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トットチャンネル38
日期:2018-10-14 19:09  点击:336
 七尾伶子《ななおれいこ》さん
 
 トットが、東京放送劇団の先輩《せんぱい》の中で、もっとも恐《おそ》れていたのは、七尾さんだった。七尾さんは、トットが入った頃《ころ》、丁度、終りに近づいていた、あの、「君の名は」で、主役の「真知子」と、人気を二分した「綾《あや》」の役で、日本中の人気の的の人だった。少しかすれたような独特の声で、ラジオ・ドラマで、ひっぱり凧《だこ》だった。なぜ、トットが七尾さんを恐れていたか? というと、それは、面とむかって、怒《おこ》るからだった。例えば、ラジオのスタジオに入って、トットが運よく、おろされないで、本読みまで、たどりつき、思わず、はしゃいで、同じ五期生の友達《ともだち》と、ベチャベチャ、しゃべったりしてると、
「静かに! うるさいじゃないの! スタジオは、勝手なこと、しゃべるとこじゃないのよ! 静かにしなさい!」
 と、あの有名な声で、怒ることだった。あるときは、トットが、首にロケットを下げてて、中に、どんな写真が入ってるか、なんて休憩《きゆうけい》時間に、スタジオの外の廊下《ろうか》で友達に見せびらかしているときだった。そばを通りかかった七尾さんが、いった。
「ラジオのスタジオに入るとき、そういう、ネックレスや腕輪《うでわ》なんか、はずしなさいよ。マイクに、ぶつかったりして、音がしたら、どうするの!」
 そういえば、七尾さんは、いつもネックレスや腕輪を、していなかった。それにしても、折角、おしゃれして来たのに。ロケットの中に、憧《あこが》れのシューベルトの写真を切りぬいて、入れて来たのに……。鎖《くさり》を首から、はずしながら、トットは思った。
(意地悪!)
 他《ほか》の先輩は、誰《だれ》も何もいわないのに、七尾さんだけが怒るんだもの。
 だから、トットは、毎日、スタジオに入るとキョロキョロして、心の中で、(七尾さんと一緒《いつしよ》じゃないと、いいなあー)と思うくらいだった。で、七尾さんの姿を見つけちゃうと、(あーあ……)と憂鬱《ゆううつ》になるのだった。なにか、オドオドして、のびのび出来ないからだった。事実、オドオドしたために、こんなことが起った。その日は珍《めず》らしく、すべてが順調で、本番までスムースに行った。そして、これも、また珍らしく、ナマ放送じゃなく、録音をとる、ということになった。勿論《もちろん》、トット達は、ガヤガヤだった。女学生のガヤガヤだったから、少しくらいトットの声が目立っても、おろされる心配は、なかった。本番が始まり、半分くらいまで、進んだときだった。トットが、みんなとマイクのところに行こうとすると、トットの赤いハイヒールが、突然《とつぜん》、ギイギイ、と音をたて始めた。静かに、足音を、しのばせて歩いているのに、安物らしい、ひどい音だった。(あっ!)と、トットが習慣的に七尾さんを見ると、もう、マイクのところで、七尾さんは、トットを、にらんでいた。とにかく、そのシーンのガヤガヤが済むと、トットは、いそいでマイクから離《はな》れ、相変らずギイギイという靴《くつ》を急いで脱《ぬ》いで、はだしになった。それから、両手の靴を、どこかに置いて来《こ》ようと、ぬき足、さし足で進んだら、なんという運の悪さ。片っぽの靴を、床《ゆか》に落してしまった。
「ゴトーン!!」
 かなりの音がした。(しまった!)七尾さんは、こわーい顔をしている。トットにとって、本来なら、音をたてた場合、マイクの調整の人を見るべきなのに、一番こわい七尾さんを、つい、見てしまうのだった。それでも、N・Gにはならなかった。(よかった!)床にころがった靴を、そーっと拾って、やっとカーテンのむこうに静かに置き、いそいでマイクのところに、もどった。勿論、はだしで。そして、そのシーンを済ませると、次のガヤガヤまで、なるべく皆《みな》さんの、御迷惑《ごめいわく》にならないように、そして、出来るだけ、七尾さんの目から、遠いところに行こうと、スタジオの隅《すみ》の、カーテンのむこうの、もう誰もいないところまで行った。カバーをかけたグランドピアノが置いてあり、そこまで行けば、トットが静かにしよう、としてるのが、七尾さんにも、わかってもらえるくらい、隅っこだ、と、トットは思った。(やれやれ)トットは、ため息をついて、ピアノに、よりかかった。とたんに、グランドピアノが、
「ギ——イ!!」
 と大音響《だいおんきよう》を発し、一メートルも移動してしまった。当然、N・Gだった。カーテンのむこうから、七尾さんの、かみなりが落ちた。静かにしよう静かにしようと思えば思うほど、こんなになっちゃう、ということが、七尾さんに、わかってもらえなくて、悲しかった。七尾さんは、先輩としてミクサーさんにN・G出したことを、あやまってくれた。それから、七尾さんは、トットにむかうと、いった。
「スタジオは、仕事をするところ。俳優になろうと思ってるんなら、ちゃんとやりなさい。そんなことやってたら、いつか、本当に自分が、何かやりたい、と思ったって、誰も協力なんかしてくれないからね!!」
 怒ってる声だった。
 このときは、ただ、こわかった七尾さんだった。何もいわないで、だまってる先輩のほうが、いい人だ、と、トットは思っていた。
「俳優殺すに刃物《はもの》は要《い》らぬ。お上手お上手! の三度もいえば良い!」
 この、ことわざを聞いた、ある日、トットは、(はっ!)と思い出した。あの頃、真剣《しんけん》に怒ってくれ、プロとしての根性や、マナーを、トットに、にくまれながらも教えてくれたのは、先輩では、七尾さん、たった一人だった……。

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11/28 17:43