第28章 牛河
そして彼の魂の一部は
牛河の身体は天井の蛍光灯に照らされていた。暖房は切られ、窓のひとつが開けられていた。おかげで部屋は氷室のように冷え切っていた。部屋の中央部に会議用のテーブルがいくつかつなぎ合わされ、牛河はその上に仰向けに寝かされていた。上下の冬用下着というかっこうで、その上から古い毛布がかけられている。毛布の腹の部分が野原の蟻塚みたいにこんもりと膨らんでいる。何かを問いかけるように開かれた両目の上には——その目を閉じることは誰にもできなかった——小さな布がかぶせられている。唇は微かに開かれているが、そこから息や言葉が洩れ出ることはもはやない。頭頂部は生きて動いているときよりも更に扁平に、更に謎めいて見えた。陰毛を思わせる黒く太い縮れ毛が、そのまわりをみすぼらしく取り囲んでいる。
坊主頭は紺色のダウン・ジャケットを、ポニーテイルは襟のところに毛皮がついている茶色のスエードのランチコートを着ていた。どちらも微妙にサイズがあっていない。まるで限られた在庫品の中から、急いで間に合わせに選ばれたみたいに。部屋の中にいても彼らの吐く息は白かった。部屋の中にいるのは彼ら三人だけだった。坊主頭とポニーテイル、そして牛河。壁の天井に近いところにアルミサッシの窓が三つ並び、そのうちのひとつが、室温を低く保つために開け放しになっている。死体を載せたテーブルのほかには家具はひとつとしてない。どこまでも無個性で実務的な部屋だ。そこに置かれると、死体でさえ——それがたとえ牛河の死体であっても——無個性で実務的に見えた。
口をきくものはいなかった。部屋は完全な無音の状態にあった。坊主頭には考えなくてはならないことが数多くあったし、ポニーテイルはもともと口をきかない。牛河はどちらかといえば能弁な男だが、二日前の夜に心ならずも絶命していた。坊主頭は牛河の遺体を横たえたテーブルの前を、考えに耽りながらゆっくりと行き来していた。壁の近くで向きを変えるときをのぞけば、その歩調が乱れることはない。淡い黄緑色の安物のカーペットの床を踏む彼の革靴は音を一切立てなかった。ポニーテイルは例によってドアの近くに位置を定めたまま、身動きひとつしなかった。脚は軽く開かれ、背骨は伸び、視線は空間の一点に据えられている。疲れも寒さもまったく感じていないようだ。彼が生命体として機能していることは、ときおり見せる素速い瞬きと、口から規則正しく吐かれる白い息とでかろうじて判じられる。
その日の昼間、その冷ややかな部屋には何人かの人々が集まり、話し合いが持たれた。幹部のあるものは地方に出向いており、全員が揃うのを待って一日が費された。会合は内密なものであり、外に漏れないように抑制された小さな声で会話はなされた。牛河の死体はそのあいだずっと、工作機械見本市の展示品のようにテーブルの上に横たえられていた。死体は今のところ死後硬直の状態にあった。それが解けて身体がまた柔らかくなるまでに少なくとも三日はかかる。人々は牛河の死体にときおり短く目を向けながら、いくつかの実際的な問題について討議した。
討議が行われているあいだ、死者その人について語られているときでさえ、遺体に対する敬意や哀悼の念が、その部屋に漂うことはなかった。そのこわばったずんぐりとした死体が人々の胸に喚起するのはある種の教訓、あらためて確認されたいくつかの省察、その程度のものでしかなかった。何があろうといったん過ぎた時間が後戻りすることはないし、死によってもたらされる解決があるとしても、それはただ死者自身に向けられた解決でしかない。そのような教訓、あるいは省察だ。
牛河の死体をどう処理するか? 結論は最初から出ているようなものだ。変死した牛河が発見されれば、警察は詳細な捜査を行うだろうし、教団との繋がりが浮かび上がってくるのは必定だ。そんな危険を冒すわけにはいかない。死体は死後硬直が解け次第、人目につかないように敷地の中にある大型焼却炉に運び、速やかに処理をする。暗い煙と白い灰に変えてしまう。煙は空に吸い込まれ、灰は畑に撒かれて野菜の肥料になる。それはこれまでにも坊主頭の指導のもとに幾度か行われてきた作業だった。リーダーの身体は大きすぎたので、チェーンソーでいくつかの部分に「捌《さば》く」必要があった。しかしこの小柄な男の場合にはその必要はあるまい。それは坊主頭にとっては救いだった。彼はもともと血なまぐさい作業が好きではない。生きている人間が相手であれ、死んだ人間が相手であれ、できることなら血は見たくない。
