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1Q84 (3-22)
日期:2018-10-13 22:36  点击:437
 第22章 牛河
      その目はむしろ
      憐れんでいるように見える
 
 
 日曜日の夕方、六時十五分に天吾はアパートの玄関に姿を現した。外に出たところでいったん足を止め、何かを求めるようにあたりを見回した。右から左に、そして左から右に視線を移動した。空を見上げ、足もとを見た。しかし普段と違ったものごとは彼の目に映らなかったようだ。そのまま足早に通りに出ていった。牛河はその様子をカーテンの隙間から見守っていた。
 牛河はそのとき天吾のあとをつけなかった。荷物は持っていない。彼の大きな両手は折り目のついていないチノパンツのポケットに突っ込まれていた。ハイネックのセーターに、くたびれたオリーブグリーンのコーデュロイの上着、収まりの悪い髪。上着のポケットには厚い文庫本が入っている。たぶん近所の店で食事でもするつもりなのだろう。どこにでも行かせておけばいい。
 月曜日には天吾はいくつかの講義を受け持つことになっている。牛河は前もって予備校に電話を入れて、そのことを確認していた。はい、川奈先生の講義は週明けからカリキュラム通り行われます、と事務の女性が教えてくれた。けっこう。天吾は明日からようやく平常の日課に復帰する。その性格からして、おそらく今夜遠出をすることはあるまい(もしそのとき天吾を尾行していれば、彼が小松に会うために四谷のバーに向かったことを牛河は知るわけだが)。
 八時前に牛河はピーコートを着てマフラーを首に巻き、ニット帽を深くかぶり、あたりをうかがいながら急ぎ足でアパートを出た。その時点では天吾はまだ帰宅していなかった。近所で食事をするだけにしては、いささか時間がかかりすぎている。アパートを出るときに下手をすれば、戻ってきた天吾と鉢合わせすることになるかもしれない。しかしたとえそんな危険を冒しても、牛河には今夜この時刻にどうしても外に出て、済ませなくてはならない用件があった。
 彼は記憶を辿っていくつかの角を曲がり、いくつかの目標物の前を通り過ぎ、ときおり迷いはしたものの、なんとか児童公園にたどり着くことができた。前日の強い北風もすっかり止み、十二月にしては暖かい夜になっていたが、それでもやはり夜の公園に人の姿はなかった。牛河はもう一度あたりを見回し、誰にも見られていないことを確認してから、滑り台のステップを上った。滑り台の上に腰を下ろし、手すりに背中をもたせかけ、空を見上げた。昨夜とだいたい同じ位置に月が浮かんでいた。三分の二の大きさの明るい月だ。まわりには一片の雲も見えない。そしてその月のそばに、いびつなかたちをした小さな緑色の月が寄り添うように並んでいた。
 思い違いじゃなかったんだ、と牛河は思った。彼は吐息をつき、小さく首を振った。夢を見ていたのでもないし、目の錯覚でもなかった。大小二つの月が、葉を落としたケヤキの上にまぎれもなく浮かんでいる。その二つの月は牛河が滑り台の上に戻ってくるのを、昨夜からじっと動かずにそこで待ち受けていたみたいに見える。彼らにはわかっていたのだ。牛河がここに戻ってくることが。彼らが申し合わせたようにそのまわりに漂わせている沈黙は、暗示を潤沢に含んだ沈黙だった。そして月たちは、その沈黙を共有することを、牛河に求めていた。このことはほかの誰にも言ってはならないと、彼らは牛河に告げていた。淡い灰をかぶった人差し指を唇にそっとあてて。
 牛河はそこに腰を下ろしたまま、顔の筋肉をあらゆる角度に動かしてみた。そしてそこにある感覚に何か不自然な、普段とは違うところがないか念のためにひととおり確認した。不自然なところは見当たらなかった。良くも悪くもいつもどおりの自分の顔だ。
