第20章 青豆
私の変貌の一環として
日曜日には風がやみ、前夜とは打って変わって暖かく穏やかな一日になった。人々は重いコートを脱ぎ、太陽の光を楽しむことができた。青豆は外の天候とは無縁に、カーテンを閉めた部屋の中でいつもと変わりのない一日を過ごした。
小さな音でヤナーチェックの『シンフォニエッタ』を聴きながらストレッチングをし、機械を使って筋肉を厳しく動かす。日ごとに増えて充実していくメニューをこなすのに二時間近くを要する。料理を作り、部屋の掃除をし、ソファに座って『失われた時を求めて』を読む。ようやく『ゲルマントの方』の巻にかかったところだ。できるだけ暇な時間をつくらないように彼女は心がける。テレビを見るのはNHKの正午と午後七時の定時ニュースだけだ。相変わらず大きなニュースはない。いや、大きなニュースはある。世界中で数多くの人々が命を落としていた。その多くは痛ましい死に方だった。列車が衝突し、フェリーが沈み、飛行機が落ちた。収拾の見込みのない内乱が続き、暗殺があり、民族間のいたましい虐殺があった。気候変動による旱魃があり、洪水があり、飢饅があった。青豆はそのような悲劇や災害に巻き込まれている人々に心から同情した。しかしそれはそれとして、今の青豆に直接の影響を及ぼしそうな出来事はひとつも起こっていない。
通りを隔てた児童公園では近所の小さな子供たちが遊んでいる。子供たちは口々に何かを叫んでいる。屋根にとまったカラスたちが連絡をとり合う鋭い声も聞こえる。空気には初冬の都会の匂いがする。
それから彼女はふと、このマンションの一室に住むようになってから、自分が一度も性欲を感じていないことに気がつく。誰かとセックスをしたいと思ったこともないし、自慰も一度もしていない。妊娠したせいかもしれない。それによってホルモンの分泌が変化したのかもしれない。いずれにせよ、青豆にとってそれはありがたいことだった。こんな環境で誰かとセックスをしたくなっても、どこにもはけ口は見つけられないのだから。毎月の生理がないことも、彼女にとっては喜ばしいことのひとつだ。もともと重い方ではないが、それでも長いあいだ背負ってきた荷物をひとつ下ろせたような気がする。少なくとも考えるべきことがひとつ減るだけでもありがたい。
三ヶ月のあいだにずいぶん髪が伸びた。九月には肩まで届くか届かないくらいの長さだったのだが、今では肩胛《けんこう》骨にかかるほどになっている。子供の頃はいつも母親の手で短くおかっぱに刈られていたし、中学生になってからずっとスポーツ中心の生活を送ってきたせいで、そんなに髪を長く伸ばしたことは一度もなかった。いささか長すぎるようにも感じたが、自分でカットするのは無理だから、伸ばしっぱなしにしておくしかない。前髪だけははさみを使って揃える。昼間は髪をまとめて上げておいて、日が暮れると下ろす。そして音楽を聴きながら百回のブラッシングをする。時間に余裕がなければとてもできないことだ。
青豆はもともと化粧というほどのものをしないし、こうして部屋にこもっていればなおさらそんな必要もない。それでも生活を少しでも規則正しいものにするために、丹念に肌の手入れをした。クリームや洗顔液を使って肌をマッサージし、寝る前に必ずパックをする。もともと健康な身体だから、少し手入れをするとすぐに肌が美しく艶やかになる。いや、あるいはそれも妊娠しているせいかもしれない。妊娠すると肌がきれいになるという話を耳にしたことがある。いずれにせよ鏡の前に座り、髪を下ろした顔を眺めていると、自分が以前より美しくなったように感じる。少なくともそこには成熟した女性としての落ち着きが生まれている。たぶん。
青豆は生まれてこの方、自分を美しいと思ったことがなかった。小さな頃から誰かに美しいと言われたことも一度もない。母親は彼女をむしろ醜い子供として扱った。「もっとお前の器量がよければ」というのが母親の口癖だった。もっと青豆の器量がよかったら、もっと愛らしい見かけの子供であったなら、より多くの信者を勧誘できるはずなのにという意味だ。だから青豆は小さい頃からできるだけ鏡を見ないようにしていた。必要に応じて短く鏡の前に立ち、いくつかの細部を手早く事務的に点検する。それが彼女の習慣になった。
大塚環は青豆の顔だちが好きだと言った。ぜんぜん悪くないよ、とても素敵だよ、と言ってくれた。大丈夫、もっと自信を持っていい。青豆はそれを聞いてとても嬉しかった。友人の温かい言葉は思春期を迎えた青豆を少なからず落ち着かせ、安心させてくれた。自分は母親から言われ続けていたほど醜くないのかもしれないと思えるようにもなった。でもその大塚環も、[#傍点]美しい[#傍点終わり]とは一度も言ってくれなかった。