上司にあたる人物から坊主頭に質問が向けられた。牛河を殺害したのはいったい誰なのか? なぜ牛河は殺されなくてはならなかったのか? そもそも牛河は何を目的としてその高円寺の賃貸アパートの一室にこもっていたのか? 坊主頭はセキュリティー班の長として、それらの質問に答えなくてはならなかった。しかし実際のところ、彼にも答えの持ち合わせはなかった。
彼は火曜日の未明に謎の男(タマルだ)からの電話を受け、牛河の死体がそのアパートの一室に残されていることを知らされた。そこで交わされた会話は実際的であると同時に、遠回しなものだった。電話を切ると、坊主頭は都内にいる配下の信者を即刻召集し、四人で揃いの作業着に身を包み、引越し業者を装い、トヨタのハイエースに乗ってその現場に向かった。それが仕掛けられた罠でないことを確かめるために、しばらくの時間を要した。車を少し離れたところに停め、まず一人がアパートのまわりをそれとなく偵察した。用心深くなる必要があった。警察が待ちかまえていて、部屋に足を踏み入れたとたんに逮捕されるというような状況は、なんとしても避けなくてはならない。
持参した引っ越し用のコンテナ・ボックスに、既に硬直を始めた牛河の死体をなんとか押し込み、アパートの玄関から担ぎ出し、ハイエースの荷台に載せた。寒い深夜だったから、ありがたいことにあたりにはまったく人通りがなかった。部屋の中に何か手がかりになりそうなものが残されていないか確かめるのにも時間がかかった。懐中電灯の明かりで隈なく室内を捜索した。しかし注意を引くようなものは何ひとつ見つからなかった。食料品のストックと、小さな電気ストーブと、登山用の寝袋のほかには、最低限の生活用具がひととおりあるだけだ。ゴミ袋の中にあるのはほとんどが缶詰の空き缶とペットボトルだった。牛河はおそらくその部屋に潜んで誰かの監視にあたっていたのだろう。坊主頭の注意深い目は窓際の畳の上に微かに残ったカメラ用三脚のあとを見逃さなかった。しかしカメラはなく、写真も残されてはいない。たぶん牛河の生命を奪った人物が回収していったのだろう。もちろんフィルムも一緒に。下着の上下だけで死んでいるところを見ると、寝袋の中で眠っているところを襲われたらしい。その誰かはおそらく音もなく部屋に侵入してきたのだ。そしてどうやらその死は多大の苦しみを伴うものであったようだ。下着には大量の尿をもらしたあとがあった。
その車で山梨に向かったのは坊主頭とポニーテイルの二人だけだった。あとの二人は事後処理のために東京に残った。最初から最後までポニーテイルがハンドルを握った。ハイエースは首都高速道路から中央高速道路に乗り、西に向かった。未明の道路はがらがらだったが、制限速度を厳密にまもった。もし警官に車を停められでもしたらすべては終わってしまう。車のナンバープレートは前後とも盗品に付け替えられているし、荷台には死体を詰めたコンテナ・ボックスがある。申し開きの余地はまったくない。道中二人は終始無言だった。
明け方に教団に到着すると、待ち受けていた教団内の医師が牛河の死体を調べ、窒息死であることを確認した。しかし首のまわりには絞められた痕跡はない。あとを残さないために、袋のようなものを頭からかぶせられたのではないかと推測された。両手足が調べられたが、紐で縛られたあとは見当らなかった。殴られたり、拷問を受けたような様子もなかった。表情にも苦悶の色は見受けられない。その顔に浮かんでいるのは、あえて表現するなら、答えの返ってくるあてのない純粋な疑問のようなものだった。どう考えても殺されているはずなのに、実にきれいな死体だ。医師はそのことを不思議がった。死んだあと、誰かが顔をマッサージして穏やかなものにしたのかもしれない。
「抜かりのないプロの仕事です」と坊主頭は上司にあたる人物に説明した。「跡をまったく残していない。おそらく声も上げさせていない。真夜中に起こったことですから、苦痛の悲鳴を上げていればアパート中に聞こえたはずです。素人にはとてもできないことです」
なぜ牛河がプロの手で消されなくてはならなかったのだろう?