 牛河は自分をリアリスティックな人間だと見なしていた、そして[#傍点]実際に[#傍点終わり]彼はリアリスティックな人間だった。形而上的な思弁は彼の求めるところではない。もしそこに実際に何かが存在しているのなら、理屈がとおっていてもいなくても、論理が通用してもしなくても、それをひとまず現実として受け入れていくしかない。それが彼の基本的な考え方だ。原則や論理があって現実が生まれるのではなく、まず現実があり、あとからそれに合わせて原則や論理が生まれるのだ。だから空に二つの月が並んで浮かんでいることを、とりあえず事実としてそのまま受け入れるしかあるまいと牛河は心を決めた。
 あとのことはあとになってゆっくり考えればいい。余計な思いは抱かないように努めながら、牛河はただ無心にその二つの月を眺め、観察した。大きな黄色い月と、小さな緑のいびつな月。彼はその光景に自分を馴染ませようとした。[#傍点]こいつをそのまま受け入れるんだ[#傍点終わり]、と彼は自分に言い聞かせた。なぜこんなことが起こり得るのか、説明はつかない。しかし今のところそれは深く追求するべき問題じゃない。[#傍点]この状況にどうやって対応していくか[#傍点終わり]、あくまでそいつが問題なのだ。それにはまずこの光景を丸ごと理屈抜きで受け入れるしかない。話はそこから始まる。
 
 牛河は十五分ばかりそこにいただろう。彼は滑り台の手すりにもたれ、ほとんど身動きひとつせず、そこにある光景に自分を適応させていった。時間をかけて身体を水圧の変化に順応させていく潜水夫のように、それらの月の送る光を身体に浴び、肌に染みこませた。そうすることが大事なのだと牛河の本能は告げていた。
 それからそのいびつな頭を持った小男は立ち上がって滑り台を降り、名状しがたい物思いに意識を奪われながら、歩いてアパートに戻った。まわりのいろんな風景が来たときとは少しずつ違って見えるような気がした。月の光のせいだ、と彼は思った。あの月の光が事物の様相を少しずつずらしてしまったのだ。おかげで何度か道を曲がり損ねそうになった。玄関に入る前に顔を上げて三階を眺め、天吾の部屋の窓に明かりがついていないことを確認した。大柄の予備校講師はまだ帰宅していない。食事をとりに近所の店に行っただけではなさそうだ。どこかで誰かに会っているのだろうか。もしかしたら相手は青豆かもしれない。それともふかえりかもしれない。俺はひょっとして大事な機会を逃したのだろうか。しかし今更そんなことを考えても仕方ない。天吾が外に出ていくたびに尾行するのは危険すぎる。一度でも自分の姿を天吾に見られたら、元も子もなくしてしまうことになる。
 牛河は部屋に戻り、コートとマフラーと帽子をとった。台所でコーンビーフの缶詰を開け、それをロールパンにはさみ、立ったまま食べた。温かくも冷たくもない缶コーヒーを飲んだ。しかしどれにも味がほとんど感じられなかった。食感はあるのだが、味覚がない。その原因が食べ物の側にあるのか、自分の味覚の側にあるのか、牛河には判断できなかった。あるいはそれもまた目の奥に焼きついている二つの月のせいかもしれない。どこかのドアベルが鳴らされ、そのチャイム音が微かに聞こえた。ドアベルは間を置いて二度鳴らされた。しかし彼はそれをとくに気にはしなかった。ここではない。どこか遠くの、おそらくは別の階のドアだ。
 サンドイッチを食べ終え、コーヒーを飲み終えると、牛河は頭を現実の位相に戻すために、煙草をゆっくり一本吸った。自分がここで何をやらなくてはならないのかを、頭の中で再確認した。それからやっと窓際に行ってカメラの前に腰を下ろした。電気ストーブのスイッチを入れ、そのオレンジ色の光の前に両手をかざして温めた。日曜日の夜の九時前だ。アパートの玄関を出入りする人間はほとんどいない。しかし牛河としては、天吾が帰宅する時刻を確認しておきたかった。
 時を置かず黒いダウン・ジャケットを着た女が玄関から出てきた。一度も見かけたことのない女だ。彼女はグレーのスカーフで口元を覆っていた。黒縁の眼鏡をかけ、野球帽をかぶっている。それはいかにも人目を避け、顔を隠そうとする格好だ。まったくの手ぶらで足取りは速い。歩幅も大きい。牛河は反射的にスイッチを押し、モータードライブでカメラのシャッターを三度切った。この女の行き先をつきとめなくてはと彼は思った。しかし立ち上がりかけたときには、女は既に道路に出て、夜の中に姿を消していた。牛河は顔をしかめ、あきらめた。あの歩き方なら、今から靴を履いて追いかけても追いつけない。
