第18章 天吾
針で刺したら赤い血が出てくるところ
「それから三日間、何ごとも起こらなかった」と小松は言った。「俺は出された食事を食べ、夜が来たら狭いベッドで眠り、朝が来たら目覚め、部屋の奥についている小さな便所で用を足した。便所にはいちおう目隠しの扉がついていたが、鍵はかからなかった。まだ残暑の厳しい頃だったが、送風口が空調につながっているらしく、暑いと感じたことはなかった」
天吾は何も言わず、小松の話を聞いていた。
「食事は一日に三度運ばれてきた。何時かはわからない。腕時計は取り上げられていたし、部屋には窓がなかったから、昼と夜との違いもわからない。耳を澄ませても物音ひとつ聞こえない。こちらの物音もたぶんどこにも届かないんだろう。どういうところに連れてこられたのか見当もつかない。ただ人里離れたところにいるんじゃないかという漠然とした感覚があった。とにかく俺はそこに三日いて、そのあいだ何ごとも起こらなかった。三日というのももうひとつ確かじゃない。食事が九食分運ばれてきて、それを順番に食べたということだよ。三回部屋の明かりが消され、三回眠った。俺はもともと眠りが浅くて不規則な方なんだが、そのときはなぜか苦もなく熟睡できた。考えてみれば変な話だけど、まあそこまではわかるな?」
天吾は黙って肯いた。
「その三日間、俺はただのひとことも口をきかなかった。食事を運んでくるのは若い男だった。痩せていて、野球帽をかぶり、白いマスクをかけていた。体操用のジャージの上下みたいなものを着て、汚いスニーカーをはいていた。その男がトレイに載せた食事を持ってきて、食べ終えた頃にそれを下げに来た。紙の使い捨ての食器に、へなへなしたプラスチックのナイフとフォークとスプーンだった。出てきたのはありきたりのレトルト食品で、うまいというものじゃないが、食べられないほどまずくはない。量は多くない。腹が減っていたから、全部残さずに食べたよ。これも不思議なことだ。普段はあまり食欲がなくて、下手をすると食事を取るのを忘れるくらいだからね。飲み物は牛乳とミネラル・ウォーターだった。コーヒーも紅茶も出してもらえなかった。シングル・モルトも生ビールもなかった。煙草も駄目だった。まあしょうがない。リゾートホテルに静養に来たわけじゃないからな」
小松はそこで思い出したようにマルボロの赤い箱を取りだし、一本を口にくわえ、紙マッチで火をつけた。煙をゆっくり肺の奥まで吸い込み、吐き出し、それから顔をしかめた。
「食事を運んできたその男は終始無言をとおした。おそらく口をきくことを上から禁止されていたのだろう。その男が雑用係にあてられた下っ端であることは間違いない。しかしおそらく何か武術に通じていたのだろう。身のこなしにそういう怠りのない気配があった」
「小松さんの方からもとくに質問はしなかった?」
「ああ、どうせ話しかけても返事がかえってこないだろうことはわかっていたからな。黙ってなされるがままにしていた。運ばれてきた食事を食べ、牛乳を飲み、消灯されるとベッドで眠り、部屋の明かりがつくと目覚めた。朝になるとその若い男がやってきて、電気カミソリと歯ブラシを置いていった。それで髭を剃り歯を磨いた。使い終わると取り上げられた。トイレット・ペーパー以外に部屋の備品と呼べるものは何ひとつなかった。シャワーには入れてもらえなかったし、着替えもできなかったが、シャワーに入りたいとも、着替えをしたいとも思わなかった。部屋には鏡はなかったが、これもとくに不便はなかった。なによりつらかったのは退屈さだ。なにしろ目が覚めてから眠りに就くまで、サイコロみたいに真四角な真っ白けの部屋の中で、一人きりで口もきかずに過ごすわけだから、そりゃ退屈でしかたない。俺はルームサービスのメニューでも何でもいいから、とにかく活字がそばにないと落ち着けないという、活字中毒の人間だからな。ところが本もなければ、新聞もない、雑誌もない。テレビもラジオもなければ、ゲームもない。話し相手もいない。椅子に座って床やら壁やら天井やらをじっと睨んでいるしかやることがないんだ。それはずいぶん変てこな気分だったよ。だってそうだろう、道を歩いていたら、わけのわからない奴らにとっつかまってクロロフォルムみたいなものをかがされ、そのままどこかに連れてこられて、窓のないけったいな部屋に監禁されているんだ。どう考えても異様な状況じゃないか。なのに頭がおかしくなりそうなくらい退屈なんだもんな」
小松は指の間で煙をあげる煙草をしばらく感慨深げに見つめ、それから灰皿に灰を落とした。
「たぶん俺の神経をおかしくするために、三日間何もせずに、その狭い部屋の中に放ったらかしにしておいたんじゃないかな。そのへんはよく練られている。どうすれば人の神経がやわになるか、気持ちが参ってしまうか、ノウハウを心得ている。四日目に——つまり四回目の朝食のあとにということだが——二人組の男がやってきた。こいつらが俺を誘拐した二人組だろうと俺は思った。襲われたときは急なことだし、俺も何がなんだかわからなかったから、相手の顔まではよく見なかった。でもその二人を見ていると、そのときのことが少しずつ思い出されてきた。車の中に引きずり込まれて、ちぎれるんじゃないかと思うくらい強く腕をねじり上げられて、薬品を浸ませた布を鼻と口にあてられた。そのあいだ二人は終始無言だった。あっという間の出来事だった」
小松はそのときのことを思い出して顔を軽くしかめた。
「一人は背があまり高くなく、がっしりとした体格で頭を丸刈りにしていた。よく日焼けして頬骨が張っていた。もう一人は背が高く、手脚が長く、頬がそげて、髪を後ろで束ねていた。並べて見るとまるで漫才のコンビみたいだったね。ひょろっと細長いのと、ずんぐりして顎鬚《あごひげ》をのばしているのと。でも一見して、かなり危ないやつらだと想像がついた。必要とあらば躊躇なく何だってやるタイプだ。しかしこれ見よがしなところはない。物腰そのものは穏やかだ。だから余計におっかないんだ。目がひどく冷たい印象を与えた。どちらも黒い綿のズボンに白い半袖のシャツというかっこうだった。二人ともたぶん二十代半ばから後半、坊主頭の方が少し年上に見えた。どちらも腕時計をつけていなかった」
