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1Q84 (3-14)
日期:2018-10-13 22:32  点击:460
 第14章 青豆
      私のこの小さなもの
 
 
 青豆はおおむね混迷と模索の中に生きている。この1Q84年という、既成の論理や知識がほとんど通用しない世界にあって、これから自分の身に何が起ころうとしているのか予測がつかない。それでも自分は少なくともあと何ヶ月かは生き延びて、子供を出産することになるだろうと彼女は考える。あくまで予感に過ぎない。しかしほとんど確信に近い予感だ。なぜなら彼女が子供を出産するという前提のもとに、すべてのものごとが進行しているように思えるからだ。そういう気配を彼女は感じとる。
 そして青豆は「さきがけ」のリーダーが最後に口にした言葉を覚えている。彼は言った。「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ」
 彼は[#傍点]何か[#傍点終わり]を知っていた。とても大事なことを。そしてそれを曖昧な言葉で多義的に私に伝えようとしていたのだ。その試練とは私が実際に死の瀬戸際にまで自らを運ぶことだったのかもしれない。私は命を絶つつもりで、拳銃を手にエッソの看板の前まで行った。でも死ぬことなくここに戻ってきた。そして自分が妊娠していることを知った。それもまたあらかじめ決められていたことなのかもしれない。
 十二月に入ると何日か強い風の吹く夜が続いた。ケヤキの落ち葉がベランダの目隠しのプラスチック板に打ちつけられ、辛辣な乾いた音を立てた。冷たい風が警告を発しながら裸の枝のあいだを吹き抜けていった。カラスたちの掛け合う声も、より厳しく研ぎ澄まされたものになっていった。冬が到来したのだ。
 
 自分の子宮の中で育っているのが天吾の子供かもしれないという思いは、日を追ってますます強いものになり、やがてはひとつの事実として機能するようになる。第三者を説得できるだけの論理性はそこにはまだない。でも自分自身に向かってなら明瞭に説明できる。それはわかりきった話なのだ。
 [#ゴシック体]もし私が性行為抜きで妊娠したのなら、その相手が天吾以外のいったい誰であり得るだろう?[#ゴシック体終わり]
 十一月になってから体重が増えた。外にこそ出なかったが、彼女は毎日十分な量の運動を続けていたし、食事も厳しく制限していた。二十歳を過ぎてから体重が五十二キロを超えることはなかった。しかしある日体重計の針は五十四キロを差し、以来それを下回ることはなくなった。顔がいくらか丸くなったような気がする。きっと[#傍点]この小さなもの[#傍点終わり]は太り始めることを母体に要求しているのだ。
 彼女はその[#傍点]小さなもの[#傍点終わり]と共に夜の児童公園の監視を続ける。一人で滑り台にのぼる若い男の大柄なシルエットを求め続ける。青豆は空に二つ並んだ初冬の月を見つめながら、毛布の上から下腹部をそっと撫でる。ときどきわけもなく涙が溢れこぼれた。気がつくと涙は頬をつたい、腰に掛けた毛布の上に落ちていた。孤独のせいかもしれないし、不安のせいかもしれない。妊娠しているせいで心が感じやすくなっているのかもしれない。あるいはただ冷たい風が涙腺を刺激し、涙を流させるのかもしれない。いずれにせよ青豆は涙を拭うことなく、流れるままにしておく。