 牛河は今しがた目にしたものを脳裏に再現した。身長は一七〇センチあたり。細いブルージーンズに、白いスニーカー。着衣はどれも奇妙に真新しい。年齢はおそらく二十代半ばから三十歳。髪は襟の中に突っ込まれて、長さまではわからない。膨らんだダウン・ジャケットのせいで体つきも不明だが、脚の格好から見ておそらく痩せているはずだ。姿勢の良さと軽快な脚の運びは、彼女が若々しく健康であることを示している。たぶん日常的に何かスポーツをしているのだろう。それらの特徴はどれも彼の知っている青豆に合致するものだった。その女が青豆だと決めつけることはもちろんできない。ただ彼女は誰かに目撃されるのをひどく警戒しているようだった。緊張が全身にみなぎっていた。写真週刊誌の追跡を恐れる女優のように。しかしマスコミが追い回すような有名女優が、高円寺のこのうらぶれたアパートに出入りするとは常識的に考えられない。
 それが青豆であるとひとまず仮定してみよう。
 彼女は天吾に会いにここにやってきた。ところが天吾は今どこかに出かけている。部屋の明かりは消えたままだ。青豆は彼を訪ねてきたものの、返事がなかったのであきらめて引き返した。あの遠い二度のチャイムがそうだったのかもしれない。しかし牛河にしてみれば、それはもうひとつ筋の通らない話だ。青豆は追跡を受けている身であり、危険を避けるためにできる限り人目につかないように暮らしているはずだ。天吾に会おうと思えば、まず電話をかけて在不在を確認するのが通常のやり方だ。そうすれば無駄な危険を冒さずに済む。
 牛河はカメラの前に座ったまま考えを巡らせたが、筋の通った推論はひとつとして思いつけなかった。その女の行動は——変装にもならない変装をして、隠れ家を出てこのアパートまで足を運ぶ——牛河が知っている青豆の性格には当てはまらなかった。彼女はもっと慎重で注意深いはずだ。それが牛河の頭を混乱させた。自分が彼女をここまで導いたのかも知れないという可能性は、牛河の頭にはまったく浮かばなかった。
 いずれにせよ、明日になったら駅前のDPEに行って、溜まったフィルムをまとめて現像してこよう。そこにはこの謎の女の姿も写っているはずだ。
 十時過ぎまでカメラの前で見張りを続けたが、その女が出ていったあと、アパートを出入りする人間は一人もいなかった。公演が不入りのうちに終わり、誰からも見捨てられ忘れられた舞台のように、玄関は無人のまま静まりかえっていた。天吾はどうしたのだろう、と牛河は首をひねった。彼の知る限り、天吾がそれほど遅い時間まで外出しているのは珍しいことだ。明日からは予備校の講義がまた始まるというのに。あるいは牛河が出ている間に既に帰宅して、早々と眠ってしまったのだろうか?
 時計が十時をまわった頃、自分がひどく疲弊していることに牛河は気づいた。ほとんど目を開けていられないほど強い眠気を彼は感じた。宵っ張りの牛河にしては珍しいことだ。普段の彼は必要とあればいつまででも起きていることができた。しかし今夜に限って、睡魔はまるで古代の棺の石蓋のように容赦なく彼の頭上にのしかかっていた。
 俺はあの二つの月を長く見つめすぎたのかもしれない、牛河はそう思った。その光を肌に染みこませすぎたのかもしれない。大小二つの月はぼんやりした残像となって彼の網膜に残っていた。その暗いシルエットが彼の脳の柔らかい場所を麻痺させていた。ある種の蜂が大きな芋虫を刺して麻痺させ、その体表に産卵するのと同じだ。孵化した蜂の幼虫は身動きできないその芋虫を手近な栄養源として、生きたままむさぼり食う。牛河は顔をしかめ、不吉な想像を頭から振り払った。
 まあいい、と牛河は自分に言い聞かせた。天吾が帰宅するのをいつまでも律儀に待っていることもあるまい。何時に帰ってこようが、あの男のことだ、どうせ帰ってすぐに眠るだけだ。そしてこのアパート以外、ほかに帰るべき場所があるわけでもない。たぶん。
