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地下食堂といっても実際には半地下にあって、採光窓から降ってくる真夏の陽射しが床タイルにくっきりとした窓枠の影を作っている。時間が時間だから、客は悠木と事業局の二人連れだけで、その話し声よりも洗い場の音のほうが耳につく。
販売局は誰も電話に出なかった。真っ昼間に部屋が無人というのも信じがたいが、元々があの局は得体が知れない。県内各地にある新聞販売店の「お守《も》り」をするのが主たる仕事と認識しているが、では実際に何をしているのかと問われれば、浮かぶのは販売店主に対する酒や麻雀の接待くらいのものだ。それでも社内的には、新聞の宅配制度を堅持するための重要なセクションと位置づけられていて、接待費は使い放題という話だ。その一方で、「局」を名乗っていながら局員は十人足らずのちっぽけな所帯で、部屋も薄暗くてひどく狭い。「ブラックボックス」。誰かが口にしたそのネーミングに悠木も深く頷いたことがある。
二人連れが席を立ち、食堂には悠木だけが取り残された。冷たい汁物なら喉を通ると思って冷麺を注文したが、半分ほど食べたところで箸を置いた。
衝立岩──。
知らずに気後れの溜め息が漏れた。
半月前に下見に出掛けた時は、早鐘を打つ心臓の鼓動を傍らの安西に気付かれはしないかと冷や冷やしたものだった。それでもあの時はまだ、「登るのは半月後」の余裕が心のどこかにあった。それがとうとう明日とは。
衝立岩の存在は安西に聞かされる前から知っていた。山に興味などなくても、さっき岸が言い掛けたように、群馬に住む、ある一定以上の年齢の人間ならば自衛隊の銃撃とセットになって記憶されている。
昭和三十五年だから悠木が十五歳の時だ。衝撃的なニュースだった。衝立岩の正面壁を登っていた二人の山岳会員が転落してザイルで宙吊りになった。発見された時には二人とも既に死亡していた。双眼鏡で観察した結果そうだとわかった。どうやって遺体を収容するのかが問題になった。衝立岩の初登攀はその前年に果たされたばかりで、超一流の登山家ですら遭難現場には容易に近づけなかった。ましてや宙吊りだ。担いで下ろすのは不可能と判断され、自衛隊の銃撃によるザイル切断という前代未聞の遺体収容方法が採られた。
遭難事故発生から六日目だった。知事の要請を受けた陸上自衛隊第一管区総監部が相馬ヶ原駐屯部隊に出動命令を発した。第一偵察中隊から選りすぐられた射手十一名が百五十メートル先の岩場から銃撃を開始した。目標は直径わずか十二ミリのザイルだ。しかも風にゆらゆらと揺れている。なかなか当たらなかった。ライフル。カービン銃。機関銃。千二百三十八発の銃弾を費やし、ようやく二人のザイル切断に成功した。
悠木は、射手の一人として収容任務に当たった元自衛官に取材したことがあった。ザイルを切断された死体は人形が落ちるように岩壁に叩きつけられ、四回、五回とバウンドして、あとは急斜面を滑るように落ちていったという。死んでいるとわかっていても気持ちのいいものではなかった、人もザックもバラバラになったような感じがした、元自衛官はそう語り、遥か遠くに目をやった。
その衝立岩に登ることになった。
何の因果でと思ってみるが、考えるまでもなく安西耿一郎に唆《そそのか》されたからに他ならない。話は三年ほど前、安西が社内で作っている「登ろう会」の飲み会に悠木が顔を出したことに始まる。その惚《とぼ》けた会の名が示す通り、本格的な登山をやるグループではない。ハイキングに毛の生えたような山歩きや沢歩きが中心で、歩いたあとのビールとバーベキューを楽しもうといった風情の親睦会だ。メンバーは男女取りまぜ様々な局から参加していて、名前だけの者も含めれば三十人近くはいるだろうか。
安西は途中入社で社歴は十年足らずだが、歳は悠木より三つ四つ上だ。初めて挨拶を交わした時、安西は「じゃあ、差し引きチャラの対等でいこう」と一人勝手に決め、それが友人になる儀式であるかのように馴れ馴れしく悠木の肩に毛むくじゃらの腕を回して盛んに体を揺すった。豪放磊落《ごうほうらいらく》という受験用熟語を久方ぶりに思い出させてくれた男ではあったが、あまりにアクが強いのと、常識を超えた好意の塊のごとき態度に警戒心を抱き、努めて接点を持たないようにしてきた。