しかし生まれて初めて、自分の顔にも美しいところがあるかもしれないと青豆は思う。これまでになく長く鏡の前に座るようになったし、自分の顔をより念入りに眺めるようになった。しかしそこにナルシスティックな要素はない。彼女はあたかも独立した別の人格を観察するように、鏡に映る自分の顔を様々な角度から実際的に検証する。自分の顔立ちが実際に美しくなったのか、それとも顔だちそのものは変わっていないが、それを見る自分の感じ方が変化したのか。青豆自身にも判別できない。
青豆はときどき鏡の前で思い切り顔をしかめる。しかめられた顔は昔と同じだ。顔中の筋肉が思い思いの方向に伸び、そこにある造作は見事なまでにほどけてばらばらになってしまう。世界中のあらゆる感情がそこに奔出する。美しいも醜いもない。それはある角度からは夜叉のように見え、ある角度からは道化のように見える。ある角度からはただの混沌にしか見えない。顔をしかめるのをやめると、水面の波紋が収まっていくように筋肉は徐々に緩み、もとの造作に戻る。青豆は以前とはいくぶん異なった新しい自分自身をそこに見出すことになる。
本当はもっと自然ににっこりできるといいんだけどね、と大塚環はよく青豆に言った。にっこりすると顔だちがそんなにやわらかくなるのに、もったいないよ。でも青豆は人々の前で自然にさりげなく微笑むことができない。無理に微笑もうとすると、ひきつった冷笑のようになってしまう。そして相手をかえって緊張させ、居心地悪くさせることになる。大塚環はとても自然に、明るい笑みを浮かべることができた。誰もが初対面で彼女に親しみを持ち、好感を抱いた。でも結局のところ、彼女は失意と絶望のうちに自らの命を絶たなくてはならなかった。うまく微笑むことのできない青豆をあとに残して。
静かな日曜日だ。温かな日差しに誘われて多くの人々が向かいの児童公園にやってきた。両親は子どもたちを砂場で遊ばせ、ぶらんこに乗せた。滑り台を滑る子どもたちもいた。老人たちはベンチに腰掛け、子どもたちが遊ぶ姿を飽きもせずに眺めていた。青豆はベランダに出てガーデンチェアに座り、目隠しのプラスチック板の隙間からそんな光景を見るともなく見ている。平和な風景だ。世界は滞りなく前に進んでいる。そこには命を狙われるものもおらず、殺人者を追跡するものもいない。人々は九ミリ弾をフルに装填した自動拳銃を、タイツにくるんでタンスの抽斗に隠していたりはしない。
私もいつかそこにあるような、物静かで順当な世界の一部になることができるのだろうか。青豆は自分に向かってそう問いかける。[#傍点]この小さなもの[#傍点終わり]の手を引いて公園に行き、ぶらんこに乗せたり、滑り台を滑らせたりすることが、いつの日か私にもできるのだろうか。誰かを殺したり、誰かに殺されたりすることを考えずに、日々の生活を送れるようになるのだろうか。そういう可能性はこの「1Q84年」に存在しているのだろうか。あるいはそれは、どこか別の世界にしか存在しないのだろうか。そして何よりも大事なこと——そのとき私の隣に天吾はいるのだろうか?
青豆は公園を眺めるのをやめ、部屋に戻る。ガラス戸を閉め、カーテンを引く。子供たちの声が聞こえなくなる。哀しみが淡く彼女の心を染める。彼女はどこからも孤立し、内側から鍵をかけた場所に閉じこめられている。昼間の公園を眺めるのはもうよそう。青豆はそう思う。昼間の公園に天吾がやってくるわけはない。彼が求めているのは鮮明な二つの月の姿なのだ。
簡単な夕食を済ませ、食器を洗ってから、青豆は暖かい格好をしてベランダに出る。毛布を膝にかけ、身体を椅子に沈める。風のない夜だ。水彩画家が好みそうな雲が空に淡くたなびいている。ブラシの繊細なタッチが試されるところだ。その雲に遮られることなく、三分の二ほどの大きさの月が明瞭な光をきっぱりと地上に送っている。その時刻、青豆の位置からは二つめの小さな月の姿を目にすることができない。その部分がちょうど建物の陰になっている。しかし[#傍点]それがそこにいる[#傍点終わり]ことは、青豆にはわかっている。彼女にはその存在を感じ取ることができる。角度としてたまたま見えないだけだ。まもなくそれは彼女の前に姿を見せることだろう。