天吾は黙って話の続きを待った。
「話をしたのは坊主頭だった。痩せたポニーテイルの方はひとこともしゃべらず、身動きひとつせず、背筋をまっすぐのばしてドアの前に立っていた。坊主頭と俺との間で交わされる会話に耳を澄ませているようだったが、あるいは何も聴いていなかったのかもしれない。坊主頭は持参したパイプ椅子に座り、俺と向き合って話をした。椅子はほかになかったから、俺はベッドに腰掛けていた。とにかく表情のない男だった。もちろん口を動かしてしゃべるんだが、顔の残りの部分はみごとに動かない。まるで腹話術で使う人形みたいに」
坊主頭が最初に小松に向かって口にしたのは、「なぜここに連れてこられたか、我々が誰か、ここがどこか、おおよその推測はつくか」という質問だった。推測はつかないと小松は答えた。坊主頭は奥行きを欠いた目でしばらく小松の顔を見ていた。それから「しかしどうしても推測しろと言われたら、あなたはどんな推測をするでしょう」と尋ねた。言葉遣いこそ丁寧だが、そこには有無を言わせぬ響きがあった。その声は冷蔵庫に長いあいだ入れっ放しにしておいた金属製のものさしのようにどこまでも硬く冷ややかだった。
小松は少し迷ってから、どうしても推測しろと言われるなら、それは『空気さなぎ』の一件についてではないかと思うと正直に言った。ほかに思い当たることは何もないから。となると、あなたがたは「さきがけ」の関係者で、ここは教団の敷地内だということになるのかもしれない。もとより仮説の域を出ないけれど。
坊主頭は小松の言ったことを肯定もしなければ、否定もしなかった。何も言わず小松の顔を見つめていた。小松も黙っていた。
「それではその仮説に基づいて話をしましょう」、坊主頭は静かにそう切り出した。「我々がこれからお話しすることは、あくまであなたのその仮説の延長線上にあるものです。もし仮にそういうことであれば——という条件つきです。よろしいですね」
「けっこうです」と小松は言った。彼らはできるだけ遠まわしに話を進めようとしている。悪くない徴候だ。生きて返さないつもりなら、そんな面倒な手順を踏む必要はない。
「あなたは出版社に勤務する編集者として、深田絵里子の小説『空気さなぎ』を担当し出版した。そのとおりですね」
そのとおりだと小松は認めた。それは周知の事実だ。
「我々の理解するところによれば、『空気さなぎ』が文芸誌の新人賞を受賞するにあたってある種の不正行為がなされた。その応募原稿は選考会に回される前に、あなたの指示のもとに、第三者の手を借りて大幅に改稿された。ひそかに書き直されたその作品は新人賞を受賞し、世間の話題になり、単行本として出版されてベストセラーになった。間違いありませんね」
「それは考え方によります」と小松は言った。「応募原稿が編集者のアドバイスを受けて書き直されることはないことではないし——」
坊主頭は手のひらを前に上げ、小松の発言を遮った。「編集者の忠告に従って筆者が原稿に手を加えるのは不正とは言えない。そのとおりです。しかし賞を取るために第三者が間に入って文章を書き直すのは、どう考えても信義にもとる行為です。おまけにペーパー・カンパニーを使って本の印税の分配まで行われている。法律的にどのように解釈されるかはわからないが、少なくとも社会的、道義的にはあなた方は厳しく糾弾されるでしょう。弁解の余地はない。新聞や雑誌は騒ぎ立てるし、あなたの会社は信用を大きく失墜するでしょう。小松さん、それくらいはよくおわかりのはずです。我々は事実を細かいところまで掴んでいるし、具体的な証拠を添えて世間に明らかにすることもできます。だからつまらない言い逃れはやめた方がいい。そんなことは我々には通用しない。お互いに時間の無駄です」
小松は黙って肯いた。
「もしそうなったら、あなたはもちろん会社を辞めなくてはならないし、それだけではなく、この業界から放逐されます。あなたが潜り込める余地はどこにもなくなります。少なくとも表向きには」
「おそらく」と小松は認めた。
「しかし今のところ、この事実を知っている人間の数は限られています」と坊主頭は言った。
「あなたと深田絵里子と戎野さんと、改稿を担当した川奈天吾さん。そのほかには数人だけです」
小松は言葉を選んで言った。「仮説に沿って言えば、あなたの言う『数人』とは教団『さきがけ』の人々ということになりますね」
坊主頭はほんの少し肯いた。「仮説に沿えばそうなるでしょう。事実がどうであれ」
坊主頭は間をとって、その前提が小松の頭に浸み込むのを待った。それから再び話を続けた。
「そしてもしその仮説が正しければ、彼らはあなたをここでどのようにも取り扱えるはずです。あなたを賓客《ひんきゃく》として好きなだけいつまでもこの部屋に留め置くこともできます。大した手間ではありません。あるいは時間をもっと切り詰めたければ、それ以外の選択肢もいくつか考えられるでしょう。その中には、お互いにとってあまり愉快とは言いがたい選択肢も含まれていることでしょう。いずれにせよ彼らはそれだけの力と手段を持っています。そこまではおおむね理解していただけますね」
「理解できていると思います」と小松は答えた。
「けっこうです」と坊主頭は言った。
坊主頭が黙って指を一本上げると、ポニーテイルが部屋を出ていった。しばらくあとで電話機を持って戻ってきた。そのコードを床の差し込み口に接続し、受話器を小松に差し出した。坊主頭は小松に、会社に電話をするようにと言った。
「ひどい風邪をひいたらしく、高熱がつづいてこの数日寝込んでいた。もうしばらくは出勤できそうにない。それだけ伝えたら電話を切ってください」
小松は同僚を呼び出し、伝えるべきことを簡単に伝え、相手の質問には答えずに電話を切った。坊主頭が肯くと、ポニーテイルが床のコードを抜き、電話機を持って部屋を出て行った。坊主頭は自分の両手の甲を点検するようにひとしきり眺めていた。それから小松に向かって言った。彼の声には今では、微かではあるが親切心のようなものさえうかがえた。
