第10章 牛河
ソリッドな証拠を集める
牛河は市川まで足を運んだ。ずいぶん遠出をするような気持ちだったが、実際には市川市は川を渡って千葉県に入ってすぐのところにあり、都心からそれほど時間はかからない。駅前からタクシーに乗り、小学校の名前を告げた。その小学校についたのは一時過ぎだった。昼休みが終わり、午後の授業は既に始まっていた。音楽室からは合唱する声が聞こえ、校庭では体育の時間のサッカー競技がおこなわれていた。子供たちが声を上げながらボールを追っていた。
牛河は小学校に良い思い出を持っていない。彼は体育が不得意で、とくに球技が苦手だった。ちびで足が遅く、目には乱視が入っている。それにもともと運動神経というものが具わっていないのだ。体育の時間はまさに悪夢だった。学科の成績は優秀だった。頭の出来はもともと悪くないし、よく勉強もする(だからこそ二十五歳で司法試験に合格できたのだ)。しかし彼はまわりの誰にも好かれなかったし、敬意も払われなかった。運動が得意ではないこともおそらくその原因のひとつだった。もちろん顔の造作にも問題があった。子供時代から顔が大きくて、目つきが悪く、頭のかたちがいびつだった。分厚い唇は両端が下がって、そこから今にもよだれがこぼれ落ちそうに見えた(そう見えるだけで実際にこぼれ落ちたことはないのだが)。髪は縮れてとりとめがなかった。人々に好意を抱かれる外観ではない。
小学校時代、彼はろくに口をきかなかった。いざとなれば弁が立つことは自分でもわかっていた。しかし親しく話ができる相手もいなかったし、人前で弁舌を振るう機会も与えられなかった。だから常に口を閉ざしていた。そして他人が語ることに——それがたとえどんなことであれ——注意深く耳を澄ませるのを習慣とした。そこから何かを得ようと心がけた。その習慣はやがて彼にとって有益な道具になった。彼はその道具を使って多くの貴重な事実を発見した。世の中の人間の大半は、自分の頭でものを考えることなんてできない——それが彼の発見した「貴重な事実」のひとつだった。そしてものを考えない人間に限って他人の話を聞かない。
いずれにせよ牛河にとって、小学校での日々は好んで思い出す人生のひとこまではない。これから自分が小学校を訪れるのだと考えただけで気が滅入った。埼玉県と千葉県の違いこそあれ、小学校なんて全国どこでも似たようなものだ。同じかっこうをして、同じ原理で動いている。それでも牛河はこの市川市の小学校にわざわざ足を運んだ。それは重要なことであり、ほかの人間には任せられない。彼は小学校の事務室に電話を入れ、一時半にそこで担当者と話をする予約を入れた。
副校長は小柄な女性で、四十代半ばに見えた。ほっそりとして顔立ちも良く、身なりも小綺麗だった。副校長? 牛河は首をひねった。そんな言葉を彼は耳にしたことがなかった。しかし彼が小学校を出たのは大昔の話だ。きっとその間にいろんなことが変化したのだろう。彼女はこれまで多くの、様々な種類の人と応対をしてきたらしく、牛河の尋常とは言いがたい容姿を目にしても、とくに驚いた素振りは見せなかった。あるいは単に礼儀正しいだけなのかもしれない。彼女は清潔な応接室に牛河を通し、椅子を勧めた。自分もその向かいの椅子に腰を下ろし、にっこりと微笑んだ。これから二人でどんな愉しいお話ができるのでしょうか、とでも問いかけるように。
彼女は牛河に小学校のクラスで一緒だった一人の女の子を思い出させた。きれいで、成績がよくて、親切で、責任感がある。育ちも良く、ピアノも上手だった。先生にも可愛がられていた。牛河はその女の子を授業中によく眺めたものだ。主にその背中を。でも口をきいたことは一度もない。
「当校の卒業生について何か調査をなさっておられるとか」と副校長は尋ねた。
「申し遅れました」と牛河は言って名刺を差し出した。天吾に渡したのと同じ名刺だ。「財団法人 新日本学術芸術振興会専任理事」という肩書きが印刷してある。牛河はその女性に対して、かつて天吾に話したのとほぼ同じ作り話をした。この小学校の卒業生である川奈天吾が作家として、当財団の助成金を受ける有力候補になっていること。彼についてごく一般的な調査をおこなっていること。
「それは素晴らしいお話ですね」と副校長はにこやかに言った。「当校にとっても名誉なことです。わたくしどもにできることがあれば、喜んで協力させていただきます」
「川奈天吾さんを受け持っておられた先生に、川奈さんについて直接お話をうかがうことができればと考えております」と牛河は言った。
