺らぎのない意志と、曇りなく明確な動機と、綿密なシステムが介在している。そのシステムは長い時間と多額の資金をかけて、注意深く拵《こしら》えあげられたものだ。
 しかしそれらの推測を裏付ける具体的な証拠はひとつとしてない。牛河が手にしているのはどこまでも仮説に基づいた状況証拠に過ぎない。オッカムの剃刀で簡単に切り落とされてしまいそうな代物だ。「さきがけ」にもこの段階ではまだ報告できない。ただ牛河には[#傍点]わかる[#傍点終わり]。そこには匂いがあり、手応えがある。すべての要素がひとつの方向を示している。老婦人は家庭内暴力を要因とするなんらかの理由で、青豆に指示を与えてリーダーを死に至らしめ、そのあと彼女をどこか安全な場所に逃亡させたのだ。コウモリの集めた資料は彼のそのような「仮説」をすべて[#傍点]間接的に[#傍点終わり]裏付けていた。
 
「証人会」の資料の整理には時間がかかった。分量がおそろしく多い上に、ほとんどの資料は牛河にとって役に立たないものだったからだ。青豆の一家がどれくらい「証人会」の活動に貢献してきたかという数字的な報告がその大半を占めていた。それらの資料を読む限り、確かに青豆一家は熱心で献身的な信者たちだった。彼らはその人生の大半を「証人会」の布教に捧げてきた。青豆の両親の現住所は千葉県市川市になっていた。三十五年間に二度引っ越しをしたが、どれも市川市内の住所になっている。父親青豆隆行(五十八歳)はエンジニアリングの会社に勤務し、母親青豆慶子(五十六歳)は無職となっている。長男である青豆敬一(三十四歳)は市川市内の県立高校を卒業したあと、東京都内にある小さな印刷会社に就職したが、三年後にそこを退職し、小田原にある「証人会」本部に勤務するようになった。そこでも教団パンフレットを印刷する仕事に携わり、今では管理職に就いている。五年前に信者の女性と結婚し、子供を二人もうけ、小田原市内にアパートを借りて暮らしている。
 長女である青豆雅美の経歴は十一歳の時点で終わっている。彼女はそこで信仰を捨てたのだ。そして信仰を捨てた人間に対して「証人会」は一切の興味を失ってしまったようだった。「証人会」にとっては青豆雅美は十一歳で死んだも同じだった。そのあと青豆雅美がどんな人生を辿ったのか、生きているのかいないのか、一行の記述もない。
 こうなったら両親か兄のところに行って話を聞いてみるしかなさそうだな、と牛河は思った。そこで何かヒントが得られるかもしれない。しかし資料に目を通した限り、彼らが牛河の質問に対して快く答えてくれるとは思えなかった。青豆家の人々は——もちろん牛河の目から見ればということだが——偏狭な考え方を持ち、偏狭な生活を送る人々であり、偏狭であればあるほど天国に近づけると頭から信じて疑わない人々だった。彼らにとって信仰を捨てた人間は、たとえ身内とはいえ、間違った穢れた道を歩む人間なのだ。いや、もう身内とも思っていないかもしれない。
 青豆は少女時代に家庭内暴力を受けただろうか?
 受けたかもしれないし、受けなかったかもしれない。しかしもし受けたとしても、両親はそれを家庭内暴力としてはとらえていないはずだ。「証人会」が子供たちを厳しく指導することを牛河は知っていた。そこには多くの場合体罰が伴なった。
 しかしだからといって、そのような幼児期の体験が心の傷となって深く残り、成長して誰かを殺害するまでに至るものだろうか? もちろんあり得ないことではないが、牛河にはそれはかなり極端な仮説のように思えた。人を一人計画的に殺すというのは大変な作業だ。危険も伴うし、精神的負担も大きい。捕まれば重い刑罰が待っている。そこにはもっと強い動機が必要とされるはずだ。
 牛河はもう一度書類を手に取り、青豆雅美の十一歳までの経歴を念入りに読み直した。彼女は歩けるようになるとすぐに、母親について布教活動をおこなっている。戸口をまわって教団のパンフレットを手渡し、世界が避けがたく終末に向かっていることを人々に訴え、集会への参加を呼びかけるのだ。教団に入ればその終末を生き延びることができる。そのあとには至福の王国が訪れる。牛河もそのような勧誘を何度か受けたことがあった。相手はたいてい中年の女性で、帽子か日傘を手にしている。多くは眼鏡をかけ、賢い魚のような目で相手をじっと見る。子供を連れている場合も多い。牛河は小さな青豆が母親のあとをついて家々を回っている情景を想像した。