青豆はこのマンションの一室に身を隠してから、意識を頭から意図して閉め出せるようになっていた。とりわけこうしてベランダに出て公園を眺めているとき、彼女は自在に頭の中をからっぽにできる。目は公園を怠りなく監視している。とくに滑り台の上を。しかし何も考えていない。いや、おそらく意識は何かを思っているのだろう。しかしそれはおおむねいつも水面下に収められている。その水面下で自分の意識が何をしているのか、彼女にはわからない。しかし意識は定期的に浮かび上がってくる。ウミガメやイルカが、時が来れば水面に顔を出して呼吸をしなくてはならないのと同じだ。そういうときに彼女は、自分がそれまで[#傍点]何かを考えていた[#傍点終わり]ことを知る。やがて意識は肺を新鮮な酸素で満たし、再び水面下に沈み込んでいく。その姿は見えなくなる。そして青豆はもう何も考えてはいない。彼女は柔らかな繭に包まれた監視装置となり、滑り台に無心の視線を送っている。
彼女は公園を見ている。しかし同時に何も見ていない。何か新しいものごとが視野に入れば、彼女の意識は即座にそれに対応するはずだ。しかし今のところ何も起こっていない。風はない。探り針のように空中に巡らされたケヤキの暗い枝は微動だにしない。世界は見事に静止している。彼女は腕時計に目をやる。八時をまわったところだ。今日もこのまま何ごとも起こらないまま終ってしまうのかもしれない。どこまでもひっそりとした日曜日の夜だ。
世界が静止していることをやめたのは、八時二十三分のことだった。
気がついたとき、一人の男が滑り台の上にいる。そこに腰を下ろし、空の一角を見上げている。青豆の心臓がきりきりと縮まり、小さな子供の握り拳ほどの大きさになる。もう二度と動き出さないのではないかと思えるほど長く、心臓はその大きさに留まっている。それから唐突に膨らんでもとのサイズに戻り、活動を再開する。乾いた音を立て、狂おしいばかりの速度で全身に新しい血液を配布する。青豆の意識も急いで水面に浮かび上がり、ひとつ身を震わせてから行動の態勢に入る。
天吾だ、と青豆は反射的に思う。
でも揺らいだ視野が定まると、それが天吾でないことがわかる。その男は子供のように背が低く、角張った大きな頭部を持ち、ニット帽をかぶっている。頭に合わせて、ニット帽は奇妙なかたちに変形させられている。緑色のマフラーを首に巻き、紺色のコートを着ている。マフラーは長すぎるし、コートは腹部が膨らんでボタンがはじけそうだ。それが昨夜ちらりと目にした、公園を出ていく「子供」であることに青豆は思い当たる。しかし実際は子供ではない。おそらく中年に近い大人だ。背が低くずんぐりして、手脚が短いだけだ。そして異様に大きな、いびつなかたちの頭を持っている。
青豆はタマルが電話で話していた「福助頭」のことをはっと思い出す。麻布の柳屋敷のまわりを俳徊し、セーフハウスの様子を探っていたという人物だ。滑り台の上にいる男の外見はまさに、タマルが昨夜の電話で描写したとおりだ。この不気味な男はその後も執拗に捜索を重ね、すぐ目の前まで忍び寄ってきたのだ。拳銃をとってこなくてはならない。どうしてだろう、今夜に限って拳銃は寝室に置きっぱなしになっている。しかし彼女は深呼吸をしてひとまず心臓の混乱を鎮め、神経を落ち着かせる。いや、あわてることはない。銃を手に取る必要はまだない。
だいいちにその男は青豆のマンションを観察しているわけではない。彼は滑り台のてっぺんに座り、天吾がとっていたのとまったく同じ姿勢で空の一角を見上げている。そして自分が目にしているものについて思索に耽っているように見える。長いあいだ身動きひとつしない。まるで身体の動かし方を忘れてしまったみたいに。青豆の部屋のある方にはまるで注意を払っていない。青豆はそのことで混惑する。これはいったいどういうことなのだろう。この男は私を追い求めてここまでやってきた。おそらくは教団の人間だろう。そして疑いの余地なく辣腕の追跡者だ。なにしろ麻布の屋敷からここまで私の足取りを辿ることができたのだから。それなのに今こうして私の前に無防備に姿を晒し、放心したように夜空を見上げている。
青豆はそっと席を立って小さくガラス戸を開け、部屋に入って電話の前に座る。そして細かく震える指でタマルの電話番号を押し始める。ともあれタマルにこのことを報告しなくてはならない。福助頭が今、彼女の部屋から見えるところにいる。通りを隔てた児童公園の滑り台の上に。あとのことは彼が判断し、手際よく処理してくれるはずだ。しかし最初の四つの数字を押したところで彼女は指の動きを止め、受話器を握りしめたまま唇を噛みしめる。