「今日はここまでです」と坊主頭は言った。「続きはまた日を改めてお話しします。それまでのあいだ、今日お話ししたことについてよく考えておいて下さい」
そして二人は出ていった。それから十日間を、小松はその狭い部屋の中で無言のうちに過ごした。一日に三度、いつものマスクをした若い男が、例によってうまくもない食事を運んできた。四日目からは、パジャマの上下のような木綿の服が着替えとして与えられたが、シャワーは最後まで浴びさせてはもらえなかった。便所についた小さな洗面台で顔を洗うくらいのことしかできなかった。そして日にちの感覚はますます不確かになっていった。
たぶん山梨にある教団の本部に連れてこられたのだろうと小松は想像した。彼はテレビのニュースでそれを目にしたことがあった。深い山の中にある、高い塀で囲われた治外法権のような場所だ。逃げ出すことも、助けを求めることもまず不可能だ。たとえ殺されても(それがおそらくは「お互いにとってあまり愉快とは言いがたい選択肢」という発言の意味なのだろう)、死体は発見されないままに終わるはずだ。小松にとって、そこまで死が現実性を持って近接してきたのは、生まれて初めてのことだった。
会社に電話を入れさせられてから十日目に(おそらく十日、しかし確信はない)、ようやく例の二人組が姿を見せた。坊主頭はこの前会ったときよりいくぶん痩せたらしく、そのせいで頬骨が余計に目立った。どこまでも冷ややかだった目は、今では血走って見えた。彼は前と同じように持参したパイプ椅子に腰を下ろし、テーブルをはさんで小松と向かいあった。長いあいだ坊主頭は口をきかなかった。その赤い目でただまっすぐ小松を眺めていた。
ポニーテイルの外見には変わりはなかった。彼は前と同じように背筋を伸ばしてドアの前に立ち、表情を欠いた目で空中の架空の一点をじっと見つめていた。二人ともやはり黒いズボンに白いシャツを着ていた。おそらくそれが制服のようなものなのだろう。
「この前の話の続きをしましょう」とようやく坊主頭が口を開いた。「我々はあなたをここでどのようにも取り扱えるはずだという話でしたね」
小松は肯いた。「その中には、お互いにとってあまり愉快とは言いがたい選択肢も含まれている」
「さすがに記憶力がいい」と坊主頭は言った。「そのとおりです。愉快ではない結末もいちおう視野に入ってくる」
小松は黙っていた。坊主頭は続けた。
「しかしそれはあくまで[#傍点]論理的には[#傍点終わり]という話です。現実的には[#傍点]彼ら[#傍点終わり]としても、できることならあまり極端な選択肢は選びたくない。もし小松さんが今ここで忽然と姿を消してしまったりしたら、また面倒な事態が生じかねません。深田絵里子が消えてしまったときと同じようにね。あなたがいなくなって淋しがる人はさほど多くないかもしれないが、編集者としての腕は評価されているし、業界内ではなかなか目立つ人のようだ。そしてまた別れた奥さんだって、月々の手当が滞れば文句のひとつも言いたくなるでしょう。それは[#傍点]彼ら[#傍点終わり]にとってあまり好ましい展開とは言えません」
小松は乾いた咳払いをし、唾を飲み込んだ。
「そして彼らとしてもあなた個人を非難しているわけではなく、また処罰しようとしているわけでもない。小説『空気さなぎ』を出版するにあたって、特定の宗教団体を攻撃する意図がそちらになかったことはわかっています。最初のうちは『空気さなぎ』とその教団の関係さえ知らなかった。あなたはもともと遊び心と功名心からこの詐欺計画を立てた。途中から少なからぬ額の金もからんできた。一介のサラリーマンにとって離婚の慰謝料と子供の養育費を払い続けるのは大変ですからね。そしてあなたは川奈天吾という、これもまた何も事情を知らない小説家志望の予備校講師を計画に引き込んだ。計画自体はひねりのきいた楽しげなものだったが、選んだ作品と相手が悪かった。そして当初予定していたより話が大きくなり過ぎた。あなた方は最前線に迷い込んで、地雷原に足を踏み入れてしまった民間人のようなものです。前にも進めないし後ろにも下がれない。そうじゃありませんか、小松さん?」
「そういうところでしょうか」と小松は曖昧に答えた。
「あなたにはまだいろんなことがよくわかっていないようだ」、坊主頭は小松を見る目を微妙に細めた。「もしわかっていれば、そんな他人事のような言い方はできないはずです。状況を明確にしましょう。あなたは[#傍点]実際に[#傍点終わり]地雷原の真ん中にいるんです」
小松は黙って肯いた。
坊主頭は一度目を閉じ、十秒ばかり間を置いてから目を開けた。「こういう状況に追い込まれて、あなた方も困っているだろうが、彼らの側としてもまた困った問題を抱え込むことになったのです」
小松は思いきって日を開いた。「ひとつ質問をしてもかまいませんか?」
「私に答えられることなら」
「『空気さなぎ』を出版することによって、結果的に我々はその宗教団体にいささか迷惑をかけることになった。そういうことですね?」
「[#傍点]いささか[#傍点終わり]の迷惑ではない」と坊主頭は言った。彼の顔が僅かに歪んだ。「声はもう彼らに向かって語りかけることをやめたのです。それが何を意味するか、あなたにはわかりますか?」
「わかりません」と小松は乾いた声で言った。
「けっこうです。私としてもそれ以上の具体的な説明はしかねるし、またあなたもそれを知らない方がいい。[#傍点]声はもう彼らに向かって語りかけることをやめてしまった[#傍点終わり]。今ここで私に言えるのはそれだけです」、坊主頭は少し間を置いた。「そしてその不幸な事態は、小説『空気さなぎ』が活字のかたちで発表されたことによって生じたものなのです」
小松は質問した。「深田絵里子と戎野先生は、『空気さなぎ』を世に出すことでそのような『不幸な事態』が生じることを予期していたのでしょうか?」