 あるところまで泣いてしまうと涙は尽きる。そして彼女は孤独な見張りをそのまま続ける。いや、[#傍点]もうそれほど孤独じゃない[#傍点終わり]、と彼女は思う。私には[#傍点]この小さなもの[#傍点終わり]がいる。私たちは二人なのだ。私たちは二人でふたつの月を見上げ、天吾がここに姿を見せるのを待っている。彼女はときどき双眼鏡を手に取り、無人の滑り台に焦点をあわせる。ときどき自動拳銃を手に取り、その重さと感触を確かめる。自分を護り、天吾を探し求め、[#傍点]この小さなもの[#傍点終わり]に養分を送る。それが今の私に与えられた責務だ。
 
 あるとき冷たい風に吹かれて公園を監視しながら、青豆は自分が神を信じていることに気づく。唐突にその事実を[#傍点]発見する[#傍点終わり]。まるで足の裏が柔らかな泥の底に固い地盤を見出すように。それは不可解な感覚であり、予想もしなかった認識だ。彼女は物心ついて以来、神なるものを憎み続けてきた。より正確に表現すれば、神と自分とのあいだに介在する人々やシステムを拒絶してきた。長い歳月、そのような人々やシステムは彼女にとって神とおおむね同義だった。[#傍点]彼ら[#傍点終わり]を憎むことはそのまま神を憎むことでもあった。
 生まれ落ちたときから、[#傍点]彼ら[#傍点終わり]は青豆のまわりにいた。神の名の下に彼女を支配し、彼女に命令し、彼女を追い詰めた。神の名の下にすべての時間と自由を彼女から奪い、その心に重い枷をはめた。彼らは神の優しさを説いたが、それに倍して神の怒りと非寛容を説いた。青豆は十一歳のときに意を決して、ようやくそんな世界から抜け出すことができた。しかしそのために多くのものごとを犠牲にしなくてはならなかった。
 もし神なんてものがこの世界に存在しなければ、私の人生はもっと明るい光に満ちて、もっと自然で豊かなものであったに違いない。青豆はよくそう思った。絶え間のない怒りや怯えに心を苛まれることなく、ごく当たり前の子供として数多くの美しい思い出をつくることができたはずだ。そして今ある私の人生は、今あるよりずっと前向きで心安らかで、充実したものになっていただろう。
 それでも青豆は下腹に手のひらをあて、プラスチック板の隙間から無人の公園を眺めながら、心のいちばん底の部分で自分が神を信じていることに思い当たらないわけにはいかない。機械的にお祈りの文句を口にするとき、両手の指をひとつに組み合わせるとき、彼女は意識の枠の外で神を信じていた。それは骨の髄に染み込んだ感覚であり、論理や感情では追い払えないものだ。憎しみや怒りによっても消し去れないものだ。
 でもそれは[#傍点]彼ら[#傍点終わり]の神様ではない。[#傍点]私の[#傍点終わり]神様だ。それは私が自らの人生を犠牲にし、肉を切られ皮膚を剥かれ、血を吸われ爪をはがされ、時間と希望と思い出を簒奪《さんだつ》され、その結果身につけたものだ。姿かたちを持った神ではない。白い服も着ていないし、長い髭もはやしていない。その神は教義も持たず、教典も持たず、規範も持たない。報償もなければ処罰もない。何も与えず何も奪わない。昇るべき天国もなければ、落ちるべき地獄もない。熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる。
「さきがけ」のリーダーがその死の直前に口にした言葉を、青豆は折に触れて思い出す。その太いバリトンの声を彼女は忘れることができない。彼の首の後ろに刺し込んだ針の感触が忘れられないのと同じように。
 
[#ここから1字下げ]
 光があるところには影がなくてはならず、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。リトル・ピープルが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。
[#ここで字下げ終わり]
 
 神とリトル・ピープルは対立する存在なのか。それともひとつのものごとの違った側面なのか?