「調べてみましょう。二十年も前のことですから、もう退職しておられるかもしれませんが」
「ありがとうございます」と牛河は言った。「それからもしよろしければ、もうひとつ調べていただきたいことがあるのです」
「どんなことでしょう?」
「川奈さんとおそらく同じ学年に、青豆雅美さんという女性が在学していたはずです。川奈さんと青豆さんが同じクラスになったことがあるかどうか、それも調べて頂けませんでしょうか?」
副校長はいくらか怪認な顔をした。「その青豆さんが、今回の川奈さんの助成金の問題に何か関係しているのですか?」
「いや、そういうわけではありません。ただ川奈さんが書かれた作品の中に、青豆さんらしき人がモデルとして描かれておりまして、それについて私どもといたしましても、いくつかの間題をクリアしておく必要を感じているというだけです。そんなにややこしいことではありません。あくまで形式的な問題です」
「なるほど」、副校長は端整な唇の両端をわずかに持ち上げた。「ただ、おわかりだとは思いますが、個人のプライバシーに関する情報をお渡しすることは、場合によってはできかねます。たとえば学業成績であるとか、家庭環境であるとか」
「それはよく承知しております。我々といたしましてはただ、彼女が川奈さんと実際に同じクラスになったことがあるかどうかを知りたいのです。そしてもしそうであれば、当時の担任の先生の名前と連絡先もお教えいただければありがたいのですが」
「わかりました。その程度のことであれば問題はないでしょう。青豆さんとおっしゃいましたっけ?」
「そうです。青い豆と書きます。あまりない名前です」
牛河は手帳のメモにボールペンで「青豆雅美」という名前を書いて、それを副校長に渡した。彼女はその紙片を受け取って数秒間眺めてから、机の上に置かれたフォルダーのポケットに入れた。
「ここでしばらくお待ちいただけますか。事務記録を調べて参ります。公開できる情報につきましては、担当のものにコピーさせましょう」
「お忙しいところ、お手間をとらせて恐れ入ります」と牛河は礼を言った。
副校長はフレア・スカートの裾を美しくひるがえして部屋を出て行った。姿勢も良く、歩き方もきれいだ。髪型も品が良い。感じの良い年齢の重ね方をしている。牛河は椅子に座り直し、持参した文庫本を読みながら時間を潰した。
十五分後に副校長は戻ってきた。彼女は茶色い事務封筒を胸に抱えていた。
「川奈さんはずいぶん優秀な児童だったようです。成績は常にトップクラスで、また運動選手としても見事な成果をあげています。とくに算数といいますか、数学方面が得意で、小学校時代から高校生向けの問題を解いていました。コンクールにも優勝し、神童として新聞に取り上げられたこともあるくらいです」
「大したものだ」と牛河は言った。
副校長は言った。「しかし不思議なものですね。当時は数学の神童として名を馳せていたのに、成人して文学の世界で頭角を現すというのは」
「豊かな才能は、豊かな水脈と同じように、様々な場所に出口を見いだすものなのでしょう。現在は数学の先生をしながら、小説を書いておられます」
「なるほど」と副校長は眉を美しい角度に曲げて言った。「それに比べると、青豆雅美さんについてはあまり多くはわかりませんでした。彼女は五年生のときに転校しています。東京都足立区にある親戚のおうちに引き取られたということで、そちらの小学校に転入しています。川奈天吾さんとは、三年生と四年生のときに同じ学級でした」
思ったとおりだと牛河は思った。二人のあいだにはやはり繋がりがあった。
「太田という女性の教師がそのときの担任です。太田俊江さん。現在は習志野市の市立小学校に勤務しておられます」
「その小学校に連絡すれば、お目にかかれるかもしれませんね」
「既に連絡をとりました」と副校長は軽く微笑んで言った。「そういう事情であれば牛河さまに喜んでお目にかかりたいと言っておられました」
「それは恐れ入ります」と牛河は礼を言った。美しいだけではなく、仕事も手早い。
副校長は自分の名刺の裏に、その教師の名前と、彼女の勤務する津田沼の小学校の電話番号を書き、それを牛河に渡した。牛河はその名刺を大事に札入れにしまった。
「青豆さんは宗教的な背景をもっておられたとうかがっています」と牛河は言った。「我々にとりましては、それがいささか気にかかるところでもあるのですが」