坊主頭は首を振った。「いや、戎野さんはそこまでは知らないはずだ。深田絵里子が何を意図したのかは不明です。しかしそれは意図的な行為ではなかっただろう、というのが推測です。もしそこに仮に意図があったとしても、それは彼女の意図ではなかったはずです」
「世間の人々は『空気さなぎ』を単なるファンタジー小説だと見なしています」と小松は言った。
「女子高校生が書いた罪のない幻想的な物語だと。実際のところ、物語が非現実的に過ぎるという批判も少なからず寄せられました。何かしらの大事な秘密が、あるいは具体的な情報がその中で暴露されているかもしれないなんて、誰も考えちゃいません」
「おっしゃるとおりでしょう」と坊主頭は言った。「世間のほとんどの人はそんなことにまったく気がつかない。しかしそういうことが問題になっているのではない。その秘密は[#傍点]どんな形であれ[#傍点終わり]公にされてはならないものだったのです」
ポニーテイルは相変わらずドアの前に立って正面の壁を睨み、その向こう側の、ほかの誰にも見ることのできない風景を眺望していた。
「[#傍点]彼ら[#傍点終わり]が求めているのは、声を取り戻すことです」と坊主頭は言葉を選んで言った。「水脈は枯渇したわけではありません。ただ目に見えないところに深く潜ってしまったのです。それをもう一度復活させるのはきわめて困難だが、できないことではない」
坊主頭は小松の目を深くのぞき込んだ。彼はそこにある何かの奥行きを測っているみたいに見えた。部屋のある空間に特定の家具が収まるかどうか目測している人のように。
「先刻も申し上げたように、あなた方は地雷原の真ん中に紛れ込んでしまった。前にも進めないし後ろにもさがれない。そこで[#傍点]彼ら[#傍点終わり]にできるのは、どうしたらその場所から無事に脱出できるか、その道筋をあなた方に教えることです。そうすればあなた方は命拾いできるし、彼らとしても厄介な闖入《ちんにゅう》者を穏やかなかたちで取り除ける」
坊主頭は脚を組んだ。
「どうか静かにお引き取り願いたいのです。あなた方が五体バラバラになろうが、どうなろうが、彼らの知ったことではない。しかし今ここで大きな音を立てられたら、厄介なことになります。ですから小松さん、あなた方に退路を教えます。後方の安全な場所まで導きます。その代価としてあなたに求めるのは、『空気さなぎ』の出版を打ち切ることです。これ以上の増刷はせず文庫化もしない。もちろん新たな宣伝はしない。深田絵里子とは今後いっさい関わり合いを持たない。どうです、それくらいはあなたの力でできるでしょう」
「簡単ではないが、たぶんやってできなくはないと思います」と小松は言った。
「小松さん、[#傍点]たぶん[#傍点終わり]というレベルの話をするために、あなたにここまでご足労願ったわけではありません」、坊主頭の目がいっそう赤く鋭くなった。「なにも出回っている本をすべて回収しろと言ってるわけじゃない。そんなことをしたらマスコミが騒ぎ出すでしょう。またあなたにそこまでの力がないこともわかっています。そうではなく、できるだけこっそりとことを収めていただきたい。既に起こってしまったことは仕方ない。いったん損なわれてしまったものは元通りにはならない。しばらくのあいだ可能な限り世間の耳目を惹かないでいること、それが[#傍点]彼ら[#傍点終わり]の望んでいることです。わかりますか?」
小松はわかったしるしに肯いた。
「小松さん、前にも申し上げたように、そちらにも世間に公表されては困るいくつかの事実がある。それが知れたら、当事者全員が社会的制裁を受けるでしょう。だからお互いの利益のために、休戦協定を結びたいのです。彼らはあなた方の責任をこれ以上追及しない。安全を保障する。そしてあなた方も小説『空気さなぎ』とはもう一切関わり合いにならない。悪い取り引きではないはずですよ」
小松はそれについて考えた。「いいでしょう。『空気さなぎ』の出版は、私が責任をもって実質的に打ち切る方向に持っていきます。少し時間はかかるかもしれませんが、それなりの方法はなんとか見つけられるでしょう。そして私個人について言えば、今回の一件をさっぱりと忘れることはできます。川奈天吾くんも同じでしょう。彼は最初からこの話には乗り気じゃなかった。私が無理に引きずり込んだようなものです。だいいち彼の仕事はもう既に終了している。深田絵里子さんについても問題ないはずだ。これ以上小説を書くつもりはないと彼女は言っている。ただし戎野先生がどう出るかは私にも予測がつきません。彼が最終的に求めているのは、友人である深田|保《たもつ》さんが無事で生きているのかどうか、今どこにいて何をしているのか、それを確認することです。私が何を言おうと、深田さんの消息を知るまでは追求をあきらめないかもしれません」
「深田保さんは亡くなりました」と坊主頭は言った。抑揚のない、静かな声だったが、そこにはひどく重いものが含まれていた。
「亡くなった?」と小松は言った。
「最近のことです」と坊主頭は言った。そして大きく息を吸い込み、それをゆっくりと吐いた。
「死因は心臓発作、一瞬のことで苦しみはなかったはずです。事情により死亡届は出されず、教団内部で内密に葬儀を執り行いました。宗教的な理由により遺体は教団の中で焼却され、骨は細かく砕かれて山に撒かれました。法的に言えば死体損壊にあたりますが、正式に立件するのはむずかしいでしょう。しかしこれは真実です。我々は人の生き死にに関することで嘘はつきません。戎野さんにはどうかそのようにお伝え下さい」
「自然死だった」
坊主頭は深く肯いた。「深田さんは我々にとってはまことに貴重な人物でした。いや、貴重というようなありきたりの言葉ではとても表現できない、巨大な存在でした。彼の死はまだ限られた数の人にしか伝えられていませんが、深く悼まれています。夫人は、つまり深田絵里子の母親にあたる方は、数年前に胃癌で死去されています。化学療法を拒否したまま、教団の中にある治療院で亡くなられました。ご主人である保氏が看取りました」