 青豆にはわからない。彼女にわかるのは、自分の中にいる[#傍点]小さなもの[#傍点終わり]がなんとしても護られなくてはならないということであり、そのためにはどこかで神を信じる必要があるということだ。あるいは自分が神を信じているという事実を認める必要があるということだ。
 青豆は神について思いを巡らせる。神はかたちを持たず、同時にどんなかたちをもとることができる。彼女が抱くイメージは流線型のメルセデス・ベンツ・クーペだ。ディーラーから運ばれてきたばかりの新車。そこから降りてくる中年の上品な婦人。首都高速道路の上で、彼女は着ていた美しいスプリング・コートを裸の青豆に差し出す。冷ややかな風や人々の無遠慮な視線から彼女を護ってくれる。そして何も言わずその銀色のクーペに戻っていく。彼女は知っている。青豆が胎児を宿していることを。彼女が護られなくてはならないことを。
 
 彼女は新しい夢を見るようになる。夢の中で彼女は白い部屋に監禁されている。立方体のかたちをした小さな部屋だ。窓はなく、ドアがひとつついているだけだ。飾りのない簡素なベッドがあり、そこに仰向けに寝かされている。ベッドの上に吊された照明が、山のように膨らんだ彼女の腹を照らしている。自分の身体のようには見えない。でもそれは間違いなく青豆の肉体の一部だ。出産の時期が近づいている。
 部屋は坊主頭とポニーテイルによって警護されている。その二人組はもう二度と失敗は犯すまいと心を決めている。彼らは一度失敗した。その失地を挽回しなくてはならない。二人に与えられた役目は青豆をその部屋から出さず、誰ひとりその部屋に入れないことだ。彼らは[#傍点]その小さなもの[#傍点終わり]が誕生するのを待ち受けている。生まれたらすぐにそれを青豆から取り上げるつもりらしい。
 青豆は叫び声を上げようとする。必死に助けを呼ぼうとする。しかしそれは特殊な素材で作られた部屋だ。壁や床や天井がすべての音を瞬時に吸い取ってしまう。彼女自身の耳にさえその叫びは届かない。青豆はあのメルセデス・クーペに乗った婦人がやってきて、自分を助けてくれることを求める。自分と[#傍点]その小さなもの[#傍点終わり]を。しかし彼女の声は白い部屋の壁に空しく吸い込まれてしまう。
 [#傍点]その小さなもの[#傍点終わり]はへその緒から滋養を吸い、刻一刻大きさを増していく。生ぬるい暗闇からの脱却を求め、彼女の子宮の壁を蹴っている。それは光と自由を欲している。
 ドアの脇には長身のポニーテイルが座っている。両手を膝の上に置き、空間の一点を見つめている。そこには小さな堅い雲が浮かんでいるのかもしれない。ベッドの脇には坊主頭が立っている。二人は前と同じダークスーツを着ている。坊主頭はときどき腕を上げて時計に目をやる。大事な列車が到着するのを駅で待っている人のように。
 青豆は手足を動かすことができない。紐で縛りつけられているというのでもなさそうだが、それでもどうしても手足が動かせない。指先に感覚がない。陣痛の予感がある。それは宿命的な列車のように予定の時刻を違えることなく駅に近づいてくる。彼女はレールの微かな震えを聴き取る。
 そこで目が覚める。
 彼女はシャワーを浴びていやな汗を流し、新しい服に着替える。汗で湿った服を洗濯機に放り込む。彼女はもちろんそんな夢を見たくはない。しかし夢は否応なく彼女を訪れる。進行の細部は少しずつ異なっている。しかし場所と結末は常に同じだ。立方体のような白い部屋。迫り来る陣痛。無個性なダークスーツを着た二人組。
 青豆が[#傍点]小さなもの[#傍点終わり]を宿していることを彼らは知っている。あるいはやがて知ることになる。青豆には覚悟ができている。もしそうする必要があるなら、ポニーテイルと坊主頭に迷うことなくありったけの九ミリ弾を撃ち込む。彼女を護る神は、あるときには血濡れた神なのだ。
 
 ドアにノックの音がする。青豆は台所のスツールに腰掛け、右手には安全装置を外した自動拳銃が握られている。外では朝から冷たい雨が降っている。冬の雨の匂いが世界を包んでいる。
「高井さん、こんにちは」、ドアの外にいる男はノックをやめて言う。「毎度お馴染みのNHKのものです。ご迷惑でしょうが、またまたこうして集金にうかがいました。高井さん、あなたはそこにおられますね」
 青豆は声には出さずドアに向かって語りかける。私たちはNHKに電話で問い合わせたのよ。あなたはNHKの集金人を騙っている[#傍点]誰か[#傍点終わり]に過ぎない。あなたはいったい誰なの。そして何をここに求めているの?
