真似《まね》なんか、してない!
今日、トットは、これまでの自分の人生で、こんなに悲しく、また屈辱《くつじよく》的な気持を味わったのは、初めてだ! というような目に、あってしまった。午後、ラジオのガヤガヤの仕事が終り、第一スタジオ(一スタ)から出て来たところで、トットは、放送劇団の一期生の男優のIさんに呼びとめられた。Iさんとは、いままで、一緒《いつしよ》のスタジオだった。そして、トットたちは、ガヤガヤだけど、勿論《もちろん》、Iさんは、主役だった。
「ちょっと、話がある。この本読室、空《あ》いてるから、ここでいい」Iさんは、一スタの前の本読室のドアを開けて入った。トットは、(なんだろう?)と思ったけど、大先輩《だいせんぱい》が話がある、というのだから、ついて入った。ガランとした薄暗《うすぐら》い本読室だった。すわって話、するのか、と思ったら、赤ら顔に眼鏡を光らせたIさんは、立ったまま、いきなり、いった。
「なんだ! お前の日本語は!」
いきなり、お前の日本語は、なんだ! と言われても、外国人なら、何か言うことがあるかも知れないけど、日本人のトットには、何と答えたらいいのか、答えようが、なかった。トットは、オロオロした風に、Iさんを見た。Iさんは、いかにも不愉快《ふゆかい》そうに、たたみかけるように、
「それでも、日本語か?」
といった。トットは、こわかったけど、相手の言おうとしてる意味をわかりたかったから、一生懸命《いつしようけんめい》、おねがいをする調子で聞いた。
「私の日本語、おかしいんですか? どういう風にですか?」
Iさんは、ニベもなく、答えた。
「どういう風にも、こういう風にも、日本語として、ヘンなんだよ! 全部が!」
トットは、だまってしまった。トットのしゃべりかたは、昔《むかし》から、しゃべってる自分の、しゃべりかたで、そんなに、ヘンとは、思ってなかった。パパもママも、ヘンとか、おかしいとは、別に、いわなかったし。だけど、全部が、ヘンだと、いま、目の前のIさんは、いっている。たしかに、これまでの放送劇団の人達《ひとたち》の、しゃべりかたと違《ちが》うことは、トットにも、わかっていた。でも、同期生の人達だって、みんな、同じように、しゃべってるし、「しゃべりかたが早い!」と、トットは、ディレクターに、よく叱《しか》られるけど、ふだんは、みんなだって、そのくらいの早さで、しゃべってる。ただ、みんなは、ラジオ・ドラマの時は、ふだんより少し、ゆっくりにするけど、トットは、ふだん、自分が、しゃべってるままの速度で、しゃべる。だから、「早い」といわれちゃう。そういうことは、わかっていた。でも、現代の若い女の子の役だったら、ふだんのままで、いいのではないか? と、トットは、考えていた。だから、Iさんが、もし、
「セリフが早すぎる!」
と言ったのなら、自分の意見を伝えることも出来た。でも、日本語が、全部、ヘン、となると、これは、大問題だった。一応、東京放送劇団の俳優は、訛《なまり》が無い、ということが条件で、その点、トットは、東京に生まれて育ったので、訛は、なかった。(……ヘン、て、どういうことなのかなあ……)トットは、とても心細くなって、早く、ここを出たい、と思った。でも、目の前のIさんは、とても、出してくれそうもなかった。
(�お前は下手だ!�とか、�しゃべる態度が悪い�とか、�早すぎて、いってる事が、わからない�と、いってくれたら、確かに、そういうところがあるんだし、直しもする)
でも、Iさんの言ってることは、そういうことじゃ、ないらしかった。
(それにしても、私は新人で、下手だし、確かに、ヘンなとこもある。ですから、なんとか、ふつうの人のように、やれるように、勉強しますから……)と、トットが、いおうと思っているとき、Iさんは、トットが、ゾッ! とするような、はきすてるような口調で、こういった。
「とにかく、お前の日本語、全部、明日《あした》っから、直してくるんだな!」
(直す? 生まれたときから、何十年も、しゃべってる、私の、この言葉を、全部、直せって?)
トットは、気が転倒《てんとう》した。そんなこと、出来っこ、なかった。だって、これは、私の、自分の、しゃべりかたで、自分のもの。一体、直して、どんな風に、しゃべれば、いい、と言うのだろう。でも、次のIさんの言葉を聞く前だったから、トットは、オロオロしながらも、ちゃんとしていた。ところが、次に、Iさんは、こういったのだった。トットが、一生忘れることが出来ない! と思った、この言葉を。
「中村メイコの真似でも、してやがんのか?」
放送界に、うといトットでも、中村メイコさんの名前は、知っていた。でも、ラジオの声を聞いたことも、それまで、なかったし、テレビでも、まだ一緒に出るようになる前で、どんな芸風の、どんな喋《しやべ》りかたを、する人なのか、知らなかった。
それに、知っていた、としても、自分らしくないことをするのが、どんなに恥《はず》かしいか、トットは小さい時から知っていたから、するはずがなかった。その人間だけが持っている、個性を、早く、小さいうちに見つけて、それを、のばす、という、トモエ学園の小林校長先生の教育方針の中で育って来たトットは、自分のものは、それが、ヘンでも、大切だ、と思って来た。それなのに、
「誰《だれ》かの真似を、するつもりか?」
と、いわれた。トットは、もう少しで、涙《なみだ》が溢《あふ》れそうになるのを、我慢《がまん》して叫《さけ》んだ。
「真似なんか、してません!」
Iさんは、
「とにかく、聞いちゃいられねえんだ!」
と、いい捨てて、部屋を出て行った。
「真似をしてる? 真似をしてる? 真似をしてる?」
体中が、悲しみで、ふるえた。涙が、とめどなく、流れた。どんな汚《きた》ない言葉で、ののしられても、我慢は、出来た。「ヘンな子ね」と、馬鹿《ばか》にしたみたいに先輩に笑われても、こらえてきた。でも、「誰かの真似をしてる」と、いわれたことは、トットにとって、耐《た》えられないことだった。そういうことをいう大人の人がいる、ってこと、トットは、知らないで、育ってきてしまった。
それから二時間、トットは、真暗な中で、本読室のコンクリートの壁《かべ》を、こぶしで叩《たた》きながら、一人で泣いていた。
「真似なんかしてない! 真似なんかしてない!」
と、くり返しながら……。