「しかしやはり死亡届は出されていない」と小松は尋ねた。
否定の言葉はなかった。
「そして深田保さんは最近なくなった」
「そのとおりです」と坊主頭は言った。
「それは小説『空気さなぎ』が刊行されたあとのことですか?」
坊主頭はいったんテーブルの上に視線を落とし、それから顔を上げてもう一度小松を見た。
「そうです。『空気さなぎ』が刊行されたあとに深田さんは亡くなりました」
「その二つの出来事のあいだに因果関係はあるのでしょうか?」、小松は思いきってそう質問した。
坊主頭はしばらく沈黙した。どう答えればいいのか考えをまとめているのだ。それから心を決めたように口を開いた。「いいでしょう。戎野氏を納得させるためにも、事実を明確にしておいた方がいいかもしれない。実を言えば、深田保さんこそが教団のリーダーであり〈声を聴くもの〉でした。娘の深田絵里子が『空気さなぎ』を発表し、声は彼に語りかけるのをやめ、そのとき深田さんは自らの存在を終息させたのです。それは自然死でした。より正確に言えば、彼は自らの存在を自然に終息させたのです」
「深田絵里子はリーダーの娘だった」と小松はつぶやくように言った。
坊主頭は短く簡潔に肯いた。
「そして深田絵里子が結果的に父親を死に追い込んだ」と小松は続けた。
坊主頭はもう一度肯いた。「そのとおりです」
「しかし教団は今でも存続している」
「教団は存続しています」と坊主頭は答え、氷河の奥に閉じこめられた古代の小石のような目でじっと小松を見つめた。「小松さん、『空気さなぎ』の出版は教団に少なからざる災害をもたらしました。しかし[#傍点]彼ら[#傍点終わり]はそのことであなた方を罰しようとは考えていません。今さら罰したところで得るところはないからです。[#傍点]彼ら[#傍点終わり]には達成すべき使命があり、そのためには静かな孤立が必要とされます」
「だからそれぞれにあとずさりして、今回の一件は忘れてしまおうと」
「簡単に言えば」
「それを伝えるために、あなた方はわざわざ私を誘拐しなくてはならなかった?」
坊主頭の顔に初めて表情に近いものが浮かんだ。おかしみと同情の中間あたりに位置する、ごく淡い感情がうかがえた。「このような手間をかけてあなたにお越しいただいたのは、[#傍点]彼ら[#傍点終わり]が真剣であることを伝えたかったからです。極端なことはしたくないが、その必要があるとなれば躊躇はしない。そのことを肌で感じていただきたかったのです。もしあなた方が約束を破れば、愉快とは言えない結果がもたらされるでしょう。そのことは理解していただけていますね?」
「理解しています」と小松は言った。
「小松さん、正直に申し上げて、あなた方は運が良かったのです。深い霧がかかっていたせいで、よく見えなかったかもしれませんが、実際には崖っぷちの、あとほんの数センチのところまで、あなた方は歩を進めていた。そのことはよくよく覚えておかれた方がいい。目下のところ[#傍点]彼ら[#傍点終わり]にはあなた方にかかわっているほどの余裕がないのです。彼らはもっと重要な問題を抱えている。そういう意味でもあなた方は幸運だった。だからまだその幸運が続いているうちに——」
彼はそう言って両手をくるりと裏返し、手のひらを上に向けた。雨が降っているのかどうか確かめる人のように。小松はそれに続く言葉を待った。しかし言葉はなかった。話し終えると、坊主頭の顔に急に疲弊の色が浮かんだ。彼はゆっくりとパイプ椅子から立ち上がり、椅子を畳んで小脇に抱え、後ろを振り返ることもなくその立方体の部屋から出ていった。重いドアが閉められ、鍵がかけられる乾いた音が響いた。あとには小松一人が残された。
「そのあとまた四日ばかり、俺はその真四角な部屋に閉じこめられていた。肝心の話はもう終わっていた。用件は伝えられ合意が成立した。なのにどうしてまだ監禁され続けなくてはならなかったのか、その理由はわからなかった。その二人組は二度と姿を見せなかったし、雑用係の若い男はやはりひとことも口をきかなかった。俺はまたまた変わり映えのしない食事を食べ、電気剃刀で髭を剃り、天井と壁を眺めて時間を過ごした。明かりが消されたら眠り、明かりがついたら目覚めた。そして坊主頭が口にしたことを頭の中で反芻した。そのとき実感したのは、[#傍点]俺たちは幸運だった[#傍点終わり]ということだった。坊主頭の言うとおりだ。こいつらには、やろうと思えばそれこそなんだってできるんだ。そうなろうと決意すればいくらでも冷酷になれる。そこに閉じこめられていると、ひしひしとそれが実感できたよ。おそらくそいつが目的で、話が終わったあとも四日間そこに留め置かれたんだろうな。芸が細かい」
小松はハイボールのグラスを手にとって飲んだ。
「もう一度クロロフォルムみたいなものをかがされ、目が覚めたのは夜明けだった。俺は神宮外苑のベンチに寝かされていた。九月も後半となれば明け方は冷え込む。おかげで実際に風邪を引いちまったよ。意図してやったことじゃなかろうが、そのあと三日ほど熱を出して本気で寝込んだ。しかしその程度で済んで幸運だったと考えるべきだろう」
そこで小松の話は終わったようだった。天吾は尋ねた。「このことを戎野先生には話したのですか?」
「ああ、解放され、熱が引いた数日後に戎野先生の山の上の家まで行ってきた。そしてだいたい今と同じ話をした」
「先生はなんと言っていました?」
小松はハイボールの最後の一口を飲み干すと、お代わりを注文した。天吾にも二杯目を勧めた。天吾は首を振った。
「戎野先生は俺に何度もその話を繰り返させ、あれこれ細かい質問をした。答えられることはもちろん答えた。求められれば何度でも同じ話を繰り返すことができた。なにしろ坊主頭と話をしたあと四日間、俺は一人きりで部屋に閉じこめられていた。口をきく相手もなく、時間だけはたっぷりあった。だから坊主頭の口にしたことを頭の中で反芻し、細部まで正確に覚え込むことができたわけだ。それこそ人間録音機みたいに」