 牛河はズボンとセーターを力なく脱ぎ、長袖のシャツと股引だけという格好になって、寝袋の中に潜り込んだ。そして身体を丸めてすぐに眠ってしまった。眠りはきわめて深く、ほとんど昏睡に近いものだった。眠りかけたときに、部屋のドアがノックされる音が聞こえたような気がした。しかし意識は既にその重心を別の世界に移しかけていた。事物の区別がうまくつかない。無理に区別をつけようとすると体全体が軋んだ。だから彼は瞼を開くこともなく、その音の意味をそれ以上追求することもなく、再び深い眠りの泥の中に沈み込んでいった。
 天吾が小松と別れて帰宅したのは、牛河がそんな深い眠りについた三十分ほどあとのことだ。天吾は歯を磨き、煙草の匂いがついた上着をハンガーにかけ、パジャマに着替えてそのまま眠ってしまった。午前二時に電話が鳴って、父親の死を知らされるまで。
 
 牛河が目を覚ましたのは月曜日の朝の八時過ぎで、そのときには天吾は既に館山に向かう特急列車のシートで、睡眠不足を補うべく深く眠り込んでいた。牛河は天吾が予備校に行くためにアパートを出るのを、カメラの前に座って待ち受けた。しかし当然ながら天吾は姿を見せなかった。時計が午後一時を指したところで牛河はあきらめた。近所の公衆電話から予備校に電話を掛け、川奈先生の講義は今日予定どおり行われるのかどうか尋ねてみた。
「川奈先生の今日の講義は休講になっています。昨夜、お身内に急な不幸があったということです」と電話に出た女性が言った。牛河は礼を言って電話を切った。
 身内の不幸? 天吾の身内といえばNHKの集金人をしていた父親しかいない。その父親はどこか遠くにある療養所に入っていた。天吾はその看病のために東京をしばらく離れていて、二日前に戻ってきたばかりだ。その父親が死んだ。とすれば、天吾は再び東京を離れることになる。おそらく俺がまだ眠っているあいだにここを出ていったのだろう。まったくなんだって俺はこんなに長く深く眠り込んでしまったのだろう?
 いずれにせよこれで天吾は天涯孤独の身の上になったわけだ、と牛河は思う。もともと孤独な男だが、これで更に孤独になった。まったくの一人だ。母親は彼が二歳になる前に長野県の温泉で絞殺された。殺した男はとうとう捕まらなかった。彼女は夫を捨て、赤ん坊の天吾をつれてその若い男と逐電していた。「逐電」というのはいかにも古い言葉だ。今ではもう誰もそんな言葉は使わない。でもある種の行為にはよく似合った言葉だ。どうして男が彼女を殺したのかは不明だ。いや、その男が本当に殺したのかどうかもわかってはいない。旅館の一室で、女が夜の間に寝間着の紐で絞め殺され、一緒にいた男がいなくなっていた。どう考えてもその男が怪しい。それだけのことだ。父親が連絡を受けて市川からやってきて、残された幼い息子を引きとった。
 そのことを俺は川奈天吾に教えるべきだったのかもしれない。彼にはもちろんその事実を知る権利がある。しかし彼は俺みたいな人間の口から母親の話を聞きたくないと言った。だから教えなかった。仕方ない。それは俺の問題ではない。彼の問題だ。
 いずれにせよ天吾がいてもいなくても、このままアパートの見張りを続けるほかない。牛河はそう自分に言い聞かせる。青豆を彷彿させる謎の女を俺は昨夜目にした。青豆本人だという確証はないが、その可能性はきわめて大きい。このいびつな頭が俺にそう告げている。見栄えこそ良くないが、そこには最新鋭レーダー並みの鋭い勘が具わっている。そしてもしあの女が青豆であるなら、彼女は遠からず再び天吾を訪ねてくるはずだ。天吾の父親が亡くなったことを、まだ彼女は知らない。それが牛河の推測だ。天吾はたぶん夜のうちにその知らせを受け、早朝に出て行った。そして二人にはどうやら電話連絡が取り合えない事情があるらしい。とすれば彼女は必ずまたここにやってくる。たとえ危険を冒しても、ここに足を運ばなくてはならない何か大事な用件がその女にはあるのだ。そして今度こそ、何があろうと彼女の行く先を突き止めなくてはならない。そのための準備を綿密に整えておく必要がある。