「人は受け取ったものの代価を払わなくちゃなりません。それが社会の決まり事です。あなたは電波を受け取りました。ですからその料金を支払う。もらうだけもらって何も差し出さないというのは公正ではない。泥棒と同じです」
 彼の声は廊下に大きく響いている。しゃがれてはいてもよく通る声だ。
「わたくしは何も個人的な感情で動いているのではありません。あなたのことを憎んでいるとか、懲らしめてやろうとか、そういうことでは毛頭ありません。ただ公正ではないことに生来我慢がならんのです。人は受け取ったものの代価を支払わなくてはなりません。高井さん、あなたがドアを開けない限り、わたくしは何度でもやってきてノックします。そんなことはあなただって望まぬはずですよ。わたくしだってなにも話のわからん[#傍点]じじい[#傍点終わり]じゃありません。話し合えばきっと妥協点が見いだせるはずです。高井さん、ひとつ気持ちよくこのドアを開けてくれませんか」
 ノックの音がまたひとしきり続く。
 青豆は両手で自動拳銃を握り締める。この男は私が受胎していることをおそらく知っている。彼女は脇の下と鼻の頭にうっすらと汗をかいている。何があってもドアは開けない。もし相手が合い鍵を使って、あるいはほかの道具や手段を使ってそのドアを無理に開けようとすれば、NHKの集金人であろうとなかろうと、弾倉にある弾丸のすべてを腹に撃ち込んでやる。
 いや、そんなことは起こらないだろう。彼女にはそれがわかる。彼らにはこのドアを開けることはできない。彼女が内側から開けない限り、ドアは開かない仕組みになっている。だからこそ相手は苛立ち、饒舌になっているのだ。言葉を尽くして私の神経を参らせようとしている。
 十分後に男は去っていく。廊下に響く大声で彼女を脅し嘲けり、狡猾に懐柔し、また激しく罵倒し、再びその戸口を訪れることを予告してから。
「逃げおおすことはできませんよ、高井さん。あなたが電波を受け取っている限り、わたくしは必ずやここに戻ってきます。そうそう簡単にはあきらめない男です。それがわたくしの性格です。それではまた近々お会いしましょう」
 男の足音は聞こえない。しかし彼はもうドアの前にはいない。青豆はドアののぞき穴からそれを確認する。拳銃の安全装置をセットし、洗面所に行って顔を洗う。シャツの脇の下が汗でぐっしょり濡れている。シャツを新しいものに取り替えるとき、裸になって鏡の前に立ってみる。おなかの膨らみはまだ人目につくほどではない。しかしその奥には大事な秘密が隠されている。
 
 老婦人と電話で話をする。その日、タマルはいくつかの案件について青豆と語り合ったあと、何も言わず受話器を老婦人に手渡す。会話は可能な限り直接的な言及を迂回し、漠然とした言葉を用いておこなわれる。少なくとも最初のうちは。
「あなたのための新しい場所は既に確保してあります」と老婦人は言う。「あなたはそこで[#傍点]予定されている作業[#傍点終わり]をおこなうことになります。安全なところですし、定期的に専門家のチェックも受けられます。あなたさえよければ、すぐにでもそちらに移ることができます」
 彼女の[#傍点]小さいもの[#傍点終わり]を狙っている人々のことを、老婦人に打ち明けるべきだろうか? 「さきがけ」の連中が夢の中で彼女の子供を手に入れようとしていることを。偽のNHK集金人が手を尽くしてこの部屋のドアを開けさせようとしているのも、おそらくは同じ目的のためだということを。しかし青豆は思いとどまる。青豆は老婦人を信頼している。敬愛もしている。しかし問題はそういうことではない。[#傍点]どちら側の世界に住んでいるか[#傍点終わり]、それが目下の要点になる。
「ここのところ体調はいかがですか?」と老婦人は尋ねる。