「しかしふかえりの両親が亡くなったというのは、あくまで先方の言い分に過ぎない。そうですね?」と天吾は尋ねた。
「そのとおりだ。それは彼らの主張していることであって、どこまでが事実か確かめようはない。死亡届も出ていない。しかし坊主頭のしゃべり方からして、でたらめではあるまいという気が俺にはした。彼が自分でも言ったように、連中にとって人の生き死には神聖なものだ。俺の話が終わると、戎野先生は一人で黙って考え込んでいた。あの人はとても長く深く考えるんだ。それから何も言わずに席を立ち、部屋に戻ってくるまでに時間がかかった。先生はある程度やむを得ないこととして、二人の死を受け入れているようにも見えた。彼らが既にこの世にないことを、心中密かに予測し覚悟していたのかもしれない。とはいえ、親しい人々の死を現実に知らされたとき、それが心に大きな傷をもたらすことに変わりはない」
天吾はそのがらんとした飾り気のない居間と、深い冷ややかな沈黙と、時折窓の外で聞こえる鋭い鳥の声を思い出した。「それで結局のところ、我々は後ずさりして地雷原から撤退することになったのでしょうか?」と彼は言った。
新しいハイボールのグラスが運ばれてきた。小松はそれで口を湿らせた。
「その場で結論が出されたわけではない。考えるための時間が必要だと戎野先生は言った。しかし連中に言われたとおりにする以外に、いったいどんな選択肢がある? 俺はもちろんすぐに動いたよ。『空気さなぎ』は俺が社内で手を尽くして増刷中止、事実上の絶版というかたちに持っていった。文庫化もしない。これまでにかなりの部数も売ったし、会社はじゅうぶん儲けた。損はないはずだ。もちろん会社のことだから、会議だの社長決裁だの、そうすんなりと簡単にはいかなかったが、ゴーストライターがらみのスキャンダルの可能性をちらつかせたら、上の方はすっかり震え上がって、最終的には俺の言いなりになった。これから当分は会社で冷や飯を食わされそうだが、そんなもの俺としては慣れっこだ」
「ふかえりの両親が死んだという彼らの言い分を、戎野先生はそのまま受け入れたのですね?」
「おそらく」と小松は言った。「ただそれを現実として受け入れ、身体にしみ込ませるまでに、いま少し時間が必要だったということだろう。そして少なくとも俺の見る限り、連中は真剣だった。ある程度の譲歩をしても、これ以上のトラブルを回避したいと本気で望んでいるように見えた。だからこそ誘拐のような荒っぽい真似に及んだんだ。よほどしっかりこちらにメッセージを送りたかったんだ。また彼らが教団内で深田夫妻の遺体を秘密裏に焼却したことだって、そうしようと思えば、言わずに済ませられたはずだ。今から立証するのはむずかしいにせよ、死体損壊はなんといっても重大な犯罪だからな。しかしそれをあえて口にした。つまりそこまで自ら手の内をさらしたわけだ。そういう意味でも、坊主頭の言ったことはかなりの部分まで真実だろう。細部はともかく、大筋のところではな」
天吾は小松の言ったことを整理した。「ふかえりの父親は〈声を聴くもの〉だった。つまり預言者としての役目を果たしていた。しかし娘のふかえりが『空気さなぎ』を書き、それがベストセラーになったことによって、声は彼に向かって語りかけることをやめ、父親はその結果自然死を遂げた」
「あるいは[#傍点]自然に[#傍点終わり]自らの命を絶った」と小松は言った。
「そして教団にとって、新しい預言者を獲得することが何より重要な使命になった。声が語りかけることをやめれば、その共同体は存在基盤を失ってしまう。だからもう我々なんかにかまっている余裕はない。要約すればそういうことですね」
「おそらく」
「『空気さなぎ』という物語には、彼らにとって重要な意味を持つ情報が盛り込まれていた。それが活字になって世間に流布されたことによって声は沈黙し、水脈は地中深く潜ってしまった。その重要な情報とは具体的に何を指すのでしょう?」
「俺は監禁された最後の四日間、それについて一人でじっくりと考えてみた」と小松は言った。
「『空気さなぎ』はそれほど長い小説じゃない。そこに描かれているのは、リトル・ピープルが出没する世界だ。主人公の十歳の少女は孤立したコミュニティーに生きている。リトル・ピープルは夜中に密かにやってきて空気さなぎをつくる。空気さなぎの中には少女の分身が入っていて、そこにマザとドウタの関係が生まれる。その世界には月が二個浮かんでいる。大きな月と小さな月、おそらくマザとドウタの象徴だ。小説の中で主人公は——モデルはたぶんふかえり自身なのだろうが——マザであることを拒んでコミュニティーから逃げ出す。ドウタがあとに残される。ドウタがその後どうなったか、小説には描かれていない」
天吾はグラスの中で溶けていく氷をしばらく眺めていた。
「〈声を聴くもの〉はドウタの仲介を必要としているのでしょう」と天吾は言った。「ドウタを介して彼は初めて声を聴くことができる。あるいはその声を地上の言葉に翻訳できる。声の発するメッセージに正しい形を与えるには、その両方が揃っていなくてはならない。ふかえりの言葉を借りれば、レシヴァとパシヴァです。そのためにはまず空気さなぎをこしらえる作業が必要になります。空気さなぎという装置を通してはじめてドウタを産み出せるからです。そしてドウタを作り出すには[#傍点]正しい[#傍点終わり]マザが必要とされる」
「それが天吾くんの見解だ」
天吾は首を振った。「見解というほどのものでもありません。小松さんが小説の筋を要約するのを聞いて、そういうことじゃないかと思っただけです」
天吾は小説を書き直しているときもその後も、マザとドウタの意味について考え続けてきたが、その全体像がどうしてもつかみきれなかった。しかし小松と話しているうちに、細かい断片が次第に結びついていった。それでも疑問は残る。なぜ病院の父親のベッドの上に空気さなぎが現れ、少女としての青豆がその中に収められていたのだろう?
