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トットチャンネル70
日期:2018-10-14 19:35  点击:291
 あとがき
 
 
 今から六年前、テレビが始まって、丁度、「二十五周年」ということで、大きな特別番組の収録がNHKホールでありました。
 私は、そのとき、�私とテレビの関係�は、昔《むかし》の女の人が、相手の顔も、よく見ずに、お見合いで結婚《けつこん》し、そして銀婚式を迎《むか》えたのに似ている、と思いました。私は、テレビのために養成されました。でも、テレビというものが、まだ始まってなくて、どんなものか、よくわからず、それでも身をゆだねて、二十五年、経《た》ってしまったんです。
「銀婚式なんだわ、本当なら」
 私は、NHKホールの片隅《かたすみ》で、つぶやきました。
 その日、私は、司会者の一人だったんですけど、司会のほかに、もう一つ、面白《おもしろ》いコーナーに出演しました。それは、私と森繁久彌《もりしげひさや》さんが、その日から更《さら》に二十五年、経った……つまり、
「テレビ開局 五十周年」
 という特別番組に出演したら……という想像のシーンでした。そのころ、森繁さんは、九十|歳《さい》ちょっと、私は七十歳くらいです。二人とも、その年齢《ねんれい》に自分がなった時を推定して、扮装《ふんそう》しました。たしか森繁さんは和服、私は、スーツだったように思います。森繁さんは、ふくさに包んだ、しびんを、お持ちになりました。二十五年後、NHKホールに、二人が登場します。アナウンサーのかたが、インタビューなさいます。
「五十年前のテレビというのは、どんなもので、ございましたか?」
 森繁さんが、ぼんやりしていらっしゃるので、私が注意を、うながします。
「森繁さん! テレビが始まった頃《ころ》、どんなだったか、って聞いてらっしゃいますよ」
 すると、森繁さんは、いきなり、
「えー? NHKの弁当は、まだ、出ないの?」
 と、お聞きになりました。私が、
「あら、さっき、楽屋で召《め》し上りましたよ」
 というと、森繁さんは、
「僕《ぼく》はね、まだ喰《た》べていないんだ!」
 と、すっかり恍惚《こうこつ》の人に、なっておしまいになりました。(映画での名演技より、更に、年期が入ってる感じでした)。アナウンサーは困って、
「はあ、五十年前のテレビというと……」
 と、くり返します。森繁さんは、次に、
「うなぎは、とどきましたか?」
 と、アナウンサーに聞きました。仕方なく私がアナウンサーのかたに、
「はあ、あの頃は、ライトが暑くて、髪《かみ》の毛の薄《うす》いかたで、焼け切れて、ツルツルになったかたも、いらっしゃいましてね」、といって、森繁さんに、
「そんなこと、ございましたでしょう?」
 と、同意を求めたら、森繁さんは、もぞもぞと、ふくさを拡《ひろ》げて、
「おしっこ……」
 と、まあ、こんな風な感じで、実は、即興《そつきよう》で続いたんです。でも、実際に、あと二十五年、経ったとき、どうなっているんでしょうね、と、みんなで笑いました。笑いながら、みんなが心の中で考えていたことは、同じだと思います。
(自分は、大丈夫《だいじようぶ》かな? その頃、まだ、元気でいられるかな?)
 森繁さんは、七十歳の私が入歯にもならず、早口で喋《しや》べって、シャンシャンしてる、ってことについては、疑問のようで、
「あなたは、自分だけ、いい役にしてるんじゃあ、ありませんか?」
 と、おっしゃいました。といっても、この二人の設定をお決めになったのは、森繁さんなんですけど。
 この「テレビ五十周年」というスケッチ(コント)は、森繁さんの、ひどく、お気に入りのものとなり、この後《のち》も、どこかで、お逢《あ》いするたびに、
「ねえ、あの二十五年後の稽古《けいこ》してみようよ」
 と、おっしゃっては、
「うなぎ、とどきましたか?」
 と、本当の恍惚の人のように、なさるので、そのたびに、私は笑いました。
 でも、それからも、もう、六年も経ってしまいました。五十周年まで、あと十九年。森繁さんと、
「現役《げんえき》じゃないと、出して頂けないから、頑張《がんば》りましょうね」
 と、時々、話し合います。
 その二十五周年のとき、私が、びっくりしたのは、技術の進歩です。カメラなど、どんなに遠くにあっても、その場所で、動かさずに、クローズ・アップも、ロング・ショットも、レンズで、思い通りに撮《と》れるようになりました。クローズ・アップのとき、俳優のほうから、カメラの前まで、飛んで行ったり、反対に、カメラが近寄りすぎて、俳優と正面|衝突《しようとつ》! なんていう、初期の頃を思うと、天国のようです。そして、照明ですが、昔は、ライトの一つが、ポリバケツくらいあったんですけど、今では、同じ光量で、煙草《たばこ》のライターの大きさに、なっています。照明の、ついたり、消えたり、上ったり下がったりも、コンピューターです。いま風に言えば、ハードウェアーの進歩は、信じられない早さです。でも、ソフトウェアーの、私たち人間のほうは……? 番組の内容や、演技や、美術は……。
 この点になると、本当は、とても、心細くなってしまうのです。
「徹子の部屋」というテレビの対談番組を始めて、九年になります。今までに、二千二百十五人の方達《かたたち》に、お目にかかり、お話を伺《うかが》いました。この番組をやって、私が発見したことが、あります。それは、もう、ほとんどのゲストのかたが、
�始めに、自分が、やろう!�、と思った仕事と、違《ちが》う仕事を、現在、やってらっしゃる、ということです。そして、なお、一流になり、永続《ながつづ》きしてらっしゃるのです。このことは、私の、思ってもいないことでした。私は、自分が、始めに、「女優になろう!」、と思って、なったわけではないので、それが長い間の、私のコンプレックスでした。こういう創造的な仕事は、始めから、
「なろう!」
 として、なった人が、やるべき、と考えていました。偶然《ぐうぜん》から、なってしまった人間が、こんなに仕事に恵《めぐ》まれては、いけないのではないか……ということが、いつも心の中に、ありました。それが、「徹子の部屋」で、みなさんのお話を伺って、(私だけじゃない!)と、わかったのです。人生って、不思議なものだ、と、つくづく思います。勿論《もちろん》、あいだに戦争がありましたから、余儀《よぎ》なく、違った人生を選ばなきゃならなかった方《かた》も、多いと思いますけれど……。
 この、「トットチャンネル」は、昭和二十八年から、話が始まります。なるべく、その時点のことに、とどめておきたかったので、後日談、といった風なものは、あまり書きませんでした。でも、「後日談」として、書いておきたいこともありますので、それは、これから、お読み頂ければ、と、思います。

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