にもかかわらず三年前、ひょっと飲み会の誘いに乗ったのは、やはり望月亮太の一件があったからだったと思う。家庭のほうもうまくいかずクサクサしていた。要は外で一杯引っ掛け、山男のホラ話でも聞いてみようかという気になったのだ。
飲み会はつまらなかった。安西という男が、山のほかにもバイロンとエンデとあしたのジョーと山口百恵をこよなく愛していることを知っただけのことだった。
だが、それからしばらくして参加した妙義山の尾根歩きが悠木を変えた。行きがかり上、仕方なく参加したというのが本当だったが、悠木はそこで思いもかけない体験をした。ただ山を歩いただけだった。次第に足が重くなり、なのに心はほぐれていく。大勢で歩いていながら、五感は一人、空に向かっていた。不思議な感覚に惑った。だが確かに感じた。子供の頃からずっと消えることなく心に掛かっていた鬱屈の霧が、ふっと晴れる一瞬があったのだ。
その感覚をまた味わいたくて、悠木は休みのたび山へ行くようになった。大抵は安西が一緒だった。悠木は山に惹かれた理由を語らなかったが、安西はいたく喜び、悠木が山歩きに参加する都度、毛むくじゃらの腕を肩と言わず首と言わず巻き付けてきては体を揺すった。
やがて二人連れ立って岩場に出掛けるようになった。予感めいたものが働いて、悠木のほうから岩を登ってみたいと言いだした。もっぱら榛名山の黒岩を登った。高さは三、四十メートルといったところだろうか。安西が若い時分、腕を磨いたゲレンデだという触れ込みだった。黒岩は様々な顔を持っていた。西稜ルート。十九番ルンゼ。ピラミッドフェイス。大スラブルート……。
岩は、悠木を独りにしてくれた。予感は実感へと変わった。無心。それこそが霧を晴らす瞬間なのだと気づいていた。中空の岩に張りついている時、瞬間は継続した。
遅咲きクライマー。安西は夢中で岩を攀じる悠木をそう呼んでからかった。二人の間に某《なにがし》か通ずるものが芽生えたことは確かだが、打ち解けたというのとは違った。ある意味、悠木は安西を利用して孤独を手に入れていた。安西に繊細なところがないのをいいことに、内面を見透かされる恐れを感じることなく、思う存分無我を貪ることができたのだ。
この三年間というもの、安西に対する印象は初対面の時のまま少しも変わることがなかった。飲み、笑い、喋り、他人の体を揺する。それの繰り返しだった。同じ北関の社員でありながら会社や仕事の話は一切しない。安西は販売局の一員だ、接待のほかに話すべき仕事の中身がないのだと意地悪く考えてもみたが、悠木の記者職についても何一つ聞かないのだから、やはり会社にも仕事にもさしたる興味がないのだろう。一度だけ、酔いに任せて悠木のほうから会社の話を始めたことがあった。安西はエンデの作中の言葉を使ってやんわりと悠木を制した。「その話は別の話。また別の時に話そう」。よく言えば、人生を楽しむ達人だ。それは大抵の場合、極楽とんぼ、人生の浪費家、軽薄なお祭り男、といったふうに見えるが。
そんな安西が、しかし、岩を登っている時だけは別人に見えた。笑顔も戯《ざ》れ言《ごと》もなかった。目の輝きは異様なほどだった。何もかも知り尽くしている岩だろうに、そうした態度はおくびにも出さなかった。安西は岩に対して謙虚だった。時としてその姿は臆病にさえ見えた。
衝立岩をやろうと言いだしたのは安西だった。三月前のことだ。うっかり承諾した。いま思うと本当にうっかりだった。
「いた、いた」
聞き慣れた大声が食堂の壁に反響して四方から耳を叩いた。
安西がガニ股でドタドタやってきた。驚いたことに赤いTシャツ姿だ。
「探したよオ、悠ちゃん、逃げちゃったかと思ったんさあ」
「逃げる……?」
悠木が真顔を向けると、安西は爆発的な笑い声を上げながら相向かいの椅子に腰掛けた。
「冗談だよ、ジョーダン!」
汗だくだ。口の回りを一周する泥棒髭までテカテカ光っている。Tシャツの胸の辺りは汗染みで赤ん坊の涎掛《よだれか》けのようだ。