副校長が眉を曇らせると、目の両端に小さな皺がよった。注意深い自己訓練を重ねた中年の女性だけが、このような微妙な意味合いをもった知的でチャーミングな皺を獲得できる。
「申し訳ありませんが、それは私たちがここで討議できかねる問題のひとつです」と彼女は言った。
「プライバシーが関わってくる問題なのですね」と牛河は尋ねた。
「そのとおりです。とりわけ宗教の問題につきましては」
「でもその太田先生にお会いすれば、そのあたりの事情が伺えるかもしれませんね」
副校長はその繊細な顎をほんの少し左に傾げ、含みのある笑みを口元に浮かべた。「太田先生が[#傍点]個人の立場[#傍点終わり]でお話しになることに対して、わたくしどもが関与する必要はありません」
牛河は立ち上がり、副校長に丁寧に礼を言った。副校長は書類の入った事務封筒を牛河に差し出した。「お渡しできる資料はここにコピーいたしました。川奈さんについての資料です。青豆さんについても少し入っています。お役に立てればよろしいのですが」
「助かりました。ご親切にしていただいて本当に感謝します」
「その助成金の件で何か結果がわかりましたら知らせて下さい。当校にとっても名誉になることですから」
「良い結果が出るものと私も確信しています」と牛河は言った。「何度かお会いしましたが、確かな才能を持った前途有為な青年です」
市川の駅前で牛河は食堂に入って簡単な昼食を取り、そのあいだに封筒に入っていた資料に目を通した。天吾と青豆の簡単な在校記録があった。天吾が勉学や運動で表彰された記録も同封されていた。たしかに並み外れて優秀な生徒であったようだ。彼にとって学校が悪夢であったことはおそらく一度もなかっただろう。どこかの算数コンクールで優勝したときの新聞記事のコピーもあった。古いものなので鮮明ではないが、少年時代の天吾の顔も写っていた。
食事を済ませたあと、津田沼の小学校に電話を入れた。そして太田俊江という教師と話をし、四時にその小学校で会う約束をした。その時間ならゆっくりお話ができると思います、と彼女は言った。
いくら仕事とはいえ、一日のうちに小学校を二校も訪れるなんてな、と牛河はため息をついた。考えるだけで気が重い。しかし今までのところ、わざわざ足を運んだだけの収穫はあった。天吾と青豆が小学校時代、二年間同じクラスにいたことが判明した。これは大きな前進だ。
天吾は深田絵里子を助けて『空気さなぎ』を文芸作品のかたちにし、それをベストセラーにした。青豆は深田絵里子の父親である深田保を、ホテル・オークラの一室で人知れず殺害した。二人はそれぞれ教団「さきがけ」を攻撃するという共通の目的をもって行動しているようだ。そこには連携があったかもしれない。あったと考えるのが普通だろう。
しかしあの「さきがけ」の二人組にはまだそのことを教えない方がいい。牛河は情報を小出しに渡すのが好きではない。貪欲に情報を収集し、綿密に事実の周辺を固め、ソリッドな証拠を揃えたところで、「実はですね」と切り出すのが好きだ。現役の弁護士時代からその芝居がかった癖は続いていた。へり下って相手を油断させておき、物事が大詰めに近づいたところで[#傍点]がちがち[#傍点終わり]の事実を持ち出して、流れをひっくり返す。
電車で津田沼に向かうあいだ、牛河はいくつかの仮説を頭の中で組み立ててみた。
天吾と青豆は男女関係にあるのかもしれない。まさか十歳のときから恋人同士だったということはあるまいが、小学校を出てからどこかで巡り合い、親しくつきあうようになった可能性は考えられる。そして二人は何らかの事情で——それがどのような事情であるかは不明だが——教団「さきがけ」を潰すべく力を合わせることになった。それはひとつの仮説だった。
しかし牛河が見る限り、天吾が青豆と交際している形跡はなかった。彼は十歳年上の人妻と定期的に肉体関係を持っていた。天吾の性格からして、もし彼がそれほど深く青豆と結ばれているのであれば、ほかの女性と習慣的に性的関係を持ったりはしないはずだ。それほど器用なことができる人間ではない。牛河は以前、二週間ばかり天吾の行動パターンを調査したことがある。週に三日予備校で数学を教え、それ以外の日にはだいたい一人で部屋にこもっている。たぶん小説を書いているのだろう。時折の買い物と散歩以外にはほとんど外出もしない。単純にして質素な生活だ。わかりやすく、不可解なところも見当たらない。事情がどうあれ、殺人行為を伴うような陰謀に天吾が関与したとは、牛河にはどうしても考えられなかった。
