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クライマーズ・ハイ08
日期:2018-10-19 13:29  点击:276
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 午前七時。三階の編集局長室には眠たげな三つの顔が揃っていた。
 粕谷局長は机で電話中だった。
 追村次長と等々力社会部長はソファで向かい合って座っていた。二人して今朝の朝刊の株式欄を指でつついている。
「日航はストップ安か……」
「当然でしょう。釣られて全日空まで下がってますよ」
 悠木はソファの隅に腰を下ろした。
 不思議な思いにとらわれる。
 かつて、この三人に父の幻影を探し求めたことがあった。入社したての頃だ。幼い時分、父に蒸発された悠木にとって、会社の上司とはそうした存在だった。社会部デスクだった粕谷。サツ廻りを背負って立っていた追村と等々力。歳から言えば兄ほどしか離れていない三人の颯爽とした姿に、顔すら知らない父の姿を重ね合わせていた。強く、頼もしく見えた。恐ろしく懐の深い男たちに思えた。彼らが確固たる意思と信念のもとに記者職を生きていることを、いささかなりとも疑ったことはなかった。だが──。
 粕谷が受話器を置いた。苦い薬を飲み干した時のような顔だ。
「悠木──外すなら外すとひとこと言え」
 電話の相手は広告局長の浮田《うきた》だった。例のオープン広告の一件を暮坂から聞き、憤慨していたという。
「すみません。以後気をつけます」
「頼むぞ、本当に。日がな連中はこっちのミスを探してるんだ。まったく、胃が幾つあっても足らん。付け込む隙を与えないようにくれぐれも注意してくれ」
 忌ま忌ましそうに言って、粕谷は本当に胃薬を飲んだ。どれほど些細な揉め事も放っておけない。「調停屋」「ノミの心臓」。局内で流通している綽名はそんなものばかりだ。
 上司のメッキが剥がれるたび、悠木の心はささくれ立ったものだった。失望は大きく、それは後々まで尾を引いた。
「じゃあ、やるか」
 粕谷がソファに巨体を移し、追村と等々力も座り直した。
「今日の紙面建てだ。悠木、お前の考えを言ってみろ」
 一つ頷き、悠木は口を開いた。
「柱はおそらく四つになると思います」
「四つ? 多いな」
 悠木はメモ帳を開いた。
「まずは山での遺体搬出作業。これは間もなく始まります。次いで藤岡市民体育館で行われる遺族と遺体との対面。あとは生存者の証言と事故原因です」
「事故原因についちゃあウチはお手上げだ。それに後部ドアの破損で決まりなんだろ?」
「いや、尾翼の破損のほうが可能性が高いようです。詳しいことはわかりませんが」
「尾翼な……。まあ、いずれにしても共同に頑張ってもらうしかないな」
 投げやりに言って、粕谷は背もたれに百キロ近い体重を預けた。
 悠木は引き戻すように言った。
「端《はな》から捨てる手はないでしょう。事故調が今日現地入りします。次席クラスが泊まり込むようなので、工学部出の玉置《たまき》を張りつけてみるつもりです」
「ああ、やるだけはやってみろ」
「そうします。続いて遺体の搬出作業ですが」
 言い掛けた時、追村が口を挟んだ。
「搬出より対面だろう。悲しみの対面──今日の紙面はそれで決まりだ」
 早くも癇癪玉が破裂し掛かっていた。一時が万事、攻撃的な物言いで自説を押し通そうとする。陰に構えて策を巡らす等々力とは対照をなす男だ。
「何百もの遺体をヘリで搬出するんですよ。前代未聞でしょうが」
 悠木が言い返すと、追村は目を尖らせた。
「そんなもんは写真一発押さえときゃいい。泣かせで作れ。いいな」
 悠木が押し黙ると、調停屋そのものの顔で粕谷が身を乗り出してきた。
「まあ、そう結論を急ぎなさんな。それより、悠木、さっき言った生存者の証言だが、取れる見込みがあるのか」
「無論、肉声は無理です。ただ、おそらく今日辺り、短い時間でも家族が面会すると思います。病院を張らせて、家族が出てきたところをつかまえようかと」
「なるほど。事故当時の機内の様子でも聞き出せれば特ダネになるな。ましてや一人はスチュワーデスだ。かなり専門的なことも喋れるだろう」
 救出された女性の一人が、日航のアシスタントパーサーだった。仕事ではなく、プライベートで123便に乗り合わせていた。
「抜け駆けなんぞできっこない。どのみち、各社、病院にベタ張りだ。そんな無駄玉を使わずに市民体育館の対面に全員ぶち込め」
 追村がまた横槍を入れてきた。話を逸らすように、粕谷は等々力に顔を向けた。
「今日は兵隊は何人出せる?」
 人員の割り振りは社会部長である等々力に権限がある。
「二十人……ってところですね」
「三十人出して下さい」
 すかさず悠木は強い口調で言った。
 金縁眼鏡が悠木に向いた。ブラウンの色付きレンズの奥で二つの瞳が鈍く光った。
 悠木も真っ直ぐ等々力を見た。この部屋に入ってから視線を合わすのを避けていたが、等々力がその気とあらば睨み合うのに吝《やぶさ》かではなかった。