 今のところすべては問題なく進行していると青豆は答える。
「それは何よりです」と老婦人は言う。「ただ、あなたの声はいつもと少し違っているようです。気のせいかもしれませんが、いくらか堅く警戒的に聞こえます。もし何か気にかかることがあれば、どんな些細なことでも遠慮なく言ってください。私たちにできることがあるかもしれません」
 青豆は声のトーンに留意しながら答える。「ひとつの場所に長くいるせいで、たぶん知らないうちに神経が張り詰めているのでしょう。体調の管理には気を配っています。なんといってもそれが私の専門ですから」
「もちろんです」と老婦人は言う。そしてまた少し間をおく。「少し前ですが、うちのまわりを不審な人物が数日にわたって行き来していました。主にセーフハウスの様子をうかがっていたようです。そこにいる三人の女性たちに監視カメラの映像を見てもらいましたが、誰もその男には見覚えはないということです。あなたの行方を追っている人間かもしれません」
 青豆は小さく顔をしかめる。「私たちの繋がりが明らかになったということですか?」
「そこまではわかりません。そういう可能性も[#傍点]考えられなくはない[#傍点終わり]というあたりです。この男はかなり奇妙な外見です。頭はとても大きく、いびつなかたちをしています。てっぺんが扁平でほとんど禿げて、背が低く手脚が短く、ずんぐりしています。そういう人物に覚えはありますか?」
 いびつな禿頭? 「私はこの部屋のベランダから、前の道路を行き来する人をよく観察しています。でもそういう人物を目にしたことはありません。人目を惹く外見なのですね」
「ずいぶん。まるでサーカスに出てくる派手な道化師みたいに。もしその人物が[#傍点]彼ら[#傍点終わり]に選ばれて送り込まれ、うちの様子をうかがっているのだとしたら、それは不思議な人選と言わなくてはなりません」
 青豆はそれに同意する。「さきがけ」はわざわざそんな目立つ外見の人間を選んで偵察に向けたりはしないだろう。そこまで人材に不足してはいないはずだ。裏返せばその男はおそらく教団とは無関係で、青豆と老婦人との関係はまだ彼らに知られてはいないということになる。しかしそれではその男はいったい何もので、どのような目的でセーフハウスの様子を探っているのだろう? ひょっとしてNHKの集金人を騙って戸口を執拗に訪れる男と同一人物ではあるまいか。もちろん両者を結びつける根拠はない。その偽集金人のエキセントリックな言動が、描写された男の異様な外見に結びつくだけだ。
「そういう男を見かけたら連絡を下さい。手を打つ必要があるかもしれません」
 もちろんすぐに連絡すると青豆は答える。
 老婦人は再び沈黙する。それはどちらかというと珍しいことだ。電話で話すときの彼女は常に実務的で、厳しいまでに時間を無駄にしない。
「お元気にしておられますか?」と青豆はさりげなく尋ねる。
「いつもと同じ、格別悪いところはありません」と老婦人は言う。しかしその声にはためらいの響きが微かに聞き取れる。それもまた珍しいことだ。
 青豆は相手が話を続けるのを待つ。
 老婦人はやがてあきらめたように言う。「ただここのところ、自分が年老いたと感じることが多いのです。とくにあなたがいなくなってからは」
 青豆は明るい声を出す。「私はいなくなっていません。ここにいます」
「もちろんそのとおりです。あなたはそこにいるし、こうしてたまに話をすることもできる。しかしあなたと定期的に顔を合わせ、二人で一緒に身体を動かすことによって、私はあなたから活力をもらっていたのかもしれません」
「あなたはもともと自然な活力をお持ちです。私はその力を順序よく引き出し、アシストしていただけです。私がいなくても、ご自分の力でじゅうぶんにやっていけるはずです」