「なかなか興味深いシステムだ」と小松は言った。「しかしマザの方はドウタと離ればなれになってもとくに問題はないのか?」
「ドウタなしでは、マザはおそらく一個の完結した存在とは言えないでしょう。僕らが目にしているふかえりがそうであるように、具体的に指摘はできないけれど、そこには何らかの要素が欠落しています。それは影を失った人に似ているかもしれない。マザのいないドウタがどうなるのか、僕にはわかりません。おそらく彼女たちもやはり完全な存在ではないはずです。彼女たちはなんといっても分身に過ぎないわけだから。しかしふかえりの場合、マザがそばにいなくてもドウタは巫女としての役割を果たすことができたのかもしれない」
小松はしばらく唇をまっすぐ結んで、軽く斜めに曲げていた。それから口を開いた。「なあ天吾くん、ひょっとして君は『空気さなぎ』に書かれていたことは全部実際にあったことだと考えているのか?」
「そういうわけじゃありません。とりあえずそう想定しているだけです。すべて事実であったと仮定して、そこから話を進めて行こうと」
「よかろう」と小松は言った。「つまりふかえりの分身は、本体から遠く離れていても巫女として機能することができた」
「だからこそ教団は、逃亡したふかえりの居所がわかっていても、彼女をあえて力尽くで取り戻そうとはしなかったんです。なぜなら彼女の場合、マザが近くにいなくてもドウタはその職責を果たすことができたから。遠く離れていても、彼女たちの結びつきは強かったのかもしれません」
「なるほど」
天吾は続けた。「僕の想像では、彼らはおそらく複数のドウタを有しています。リトル・ピープルは機会を捉えて複数の空気さなぎを作っているはずです。一人のパシヴァだけでは不安だから。それとも正しく機能するドウタの数は限られているのかもしれません。そこには力の強い中心的なドウタと、力がそれほど強くはない補助的なドウタがいて、集団として機能しているのかもしれない」
「ふかえりの残してきたドウタが、その[#傍点]正しく機能する[#傍点終わり]中心的なドウタだったということか?」
「その可能性は高いかもしれない。ふかえりは今回の件について言えば、常にものごとの中心にいます。台風の目のように」
小松は目を細め、テーブルの上で両手の指を組んだ。その気になれば、彼は短い時間で有効に思索することができる。
「なあ、天吾くん。ちょっと思ったんだが、俺たちが目にしているふかえりが実はドウタで、教団の中に残っているのがマザだという仮説は成り立たないだろうか?」
小松の言ったことは天吾をたじろがせた。そんなことは今まで考えもしなかったからだ。天吾にとってふかえりはどこまでもひとつの実体だった。でもそう言われれば、たしかにその可能性も考えられる。わたしにはセイリはない。だからニンシンするしんぱいはない。ふかえりはあの夜、一方的な奇妙な性交のあとでそう宣言した。もし彼女が分身に過ぎないのなら、それはたぶん自然なことだ。分身は自らを再生産することはできない。それができるのはマザだけだ。しかし天吾にはどうしてもその仮説を、自分がふかえりとではなくその分身と性交したという可能性を、採ることができなかった。
天吾は言った。「ふかえりにははっきりとしたパーソナリティーがあります。独自の行動規範もある。それは分身にはおそらく持てないものです」
「たしかにな」と小松も同意した。「君の言うとおりだ。何はなくとも、ふかえりにはパーソナリティーと行動規範がある。俺としてもそれには同意せざるを得ない」
しかしそれでもふかえりにはまだ何か秘密が隠されている。その美しい少女の中には、彼が解き明かさなくてはならない大事な暗号が刻まれている。天吾はそう感じた。誰が実体で、誰が分身なのか。それとも実体と分身という区分け自体が間違っているのか。あるいはふかえりは場合によって、実体と分身とを使い分けることができるのか。
「ほかにもまだわからんことがいくつかある」、小松はそう言うと、両手を広げてテーブルの上に載せ、それを眺めた。中年の男にしては、長く繊細な指だった。「声が語りかけるのをやめ、井戸の水脈が涸れ、預言者は死んだ。そのあとドウタはどうなるのだろう? まさか昔のインドの未亡人みたいに殉死するわけでもあるまい」
「レシヴァがいなくなれば、パシヴァの役目は終わる」
「あくまで天吾くんの仮説を推し進めればということだが」と小松は言った。「ふかえりはそのような結果がもたらされることを承知の上で『空気さなぎ』を書いたのだろうか? それは意図的なものではなかったはずだと男は俺に言った。少なくとも彼女の意図ではなかったはずだと。しかしどうしてそんなことがわかるんだろう?」
「もちろん真相まではわかりません」と天吾は言った。「でもふかえりが、たとえどんな理由があるにせよ意図的に父親を死に追い込んでいったとは、僕にも思えません。おそらく父親は彼女とは関係なく、何らかの理由によって死に向かっていたのではないでしょうか。彼女の行ったことは、むしろ逆に、それに対するひとつの対抗策であったかもしれない。あるいは父親は声から解放されることを望んでいたのかもしれません。あくまで根拠のない推測に過ぎませんが」
小松は鼻の脇に皺を寄せたまま長く考え込んでいた。それから溜息をついて、あたりを見回した。「まったく奇妙な世界だ。どこまでが仮説なのか、どこからが現実なのか、その境界が日を追って見えなくなってくる。なあ天吾くん、一人の小説家として、君なら現実というものをどう定義する?」
「針で刺したら赤い血が出てくるところが現実の世界です」と天吾は答えた。
「じゃあ、間違いなくここが現実の世界だ」と小松は言った。そして前腕の内側を手のひらでごしごしとこすった。そこには静脈が青く浮かび上がっていた。あまり健康そうには見えない血管だ。酒と煙草と不規則な生活と文芸サロン的陰謀に、長年にわたって痛めつけられてきた血管だ。小松はハイボールの残りを一息で飲み、残った氷を宙でからからと振った。
「話のついでだ。君の仮説をもっと先の方まで聞かせてくれないか。だんだん面白くなってきた」