 そうすることによって、なぜこの世界に月が二つ存在するのか、その秘密もある程度解き明かされるかもしれない。牛河はその興味深い仕組みを知りたいと思う。いや、しかしそれはあくまで副次的な案件に過ぎない。俺の仕事は何よりもまず、青豆の潜伏先を突き止めることにある。そして立派な[#傍点]のし[#傍点終わり]をつけて、彼女をあの気味の悪い二人組に引き渡すことにある。それまでは月が二つあろうが、ひとつしかなかろうが、俺はどこまでも実際的でなくてはならない。それがなんといっても、俺が俺であることの強みなのだから。
 
 牛河は駅前のDPEに行って、五本の三十六枚撮りフィルムを店員に渡した。そして仕上がった写真を持って近くのファミリー・レストランに入り、チキン・カレーを食べながら日付順に眺めていった。ほとんどが普段見慣れた住人の顔だった。彼がいささかなりとも興味を持って眺めたのは、三人の人物の写真だけだった。ふかえりと天吾と、そして昨夜アパートから出てきた謎の女の三人だ。
 ふかえりの目は牛河を緊張させた。写真の中でも、その少女は正面から牛河の顔をじっと見つめていた。間違いない、と牛河は思う。牛河がそこにいて、自分を監視していることを、彼女は知っていた。おそらくは隠しカメラを使って写真を撮っていることも。彼女の澄んだ一対の目がそれを告げていた。その瞳はすべてを見通していたし、牛河の行いを決して容認してはいなかった。そのまっすぐな視線は牛河の心を裏側まで容赦なく刺し貫いた。彼がそこでやっている行為にはまったく弁明の余地がなかった。しかしそれと同時に彼女は、牛河を断罪してはいなかったし、とくに蔑《さげす》んでもいなかった。ある意味ではその美しい目は牛河を赦していた。いや、赦しているというのではないな、と牛河は思い直す。その目はむしろ牛河を[#傍点]憐れんでいる[#傍点終わり]ように見える。牛河の行いが不浄なものであると知った上で、彼に憐憫を与えているのだ。
 それはほんの僅かなあいだの出来事だった。その朝ふかえりはまず電信柱の上をひとしきり見つめ、それから素速く首を回して牛河の潜んだ窓に目をやり、隠蔽《いんぺい》されたカメラのレンズをまっすぐのぞき込み、ファインダー越しに牛河の目を凝視した。そして歩き去った。時間が凍りつき、再び時間が動き出した。せいぜい三分くらいのものだ。そんな短い時間に、彼女は牛河という人間の魂の隅々までを見渡し、その汚れと卑しさを正確に見抜き、無言の憐れみを与え、そのまま姿を消したのだ。
 彼女の目を見ていると、肋骨のあいだに畳針を刺しこまれたような鋭い痛みを感じた。自分という人間がひどく歪んだ醜いものに思えた。でもそれも仕方あるまい、と牛河は思う。なぜなら俺は実際に[#傍点]ひどく歪んだ醜いもの[#傍点終わり]なのだから。しかしそれにも増して、ふかえりの瞳に浮かんだ自然な、そして透明な憐れみの色は、牛河の心を深く沈み込ませた。告発され、蔑まれ、罵倒され、断罪された方がまだましだ。野球のバットで思い切り殴られたっていい。それならまだ耐えられる。しかし[#傍点]これ[#傍点終わり]はだめだ。
 それに比べれば天吾は遥かに楽な相手だった。写真の中の彼は玄関に立ち、やはりこちらに視線を向けている。ふかえりがやったのと同じようにあたりを注意深く観察している。しかしその目には何も映っていない。彼の無垢で無知な目は、カーテンの陰に隠されたカメラも、その前にいる牛河の姿も探し当てることはできない。
 それから牛河は「謎の女」の写真に目をやった。写真は三枚ある。野球帽、黒縁の眼鏡、鼻まで巻かれたグレーのスカーフ。顔立ちまではわからない。どの写真も照明が貧弱な上に、野球帽のひさしが暗い影を落としている。しかしその女は、それまでに牛河が頭の中に作り上げてきた青豆という女の像にぴたりと合っていた。牛河はその三枚の写真を手に持ち、トランプの手札を確かめるように順番に繰り返し眺めた。見れば見るほどその女は青豆以外の何ものでもないと思えてきた。
 彼はウェイトレスを呼びとめ、今日のデザートは何かと尋ねた。桃のパイだとウェイトレスは答えた。牛河はそれと、コーヒーのおかわりを頼んだ。