[#傍点]まだ早すぎる[#傍点終わり]、と青豆は思う。この男については、わけのわからない点が多すぎる。もしタマルがこの男を危険因子としてあっさり「処置」してしまったら、その[#傍点]わけのわからないこと[#傍点終わり]はきっとわけのわからないままに終わってしまうだろう。考えてみれば、この男は先日の天吾とまったく同じ行動をとっている。同じ滑り台、同じ姿勢、同じ空の一角。天吾の行動をそのままなぞっているかのようだ。彼の視線もやはりそこに二つの月の姿を捉えているのだろう。青豆にはそれがわかる。とすれば、この男と天吾とはどこかで繋がっているのかもしれない。そしてこの男は私がこの建物のこの部屋に身を潜めていることにはまだ気づいていないのかもしれない。だからこうして無防備にこちらに背中を向けていられるのではないか。考えれば考えるほど、その仮定は説得力を持っていく。もしそうなら、この男のあとを辿っていくことによって、私は天吾のいる場所に行き着けるかもしれない。この男が逆に私のために案内役をつとめてくれるわけだ。そう思うと心臓の動悸がますます硬く、速くなる。彼女は受話器を置く。
タマルに知らせるのはあとにしよう、彼女はそう心を決める。その前にやらなくてはならないことがある。そこにはもちろん危険が伴う。なにしろ追跡されるものが追跡者のあとをつけるのだから。そして相手はおそらく手馴れたプロだ。しかしだからといってこんな大事な手がかりを見過ごすわけにはいかない。これがあるいは私にとって最後のチャンスになるかもしれない。そしてこの男は見たところどうやら一時的な放心状態に陥っている。
彼女は急ぎ足で寝室に行き、タンスの抽斗を開けてヘックラー&コッホを手に取る。安全装置を外し、乾いた音を立ててチェンバーの中に弾丸を送り込み、もう一度安全装置をかける。それをジーンズの背後に突っ込み、ベランダに戻る。福助頭はまだ同じ姿勢で空を見上げている。そのいびつな頭はぴくりとも動かない。彼は空のその一角に見えるものに、すっかり心を奪われてしまっているように見える。その気持ちは青豆にもよくわかる。[#傍点]それはたしかに心を奪う光景なのだ[#傍点終わり]。
青豆は部屋に戻り、ダウン・ジャケットを着て野球帽をかぶる。度の入っていない黒いシンプルなフレームの眼鏡をかける。それだけで顔の印象はかなり違ってくる。グレーのスカーフを首に巻き、ポケットに財布と部屋の鍵を突っ込む。階段を走り降りて、マンションの玄関を出る。スニーカーの底が音もなくアスファルトの地面を踏みしめる。久方ぶりに味わうその固く着実な感触が彼女を励ます。
道路を歩きながら青豆は、福助頭がまだ同じ場所にいることを確かめる。日が落ちてから温度は確実に下がっていたが、相変わらず風はない。むしろ心地良い寒さだ。青豆は白い息を吐きながら足音を殺し、公園の前をそのまま何気なく通り過ぎる。福助頭は彼女の方にはまったく注意を向けない。彼の視線は滑り台の上からまっすぐ空に向けられている。青豆の位置からは見えないが、その男の視線の先には大小二つの月の姿があるはずだ。それらは雲のない凍えた空に、寄り添って並んでいるに違いない。
公園を通り過ぎ、ひとつ先の角まで行ってから、回れ右をして後戻りする。そして暗い物陰に身を隠し、滑り台の様子をうかがう。腰の背後に小型拳銃の感触がある。死そのもののように硬く冷ややかな感触だ。それは神経の高ぶりを鎮めてくれる。
待ったのは五分ばかりだろう。福助頭はゆっくり立ち上がり、コートについたほこりを払い、もう一度空を見上げてから思い定めたように滑り台のステップを降りる。そして公園を出て駅の方に向けて歩き出す。その男のあとをつけるのはさしてむずかしくない。日曜日の夜の住宅街は人影がまばらで、ある程度距離を置いても見失う心配はない。また相手は自分が誰かに監視されているかもしれないという疑いを微塵も抱いていないようだ。後ろを振り返ることなく、一定の速度で歩を運んでいく。人が考え事をしながら道を歩く速度だ。皮肉なものだと青豆は思う。追跡者の死角は追跡されることなのだ。
福助頭が高円寺駅に向かっているのではないことがやがて判明する。青豆は部屋にあった東京二十三区道路地図を使って、マンション近辺の地理を細かく頭に叩き込んでいた。緊急事態が起こったときのために、どちらに向かえば何があるのか熟知しておく必要があったからだ。だから福助頭が最初駅に向かう道を歩いていたが、途中で違う方向に折れたことがわかる。そしてまた福助頭が近辺の地理に通じていないことにも気づく。その男は二度ばかり角で立ち止まり、自信なさそうにあたりを見回し、電柱の住所表示を確認する。彼はここではよそ者なのだ。
やがて福助頭の歩調がいくぶん速くなる。きっと見覚えのある地域に戻ってきたのだろうと青豆は推測する。そのとおりだった。彼は区立小学校の前を通り過ぎ、広くない道路をしばらく進むと、そこにある三階建ての古いアパートに入っていく。
男が玄関の中に消えるのを見届けてから、青豆は五分待つ。その男と入り口で鉢合わせするのはごめんだ。玄関にはコンクリートのひさしがついて、丸い電灯が戸口のあたりを黄色く照らしている。アパートの看板や表札らしきものは、彼女の見る限りどこにもない。それは名を持たないアパートなのかもしれない。いずれにせよ建てられてからかなり長い歳月がたっているようだ。彼女は電柱に表示されていた住所を記憶する。