 彼女は幼稚園には入らず、近所の市立小学校に入学した。そして五年生のときに「証人会」を脱会している。棄教の理由は不明だ。「証人会」は棄教の理由をいちいち記録したりしない。悪魔の手に落ちた人間は、悪魔の手にまかせておけばいいのだ。彼らは楽園について語り、楽園に通じる道について語ることで十分に忙しかった。善人には善人の仕事があり、悪魔には悪魔の仕事がある。一種の分業がなされているわけだ。
 牛河の頭の中で、ベニヤ板でできた安普請の仕切りを誰かが叩いていた。「牛河さん、牛河さん」と呼びかけていた。牛河は目を閉じ、その呼びかけに耳を澄ませた。声は小さいが執拗だった。俺は何かを見逃しているようだ、と彼は思った。何か大事な事実がこの書類のどこかに記述されている。しかし俺はそれを読みとれないでいる。ノックの音はそれを知らせているのだ。
 牛河は再度その分厚い書類に目を通した。目で文章を追うだけではなく、いろんな情景を具体的に頭に思い浮かべた。三歳の青豆が母親に付き従って布教にまわる。おおかたの場合、戸口ですげなく追いかえされる。彼女は小学校に上がる。布教活動は続く。週末の時間はすべて布教にあてられる。友だちと遊ぶ時間もなかったはずだ。いや、友だちなんてできなかったかもしれない。「証人会」の子供たちは学校でいじめや排斥にあうことが多い。牛河は「証人会」について書かれた書物を読んで、そのこともよく知っていた。そして彼女は十一歳で棄教する。棄教には相当な決心が必要であったはずだ。青豆は生まれたときから信仰を叩き込まれている。その信仰と共に育ってきた。身体の芯にまでそれは浸み込んでいる。洋服を着替えるように簡単に捨て去れるものではない。それはまた家庭における孤立をも意味している。きわめて信仰深い家族だ。棄教した娘を彼らがすんなり受け入れることはあるまい。信仰を捨てるのは家族を捨てるのと同じことなのだ。
 十一歳の時に、青豆の身にいったい何が起こったのだろう? 何が彼女にそのような決断をさせたのだろう?
 千葉県市川市立※※小学校、と牛河は思った。その名前を実際に声に出してもみた。そこで何かが起こったのだ。そこで間違いなく何かが……それから牛河は小さく息を呑んだ。この小学校の名前を俺は以前にどこかで耳にしたことがある。
 いったいどこで耳にしたのだろう? 牛河は千葉県にはまったく縁がない。生まれは埼玉県浦和市で、大学に入って東京に出てきて以来、中央林間にいた時期を別にすれば、ずっと二十三区内に住んでいる。千葉県にはほとんど足を踏み入れたこともない。一度|富津《ふっつ》に海水浴に行っただけだ。それなのにどうして市川の小学校の名前に聞き覚えがあるのだろう?
 思い出すまでに時間がかかった。彼はいびつな頭を手のひらでごしごしとこすりながら意識を集中した。深い泥の中に手をつっこむようにして、記憶の底をさぐった。その名前を耳にしたのはそれほど昔のことではない。つい最近のことだ。千葉県……市川市……小学校。それから彼の手はようやく細いロープの端をつかむことができた。
 川奈天吾だ、と牛河は思った。そう、あの川奈天吾が市川の出身だった。彼もたしか市内の公立小学校に通っていたはずだ。
 牛河は事務所の書類戸棚から川奈天吾に関するファイルを取り出した。数ヶ月前、「さきがけ」に依頼されて集めた資料だ。そのページを繰って天吾の学歴を確認してみた。彼のむっくりとした指がその名前を探し当てた。思ったとおりだ。青豆雅美は川奈天吾と同じ市立小学校に通っていた。生年月日からすると、学年もたぶん同じだ。クラスが同じだったかどうかは、調べてみなくてはわからない。しかし二人が知り合いだった可能性は大いにある。
 牛河はセブンスターを口にくわえ、ライターで火をつけた。ものごとがひとつに結びつき始めているという手応えがあった。点と点のあいだに線が一本ずつ引かれていく。これからどのような図形がそこにかたちつくられていくのか、牛河にもまだわからない。しかしそのうちに少しずつ構図が見えてくるはずだ。
 青豆さん、俺の足音は聞こえるかい? たぶん聞こえないだろう。なるたけ音を立てないように歩いているからね。しかし俺は一歩また一歩とそちらに近づいている。とろい亀さんだが、それでも確実に前に進んでいる。そのうちにウサギさんの後ろ姿が見えてくるはずだ。楽しみに待っていてくれ。牛河は椅子の上で背中を反らせ、天井を見上げ、煙草の煙をそこに向けてゆっくりと吐いた。

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