 [#傍点]もしこれが青豆でなかったとしたら[#傍点終わり]、牛河はパイが運ばれてくるのを待ちながら自らに言い聞かせた、[#傍点]俺が青豆という女に会う機会はおそらく永遠に巡ってこないだろう[#傍点終わり]。
 桃のパイは予想していたよりずっと上出来だった。かりかりのパイ皮の中に、ジューシーな桃が入っていた。もちろん缶詰の桃なのだろうが、ファミリー・レストランのデザートとしては悪くない。牛河はパイをきれいに食べ終え、コーヒーを飲み干し、ほどよく満ち足りた気持ちでレストランを出た。スーパーマーケットに寄って三日分ほどの食料品を買い込み、部屋に戻ると再びカメラの前に腰を据えた。
 カーテンの隙間からアパートの玄関を見張りながら、壁にもたれて日だまりの中で何度かうたた寝をした。しかし牛河はそのことをとくに気にかけなかった。眠っているあいだに大事なものを見落としたりはしなかったはずだ。天吾は父親の葬儀のために東京を離れているし、ふかえりはもうここには戻ってこないだろう。牛河が監視を続けていることを彼女は知っている。あの「謎の女」が明るいうちにここを訪れる可能性も低い。彼女は用心深く行動する。活動を始めるのはあたりが暗くなってからだ。
 
 しかし日が暮れてもその「謎の女」は姿を見せなかった。いつもの顔ぶれがいつものように午後の買い物に出かけ、夕方の散歩に出かけ、勤めに出ていった人々が、出たときよりくたびれた顔で帰宅してきただけだ。牛河は彼らの行き来をただ目で追っていた。カメラのシャッターを押すこともなかった。これ以上彼らの写真を撮る必要はない。今では牛河の関心は三人の人物に絞られていた。それ以外はみんな名もなき通行人に過ぎない。手持ちぶさたを紛らわせるために、牛河は勝手につけた名前で彼らに呼びかけた。
「毛さん(その男の髪型は毛沢東によく似ていた)、お勤めご苦労様です」
「長耳さん、今日は温かくて散歩には最適でしたね」
「顎なしさん、またお買い物ですか。今日の夕飯のおかずはなんですか?」
 十一時まで牛河は玄関の監視を続けた。それからひとつ大きくあくびをして、一日の仕事を終えることにした。ペットボトルの緑茶を飲み、クラッカーを何枚か食べ、煙草を一本吸った。洗面所で歯を磨くついでに、大きく舌を出して鏡に映してみた。自分の舌を眺めるのは久しぶりだった。そこには苔のようなものが厚く生えていた。本物の苔と同じようにそれは淡い緑色を帯びていた。彼は明かりの下でその苔を詳しく点検した。気味の悪い代物だ。そしてそれは舌全面にしっかりと固着し、もうどうやっても落とせそうになかった。このままいけば俺はそのうち苔人間になってしまうかもしれない、と牛河は思った。舌から始まって身体中のあちこちの皮膚に緑色の苔が生えてくるのだ。沼地でこそこそ暮らす亀の甲羅みたいに。そんなことを想像しただけで気持ちが暗くなる。
 牛河は溜息と一緒に声にならない声を出し、舌について考えるのをやめ、洗面所の明かりを消した。暗闇の中で服をもそもそと脱いで、寝袋の中に潜り込んだ。ジッパーを上げ、虫のように背中を丸めた。
 
 目を覚ましたときあたりは真っ暗だった。時刻を見ようと首を回したが、時計はあるはずの場所になかった。牛河は一瞬混乱した。暗い中でもすぐに時刻を確かめられるように、眠る前に必ず時計の位置を確かめる。それが長年の習慣だった。なぜ時計がないのだ? 窓のカーテンの隙間から明かりが僅かに洩れていたが、それが照らし出しているのは部屋の隅の一角に過ぎなかった。まわりは真夜中の闇に包まれている。
 心臓の鼓動が高まっていることに牛河は気づいた。分泌されたアドレナリンを全身に送り届けるために、心臓が懸命に活動している。鼻孔が開き息が荒くなっている。興奮させられる生々しい夢を見ていて、その途中で目覚めたときのように。
 しかし夢を見ているのではなかった。何かが現実に起こっているのだ。枕元に誰かがいる。牛河はその気配を感じた。暗闇の中により黒い影が浮かび上がり、それが牛河の顔を見下ろしていた。まず背筋が硬直した。一秒の数分の一のあいだに意識が再編成され、彼は反射的に寝袋のジッパーを外そうとした。