五分が経過し、青豆はアパートの玄関に向かう。黄色い光の下を足早に通り抜け、入り口のドアを開ける。小さなホールには人気はない。がらんとして温かみを欠いた空間だ。切れかけた蛍光灯がちりちりという微かな音を立てている。どこかからテレビの音が聞こえる。小さな子供が甲高い声で母親に何かを要求している声も聞こえる。
青豆はダウン・ジャケットのポケットから自分の部屋の鍵を出し、誰かに見られても、そこに住んでいる人間だと思ってもらえるように、それを手に持って軽く振りながら、郵便ボックスの名札を読んでいく。そのうちのひとつはあの福助頭のものであるかもしれない。あまり期待はできないが、いちおう試してみる価値はある。小さなアパートだし、それほど多くの人間が住んでいるわけでもない。やがてひとつのボックスに「川奈」という名前を見つけた瞬閲、青豆のまわりからあらゆる音が消えてしまう。
青豆はその郵便ボックスの前に立ちすくんでいる。あたりの空気はひどく希薄になって、呼吸がうまくできない。彼女の唇は軽く開かれ、細かく震えている。そのまま時間が経過する。それが愚かしく危険な振る舞いであることは自分でもよくわかっている。福助頭はこのあたりのどこかにいる。今にも玄関に姿を見せるかもしれない。しかし彼女はその郵便ボックスから自分の身体をひきはがすことができない。「川奈」という一枚の小さな名札が彼女の理性を麻痺させ、身体を凍りつかせてしまう。
その川奈という住人が、川奈天吾である確証はもちろんない。川奈はどこにでもある一般的な姓ではないが、かといってたとえば「青豆」のように格別珍しいものでもない。しかしもし福助頭が、彼女がそう推測するように、天吾と何らかの繋がりを持っているとしたら、この「川奈」が川奈天吾である可能性は高いものになるはずだ。部屋番号は三〇三となっている。彼女の暮らしている部屋とたまたま同じ番号だ。
どうすればいいのだろう。青豆は唇を強く噛みしめる。彼女の頭はひとつのサーキットの中をぐるぐると回り続ける。どこにも出口がみつからない。どうすればいいのだろう? しかしいつまでも郵便ボックスの前に立ちすくんでいるわけにはいかない。青豆は心を決め、不愛想なコンクリートの階段を三階まで上る。薄暗い床のところどころには、歳月の経過を示す細かなひびが入っている。スニーカーの底が耳障りな音を立てる。
そして青豆は三〇三号室の前に立つ。特徴のないスチール製のドア、名札受けには「川奈」と印刷されたカードが入っている。やはり苗字だけ。その二つきりの文字はひどく素っ気なく、どこまでも無機質に感じられる。しかし同時にそこには深い謎が集約されている。青豆はそこに立ち、じっと耳を澄ませる。すべての感覚を研ぎ澄ませる。しかし扉の奥からはどのような音も聞こえてこない。中に明かりがついているのかどうかもわからない。ドアの脇には呼び鈴がある。
青豆は迷う。唇を噛み考えを巡らせる。私はこのベルを押すべきなのか?
あるいはこれは巧妙に仕掛けられた罠かもしれない。ドアの奥には福助頭が身を潜め、暗い森の邪悪なこびとのように、忌まわしい笑みを浮かべながら私が来るのを待ち受けているのかもしれない。彼はわざと滑り台の上に姿を晒し、私をここまでおびき寄せ、捕獲しようとしているのだ。私が天吾を探し求めていることを知った上で、それを餌にしている。卑劣で狡猾な男だ。そして私の弱点をしっかりと押さえている。私にあの部屋のドアを内側から開けさせるには、たしかにそれ以外のやり方はない。
青豆はあたりに誰もいないことを確かめ、ジーンズの後ろから拳銃を取り出す。安全装置を外し、すぐに取り出せるようにダウン・ジャケットのポケットに入れる。右手でグリップを握りしめ、人差し指を引き金にかける。そして左手の親指で呼び鈴を押す。
部屋の中でドアベルが響く音が聞こえる。ゆっくりとしたチャイム音だ。彼女の心臓が立てている素速いリズムとはそぐわない。彼女は拳銃を握りしめ、ドアが開くのを待つ。しかしドアは開かない。誰かがのぞき穴から外をうかがっている気配もない。彼女は少し間をおいて再び呼び鈴を押す。チャイム音がまた響き渡る。杉並区中の人々が顔を上げ、耳をそばだてそうなほど大きな音だ。青豆の右手は銃把の上でうっすらと汗をかいている。しかしやはり反応はない。
ここはいったん引き上げた方がいい。三〇三号室の川奈という住人は、それが誰であれ不在だ。そして今この建物の中のどこかにあの不吉な福助頭が潜んでいる。これ以上長居をするのは危険だ。彼女は急いで階段を降り、郵便ボックスにもう一度ちらりと目をやってから建物の外に出る。顔を伏せて素速く黄色い照明の下を横切り、通りに向かう。背後を振り返り、あとをつける人間がいないことを確認する。