「じゃ、予定通りでいいね。えーと、群馬総社を七時三十六分に出る電車」
谷川岳は一ノ倉沢の出合まで車で入れるが、それじゃあ気分が出ないだろう、というのが安西の提案だった。上越線で土合駅まで行き、そこから歩いて登山指導センターで一泊。明日の朝一番で一ノ倉沢に向かい衝立岩正面壁にアタックを掛ける──。
悠木は壁の時計に目をやった。もう二時半を回っている。五時間後にはここを出発するということだ。いよいよの思いが胸に沸き上がってきた。暑いからやめっか。安西が中止や延期を言いだす可能性はなさそうだった。
「悠ちゃん、なんか浮かない顔じゃんか。やっぱ怖い?」
「いや、そうでもないさ」
「全然心配ないって。俺がついてるんだからさあ」
屈託のない笑顔が今日に限って憎たらしい。
「心配なんかしてないって」
「わかるよわかるよ。俺も初めての時、そうだったもん。体は登りたくてウズウズしてるんだけど、気持ちのほうがなあ。童貞とおさらばする時とおんなじだよなあ」
安西の話はいつも通り妙な方向へ転がっていった。
「女もそうなんかなあ? 百恵ちゃんとかもさあ」
「知るか」
「けどね、悠ちゃんみたいなのが結構やっちゃうんだよ」
悠木は舌打ちした。
「やっちゃうってどういうことだよ?」
「登っちゃうってことさ」
話は山に戻っていた。
「普段冷静な奴に限ってね、脇目もふらず、もうガンガン登っちゃうんだ。アドレナリン出しまくりながら狂ったみたいに高度を稼いでいくの」
「そういうもんかよ」
「そういうもんなの。クライマーズ・ハイって奴さ」
悠木は首を傾げた。
「クライマーズ……ハイ?」
「話さなかったっけ?」
「初耳だ」
「興奮状態が極限にまで達しちゃってさ、恐怖感とかがマヒしちゃうんだ」
「マヒ……? 怖さを感じない、ってことか」
「そういうこと。ダーッと登っていって、ハッと気づいた時には衝立のカシラさ。めでたしめでたし」
軽口を叩いて、安西はとびきりの笑顔を見せた。悠木の緊張をほぐすためにその話をしていたらしかった。
「じゃあ悠ちゃん、クイズいくよ」
「あ? またかよ」
「さて問題です。安西耿一郎はこれまで何回衝立に登ったでしょう?」
悠木は鼻で笑ったが安西はよさない。
「チッ、チッ、チッ、あと三秒。チッ──」
「十回だろ」
悠木はうんざりした顔で答えた。その登った回数よりも衝立自慢を聞かされた数のほうがずっと多い。
「ピンポン。でも安西耿一郎は今もこうしてピンポンしています、ってことさ」
「ピンピンだろ馬鹿」
「あ、そこが笑いどころなんだからさあ。頼むよオ悠ちゃん」
安西の腕が伸び、テーブル越しに悠木の肩を揺すった。
悠木は溜め息をついた。
「けど、お前が衝立やったのって、十五年も二十年も前の話だろ?」
「おーい、悠ちゃーん」
安西は手をメガホンにしていた。
「ああもう、うるせえよ」
「二十年ぶりだってちゃんと自転車乗れるだろ? 昔取った杵柄ってのはDNAに組み込まれちゃってるんさ」
「ああ、そうかよ」
呆れてみせながら、悠木は自分の往生際の悪さにも大いに呆れていた。
谷川岳に行きたくないわけでは決してなかった。鼻先ぐらいは臆病風に吹かれているかもしれないが、明日、衝立岩に面と向かえば、たとえどれほど恐ろしかろうと、そこから逃げ出したりできない自分であることは知っている。
要するに、納得できていないのだ。
悠木が山に求めているものは達成感ではない。高い山や険しい岩を征服したいと考えているのではないのだ。孤独と無心を得るには榛名の黒岩辺りで十分だった。なのに突然衝立岩をやろうと安西に言われ、深く考えることなく、じゃあ一度やってみるかと答えてしまった。山を齧《かじ》ってみて、悠木は自分の中に「山屋」の素質が存在しないことを知った。それは同時に、山屋を標榜する安西に対する嫌悪感を少なからず掻き立てもした。
なぜ山に登るのか。
悠木は定番の質問を安西に向けたことがなかった。
答えなど聞きたくもない。そうした気持ちもあった。稚気に生き、男をひけらかし、無為な艱難辛苦に命を張る。人が登山家に対して抱いている「純粋幻想」に与《くみ》することは、組織の中を生きる自分の卑小さを認めることのようで抵抗があった。