坊主頭は用心深く言葉を選んだ。「たぶん、牛河さんは誰かの尻尾を踏んでしまったのでしょう。踏むべきではない尻尾を、自分でもその意味がよくわからないうちに」
それはリーダーを処理したのと同じ相手だろうか?
「確証はありませんが、その可能性は高いでしょう」と坊主頭は言った。「それから、おそらく牛河さんは拷問に近いことを受けています。どんなことをされたのかはわかりませんが、間違いなく厳しく尋問されています」
牛河はどこまでしゃべったのだろう?
「知っていることは根こそぎしゃべらされたはずです」と坊主頭は言った。「まず疑いの余地なく。とはいえ牛河さんはこの件に関しては、もともと限られた情報しか与えられていません。だから何をしゃべったところでこちらにそれほどの実害はないはずです」
坊主頭にしたところで、やはり限られた情報しか与えられていない。しかしもちろん、部外者である牛河よりはずっと多くのことを知っている。
プロというのは、つまり暴力団が関与しているということなのか、と上司は質問した。
「これはやくざや暴力団のやり口ではありません」と坊主頭は首を振って言った。「そういう連中のやることはもっと血なまぐさくて乱雑です。ここまで手の込んだことはしません。牛河さんを殺した人物は、我々に向けてメッセージを残しているのです。自分たちのシステムは高度に洗練されたものだし、手出しをするものがあれば的確に反撃がおこなわれる。これ以上この問題には首を突っ込むなという」
この問題?
坊主頭は首を振った。「それが具体的にどのような問題なのかは、私にもわかりません。牛河さんはここのところずっと単独で行動していました。途中経過を報告してくれと何度か要求はしたのですが、まだ整ったかたちで報告できるだけの材料が揃っていないというのが彼の言い分でした。おそらく自分一人の手で、きっちり真相を明らかにしたかったのでしょう。ですから彼は事情を自分だけの胸に収めたまま殺されたことになります。牛河さんはもともとリーダーが、どこかから個人的に連れてこられた人物ですし、これまでも別働隊のようなかたちで仕事をしていました。組織には馴染まない。命令系統からしても、私は彼を統御できる立場にはありませんでした」
坊主頭は責任の範囲を明確にしておかなくてはならなかった。教団は既に組織として確立されている。すべての組織にはルールがあり、ルールには罰則が伴う。不始末の責任をそっくり自分に押しつけられてはたまらない。
牛河はそのアパートの一室でいったい誰を監視していたのだろう?
「それはまだわかっていません。順当に考えれば、あのアパートか、あるいはその近辺に住んでいる誰かでしょう。東京に残してきたものがそれについて現在調査をおこなっているはずですが、まだ連絡はきていません。調べるのに時間がかかっているようです。おそらく私が東京に出向いて、自分で確かめた方がいいと思うのですが」
坊主頭は東京に残してきた部下の実務能力をそれほど評価していなかった。忠実ではあるが、要領は決して良くない。状況についてもまだ詳しいことは教えていない。何をするにしても、自分でやった方がずっと効率が良いはずだ。牛河の事務所も徹底的に調べ上げた方がいいだろう。あるいはあの電話の男が先にもうそれをやってしまっているかもしれない。しかし上司は彼の東京行きを認めなかった。事情がもっと明らかになるまで、彼とポニーテイルは本部に残らなくてはならない。それは命令だった。
牛河が監視していたのは青豆ではないのか、と上司は尋ねた。
「いいえ、それは青豆ではないはずです」と坊主頭は言った。「もしそこにいたのが青豆であれば、彼女の所在が判明した時点で即座に我々に報告しているはずです。そこで彼の責任は果たされ、与えられた仕事は終わるわけですから。おそらく牛河さんがそこで監視していたのは、青豆の居場所に繋がる、あるいは繋がる[#傍点]かもしれない[#傍点終わり]誰かであったはずです。そう考えないことにはつじつまが合いません」
そしてその誰かを監視している途中で、逆に相手に気づかれて手を打たれた?
「おそらくそういうことでしょう」と坊主頭は言った。「単独で危険な場所に近づきすぎたのです。有力な手がかりを得て、功を焦ったのかもしれません。複数で監視にあたっていればお互いに身を護りあえるし、そんな結果にはならなかったはずです」
君は[#傍点]その男[#傍点終わり]と電話で直接話をした。我々と青豆が話し合いの場を持てる見込みはあると思うか?
