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1Q84 (3-24)
日期:2018-10-13 22:37  点击:519
 第24章 天吾
      猫の町を離れる
 
 
 父親の遺体は、きれいにアイロンのかかったNHKの集金人の制服に晴れがましく包まれ、簡素な棺におさめられた。おそらくいちばん安価な棺なのだろう。カステラの木箱をいくらか丈夫にした程度の、いかにも愛想のない代物だった。故人は小柄な体躯だったが、それでも長さにほとんど余裕はなかった。合板でできていて、装飾もろくに施されていない。この棺でかまいませんね、と葬儀屋は天吾に遠慮がちに念を押した。かまわないと天吾は答えた。父親がカタログの中から自分で選び、自分で代金を支払った棺だ。死者がそれに異議を持たないのなら、天吾にも異議はない。
 NHKの集金人の制服を身にまとって、その質素な棺の中に横たわった父親は、死んでいるようには見えなかった。仕事の合間にちょっと仮眠を取っているみたいに見えた。今にも目を覚まして起き上がり、帽子をかぶって残りの集金に出かけて行きそうだ。NHKのマークが縫い込まれたその制服は、彼の皮膚の一部のように見えた。この男はそのユニフォームに包まれてこの世界に生まれ落ち、それに包まれて焼かれていくのだ。実際に目の前にしてみると、彼が最後に身につける衣服として、それ以外のものは天吾にも思いつけなかった。ヴァーグナーの楽劇に出てくる戦士たちが鎧に包まれたまま火葬に付されるのと同じことだ。
 火曜日の朝、天吾と安達クミの前で棺の蓋が閉められ、釘を打たれた。そして霊枢車に乗せられた。霊枢車といっても、病院から葬儀社まで遺体を搬送したのと同じ、きわめて実務的なトヨタのライトバンだった。車輪つきのベッドが棺桶にかわっただけだ。たぶんそれがいちばん安あがりな霊枢車だったのだろう。そこには[#傍点]おごそか[#傍点終わり]な要素はまったくなかった。『神々の黄昏』の音楽も聞こえてこなかった。とはいえ霊枢車の形状に関しても、天吾が異議を唱えるべき理由は見あたらなかった。安達クミもまたそんなことは気にもしていないようだった。それは単なる移動手段に過ぎない。大事なのは人が一人この世界から消滅したことであり、残された人々はその事実を肝に銘じなくてはならないということだ。二人はタクシーに乗って、黒いライトバンのあとをついていった。
 海岸沿いの道路を離れて、少し山の中に入ったところに火葬場はあった。比較的新しいが、きわめて個性に乏しい建物で、火葬場というよりは何かの工場か、役所の庁舎のように見えた。ただ庭が美しく丁寧に整えられ、高い煙突が空に向けて堂々とそびえていることで、それが特殊な目的を持った施設であることが知れる。その日、火葬場はそれほど忙しくなかったのだろう、待ち時間もなく棺はそのまま高熱炉に運ばれた。棺が炉の中にしずしずと送り込まれ、潜水艦のハッチのような重い蓋が閉められた。手袋をはめた年配の係員が、天吾に向かって一礼してから、点火スイッチを押した。安達クミがその閉じられた蓋に向かって両手をあわせ、天吾もそれにならった。
 火葬が終了するまでの一時間ばかりを、天吾と安達クミは建物の中にある休憩所で過ごした。安達クミが自動販売機で温かい缶コーヒーをふたつ買ってきて、二人はそれを黙って飲んだ。二人は大きなガラス窓に面して置かれたベンチに、並んで腰を下ろしていた。窓の外には冬枯れをした芝生の庭が広がり、葉を落とした木立があった。黒い鳥が二羽、枝にとまっているのが見えた。名前を知らない鳥だ。尾が長く、体躯の小さなわりに声が鋭く大きい。鳴くときにまっすぐ尾を立てる。木立の上には雲ひとつない青い冬の空が広がっていた。安達クミはクリーム色のダッフルコートの下に、丈の短い黒のワンピースを着ていた。天吾は丸首の黒いセーターの上に、濃いグレーのヘリンボーンの上着を着ていた。靴は焦げ茶色のローファー。それが彼の所有する中では最もフォーマルな衣服だった。