牛河はどちらかといえば、天吾に個人的好感を抱いていた。天吾は飾り気のない、率直な性格の青年だった。自立心が強く、人に頼らない。体格の大きな人間によくあるように、いくぶん気の利かない傾向はあったが、こそこそしたところや、小狡《こずる》い性格は持ち合わせていない。いったんこうと決めたら、そのまままっすぐ前を向いて歩いていくタイプだ。弁護士や証券取引業者としてはとても大成しそうにない。すぐに誰かに足を引っかけられて、肝心なところで転んでしまうだろう。しかし数学の教師や小説家としてなら、まずまずうまくやっていけるはずだ。社交性もなく能弁でもないが、ある種の女性には好かれる。早い話、牛河とは対照的な成り立ちの人物なのだ。
それに比べると、青豆という人間について牛河は何も知らないようなものだ。わかっているのは、彼女が「証人会」の熱心な信者の家に生まれ、物心ついたときから布教に回らされていたということくらいだ。小学校五年生のときに信仰を捨て、足立区にある親戚の家に引き取られる。たぶんそれ以上我慢しきれなくなったのだろう。幸運なことに身体能力に恵まれており、中学から高校にかけてソフトボール・チームの有力選手になる。そして人々の注目を集める。おかげで奨学金をもらって体育大学に進むことができた。そのような事実を牛河は掴んでいる。しかし彼女がどのような性格で、どのような考え方をするのか、どのような長所と欠点を持ち合わせ、どのような私生活を送ってきたのか、そのへんは皆目わからない。彼が手にしているのは一連の履歴書的な事実に過ぎない。
しかし青豆と天吾の履歴を頭の中で重ねているうちに、そこにいくつかの共通点が存在することがわかってきた。まずだいいちに、彼らの子供時代はそれほど幸福なものではなかったはずだ。青豆は布教のために母親と一緒に街を歩き回らされていた。家から家へとベルを押してまわる。
「証人会」の子供たちはみんなそれをやらされる。そして天吾の父親はNHKの集金人だった。これもまた戸口から戸口へと歩き回る仕事だ。彼は「証人会」の母親と同じように、息子を連れて歩いただろうか? 歩いたかもしれない。もし自分が天吾の父親であったなら、きっとそうするだろう。子連れの方が集金の成績も上がるし、ベビーシッターの費用もかからない。一挙両得だ。しかし天吾にとってそれは楽しい経験ではなかったはずだ。あるいは二人の子供たちが市川市の路上ですれ違うことだってあったかもしれない。
そして天吾も青豆も、物心がつくと努力してそれぞれにスポーツの奨学金を手に入れ、親からできるだけ遠く離れようと試みている。二人とも実際にスポーツ選手として優秀だった。もともと素質に恵まれていたということもあるだろう。しかし彼らには[#傍点]優秀でなくてはならない[#傍点終わり]という事情もあったのだ。彼らにとってスポーツ選手として人々に認められ、良い成績を残すことは、自立するためのほとんど唯一の手段だった。自己保存のための貴重な切符だった。普通の十代の少年や少女とは考え方も違うし、世界と向きあう姿勢も違う。
考えてみれば、牛河にとっても状況は似たようなものだった。彼の場合、家庭は裕福だったから奨学金を手に入れる必要はなかったし、小遣い銭に不自由することもなかった。しかし一流大学に入るために、そして司法試験に合格するために、死にものぐるいで勉強をしなくてはならなかった。天吾や青豆の場合と同じだ。ほかの級友のようにちゃらちゃらと遊んでいる暇はなかった。あらゆる現世的な楽しみを棄てて——それはたとえ求めても簡単には得られそうにないものだったが——とにかく勉学に専念した。劣等感と優越感の狭間で彼の精神は激しく揺れ動いた。俺は言うなればソーニャに出会えなかったラスコーリニコフのようなものだ、とよく思ったものだ。
いや、俺のことはいい。今更そんなことを考えてどうなるわけでもない。天吾と青豆の問題に戻ろう。
もし天吾と青豆が、二十歳を過ぎた時点でどこかでばったり会って話をしたら、自分たちが多くの共通点を持つことを知ってびっくりしたはずだ。そこで語られるべきことは数多くあっただろう。そして二人はその場で、男女として強く惹かれあったかもしれない。そういう情景を牛河は鮮やかに想像することができた。宿命的な邂逅《かいこう》。究極のロマンス。