 その誰かは間髪を置かず牛河の首に腕を回した。短い叫び声をあげる暇さえ与えられなかった。訓練を積んだ強靭な男の筋肉を牛河は首筋に感じた。その腕は彼の首をコンパクトに、しかし万力のように容赦なく締め上げた。男は一言も口をきかなかった。息づかいさえ聞こえない。牛河は寝袋の中で身体をくねらせ、もがいた。ナイロンの内側の壁を両手でかきむしり、両足で蹴った。叫び声をあげようとした。しかしそんなことをしても役に立たない。相手はいったん畳の上で姿勢を固めると、あとは身じろぎもせず、ただ腕の筋肉に段階的に力を込めていった。効果的で無駄のない動きだ。それに合わせて牛河の気管はより圧追され、呼吸はますますか細いものになっていった。
 その絶望的状況の中で牛河の脳裏をよぎったのは、この男はどうやって部屋に入ってきたのだろうという疑問だった。ドアのシリンダー錠はロックした。内側からチェーンもかけた。窓の戸締まりも万全だった。なのにどうやってこの部屋の中に入ってこられたのだ? 鍵をいじれば音は必ず出るし、そんな音が聞こえたら、俺は間違いなく目を覚ましていたはずだ。
 こいつはプロだ、と牛河は思った。必要とあれば、まったくためらいなく人の命を奪うことができる。そのための訓練も積んでいる。「さきがけ」の差し向けた人間だろうか? あいつらはとうとう俺を処分することに決めたのか? 俺はもう役に立たない邪魔な存在だと判断したのか? だとすればそれは間違った判断だ。俺はあと一歩のところまで青豆を追い詰めているのだから。牛河は声を出してその男に訴えようとした。まずこちらの話を聞いてくれ、と。しかし声は出てこなかった。声帯を震わせるだけの空気がそこにはもうなかったし、舌も喉の奥で石のように固まったままだ。
 気管は今では隙間なく塞がれていた。空気は一切入ってこない。肺は新鮮な酸素を死にものぐるいで求めていたが、そんなものはどこにも見当たらない。身体と意識が分割されていく感覚があった。身体が寝袋の中でのたうち続けている一方、彼の意識はどろりとした重い空気の層に引きずり込まれていった。両手と両足が急速に感覚を失っていった。なぜだと彼は薄れていく意識の中で問いかけた。なぜ俺がこんなみっともないところで、こんなみっともない格好で死んでいかなくてはならないんだ。もちろん答えはない。やがて辺縁を持たぬ暗闇が天井から降りて、すべてを包んだ。
 
 意識が戻ったとき、牛河は寝袋の外に出されていた。両手と両脚には感覚がない。彼にわかるのは目隠しをされていることと、頬に畳の感触があることくらいだった。もう喉は締め上げられていない。肺が[#傍点]ふいご[#傍点終わり]のように音を立てて収縮しながら新鮮な空気を吸い込んでいた。冷えた冬の空気だ。酸素を得て新しい血液が作られ、心臓がその赤く温かな液体を神経の末端に全速力で送り届けていた。彼はときどき激しく咳き込みながら、ただ呼吸をすることに神経を集中した。そのうちに徐々にではあるが、両手と両足に感覚が戻ってきた。心臓の硬い鼓動音が耳の奥で聞こえる。俺はまだ生きている、牛河は暗闇の中でそう思った。
 牛河は畳の床に俯《うつぶせ》せにされていた。両手は背中の後ろに回され、柔らかい布のようなもので縛られている。足首も縛られている。それほど固くはないが手慣れた効果的な縛り方だ。転がる以外に身動きはできない。自分がこうしてまだ生きて呼吸をしていることを、牛河は不思議に思った。あれは死ではなかったのだ。ぎりぎりのところまで死に近接してはいたが、死そのものではなかった。喉の両脇に鋭い痛みが瘤のように残っていた。漏らした尿が下着に滲みて冷たくなり始めていた。しかしそれは決して不快な感触ではない。むしろ歓迎すべき感覚だ。痛みや冷たさは、自分がまだ生きていることのしるしなのだから。
「それほど簡単には死なない」と男の声が言った。まるで牛河の気持ちを読みとったように。

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