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1Q84 (3-29)
日期:2018-10-13 22:40  点击:505
 第29章 青豆
      二度とこの手を放すことはない
 
 
 天吾くん、目を開けて、と青豆は囁くように言う。天吾は目を開ける。世界にもう一度時間が流れ始める。
 月が見える、と青豆は言う。
 天吾は顔を上げて空を見上げる。ちょうど雲が切れて、ケヤキの枯れた枝の上に月が浮かんでいるのが見える。大小二つの月だ。大きな黄色い月と、小さくいびつな緑色の月。マザとドウタ。通り過ぎたばかりの雲の縁が、その二つが混じり合った色あいに淡く染められている。長いスカートの裾をうっかり染料に浸けてしまったみたいに。
 それから天吾は傍らにいる青豆を見る。彼女はもう、サイズの合わない古着を着て、髪を母親にぞんざいにカットされた、いかにも栄養の足りないやせっぽちの十歳の女の子ではない。かつての面影はほとんどない。にもかかわらず、彼女が青豆であることは一目でわかる。天吾の目にはそれは青豆以外の誰にも見えない。彼女の一対の瞳が湛《たた》える表情は、二十年の歳月を経ても変わっていない。それは力強く、濁りなく、どこまでも透き通っている。自分が何を希求しているかを確信している目だ。誰に阻まれることもなく、何を見るべきかを熟知している目だ。その目はまっすぐ彼を見ている。彼の心をのぞき込んでいる。
 青豆は彼の知らないどこかの場所でその二十年という歳月を送り、一人の美しい大人の女性に成長した。しかし天吾はそれらの場所と時間を、何の留保もなく瞬時に自分の内に吸収し、自らの生きた血肉とすることができた。それらは今ではもう彼自身の場所でもあり、彼自身の歳月でもあった。
 何かを言わなくてはと天吾は思う。しかし言葉は出てこない。彼の唇は微かに動いて、相応しい言葉を空中に探し求める。でもどこにもそんなものは見つからない。さすらう孤島を思わせる白い吐息のほかに、唇のあいだから出てくるものはない。青豆は彼の目を見ながら一度だけ短く首を振る。天吾はその意味を理解する。[#傍点]何も言わなくていい[#傍点終わり]ということだ。彼女はポケットの中の天吾の手を握り続けている。彼女の手は一瞬たりともそこから引くことはない。
 私たちは同じものを見ている、青豆は天吾の目をのぞき込んだまま静かな声で言う。それは質問であると同時に質問ではない。彼女はそのことを既に知っている。それでも彼女はかたちをとった承認を必要としている。
 月は二つ浮かんでいる、と青豆は言う。
 天吾は肯く。月は二つ浮かんでいる。天吾はそれを声には出さない。声はなぜかうまく出てこない。ただそう心に思うだけだ。
 青豆は目を閉じ、丸くなって身をかがめ、天吾の胸に頬を寄せる。心臓の上に耳をつける。彼の思いに耳を澄ませる。そのことを知りたかった、と青豆は言う。私たちが同じ世界にいて、同じものを見ていることを。
 気がつくと、天吾の心の中にあった大きな渦の柱は既に消え去っている。ただ静かな冬の夜が彼のまわりを囲んでいる。道路を隔てたマンションの——それは青豆が逃亡者としての日々を送っていた場所だ——いくつかの窓にともった明かりは、彼ら以外の人々もまたこの世界に生きていることを示唆している。それは二人にとってはずいぶん不思議なことに思える。いや、論理的に正しくないことにさえ思える。自分たち以外の人々がまだこの世界に存在し、それぞれの暮らしを送っているということが。
 天吾は少しだけ身をかがめ、青豆の髪の匂いを嗅ぐ。まっすぐな美しい髪だ。小さなピンク色の耳が内気な生き物のように、そのあいだからわずかに顔をのぞかせている。
 とても長かった、と青豆は言う。
 とても長かった、と天吾も思う。しかしそれと同時に二十年という歳月が、もはや実質を持たないものになっていることに彼は気づく。それはむしろ一瞬のうちに過ぎ去った歳月であり、だからこそ一瞬のうちに埋めることのできる歳月なのだ。