そんな邂逅は実際になされたのか? ロマンスは生まれたのか? もちろん牛河にはそこまでわからない。しかし出会ったと考えた方が筋が通る。だからこそ二人は連携して「さきがけ」の攻撃にかかったのだ。天吾はペンを使い、青豆はおそらくは特殊な技術を使い、それぞれに違う方面から。しかしその仮説に牛河はどうしても馴染めなかった。話の筋はいちおう通るのだが、もうひとつ説得力がない。
もし天吾と青豆との間にそのような深い関係が結ばれていたなら、それが表面に出てこないはずがない。宿命的な邂逅はそれなりに宿命的な結果を生み出すものだし、それが牛河の注意深い一対の目にとまらないわけがない。青豆はあるいはそれを隠しおおせるかもしれない。しかしあの天吾くんには無理だ。
牛河は基本的に論理を組み立てて生きる男だ。実証なしには前に進まない。しかしそれと同時に、自分の天性の勘を信じてもいる。そしてその勘は、天吾と青豆が共謀して動いているというシナリオに対して首を振っていた。小さく、しかし執拗に。ひょっとして二人の目にはまだお互いの存在が映っていないのではないだろうか。二人が同時に「さきがけ」に関与したのは、[#傍点]たまたま[#傍点終わり]の成り行きだったのではあるまいか。
考えがたいほどの偶然であるにしても、その仮説の方が共謀説よりは牛河の勘に馴染んだ。二人はそれぞれ異なった動機と異なった目的のために、それぞれ異なった側面から[#傍点]たまたま[#傍点終わり]同時に「さきがけ」の存在を揺さぶることになったのだ。そこには成り立ちの違う二つのストーリーラインが並行してある。
しかしそんな都合の良い仮説を「さきがけ」の連中が素直に受け入れてくれるだろうか? まず無理だ、と牛河は思う。彼らは一も二もなく共謀説に飛びつくだろう。なにしろ陰謀じみたことが根っから好きな連中だ。生の情報を差し出す前に、もっとソリッドな証拠をみっちり揃えなくてはならない。そうしないと彼らを逆にミスリードすることになるし、それはひいては牛河自身に害を及ぼしかねない。
牛河は市川から津田沼に向かう電車の中で、ずっとそんなことを考えていた。たぶん知らないうちに顔をしかめたり、ため息をついたり、宙を睨んだりしていたのだろう。向かいの席に座った小学生の女の子が不思議そうな顔で牛河を見ていた。彼は照れ隠しに表情を崩し、いびつなかたちをした禿頭を手のひらでさすった。しかしその動作は逆に女の子を怯えさせたようだった。彼女は西船橋の駅の手前で急に席を立ち、早足でどこかに行ってしまった。
太田俊江という女性教師とは放課後の教室で話をした。おそらく五十代半ばだろう。その見かけは、市川の小学校の洗練された副校長とはみごとなまでに対照的だった。短身でずんぐりとして、後ろから見ると甲殻類のような不思議な歩き方をした。金属縁の小さな眼鏡をかけていたが、眉と眉とのあいだが広く平らで、細かい産毛がそこに生えているのが見えた。いつ作られたのかは見当もつかないが、いずれにせよそれが作られたときから既に流行遅れだったのではないかとおぼしきウールのスーツには、防虫剤の匂いが微かに漂っていた。色はピンクだが、どこかで間違った色を混ぜ込まれたような、不思議なピンクだった。おそらくは品の良い落ち着いた色調が求められていたのだろうが、意図が果たせぬまま、そのピンクは気後れと韜晦《とうかい》とあきらめの中に重く沈み込んでいた。おかげで、襟元からのぞいている真新しい白いブラウスは、まるで通夜に紛れ込んだ不謹慎な客のように見えた。白いものの混じった乾いた髪は、いかにも間に合わせという感じでプラスチックのピンでとめられていた。手足は肉付きがよく、短い指には指輪はひとつもはめられてない。首筋には三本の細い皺が、人生の刻み目のようにくっきりとついている。あるいは三つの願いが叶えられたしるしかもしれない。しかしたぶんそうではないだろうと牛河は推測した。
彼女は小学校三年生から卒業まで川奈天吾を担任した。二年ごとにクラス替えがあるのだが、たまたま天吾とは四年間一緒だった。青豆を担任したのは三年生と四年生の二年間だけだ。
「川奈さんのことはよく覚えています」と彼女は言った。
そのおとなしそうな見かけに比べると、彼女の声は驚くほどクリアで若々しかった。騒がしい教室の隅までしっかりと通る声だ。職業が人を作るのだと、牛河は感心した。きっと有能な教師なのだろう。
「川奈さんはすべての面において優秀な生徒でした。二十五年以上にわたって、いくつかの小学校で数え切れないほどの生徒を教えてきましたが、あれほど優れた資質を持った生徒に出会ったことはありません。何をさせても抜きんでていました。人柄も良く、指導力も具わっていました。どのような分野に進んでも一家をなす人物のように見えました。小学生の時はなんといっても算数、数学の能力が際だっていましたが、文学の道に進んだとしても決して驚きはしません」