「うちのお父さんもここで焼かれたんだよ」と安達クミは言った。「一緒に来た人たちはみんな、ひっきりなしに煙草を吸っていた。おかげで天井のあたりにぽっかり雲が浮かんでいるみたいだった。なにしろそこにいるほとんどが漁師仲間だったからね」
 天吾はその光景を想像した。日焼けした一群の人々が、着慣れぬダークスーツに身を包み、みんなでせっせとタバコを吹かしている。そして肺癌で死んだ男を悼んでいる。しかし今、休憩所には天吾と安達クミの二人しかいない。あたりには静けさが満ちていた。時おり鳥の鋭い囀《さえず》りが木立から聞こえるほかには、その静けさを破るものはない。音楽もなく、人の声も聞こえない。太陽が穏やかな光を地上に注いでいた。その光は窓ガラス越しに部屋に射し込んで、二人の足もとに寡黙な日だまりを作り出していた。時間は河口に近づいた河のようにゆるやかに流れていた。
「一緒に来てくれてありがとう」、天吾は長く続いた沈黙のあとでそう言った。
 安達クミは手を伸ばして、天吾の手に重ねた。「一人だとやっぱりきついからね。誰かがそばにいた方がいい。そういうものだよ」
「そういうものかもしれない」と天吾も認めた。
「人が一人死ぬというのは、どんな事情があるにせよ大変なことなんだよ。この世界に穴がひとつぽっかり開いてしまうわけだから。それに対して私たちは正しく敬意を払わなくちゃならない。そうしないと穴はうまく塞がらなくなってしまう」
 天吾は肯いた。
「穴を開けっ放しにしてはおけない」と安達クミは言った。「その穴から誰かが落ちてしまうかもしれないから」
「でもある場合には、死んだ人はいくつかの秘密を抱えていってしまう」と天吾は言った。「そして穴が塞がれたとき、その秘密は秘密のままで終わってしまう」
「私は思うんだけど、それもまた必要なことなんだよ」
「どうして?」
「もし死んだ人がそれを持って行ったとしたら、その秘密はきっとあとには置いていくことのできない種類のものだったんだよ」
「どうしてあとに置いていけなかったんだろう?」
 安達クミは天吾の手を放し、彼の顔をまっすぐに見た。「たぶんそこには死んだ人にしか正確には理解できない[#傍点]ものごと[#傍点終わり]があったんだよ。どれほど時間をかけて言葉を並べても説明しきれないことが。それは死んだ人が自分で抱えて持っていくしかないものごとだったんだ。大事な手荷物みたいにさ」
 天吾は口を閉ざしたまま、足もとの日だまりを眺めていた。リノリウムの床が鈍く光っていた。その手前には天吾のくたびれたローファーと、安達クミのシンプルな黒いパンプスがあった。それはすぐそこにありながら、何キロも遠くに見える光景のように感じられた。
「天吾くんにだって、人にはなかなか説明しきれないものがあるでしょう。違う?」
「あるかもしれない」と天吾は言った。
 安達クミは何も言わず、黒いストッキングに包まれた細い脚を組んだ。
「君は前に死んだと言ったね」、天吾は安達クミにそう尋ねた。
「うん。私は前に一度死んだ。冷たい雨の降る寂しい夜に」
「君はそのときのことを覚えているんだ?」
「そうだね、覚えているんだと思う。昔からそのときのことをよく夢で見るから。すごくリアルな夢で、いつもそっくり同じなんだ。本当にあったこととしか思えない」
「それはリインカーネーションみたいなことなのかな」
「リインカーネーション?」
「生まれ変わり。輪廻」
 安達クミはそれについて考えた。「どうだろう。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」
「君も死んだあとこんな風に焼かれたのかな?」
 安達クミは首を振った。「そこまでは覚えていない。それは死んだあとのことだから。私が覚えているのは[#傍点]死んだとき[#傍点終わり]のことだけ。誰かが私の首を絞めていた。私の知らない見たこともない男」
「君はその顔を覚えている?」
「もちろんだよ。何度も夢の中で見ているもの。道で会ったら一目でわかる」
「もし本当に道で会ったらどうする?」