天吾は言った。「彼らは〈声を聴くもの〉のあとがまを探しています。でもそれだけじゃなく、同時に新しい[#傍点]正しく機能する[#傍点終わり]ドウタもみつけなくてはならないはずです。新しいレシヴァには、おそらく新しいパシヴァが必要になるから」
「つまり、正しいマザも新たに見つけなくてはならない。となると、空気さなぎだってもう一度つくらなくてはならない。ずいぶん大がかりな作業になりそうだな」
「だからこそ彼らも真剣になっている」
「たしかに」
「しかしまったくあてがないというわけではないでしょう」と天吾は言った。「彼らにしてもそれなりの目星をつけているはずです」
小松は肯いた。「そういう印象を俺は受けた。だから彼らとしては一刻も早く俺たちを近辺から追い払いたかった。とにかく作業の邪魔をするなと。俺たちはよほど目障りだったみたいだ」
「我々のどこがそれほど目障りだったのでしょう?」
小松は首を振った。彼にもそれはわからないということだ。
天吾は言った。「声はこれまでどんなメッセージを彼らに送ってきたのでしょう? そして声とリトル・ピープルはどのような関係にあるのでしょう?」
小松はまた力なく首を振った。それも二人の想像を超えたことだった。
「映画『2001年宇宙の旅』を見たことあるよな?」
「あります」と天吾は言った。
「俺たちはまるであそこに出てくる猿みたいだ」と小松は言った。「黒い長い毛をはやして、意味のないことをわめきながら、モノリスのまわりをぐるぐる回っているやつらだよ」
二人連れの新しい客が店に入ってきて、常連らしくカウンターの椅子に座り、カクテルを注文した。
「とにかくひとつはっきりしていることがある」と小松は話を締めくくるように言った。「君の仮説には説得力があり、それなりに筋がとおっている。天吾くんと膝を交えて話をするのは常に楽しい。しかしそれはそれとして、俺たちはこのおっかない地雷原からあとずさりし撤退する。俺たちがこの先ふかえりや戎野先生に会うことも、おそらくはない。『空気さなぎ』は罪のないファンタジー小説で、そこには具体的な情報なんて何ひとつ盛り込まれていない。その声がどんな代物だろうが、それが伝えるメッセージがなんだろうが、俺たちにはもう関係ない。そういうことにしておこうじゃないか」
「ボートから降りて、地上の生活に戻る」
小松は肯いた。「そのとおり。俺は毎日会社に出勤し、あってもなくてもどっちでもいいような原稿を文芸誌のためにとってまわる。君は予備校で前途有為な若者たちに数学を教えながら、その合間に長編小説を書く。お互いそういう平和な日常に復帰するんだ。急流もなければ滝もない。日々は移り、俺たちは穏やかに年を重ねていく。何か異議はあるかい?」
「だってそれ以外に選択肢はないんでしょう」
小松は指先で鼻の脇のしわを伸ばした。「そのとおりだ。それ以外に選択肢はない。俺はもう二度と誘拐なんかされたくない。あんな真四角な部屋に閉じこめられるのは一度でたくさんだ。そして次のときは、再び日の目を見せてはもらえないかもしれない。それでなくてもあの二人組ともう一度顔を合わせることを考えただけで心臓の弁が震える。目つきだけで人を自然死させられそうなやつらだよ」
小松はカウンターに向かってグラスを上げ、三杯目のハイボールを注文した。新しい煙草を口にくわえた。
「ねえ小松さん、それはともかく、どうしてこれまで僕にその話をしなかったんですか? その誘拐事件からもうずいぶん日にちが経っています。二ヶ月以上です。もっと前に話してくれてもよかったでしょう」
「どうしてだろうな」と小松は軽く首をひねりながら言った。「たしかにそのとおりだ。君にこの話をしなくてはと思いつつ、俺はそれを何となく延ばし延ばしにしてきた。どうしてだろう? 罪悪感からかもしれないな」
「罪悪感?」と天吾は驚いて言った。そんな言葉を小松の口から聞くことになるなんて考えたこともなかった。
「俺だって罪悪感くらいあるさ」と小松は言った。
「何に対する罪悪感ですか?」
小松はそれには答えなかった。目を細め、火のついていない煙草を唇の間でしばらく転がしていた。
「それで、ふかえりは両親が亡くなったことを知っているのですか?」と天吾は質問した。
「たぶん知っていると思う。いつかはわからんが、戎野先生がどこかの時点で伝えているはずだ」
天吾は肯いた。きっとふかえりはすいぶん前からそのことを知っていたのだろう。そういう気がした。知らされていないのは自分だけだったのだ。
「そして僕らはボートから降りて、地上の生活に戻る」と天吾は言った。
「そのとおりだ、地雷原からあとずさりする」
「でも小松さん、そうしようと思って、そんなにすんなりと元あった生活に復帰できると思いますか?」
「努力するしかあるまいよ」と小松は言った。そしてマッチを擦って煙草に火をつけた。「天吾くんには何か気にかかるところが具体的にあるのか?」
「いろんなものごとがまわりで既にシンクロを始めている。それが僕の感じていることです。そのいくつかはもう形を変えてしまっています。そう簡単に元には戻れないかもしれない」
「もしそこに俺たちのかけがえのない命がかかっているとしてもかい?」
天吾は曖昧に首を振った。自分がいつからか強い一貫した流れに巻き込まれていることを天吾は感じていた。その流れは彼をどこか見知らぬ場所に運ぼうとしていた。しかしそれを具体的に小松に説明することはできない。
天吾は彼が現在書いている長編小説が、『空気さなぎ』に書かれている世界をそのまま引き継いだものであることを、小松には打ち明けなかった。小松はきっとそれを歓迎しないだろう。まず間違いなく「さきがけ」の関係者も歓迎しないだろう。下手をすれば別の地雷原に彼は足を踏み入れることになる。あるいはまわりの人々を巻き添えにすることになるかもしれない。しかし物語はそれ自体の生命と目的を帯びて、ほとんど自動的に前に進み続けていたし、天吾は既にその世界に否応なく含まれてしまっている。天吾にとってそこは架空の世界ではなくなっていた。それは、ナイフで皮膚を切れば本物の赤い血が流れ出す現実の世界になっていた。その空には、大小二つの月が並んで浮かんでいた。