 深夜の憤怒が蘇る。輪転機の不調で締切時間が延長できないことを悠木に伝えなかった。それがために佐山の現場雑観は幻と消えたのだ。等々力にしても、悠木が投げつけた台詞をよもや忘れてはいまい。
 あんた、それでも事件屋の端くれか──。
 先に口を開いたのは等々力のほうだった。
「ウチは全国紙じゃないんだ。二十人以上出せば他の取材に手が回らなくなる」
「二十五人。ならば調達できますか」
 すぐさま中間を取った。話が長引けば粕谷と追村は等々力の側についてしまうに決まっている。
 等々力は手元の綴りを捲った。
「二十五人……ならどうにかなるな」
「じゃあ、それでいけ」
 粕谷が即決し、振り分けはどうするのか悠木に聞いた。
「市民体育館に十人。病院に五人。残る十人は御巣鷹に登らせます」
「おい!」
 今度こそ追村の癇癪玉が弾けた。
「なんで山に十人もやるんだ? 対面にもっと割《さ》け」
「県警は全職員の半数にあたる千四百人を現地に投入してます」
「連中はちゃんと仕事がある。こっちが十人も出してどうする? 山で遊ばすつもりか? お前、安西の野郎にかぶれておかしくなっちまったんじゃないのか」
 一瞬、思考が止まった。追村は一昨日も安西のことを悪し様に言った。ああいう輩とは付き合わんほうがいいぞ、と。
 勘のようなものが働き、暮坂広告部長の不可解な朝の一言も同じ線上で繋がった気がした。話せる男。悠木のことを暮坂にそう吹き込んだのは、ことによると安西だったのではないか。
 悠木は思考を戻した。追村の強硬意見を押し返さねばならない。
 それなりに腹を括って口を開いた。
「結果として遊びになってもいいんじゃないですか」
 三人はぎょっとした顔を見合わせた。
 追村が探る目で言った。
「どういう意味だ?」
「世界最大の事故現場を踏むってだけでも価値があるってことですよ。墜落してまだ三十六時間しか経っていない。今のうちに、できる限り多くの記者を現場に行かせるべきだと思います」
「おう、あんまり思い上がるなよ。お前、記者教育のために実際の現場を使おうって言うのか。ウチにそんな人的余裕があるかよ」
 答えは用意してあった。
「無論、仕事はさせます」
 悠木はメモ帳の紙を破り、ペンを走らせた。『墜落の山・御巣鷹』──。
「一面で十回シリーズをやります」
「連載ってことか」
「拡大版の現場雑観とでもいうような企画です。主力記者を投入して日替わりで署名記事を書かせます」
 等々力に言ったつもりだ。通じたのだろう、いかにも不愉快そうな声が部屋に響いた。
「山は遺体収容と搬出の単調な繰り返しになる。十日もネタがもつはずないだろう」
「そんなわけないでしょう」
 悠木は等々力を睨み付けた。
「一瞬にして五百二十もの命を呑み込んだ山です。ネタが出てこないほうがおかしい」
「感覚でモノを言うな」
「感覚で言ってるのは部長のほうでしょう」
「なに?」
 悠木は改めて腹を括った。
「大久保や連赤の感覚で測れる現場じゃないってことですよ」
 等々力の目が本気になった。粕谷と追村の顔色も変わった。
 悠木は三人の目を順に見据えた。
「我々の想像を超えた現場だと思います。わからないものを取材させるからには、器を大きく構えるしかないということです。それに、現場で他社を圧倒するというのが八十年変わらぬ北関の伝統のはず」
 三人は押し黙った。
 ドアにノックの音がして、編集庶務の依田千鶴子《よりたちづこ》がお茶を運んできた。部屋の空気を敏感に感じ取ったらしく、愛嬌のある前歯を覗かせることなく宙に一礼してそそくさと立ち去った。
 粕谷が巨漢に似合わぬ小さい息を吐いた。
「わかった。やってみろ」
 悠木を全権デスクに据えたのは粕谷だ。ここで潰すわけにはいかないと考えたに違いなかった。
 追村が舌打ちをしたが、それだけだった。等々力は壁に目を向けていた。発言の気配はない。
 悠木はふっと内臓が浮き上がるような快感を覚えた。この三人を相手に丸々意見を通せたのは初めてのことだった。
「だが、現場には辿り着けるのか? 昨日行けたのは二人だけだったんだろ?」
「既に自衛隊と県警がスゲノ沢から山頂までの索道造りに着手してます。それを使いながら登れば二、三時間で行けると思います」
 粕谷と悠木のやり取りに、追村が鼻を鳴らした。
「現場雑観とか言ったって、フタを開けてみりゃあ、自衛隊と県警をヨイショする提灯記事のオンパレードになるんじゃないのか」
 追村の自衛隊アレルギーはつとに有名だ。以前、自衛官募集の広告を載せる載せないで揉めた際、最後まで強硬に反対してボツに追い込んだ。
「悠木──言っとくが、俺は遺族に絞るべきだと思う。いろいろ欲張らないほうがいいぞ。どっちつかずの紙面ほどみっともないものはないからな」
 捨て台詞のようなものを残して追村は席を立った。等々力も後に続いた。嫌悪の籠もった目で悠木を一睨みして部屋を出ていった。
「ま、揉めずにうまくやってくれ」
 薄ら笑いの張りついた粕谷の顔には、かつてない巨大航空機事故に直面したジャーナリストの緊張感はなかった。

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