 安達クミは指の腹で鼻をこすった。そこにまだ鼻があることを確かめるみたいに。「それは私自身、何度となく考えたよ。本当に道で会ったらどうしようかってさ。そのまま走って逃げちゃうかもしれない。こっそりあとをついていくかもしれない。その場になってみないときっとわからないね」
「ついていってどうするの?」
「わからないよ。でもひょっとしたらその男は、私についての何か大事な秘密を握っているかもしれない。うまくいけばそれを暴けるかもしれない」
「どんな秘密を?」
「たとえば私が[#傍点]ここにいる[#傍点終わり]意味のようなことを」
「しかしその男はもう一度君を殺すかもしれない」
「かもしれない」、安達クミは口を小さくすぼめた。「そこには危険がある。それはもちろんよくわかるよ。そのまま走ってどこかに逃げてしまうのがいちばんかもしれない。それでもそこにあるはずの秘密は、私をどうしようもなく惹きつける。暗い入り口があれば、猫がどうしても中をのぞき込まずにはいられないのと同じ」
 
 火葬が終わり、安達クミと二人で残された父親の骨を拾い、小さな骨壷に収めた。骨壷は天吾に渡された。そんなものを渡されても、どう扱えばいいのか天吾にはよくわからなかった。かといってどこかに置き去りにしていくわけにもいかない。天吾はその骨壺を所在なく抱えたまま、安達クミと一緒にタクシーで駅に向かった。
「あとの細かい事務的な処理は私の方で適当に済ませておく」と安達クミはタクシーの中で言った。それから少し考えて付け加えた。「よかったら納骨もしておいてあげようか?」
 天吾はそう言われて驚いた。「そんなことができるの?」
「できなくはない」と安達クミは言った。「家族が一人も来ないお葬式だって、まったくないわけじゃないからね」
「もしそうしてくれたらとても助かる」と天吾は言った。そしていくぶんうしろめたくはあったが、正直なところほっとして、骨壺を安達クミに手渡した。おれがこの骨を目の前にすることはもう二度とないだろうと彼はそのとき思った。あとに残されるのは記憶だけだ。そしてその記憶だっていつかは[#傍点]ちり[#傍点終わり]のように消えてしまう。
「私は地元民だから、大抵のことは融通がつけられる。だから天吾くんは早く東京に帰った方がいい。[#傍点]私たち[#傍点終わり]はもちろんあなたのことが好きだけど、ここは天吾くんがいつまでもいる場所じゃない」
 [#傍点]猫の町を離れる[#傍点終わり]、と天吾は思った。
「いろいろとありがとう」と天吾はもう一度礼を言った。
「ねえ、天吾くん、ひとつ私から忠告していいかな。忠告なんて[#傍点]がら[#傍点終わり]じゃないけどさ」
「もちろんいいよ」
「あなたのお父さんは、何か秘密を抱えてあっち側に行っちゃったのかもしれない。そのことであなたは少し混乱しているみたいに見える。その気持ちはわからないでもない。でもね、天吾くんは暗い入り口をこれ以上のぞき込まない方がいい。そういうのは猫たちにまかせておけばいい。そんなことをしたってあなたはどこにも行けない。それよりも先のことを考えた方がいい」
「穴は閉じられなくてはならない」と天吾は言った。
「そういうこと」と安達クミは言った。「フクロウくんもそう言っている。フクロウくんのことを覚えている?」
「もちろん」
 [#ゴシック体]フクロウくんは森の守護神で、物知りだから、夜の智慧を私たちに与えてくれる。[#ゴシック体終わり]
「フクロウはまだあの林の中で鳴いているのかな?」
「フクロウはどこにもいかない」と看護婦は言った。「ずっとあそこにいる」
 天吾が館山行きの電車に乗るのを安達クミは見送ってくれた。実際に彼が電車に乗ってこの町から立ち去るのを自分の目で確認しておく必要があるというみたいに。彼女は見えなくなるまでプラットフォームで手を大きく振っていた。
 