「私にも予測はつきません。ただ青豆本人に我々と交渉するつもりがなければ、話し合いの場が設けられる見込みはないでしょう。電話をかけてきた男の言い方にも、そういうニュアンスがうかがえました。すべてはあくまで彼女の気持ち次第だという」
リーダーの一件を不問とし、彼女の身の安全を保障するという条件は、先方にとってもありがたいものであるはずだが。
「それでもなお彼らはより詳しい情報を求めています。我々がなぜ青豆に会いたがっているのか。なぜ彼らとのあいだに和平を求めているのか。具体的に何を交渉しようとしているのか」
情報を求めているというのはとりもなおさず、相手は正確な情報を持っていないということになる。
「そのとおりです。しかし同時に我々もまた相手についての正確な情報を持っていません。なぜ彼らがあれほど周到な計画を練り、手間をかけてリーダーを殺害しなくてはならなかったか、その理由すら未だにわかっていません」
いずれにせよ、相手の返答を待ちつつも、我々としてはこのまま青豆の捜索を続行しなくてはならない。たとえその過程で誰かの尻尾を踏みつけることになろうと。
坊主頭は少し間を置いて言った。「我々は緊密な組織を持っています。人員を集め、有効に迅速に行動することもできます。目的意識もあり、士気も高く、必要とあらば自分を捨てることもできます。しかし純粋に技術的なレベルのことを言えば、寄せ集めのアマチュア集団に過ぎません。専門の訓練も受けていません。それに比べると相手はプロです。ノウハウを心得ているし、冷静に行動し、何をするにせよ躊躇することがありません。場数も踏んでいるようです。またご存じのように、牛河さんも決して不注意な人間ではありませんでした」
具体的にこれからどのように捜索にあたるつもりなのだ?
「今のところ、牛河さんが手にしたらしい[#傍点]有力な手がかり[#傍点終わり]を引き継いで追及していくのがいちばん有効のようです。それが何であれ」
つまり我々はそれ以外には、自前の有力な手がかりを持っていない?
「そういうことです」と坊主頭は素直に認めた。
どのような危険に遭遇しても、どのような犠牲を払っても、我々は青豆という女を見つけて[#傍点]確保[#傍点終わり]しなくてはならない。一刻も早く。
「それが我々に与えられた声の指示なのですね?」と坊主頭は聞き返す。「どのような犠牲を払っても、一刻も早く青豆を[#傍点]確保[#傍点終わり]することが」
上司は返事をしなかった。そこから先の情報は坊主頭のレベルにまでは明かされない。彼は幹部ではない。ただの実行部隊の長に過ぎない。しかし坊主頭は知っていた。それが[#傍点]彼ら[#傍点終わり]から与えられた最後通告であり、巫女たちが耳にしたおそらくは最後の「声」であることを。
冷え切った部屋の中、牛河の遺体の前を歩いて往復しているとき、坊主頭の意識の片隅を何かがよぎった。彼はそこで立ち止まり、顔をしかめ、眉を寄せ、その通り過ぎていった[#傍点]何か[#傍点終わり]のかたちを見定めようとした。彼の歩行が中断されたとき、ポニーテイルはドアの脇で僅かに姿勢を変えた。息を長く吐き、脚の重心を移し替えた。
高円寺、と坊主頭は思う。彼は顔を軽くしかめる。そして記憶の暗い底を探る。細い一本の糸を注意深く、ゆっくりとたぐり寄せる。この件に関係している誰かがやはり高円寺に住んでいた。いったい誰だろう?
彼はポケットからくしゃくしゃになった分厚い手帳を出して、急いでぺージを繰った。そして記憶に間違いがなかったことを確認した。川奈天吾だ。彼の住所がやはり杉並区高円寺になっている。牛河が死んでいたアパートの住所と番地がまったく同じだ。同じアパートで部屋番号が違っているだけだ。三階と一階。牛河はそこで川奈天吾の動向を監視していたのだろうか? 疑いの余地はない。たまたま住所が同じだったというような偶然はまずあり得ない。
しかしなぜ牛河が、こんな切迫した状況の中で今さら川奈天吾の動向を探らなくてはならないのだ? 坊主頭が今まで川奈天吾の住所を思い出さなかったのは、彼に対する関心がすっかり失われてしまっていたからだ。川奈天吾は深田絵里子の書いた『空気さなぎ』をリライトした。その本が雑誌の新人賞を取り、出版され、ベストセラーになっているあいだ、彼もやはり要注意人物の一人だった。彼は何かの重要な役割を担っているのではないか、何か大事な秘密を握っているのではないかという推測もあった。しかし今ではもう彼の役目は終わっている。ただの代筆者に過ぎなかったことが判明している。小松に依頼されて小説を書き直し、ささやかな収入を得た。それだけの人物だ。何の背景もない。今では教団の関心は、青豆の行方ひとつに絞られていた。それなのに牛河はその予備校講師に焦点を合わせて活動していた。本格的な体制をとって張り込みをおこなっていた。そしてその結果命まで落とすことになった。何故だ?