それに、「こんな山を登った」という話は、事件記者が得意気に語る「こんな事件を踏んだ」によく似ている。登った山や担当した事件の中身と数が、その人間の金看板となり、発言力の大きさとなる。所詮はどちらも自慢話でしかない。ただ一点違うのは、山は仕事ではなく純然たる趣味であることだ。ならばなおさらだ。趣味を他人に自慢するな。ああだこうだと講釈を垂れずに一人で山に登っていろとつい言いたくなる。
ましてや、哲学的な台詞や精神論的なご託でも並べられた日にはどんな反応をしてよいやらわからない。山を登るという行為そのものに、崇高な精神や非凡な能力など何一つ必要ないからだ。
そうまで頑《かたくな》に思い、貶《おとし》める材料を懸命に探していることが、裏を返せば山屋に対する一種の敬意であり羨望に違いないことは悠木自身わかっている。凍傷で手足の指を何本も失いながら、それでもなお山に登ろうとする意思の源は計り知れないし、そうした人間たちは趣味の領域を遥かに超え、常人がどう足掻《あが》こうが到達も獲得もできない死生観を持ち合わせているのだろうと想像もする。
とはいえ悠木の知る山屋は安西一人だ。何人かの登山家を取材した経験があるが、上っ面を舐めただけのことで、彼らの内面に迫れたとは言いがたい。本当のところ悠木は、安西が真の山屋かどうか疑ってもいた。国内の主だった山はほとんど踏破したと言うが、そうした人間になら声の掛かりそうな海外遠征の話は聞いたことがないし、そもそも安西はどこの山岳会にも所属していない。県内では一流企業の一つに挙げられる北関に就職し、その会社で遊び半分、山歩きを楽しんでいる。山の世界の落ちこぼれ。見様によっては、安西にはそんな気配すら漂うのだ。だから、山をやる人間と知り合ったなら一度は聞かねばならない質問──なぜ山に登るのか──を、悠木はずっと保留していた。
だが、聞きたくなった。
明日、「山屋の聖地」とも言うべき衝立岩に登る。悠木にしてみれば登る理由のない山に登ることになる。だがもし安西が真の山屋ならば、ちゃんとした登る動機があるはずだ。それは何なのか。納得のいくものなのか。安西から聞き出して、一晩吟味してみたくなったのだ。
悠木は冷麺の器を脇にどけ、テーブルに身を乗り出した。
「なあ安西、お前、なんで山に登るんだ?」
「下りるためさ」
安西はあっさりと答えた。
悠木は梯子段を外された思いだった。
「下りるため……?」
「そ、下りるために登るんさ」
悠木は黙りこくった。
それは、どんな顔をしたらよいやらわからない──に該当する答えに違いなかった。実際、悠木は釈然としない顔をしていたと思う。
下りるために山に登る。よく言われる「引き返す勇気」のことか?
違うだろう。山に登る心構えを聞いたのではない。なぜ登るのかと問うたのだ。
わからなかった。下りるために登る。それはいったいどういう意味なのか。意表をついてぐうの音も出なくさせる。それが山屋のやり口か。
だが、安西の輝く瞳に、してやったりの色は微塵もなかった。いつもの顔だ。何か楽しいことを探しているような、それがすぐにでも見つかると信じきっているような邪気のない顔だ。
これもクイズ? 悠木は不意にそう思った。
そうだとするなら二人の温度差はあまりにありすぎる。ここで突っ込んだ質問をして、やはりクイズなのだと笑われたら、目の前のこの男を本気で嫌いになるだろうと思った。
悠木は席を立った。
「あ、行ってみるん?」
安西はアイスコーヒーを頼んだところだった。
「じゃあ電車でね。もし乗り遅れたりしたら登山センターで合流。了解?」
「ああ」
「逃げたら罰金だかんね」
「ああ」
「そんじゃあ中年パワーで頑張ろうや。衝立なにするものぞ、ってね」
安西は、シュッ、シュッ、と口で言いながら左拳を何度も突き出した。あしたのジョーのえぐり込むジャブを打っているつもりだ。
悠木は、安西の顔をまじまじと見つめた。
真ん丸の嬉しげな瞳は、バースデーケーキを目の前にした幼子を連想させた。
悠木は食堂を出た。
明日の山行が憂鬱でならなかった。