考えなくてはならないことがたくさんある。判断しなくてはならないことも同じくらいたくさんある。彼女は手探りで拳銃の安全装置をかける。人目につかないところでそれをもう一度ジーンズの背中の部分に挟む。期待しすぎてはいけないと青豆は自分に言い聞かせる。多くを望みすぎてはいけない。あの川奈という名前の住人は、あるいは天吾その人かもしれない。しかし天吾ではないかもしれない。いったん期待が生じると、心はそれをきっかけに独自の動きをとり始める。そしてその期待が裏切られたとき人は失望するし、失望は無力感を呼ぶ。心の隙が生まれ、警戒が手薄になる。今の私にとってそれは何よりも危険なことだ。
あの福助頭がどこまで事実を把握しているのか、それはわからない。しかし現実問題としてあの男は私に接近している。手を伸ばせば届きそうなところまで。心を引き締め、注意を怠ってはならない。相手は抜かりのない危険な男だ。些細な間違いが命取りになりかねない。まずだいいちに、あの古いアパートのまわりに安易に近づくことはできない。あの建物の中のどこかに彼は潜み、私を捕えるための策略を巡らせているに違いない。暗がりに巣を張り巡らせた毒々しい血吸い蜘蛛のように。
自室に戻るまでに青豆の決意はかたまっていた。彼女がとるべき道はひとつしかない。
青豆は今度は最後までタマルの番号を押す。十二回コールしてから電話を切る。帽子とコートを脱ぎ、拳銃をタンスの抽斗に戻し、水をグラスに二杯飲む。やかんに水を入れ、紅茶を飲むための湯をわかす。カーテンの隙間から通りの向かいにある公園を窺い、そこが無人であることを確認する。洗面所の鏡の前に立って髪をブラシで整える。それでもまだ両手の指は滑らかに動かない。緊張が続いているのだ。紅茶のポットに湯を注いだところで電話のベルが鳴る。相手はもちろんタマルだ。
「さっき福助頭を見かけた」と青豆は言う。
沈黙がある。「[#傍点]さっき見かけた[#傍点終わり]というと、今はもうそこにはいないということかな?」
「そう」と青豆は言った。「少し前このマンションの向かいの公園にいた。でも今はもういない」
「少し前というのはどれくらい前のことだろう?」
「四十分くらい前」
「どうして四十分前に電話をかけなかった?」
「すぐにあとをつけなくてはならなかったし、時間の余裕がなかった」
タマルは絞り出すようにゆっくりと息を吐く。「あとをつけた?」
「そいつを見失いたくなかったから」
「何があっても外に出るなと言ったはずだ」
青豆は注意して言葉を選ぶ。「でも自分の身に危険が迫ってくるのを、ただ座って眺めてはいられない。あなたに連絡をしても、すぐにここに来ることはできない。そうでしょう?」
タマルは喉の奥で小さな音を立てた。「そしてあんたは福助頭のあとをつけた」
「そいつは、自分があとをつけられているなんて思いも寄らないみたいだった」
「プロにはそういう[#傍点]ふり[#傍点終わり]ができる」とタマルは言う。
タマルの言うとおりだ。あるいは巧妙に仕掛けられた罠だったのかもしれない。しかしタマルの前でそれを認めるわけにはいかない。「もちろんあなたにはそういうことができるでしょう。しかし私の見たところでは、福助頭はそのレベルには達していない。腕はいいかもしれない。でもあなたとは違う」
「バックアップがついていたかもしれない」
「いいえ。その男は間違いなく一人だった」
タマルは短く間を置く。「いいだろう。それでやつの行く先を見届けたのか?」
青豆はアパートの住所をタマルに教え、外観を説明する。部屋まではわからない。タマルはそれをメモに書き取る。彼はいくつかの質問をし、青豆はできるだけ正確に答える。
「あんたが見つけたとき、その男はマンションの向かいにある公園にいたんだな」とタマルは尋ねる。
「そう」
「公園で何をしていたんだ?」
青豆は説明する。その男は滑り台の上に座り込んで、長いあいだ夜空を見上げていた。しかし二つの月のことはもちろん口にしない。
「空を見ていた?」とタマルは言う。彼の思考が回転数を一段上げる音が受話器から聞こえる。
「空だか、月だか、星だか、そんな何かを」
「そして滑り台の上に無防備に自分の姿を晒していた」
「そういうこと」
「不思議だと思わないか」とタマルは言う。堅く乾いた声だ。それは一年に一日しか降らない雨だけで残りの季節を生き延びていく砂漠の植物を思わせる。「その男はあんたを追い詰めた。あと一歩のところまで。大したものだ。なのに滑り台の上から気楽に冬の夜空を見上げている。あんたの住んでいる部屋には目もくれない。俺に言わせれば、そんな筋の通らない話はない」