坊主頭には見当がつかなかった。牛河は間違いなく何かしらの手がかりを得ていたのだ。そして川奈天吾にぴったりくっついていれば、青豆の行方がつきとめられると考えたようだ。だからこそ彼はわざわざあの部屋を確保し、窓際に三脚つきのカメラをセットし、おそらくはかなり前から川奈天吾の監視を続けていた。川奈天吾と青豆のあいだには何かの繋がりがあったのだろうか? もしあるとしたら、それはいったいどのような繋がりなのだろう?
坊主頭は何も言わずに部屋を出て、暖房の入った隣室に行き、東京に電話をかけた。渋谷の桜丘にあるマンションの一室だ。そこにいる部下を呼び出し、今からすぐ高円寺の牛河のいた部屋に戻り、そこから川奈天吾の出入りを監視するようにと命令した。相手は髪の短い大柄な男だ。たぶん見逃すことはない。もしその男がアパートを出てどこかに向かったら、気づかれないように二人であとをつけるんだ。決して見逃すんじゃない。行き先を見届けろ。何があろうとその男に張りついていろ。俺たちもできるだけ早くそちらに行くから。
坊主頭は牛河の遺体が置かれた部屋に戻り、これからすぐ東京に行くとポニーテイルに告げた。ポニーテイルはただ短く肯いた。彼が何かの説明を求めることはない。求められていることを理解し、すみやかに行動に移すだけだ。坊主頭は部屋を出ると、部外者が中に入れないように鍵を閉めた。そして建物の外に出て、駐車場に並んだ十台ほどの車の中から、黒塗りの日産グロリアを選んだ。二人はそれに乗り込み、ささったままになっているキーを回してエンジンをかけた。ガソリンは規則によって常に満タンになっている。運転は今回もポニーテイルが担当した。日産グロリアのナンバープレートは合法的なものだし、車の出所もクリーンだ。ある程度のスピードを出しても問題はない。
東京に戻る許可を上司から受けていなかったことに気づいたのは、高速道路に乗ってしばらくしてからだった。それは後日問題になるかもしれない。やむを得ない。一刻を争う緊急の問題なのだ。東京に着いてからあらためて事情を説明するしかない。彼は軽く顔をしかめた。組織という制約は時として彼をうんざりさせた。規則の数は増えることはあっても減ることはない。しかし自分が組織から離れては生きられないことを彼は知っていた。彼は一匹狼ではない。上から指示を与えられ、その通りに動くたくさんある歯車のうちのひとつに過ぎない。
ラジオをつけて八時の定時ニュースを聞いた。ニュースが終わると坊主頭はラジオを切り、助手席のシートを倒して少し眠った。目覚めたとき空腹を感じたが(この前まともな食事をとったのはいつのことだろう?)、サービスエリアで車を停めるような時間の余裕はなかった。先を急がなくてはならない。
しかしそのときには既に、天吾は公園の滑り台で青豆との再会を遂げていた。彼らが天吾の行く先を知ることはなかった。天吾と青豆の頭上には二つの月が浮かんでいた。
牛河の遺体は冷え切った闇の中に静かに横たわっていた。部屋には彼のほかには誰もいない。明かりは消され、ドアの鍵は外からかけられていた。天井に近い窓から月の光が青白く差し込んでいた。しかし角度のせいで牛河には月の姿は見えない。だからその数がひとつなのか二つなのか、彼には知るべくもない。
部屋に時計はないから正確な時刻はわからない。おそらく坊主頭とポニーテイルが退出してから一時間ばかり経過した頃だろう。もし仮にそこに誰かが居合わせていたなら、牛河の口が突然もぞもぞと動き出したのを目にして、肝を潰したに違いない。それは常識では考えられない恐ろしい出来事だった。牛河は言うまでもなく既に絶命していたし、おまけにその身体は完全な死後硬直の状態にあったからだ。しかし彼の口はなおも細かく震えるように動き続け、やがて乾いた音を立ててぱくりと開いた。
そこに居合わせた人は、牛河がこれから何かを語り始めるのではないかと思ったことだろう。おそらくは死者にしか知り得ない何か大事な情報を。その人はきっと怯えながらも、固唾《かたづ》を呑んで待ち受けたことだろう。さあ、これからいったいどんな秘密が明らかにされるのだろう?