「お父さんはたしかNHKの集金の仕事をしておられたのですね」
「そうです」と教師は言った。
「なかなか厳しいお父さんであったとご本人からうかがいました」と牛河は言った。それはまったくの当てずっぽうだった。
「そのとおりです」と彼女は迷いなく言った。「とても厳しいところのあるお父様でした。自分のお仕事を誇りにしておられて、それはもちろん素晴らしいことなのですが、ときとして天吾くんにはそのことが負担になっていたようです」
牛河は巧みに話題をつないで、彼女から詳しい話を引き出した。それは牛河の最も得手とする作業だった。相手にできるだけ気持ちよくしゃべらせること。週末に父親の集金に同行させられることを嫌って、天吾が五年生の時に家出したことを彼女は話した。「家出というよりは、実際には家を追い出されたようなものですが」と教師は言った。やはり天吾は父親と一緒に集金にまわらされていたのだ、と牛河は思った。そしてそれは少年時代の天吾にとって少なからぬ精神的負担になっていた。予想した通りだ。
女教師は行く先のない天吾を一晩自宅に泊めた。彼女はその少年のために毛布を用意し、朝食も作ってやった。翌日の夕刻父親のところに行き、弁を尽くして彼を説得した。彼女はそのときのことを、自らの人生のもっとも輝かしいひとこまを語るように語った。天吾が高校生のときにたまたま音楽会で再会したことも、彼女は語った。彼がそこでどれくらい上手にティンパニの演奏をしたかを。
「ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。簡単な曲ではありません。天吾くんはその数週間前までその楽器に手を触れたこともなかったんです。しかし即席のティンパニ奏者として舞台に立ち、見事に役を果たしました。奇跡としか思えません」
この女性は天吾のことが心から好きなのだ、と牛河は感心した。ほとんど無条件に好意を抱いている。それくらい深く他人から好かれるというのは、いったいどういう気持ちのするものなのだろう?
「青豆雅美さんのことは覚えておられますか?」と牛河は尋ねた。
「青豆さんのこともよく覚えています」と女教師は言った。しかしその声には、天吾の時とは違って、喜びは感じられなかった。彼女の声のトーンは目盛りふたつぶんくらい落ちた。
「珍しいお名前ですしね」と牛河は言った。
「ええ、かなり珍しい名前です。しかし彼女のことをよく覚えているのは、名前のせいだけではありません」
短い沈黙があった。
「ご家族は『証人会』の熱心な信者だったそうですね」と牛河は探りを入れた。
「これはここだけの話にしていただけますか」と女教師は言った。
「わかりました。もちろん外にはもらしません」
彼女は肯いた。「市川市には『証人会』の大きな支部があります。ですから何人かの『証人会』の子供たちを私は担任してきました。教師という立場から見れば、そこにはそれぞれ微妙な問題があり、そのたびに注意を払わなくてはなりません。しかし青豆さんのご両親くらい熱心な信者さんはほかにはおられませんでした」
「つまり妥協ということをしない人々だった」
女教師は思い出すように軽く唇を噛んだ。「そうです。原則に対してきわめて厳密な人々でしたし、子供たちにも同じ厳密さを要求しました。そのために青豆さんはクラスの中で孤立せざるを得なかったのです」
「青豆さんはある意味では特殊な存在だったわけですね」
「特殊な存在でした」と教師は認めた。「もちろん子供に責任はありません。もし何かに責任を求めるとすれば、それは人の心を支配する不寛容さです」
女教師は青豆について語った。ほかの子供たちは青豆の存在をおおむね無視していた。可能な限り、彼女を[#傍点]いないもの[#傍点終わり]として扱っていた。彼女は異分子であり、奇妙な原則を振りかざしてほかのみんなに迷惑をかけるものだった。それがクラスの統一見解だった。それに対し青豆は、自らの存在を可能な限り希薄にすることで身を護っていた。
「私としてもできる限りの努力はしました。しかし子供たちの結束は予想を超えて固く、青豆さんは青豆さんで、自分をほとんど幽霊のような存在に変えていました。今であれば専門カウンセラーの手に委ねることもできます。しかし当時そんな制度は存在しません。私はまだ若く、クラスをひとつにまとめていくだけで手一杯でした。おそらく言い訳にしか聞こえないでしょうが」