「そうかもしれない。不思議な話だし、筋も通っていない。私もそう思った。でもそれはそれとして、何はともあれそいつをそのまま見過ごすわけにはいかなかった」
タマルは溜息をつく。「それでも、俺にはやはりそれはとても危険なことに思える」
青豆は口をつぐんでいる。
「あとをつけてみて、その謎は少しでも解明されたか?」とタマルは尋ねる。
「されない」と青豆は言った。「でも少し気になることがあった」
「たとえば?」
「玄関の郵便ボックスを調べたら、三階に川奈という人が住んでいた」
「それで?」
「この夏にベストセラーになった『空気さなぎ』という小説は知っているわよね?」
「俺だって新聞くらい読んでいる。著者の深田絵里子はたしか『さきがけ』の信者の子供だ。行方不明になって、教団に拉致されたんじゃないかという疑いがあった。警察が調査をした。本はまだ読んでいない」
「深田絵里子はただの信者の子供じゃない。その父親は『さきがけ』のリーダーだった。つまり彼女は私がこの手で[#傍点]あちら側[#傍点終わり]に送り込んだ男の娘ということになる。そして川奈天吾はゴーストライターとして編集者に雇われ、『空気さなぎ』を大幅に書き直した人物なの。その本は事実上は二人の共作というわけ」
長い沈黙が降りる。細長い部屋の向こう端まで歩いて行って、辞書を手にとって何かを調べ、また戻ってくるくらいの時間がある。それからタマルは口を開く。
「その川奈というアパートの住人が川奈天吾だという確証はない」
「今のところまだない」と青豆は認める。「でももし同じ人物であれば、話の筋はいくらか通ってくるかもしれない」
「断片が噛み合ってくる」とタマルは言った。「しかしその川奈天吾が『空気さなぎ』のゴーストライターであることを、あんたはどうやって知ったんだ? そんなことは公表されていないはずだ。世間に知れたら大きなスキャンダルになる」
「リーダーの口から聞いた。死ぬ直前に、彼が私にそれを教えてくれた」
タマルの声が一段階冷ややかになる。「あんたはもっと前に俺にその話をするべきだった。そう思わないか?」
「そのときは、それが大事な意味を持つことだとは思わなかった」
沈黙がまたひとしきりあった。その沈黙の中でタマルが何を考えているのか、青豆にはわからない。しかし彼女はタマルが言い訳を好まないことを知っている。
「よかろう」とやがてタマルは言う。「それはまあいい。とりあえず話を短くしよう。つまりあんたが言いたいのは、福助頭はそのことを踏まえた上で、川奈天吾なる人物をマークしているかもしれないということだ。それを糸口にしてあんたの居場所に迫ろうとしている」
「そうじゃないかと思う」
「俺にはよくわからんな」とタマルは言う。「どうしてその川奈天吾が、あんたを探す糸口になるんだ? あんたと川奈天吾とのあいだに何か結びつきがあるわけではないだろう。あんたが深田絵里子の父親を処理し、彼が深田絵里子の小説のゴーストライターをつとめたという以外には」
「結びつきはある」と青豆は抑揚を欠いた声で言う。
「あんたと川奈天吾とのあいだには直接的な関係がある。そういうことか?」
「私と川奈天吾は以前、小学校の同じクラスにいた。そして私が産もうとしている子供の父親はおそらく彼だと思う。でもそれ以上の説明はここではできない。なんていうか、とても個人的なことだし」
ボールペンの先がとんとんと机を叩く音が受話器から聞こえる。それ以外にはどんな音も聞こえない。
「個人的なこと」とタマルは言う。平らな庭石の上に何か珍しい動物を見つけたみたいな声で。
「悪いけれど」と青豆は言う。
「わかった。それはとても個人的なことだ。俺もそれ以上は尋ねない」とタマルは言う。「それで、あんたは具体的に何を俺に求めているのだろう?」
「私が知りたいのはまず、その川奈という住人が、本当に川奈天吾であるかどうかということ。できることなら自分でそれを確かめたい。でも私がそのアパートに近づくのは危険すぎる」
「言うまでもない」とタマルは言う。
「そして福助頭はおそらくそのアパートのどこかに潜んで、何かを企んでいる。もしその男が私の居場所を探り当てかけているのなら、手を打つ必要があると思う」
「やつはあんたとマダムとのあいだに繋がりがあることも、ある程度つかんでいる。そんないくつかの手がかりを、この男は丹念にたぐり寄せ、ひとつに結び合わせようとしている。もちろん放置してはおけない」
「もうひとつあなたにお願いしたいことがある」と青豆は言う。
「言ってみてくれ」