 高円寺の部屋に戻ったのは火曜日の午後七時だった。天吾は明かりをつけ、食卓の椅子に腰を下ろし、部屋の中を見渡した。部屋は昨日の朝早く出ていったときのままだ。窓のカーテンは隙間なくぴたりと閉められ、机の上には原稿のプリントアウトが重ねられていた。きれいに削られた鉛筆が六本、鉛筆立てにあった。洗った食器が台所の流し台に積み上げられたままになっていた。時計は黙々と時を刻み、壁のカレンダーは一年が最後の月にさしかかっていることを示していた。部屋はいつもよりずっと[#傍点]しん[#傍点終わり]としているみたいだった。いささか[#傍点]しん[#傍点終わり]としすぎている。その静寂には何かしら過度なものが含まれているように感じられた。でも気のせいかも知れない。ついさっき一人の人間の消滅を目の前にしてきたせいかもしれない。世界の穴がまだ十分に塞がっていないからかもしれない。
 水をグラスに一杯飲んでから、熱いシャワーに入った。丁寧に髪を洗い、耳の掃除をし爪を切った。抽斗から新しい下着と新しいシャツを出して身につけた。いろんな匂いを身体から落とさなくてはならない。猫の町の匂いを。[#傍点]私たちはもちろんあなたのことが好きだけど、ここは天吾くんがいつまでもいる場所じゃない[#傍点終わり]、と安達クミは言った。
 食欲はなかった。仕事をする気も起きなかったし、本を開く気にもなれなかった。音楽を聴きたいとも思わない。身体はくたびれていたが、神経は妙に高ぶっている。だから横になって眠ることもできそうにない。あたりをおおっている沈黙にもどこかしら技巧的な趣きがあった。
 ここにふかえりがいてくれればいいのに、と天吾は思った。どんなつまらないことでもいい。意味をなさないことでもいい。抑揚や疑問形が宿命的に欠落していてもいい。彼女が語る言葉を久しぶりに耳にしたかった。しかしふかえりがもう二度とこの部屋に戻ってこないだろうことは、天吾にはわかっていた。どうしてそれがわかるのか、理由はうまく説明できない。しかし彼女はこの場所にはもう帰らない。たぶん。
 誰でもいい、誰かと話をしたかった。できることなら年上のガールフレンドと話をしたかった。しかし彼女に連絡をとることはできない。連絡先はわからないし、それに彼の告げられたところによれば、彼女はもう[#傍点]失なわれて[#傍点終わり]しまったのだ。
 小松の会社の電話番号を回してみた。彼のデスクに繋がる直通の番号だ。しかし電話には誰も出なかった。十五回ベルを鳴らしてから、天吾はあきらめて受話器を置いた。
 ほかに誰に電話をかけられるだろう、と天吾は考えてみた。でも一人として適当な相手は思い浮かばなかった。安達クミに電話してみようかとも思ったが、考えてみれば電話番号を知らなかった。
 それから彼は世界のどこかにまだ開いたままになっている、暗い穴のことを思った。それほど大きな穴ではない。しかし深い穴だ。その穴をのぞきこんで大きな声を出せば、まだ父親と会話を交わせるのだろうか? 死者は真実を告げてくれるのだろうか?
「そんなことをしてもあなたはどこにも行けない」と安達クミは言った。「それよりも先のことを考えた方がいい」
 でもそうじゃないんだと天吾は思う。それだけじゃないんだ。秘密を知ったところで、それはおれをどこにも連れて行かないかもしれない。それでもやはり、なぜそれが自分をどこにも連れて行かないのか、その理由を知らなくてはならない。その理由を正しく知ることによって、おれはひょっとしたら[#傍点]どこか[#傍点終わり]に行くことができるかもしれない。
 あなたが僕の実の父親であったにせよ、なかったにせよ、それはもうどちらでもいいことだ、天吾はそこにある暗い穴に向かってそう言った。どちらでもかまわない。どちらにしても、あなたは僕の一部を持ったまま死んでいったし、僕はあなたの一部を持ったままこうして生き残っている。実際の血の繋がりがあろうがなかろうが、その事実が今さら変わることはない。時間は既にそのぶん経過し、世界は前に進んでしまったのだ。
 窓の外にフクロウの鳴き声が聞こえたような気がした。でももちろん耳の錯覚に決まっている。

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