彼女の言っていることは牛河にも理解できた。小学校教師という仕事は重労働だ。子供たちのあいだのことは、ある程度子供たちに任せてやっていくしかない。
「信仰の深さと不寛容さは、常に裏表の関係にあります。それはなかなか我々の手には負えないことです」と牛河は言った。
「おっしゃる通りです」と彼女は言った。「でもそれとは別のレベルで、何か私にできることはあったはずです。私は何度か青豆さんと話し合おうとしました。しかし彼女はほとんど口をきいてくれませんでした。意志が強く、一度こうと決めたら考えを変えません。頭脳も優秀です。優れた理解力を持ち、学習意欲もあります。しかしそれを表に出さないように、厳しく自分を管理し抑制しています。[#傍点]目立たないこと[#傍点終わり]がおそらく身を護るただひとつの手段だったのです。もし通常の環境に身を置いていたなら、彼女もやはり素晴らしい生徒になっていたでしょう。それは今思いかえしても残念なことです」
「彼女のご両親とお話しになったことはありますか」
女教師は肯いた。「何度もあります。信仰の迫害があるということで、ご両親は度々学校に抗議にみえました。そのときに私は、もう少し青豆さんがクラスにとけ込めるように協力していただけまいかとお願いしました。僅かでも原則を曲げてもらえないだろうかと。でも無駄でした。ご両親にとっては信仰のルールを厳密に守ることが何よりも大事でした。彼らにとっての幸福とは楽園に行くことであって、現世における生活はかりそめのものに過ぎません。でもそれは大人の世界の理屈です。育ち盛りの子供の心にとって、クラスでみんなに無視されたりつまはじきされたりするのがどれほどつらいことか、それがどれほど致命的な傷をあとに残すことになるか、残念ながらわかってはいただけませんでした」
青豆が大学と会社でソフトボール部の中心選手として活躍し、現在は高級スポーツ・クラブの有能なインストラクターになっていることを、牛河は彼女に教えた。正確に言えば少し前まで活躍[#傍点]していた[#傍点終わり]ということになるが、そこまで厳密になることはない。
「それは良かった」と教師は言った。彼女の頬に淡く赤みがさした。「無事に成長し、自立して元気に生きておられる。それを聞いて安心しました」
「ところでひとつつかぬことをお伺いしたいのですが」と牛河は邪気のない笑みを浮かべて尋ねた。「小学生時代、川奈天吾さんと青豆さんが個人的に親しい関係にあった、というようなことはあり得るでしょうか?」
女教師は両手の指を組み、しばらく考えていた。「あるいはそんなこともあったかもしれません。でも私はそういう現場を目にしていませんし、話にも聞いておりません。ただひとつ言えるのは、それが誰であれ、あのクラスで青豆さんと個人的に親しい関係になるような子供がいたとは、ちょっと考えにくいということです。天吾くんはあるいは青豆さんに手を差し伸べたかもしれません。心の優しい責任感のある子供でしたから。しかし仮にそんなことがあったとしても、青豆さんの方はそうすんなりとは心を開かなかったでしょう。岩に張りついた牡蠣が簡単には殻を開かないのと同じように」
女教師はいったん口をつぐみ、それから付け加えた。「こういう言い方しかできないのはまことに残念です。でも当時の私には何も手が打てませんでした。先刻も申し上げたとおり、経験も乏しく力不足だったのです」
「もし仮に、川奈さんと青豆さんが親しい関係になるようなことがあれば、それはクラスの中で大きな反響を呼んだだろうし、その話が先生の耳に届かなかったわけはない、そういうことでしょうか?」
女教師は肯いた。「不寛容さはどちらの側にもあったのです」
牛河は礼を言った。「先生のお話をうかがえて、大変役に立ちました」
「青豆さんの話が、その今回の助成金の話の妨げにならなければいいのですが」と彼女は心配そうに言った。「クラスにそのような問題が生じたのはあくまで担任教師である私の責任です。天吾くんのせいでも、青豆さんのせいでもありません」
牛河は首を振った。「ご心配は無用です。私はただ作品の背後関係の事実チェックをしているだけです。ご存じのように宗教の関わる問題はなにせ複雑ですから。川奈さんは優れた大振りな才能を持っておられますし、遠からず名を成されるはずです」