しかし牛河の大きく開かれた口から声は出てこなかった。そこから出てきたのは言葉ではなく、吐息でもなく、六人の小さな人々だった。背の高さはせいぜい五センチほどだ。彼らは小さな身体に小さな服を着て、緑色の苔のはえた舌を踏みしめ、汚れた乱杭歯をまたぎ、順番に外に出てきた。夕方に仕事を終え、地上に戻ってくる炭坑夫たちのように。しかし彼らの衣服や顔はきわめて清潔で、汚れひとつなかった。彼らは汚れや摩耗とは無縁の人々だった。
六人のリトル・ピープルは牛河の口から出ると、遺体が横たえられた会議用テーブルの上に降り、そこでそれぞれに身を揺すって、図体をだんだん大きくしていった。彼らは自分の身体を必要に応じて適切なサイズに変えることができた。しかしその身長が一メートルを超えることはないし、三センチより小さくなることもない。やがて六十センチから七十センチほどの背丈に達すると、彼らは身を揺するのをやめ、順番にテーブルから部屋の床に降りた。リトル・ピープルの顔には表情がない。といっても、仮面のような顔をしているわけではない。彼らはごく当たり前の顔をしている。サイズを別にすれば、あなたや私とだいたい同じ顔をしている。ただ今のところあえてそこに表情を浮かべる必要がないというだけだ。
彼らは見たところとくに急いでもいないし、とくにのんびりしてもいない。彼らはなすべき仕事に必要な時間を、ちょうど必要とするだけ与えられている。その時間は長すぎもしないし、短かすぎもしない。六人は誰が合図するともなく、床の上に静かに腰を下ろし、輪になった。破綻のないきれいな輪で、直径は二メートルばかりだ。
やがて一人が無言のうちに手を伸ばして、空中からすっと一本の細い糸をつまみ上げた。糸の長さは十五センチばかり、白に近いクリーム色で半透明だ。彼はそれを床の上に置いた。次の一人もまったく同じことをした。同じ色の同じ長さの糸だ。あとの三人も同じ動作を繰り返した。しかし最後の一人だけが違う行動を取った。彼は立ち上がって輪を離れ、もう一度会議用テーブルの上に昇り、牛河のいびつなかたちをした頭に手を伸ばし、そこに生えている縮れた毛髪を一本ちぎった。ぶちんという小さな音が聞こえた。彼にとってはそれが糸の代わりだった。その五本の空中の糸と、一本の牛河の頭髪を、最初のリトル・ピープルが慣れた手でひとつに紡いだ。
そのようにして六人のリトル・ピープルは新しい空気さなぎを作っていった。今回は誰も口をきかなかった。はやし声も上げなかった。無言のうちに空中から糸を取りだし、牛河の頭から髪をむしり、安定した滑らかなリズムを維持しながら、てきぱきと空気さなぎを紡ぎ上げていった。冷え切った部屋の中にあっても、彼らの吐く息は白くならなかった。もしそこに人が居合わせたら、そのことをも不思議に思ったかもしれない。あるいは驚くべきことが多すぎて、そんなところまで気がまわらなかったかもしれない。
リトル・ピープルがいくら熱心に休みなく働いたところで(彼らは実際に休まなかった)、もちろん一晩で空気さなぎを作り上げることはできない。最低でも三日はかかるだろう。しかし六人のリトル・ピープルには急いでいる様子はなかった。牛河の死後硬直が解け、焼却炉に入れられるまでにあと二日はかかる。彼らはそれを承知していた。二晩のうちにおおよそのかたちを仕上げればいい。必要なだけの時間は彼らの手の中にある。そして彼らは疲れというものを知らない。
青白い月の光を浴びて、牛河はテーブルの上に横たわっていた。口は大きく開き、閉じることのない目には厚い布がかぶせられていた。その瞳が生きている最後の瞬間に見ていたのは、中央林間の建て売りの一軒家であり、その小さな芝生の庭を元気にかけまわる小型犬の姿だった。
そして彼の魂の一部はこれから空気さなぎに変わろうとしていた。