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トットチャンネル75
日期:2018-10-14 19:38  点击:327
 大岡氏の作品について

 私が俳誌ホトトギスを毎月本屋から配達して貰《もら》つたのは、二十年も前からである。それは漠然《ばくぜん》と俳句といふものに興味を持つてゐたせいもあるが、その頃私は俳句を作つてはゐないし、その雑誌をとつてゐたのは、むしろ俳句よりはそれに載《の》る俳文|随筆《ずいひつ》小説をよむためだつた。
 その中でも、大岡龍男といふ人の書いたものには実に深い興味を持つた。その一つ一つが随筆の形をとりながら、すぐれた私小説の感じだつた。ことに(妻を描く)といふ長篇の分載《ぶんさい》されてゐた時など、この作品は文壇《ぶんだん》でも注視されていゝ優《すぐ》れた私小説だと思つた。これが単行本になつた時、たぶん正宗白鳥氏が褒《ほ》めてゐられたと思ふ。(略)
 この書(嫁)のごときも、私の毎月愛読しつゞけたものである。これも私小説の類《たぐ》ひではあるが、単なるそれは自然主義的な書き方でなく、現実の生活の叙述《じよじゆつ》の裏に、いひ知れぬ柔《やは》らかな純粋《じゆんすい》な情味を湛《たた》えた——いくつになつても作者のどこかお坊《ぼつ》ちやん気質を思はせる善意《グツトウイル》が裏打ちされてゐることで、読む人の心をほの/″\と温めると思ふ。
 それが私をして、大岡氏の作品|贔屓《びいき》にさせる原因である。また、氏は虚子門下の俳人であるだけに淡々《たんたん》たる文章の裏に、実に適確な表現がある。けれどもこの淡々たる表現を生む人自身は、こうした私小説的な文章に身を打込《うちこ》むほど、実にねつい[#「ねつい」に傍点]生活への執着《しゆうじやく》、愛着ともいふべき逞《たく》ましさを持つてゐられることは、この本を読んだ人にはお分りになると思ふ。
 ともあれ、このやうな大岡氏が、何故文壇的に一人の小説家として坐《すわ》り込まれないかが不思議な気がする、しかし考へると、氏の文章の味《あぢは》ひは、むしろ職業的の作家としてでないところに深い余韻《よいん》をふくんでゐるのだと思ふ。
 しかも大岡氏自身は、文学に対して十分の鑑識眼《かんしきがん》を具《そな》へてゐられる。かの(煉瓦女工《れんがじよこう》)で一躍《いちやく》名をなした野沢富美子を世に送つたのも、この大岡氏なのである。
 それほどの大岡氏が、いま放送局の文芸に関するポストにゐられることは、放送文化のためにも頼《たの》もしいことで——或《あるい》は氏の才能は桝《ます》に被《おほ》はれた燭光《しよつこう》のような気もするけれど、どうかこの書によつて大岡氏の文学の愛好者が沢山ふえ、氏の文学がます/\完成される機縁《きえん》になれば、氏の作品のフアンの一人としての私もほんとうにうれしい。かくあらんことを祈《いの》る。
 一九五〇年三月

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