「もしそこにいるのが本当に川奈天吾だとしたら、彼にどんな危害も及ばないようにしてもらいたいの。もしどうしても誰かに危害が及ばなくてはならないのだとしたら、私が進んで彼の代わりになる」
タマルはまたひとしきり沈黙する。今度はボールペンの先で机を叩く音は聞こえない。何の音も聞こえない。彼は無音の世界で考えを巡らせている。
「最初のふたつの案件は、なんとか俺の手に負えるだろう」とタマルは言う。「それは俺の仕事の一環だから。しかし三つ目に関しては何とも言えない。そこには個人的な事情が絡みすぎているし、俺には理解できない要素も多すぎる。また経験的に言って、一度に三つの案件をうまく処理するのは簡単なことではない。好むと好まざるとにかかわらず、そこには優先順位というものが生じる」
「それでかまわない。あなたはあなたの優先順位に従えばいい。ただ頭に留めておいてもらいたいの。私は生きているうちに、何があっても天吾くんに会わなくてはならないのだということを。彼に伝えなくてはならないことがあるから」
「頭に留めておくよ」とタマルは言う。「そこにまだ余分なスペースが残っているうちはということだが」
「ありがとう」と青豆は言う。
「あんたが今俺に話したことを、そのまま上に報告しなくてはならない。微妙な問題だ。俺一人の裁量では動けない。とりあえずここで電話を切る。もう外には出るな。鍵をかけて中に閉じこもっていろ。あんたが外に出ると面倒なことになる。あるいは既に面倒なことになっているかもしれない」
「そのかわり、こちらも相手についていくつかの事実を掴むことができた」
「いいだろう」とタマルはあきらめたように言う。「話を聞く限りいちおう抜かりなくやっているようだ。そいつは認める。でも油断はするなよ。相手が何を企んでいるのか、我々にはまだ正確には掴めていないんだ。そして状況を考えれば、背後にはおそらく何らかのかたちで組織がついている。俺が前に渡したものはまだ持っているな」
「もちろん」
「当分のあいだそいつを手元から離さないようにした方がいい」
「そうする」
短い間があり、電話が切れる。
青豆は湯をはった白い浴槽に身を深く沈め、時間をかけて身体を温めながら天吾のことを思う。あの古い三階建てのアパートの一室で暮らしているかもしれない天吾のことを。彼女はその無愛想なスチールのドアと、スリットに入った名札を思い浮かべる。「川奈」という名前がそこに印刷されている。そのドアの奥には、いったいどのような部屋があり、どのような生活がそこで営まれているのだろう。
彼女は湯の中で両方の乳房に手をあてて、ゆっくりと何度かさすってみる。乳首がいつになく大きく硬くなっている。敏感にもなっている。この手のひらが天吾のものであればいいのにと青豆は思う。広く厚い天吾の手のひらを彼女は想像する。それは力強く優しいものであるに違いない。彼女の一対の乳房は彼の両手の中に包み込まれ、深い愉楽と平穏をそこに見出すことだろう。それから青豆は、自分の乳房が前よりいくぶん大きくなっていることに気づく。錯覚ではない。間違いなく膨らみが増し、そのカーブはより柔らかくなっている。妊娠しているせいかもしれない。いや、それとも私の乳房は、妊娠とは関係なく[#傍点]ただ大きくなった[#傍点終わり]のかもしれない。私の変貌の一環として。
彼女は腹に手をあてる。その膨らみはまだ十分なものではない。そしてなぜかまだつわりもやってこない。でもその奥には小さなものが潜んでいる。彼女にはそれがわかる。ひょっとして、と青豆は思う、[#傍点]彼ら[#傍点終わり]が必死に求めているのは私の命ではなく、[#傍点]この小さなもの[#傍点終わり]ではあるまいか? 彼らは私がリーダーを殺害した代償として、それを私ごと手に入れようとしているのではあるまいか? その考えは青豆を身震いさせる。どうしても天吾に会わなくてはならない。青豆はあらためて心を固める。彼と力を合わせ、[#傍点]この小さなもの[#傍点終わり]を大事に護らなくてはならない。私はこれまでの人生において、多くの大切なものを既に奪いとられてきた。でもこれだけは誰にも渡さない。
ベッドに入ってしばらく本を読む。しかし眠りは訪れない。彼女は本を閉じ、腹部を護るようにそっと身体を折る。枕に頬をつけ、公園の空に浮かんだ冬の月を思う。そしてその隣に浮かぶ緑色の小さな月のことを。マザとドウタ。二つの月の光は混じり合って、葉を落としたケヤキの枝を洗っている。そしてタマルは今頃、事態を解決するための策を練っているはずだ。彼の思考は高速で回転している。眉をひそめ、ボールペンの頭で机をこつこつと叩いている彼の姿を青豆は思い浮かべる。やがてその単調な途切れないリズムに導かれるかのように、眠りの柔らかい布が彼女を包んでいく。