それを聞いて女教師は満足そうに微笑んだ。小さな瞳の中で何かが陽光を受け、遠くの山肌に見える氷河のようにきらりと光った。少年時代の天吾を思い出しているのだ、と牛河は思う。二十年も前のことなのに、彼女にはきっとつい昨日の出来事のように感じられるのだろう。
津田沼駅に向かうバスを校門の近くで待ちながら、牛河は自分の小学校の教師たちのことを考えた。彼らは牛河を記憶しているだろうか? もし記憶していたとしても、彼のことを思い出す教師たちの瞳に親切な光が浮かんだりすることはまずあり得ない。
明らかになった状況は、牛河が仮説として予測していたものに近かった。天吾はクラスでいちばん優秀な生徒だった。人望もあった。青豆は孤立し、クラスの全員に無視されていた。天吾と青豆がそこで親しくなる可能性はほとんどない。立場が違いすぎる。そして青豆は五年生のときに市川から転出し、別の小学校に移った。二人の繋がりはそこで途切れている。
もし小学校時代の二人のあいだに何か共通項を求めるなら、それは心ならずも親の言いつけに従わざるを得なかったという一点でしかない。勧誘と集金という目的の違いはあるにせよ、彼らは強制的に親に連れられて街を歩き回っていた。クラスの中で置かれていた立場はまったく違う。しかし二人はおそらく同じように孤独で、同じように強く何かを求めていたはずだ。無条件で自分を受け入れ、抱きしめてくれるような[#傍点]何か[#傍点終わり]を。牛河には彼らの心情を想像することができた。それはある意味では、牛河自身の抱いていた心情でもあったからだ。
さて、と牛河は思う。彼は津田沼から東京に向かう快速電車のシートに座り、腕組みをしていた。さて、俺はこれからいったいどうすればいいのだろう。天吾と青豆のあいだにいくつかの繋がりを発見することができた。興味深い繋がりだ。しかし残念ながら今のところ、それが何かを具体的に証明しているわけではない。
俺の前には高い石壁がそびえている。そこには三つのドアがついている。どれかひとつを選ばなくてはならない。それぞれのドアには表札がついている。ひとつは「天吾」、ひとつは「青豆」、もうひとつは「麻布の老婦人」だ。青豆は文字通り煙のように消えてしまった。足跡ひとつ残っていない。麻布の「柳屋敷」は銀行の金庫室なみに警護を固められている。こちらも手のつけようがない。となると、残されたドアはひとつしかない。
これから当分は天吾くんにへばりついていることになりそうだな、と牛河は思った。ほかに選択肢はない。消去法の見事なサンプルだ。きれいなパンフレットにして道行く人々に配りたいくらいだ。よろしいですか、みなさん、これが消去法というものです。
生まれながらの好青年、天吾くん。数学者にして小説家。柔道のチャンピオンにして、小学校女教師のお気に入り。とりあえずはこの人物を突破口にして事態の[#傍点]もつれ[#傍点終わり]を解きほぐしていくしかない。ひどくややこしいもつれだ。考えれば考えるほどわけがわからなくなる。自分の脳味噌が消費期限切れの豆腐でできているみたいに思えてくる。
天吾くん自身はどうなのだろう。彼の目にはものごとの全体像が見えているのだろうか? いや、おそらく見えてはいるまい。牛河の見る限り、天吾は試行錯誤を繰り返し、あちこち回り道をしているようだ。彼もまたいろんなことに当惑し、頭の中で様々な仮説を組み立てているのではあるまいか。とはいえ天吾くんは生まれながらの数学者だ。ピースを集めてパズルを組み立てる作業に習熟している。また彼は当事者として、たぶん俺が手にしているよりは数多くのピースを手にしているはずだ。
当分のあいだ川奈天吾の動きを見張ろう。彼がおそらく俺を[#傍点]どこかに[#傍点終わり]導いてくれるに違いない。うまくいけば青豆の潜んでいる場所に。コバンザメのように何かにぴったりへばりついて離れないこと、それも牛河が最も得手とする行為のひとつだった。いったんそう心を決めれば、彼をふるい落とすことは誰にもできない。
それだけを決めると、牛河は目を閉じて思考のスイッチを切った。少し眠ろう。今日はろくでもない千葉県の小学校をふたつもまわり、二人の中年の女教師に会って話を聞いた。美しい副校長と、カニのような歩き方をする女教師。神経を休める必要がある。しばらくして彼の大きないびつな頭が、電車の振動にあわせてゆっくりと上下に揺れ始めた。見せ物で、口から不吉なおみくじを吐き出す等身大の人形のように。
電車は空《す》いてはいなかったが、牛河の隣の席に座ろうとする乗客は一人もいなかった。