 天吾はポケットから手を出して、彼女の肩を抱く。彼女の肉体の密度を手のひらに感じる。そして顔を上げてもう一度月を見上げる。一対の月はまだ雲の切れ目から、混じり合った不思議な色合いの光を地上に投げかけている。雲はとてもゆっくりと流れている。心という作用が、時間をどれほど相対的なものに変えてしまえるかを、その光の下で天吾はあらためて痛感する。二十年は長い歳月だ。そのあいだにはいろんなことが起こり得る。たくさんのものが生まれ、同じくらいたくさんのものが消えていく。残ったものごとも形を変え、変質していく。長い歳月だ。でも定められた心にとっては、それが[#傍点]長すぎる[#傍点終わり]ということはない。たとえ仮に二人が巡り合うのが今から二十年後であったとしても、彼は青豆を前にして、やはり今と同じ気持ちを抱いていただろう。天吾にはそれがわかる。もし二人が共に五十歳に達していたとしても、彼は青豆を前にして、やはり今と同じように胸を激しくときめかせ、同じように深く混乱していたに違いない。同じ悦びと同じ確信を心に強く抱いていたに違いない。
 天吾は心の中でそう考えるだけで声には出さない。でもその声にならない言葉を、青豆がひとつひとつ注意深く聞き取っていることが天吾にはわかる。彼女は天吾の胸に小さなピンク色の耳をつけて、その心の動きに耳を澄ませている。地図を指先で辿りながら、そこに鮮やかな生きた風景を読み取ることのできる人のように。
 ずっとここにいて、このまま時間のことなんか忘れていたい、と青豆は小さな声で言う。でも私たちにはやらなくてはならないことがあるの。
 [#傍点]我々は移動する[#傍点終わり]、と天吾は思う。
 そう、私たちは移動する、と青豆は言う。それも早ければ早いほどいい。もうあまり時間は残されていないから。これからどんなところに行くか、まだ言葉にはできないけれど。
 言葉にする必要はない、と天吾は思う。
 どこに行くか知りたくはないの、と青豆は尋ねる。
 天吾は首を振る。現実の風に心の炎が吹き消されることはなかった。それより大きな意味を持つことなどどこにもありはしない。
 私たちが離れることはない、と青豆は言う。それは何よりはっきりしている。私たちが二度とこの手を放すことはない。
 新しい雲がやってきて、時間をかけて二つの月を呑み込んでいく。舞台のカーテンが音もなく降りるように、世界を包んだ影が一段深みを増す。
 急がなくては、と青豆は小声で囁く。そして二人は滑り台の上に立ち上がる。二人の影はそこであらためてひとつになる。闇に包まれた深い森を手探りで抜けていく幼い子供たちのように、彼らの手は堅くひとつに握りあわされている。
「僕らはこれから猫の町を離れる」と天吾は初めて言葉を口にする。青豆はその生まれたばかりの新しい声を大事に受け入れる。
「猫の町?」
「深い孤独が昼を支配し、大きな猫たちが夜を支配する町のことだよ。美しい河が流れ、古い石の橋がかかっている。でもそこは僕らの留まるべき場所じゃない」
 私たちは[#傍点]この世界[#傍点終わり]をそれぞれに違う言葉で呼んでいたのだ、と青豆は思う。私はそれを「1Q84年」という名で呼び、彼はそれを「猫の町」という名で呼んだ。でも示されているのは同じひとつのものだ。青豆は彼の手をいっそう強く握る。
「そう、私たちはこれから猫の町を出ていく。二人で一緒に」と彼女は言う。「この町を出てしまえば、もう昼であれ夜であれ、私たちが離ればなれになることはない」
 二人が急ぎ足で公園をあとにするときもまだ、大小の一対の月は緩慢な速度で流れる雲の背後に隠されている。月たちの目は覆われている。少年と少女は手を取りあって森を抜けていく。

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11/24 14:31