「実を言えば、私も少し前までそう考えていました」、小さく笑って老婦人はそう言う。どちらかといえば潤いを欠いた笑いだ。「私は特別な人間なのだと自負してもいました。しかし歳月はすべての人間から少しずつ命を奪っていきます。人は時期が来て死ぬのではありません。内側から徐々に死んでいき、やがて最終的な決済の期日を迎えるのです。誰もそこから逃れることはできません。人は受け取ったものの代価を支払わなくてはなりません。私は今になってその真実を学んでいるだけです」
 [#傍点]人は受け取ったものの代価を支払わなくてはなりません[#傍点終わり]。青豆は顔をしかめる。あのNHKの集金人が口にしたのと同じ台詞だ。
「あの九月の大雨の夜、大きな雷が次々に鳴った夜、私はそのことにはっと思い当たりました」と老婦人は言う。「私はこの家の居間に一人でいて、あなたのことを案じながら、雷光が走るのを眺めていました。そしてそのときに雷光にありありと照らし出された真実を私は目の前にしたのです。その夜に私はあなたという存在を失い、それと同時に私の中にあったものごとを失ってしまったのです。あるいはいくつかのものごとの積みかさねを。それまで私の存在の中心にあり、私という人間を強く支えていた何かそういうものを」
 青豆は思い切って質問する。「ひょっとしてそこには怒りも含まれているのでしょうか?」
 干上がった湖の底のような沈黙がある。それから老婦人は口を開く。「そのとき私の失ったいくつかのものごとの中に、私の怒りも含まれているのか。あなたの尋ねているのはそういうことかしら」
「そうです」
 老婦人はゆっくりと息をつく。「質問に対する答えはイエスです。そのとおり。私の中にあった激しい怒りもなぜか、あのおびただしい落雷のさなかに失われてしまったようです。少なくとも遥か遠くに後退しました。私の中に今残っているのは、かつての燃えさかる怒りではありません。それは淡い色合いの悲哀のようなものに姿を変えています。あれほどの怒りが熱を失うことなんて永遠にあるまいと思えたのに……。でもあなたにどうしてそれがわかるのかしら?」
 青豆は言う、「ちょうど同じことが私の身にも起こったからです。あのたくさんの雷が落ちた夜に」
「あなたはあなた自身の怒りについて語っているのですね?」
「そうです。私の中にあった純粋な激しい怒りは今はもう見当たりません。すっかり消え去ったというわけではありませんが、おっしゃるようにずっと遠くまで後退したようです。その怒りは長い歳月、私の心の中の大きな場所を占め、私を強く駆り立てていたものだったのですが」
「休むことを知らない無慈悲な御者のように」と老婦人は言う。「でもそれは今では力を失い、あなたは妊娠している。[#傍点]そのかわりに[#傍点終わり]と言うべきなのかしら」
 青豆は呼吸を整える。「そうです。そのかわりに私の中には[#傍点]小さなもの[#傍点終わり]がいます。それは怒りとは関わりを持たないものです」。そしてそれは私の中で日々大きさを増している。
「あえて言うまでもないことですが、あなたはそれを大事に護らなくてはなりません」と老婦人は言う。「そのためにも一刻も早く不安のない場所に移動することが必要です」
「おっしゃるとおりです。でもその前に私にはどうしてもやり終えなくてはならないことがあります」
 
 電話を切ったあと青豆はベランダに出て、プラスチック板のあいだから午後の通りを眺め、児童公園を眺める。夕暮れが迫っている。1Q84年が終わる前に、彼らが私を見つける前に、私は何があっても天吾を見つけ出さなくてはならない。

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