日语学习网
クライマーズ・ハイ09
日期:2018-10-19 13:29  点击:320
      9
 
 七時半を回っていた。編集局の大部屋には朝日が射し込み、早朝出勤の局員が舞い上げたミクロの埃を映し出していた。
 静かだった。「世界最大の航空機事故」は、テレビ画面のニュース映像の中だけに存在していた。粕谷局長ら幹部ばかりに限ったことではない、悠木もまた、今回の事故を実感として受け止められずにいる自分を感じていた。現場を踏んでいないからに違いなかった。関越自動車道を使えばここから車で二時間余り。御巣鷹山は、しかし、距離や時間では測ることのできない、遥か遠くの存在に思える。
 悠木はデスクにつき、取材班の記者二十五人をセレクトする作業を始めた。既に昨日の段階で十二人を専従として動かしているから、残る十三人を県下に散らばる支局員の中から選び出す。フットワークのよさそうな記者を選んで名前を書き出していくが、地域バランスも考え、東とか西とかに偏らないようにせねばならない。「次の事件」はいつどこで起こるかわからないからだ。
 ポケベルを呼んでくれるよう依田千鶴子に名簿を手渡した時、岸がフロアに姿を現した。隣の政治部デスク席にショルダーバッグを置く。
「今日も暑いのか」
 岸の顔が汗ばんでいるのが意外に思えた。悠木のほうはと言えば、二日前の午後から社屋を一歩も出ることなく、エアコンの冷気に晒《さら》され続けている。
「朝っぱらからギラギラだ──おい、顔色悪いな。少しは寝たのか」
「寝た。それよか、さっき東京の青木から電話があったぞ」
「靖国の関係か」
「ああ。中曾根は本殿には上がるが一礼するだけにとどめるそうだ」
「玉串は?」
「省くらしい。夕方に正式発表になると言ってた。ウチに夕刊がありゃあな」
「上には青木ネタってことで耳に入れとくよ」
「ああ。そうしてやれ」
「そっちはどうだ?」
 岸はデスクの上に山積みになった原稿を顎で指した。
「今日から遺体搬出だ」
「へえ、もうかよ。群馬県警もやるもんだな」
「自衛隊があっと言う間にヘリポートを造っちまったからな」
「やっぱ、こういう時は自衛隊だな」
「だが捜査権はない」
「えっ?」
「県警がゆうべ遅く特捜本部を立ち上げた」
 岸は目を丸くした。
「特捜? おい、この事故、県警が調べるっていうのか。まさかだろ?」
「発生地主義だからな」
「そいつは酷だな。県警にとっちゃあ、とんだもらい事故だ」
 言ってしまってから、岸は自分の台詞に顔を顰《しか》めた。
「ウチにとってもな」
 悠木は岸の失言を引き取った。
 もらい事故──。
 いずれは局の内外からそうした声が出てくるのだろうと悠木は思った。殺人事件では珍しくない。山間地を多く抱える群馬はしばしば「死体の捨て場所」にされる。犯人が首都圏から車で死体を運んでくるのだ。その都度、県警は大掛かりな捜査を余儀なくされる。北関も同じだ。多くの記者が取材に駆けずり回る。他県の人間が他県で起こした事件のために。
 たかが飛行機が落っこちたぐらいで。広告部長の暮坂はいみじくもそう言った。東京と大阪を結ぶ、群馬とは縁も所縁《ゆかり》もない飛行機が、長野との境にある塀のこちら側に落ちた。本心、そんな程度の受け止め方なのだ。
 悠木の裡にもそれに似た思いがないとは言えない。実際、どこに墜落したかわからず情報が錯綜《さくそう》している間、長野であってほしいと願っていた。今もその思いは完全には吹っ切れていない。なぜ航路のない群馬だったのか。どうして自分が全権デスクなどという重荷を背負わされる羽目になったのか。
 悠木でさえそうなのだ。ただのもらい事故じゃねえか。声の大きい誰かが言いだせば、この事故は社内で一気に風化する可能性があった。世界最大の航空機事故。その神通力もそう長くはもたないかもしれない。もしそうなった時、自分は肩の荷が下りて安堵の息を吐くのか。それとも口惜しい思いを抱くのか。今の悠木にはどちらとも想像がつかなかった。
 フロアに人が増えてきた。
 呼び出したポケベルの応答が相次ぎ、悠木はそれぞれの持ち場を伝えた。内心、早く掛けて来ないかと待っていた川島からの電話は一番遅かった。
〈川島です……呼びましたか〉
 脅えの入り混じった声だった。昨日、御巣鷹山登山を命じたが、道に迷い、敢えなく敗退した。
「今日も登ってくれ」
〈………〉
「現場雑観の連載を始める。お前を含めて十人登らせるから指揮を執《と》れ」
〈私には……〉
「大丈夫だ、県警が索道を造ってる。昨日みたいなことにはならない」
 どうにか説得したが、電話を切っても不安が残った。川島は元々気が弱い上、昨日の失敗ですっかり自信をなくしてしまっていた。奮起を促すよりほかなかった。駆け出しではない。後輩を指導する立場の七年生記者だ。県警のサブキャップを張ってもいる。それが「登れませんでした」では後々の記者人生に響く。
 手配が一段落したところで、悠木は佐山と神沢のポケベルを呼んだ。
 現場に向かわせるためではなく、社に呼び上げるためだった。昨日の労をねぎらい、労に報いる。連載の第一回は佐山に書かせると決めていた。
 電話が鳴り、悠木は少なからず構えて受話器を上げた。佐山でも神沢でもなかった。
〈戸塚です──ヘリポートが完成しました。間もなく遺体収容作業が始まるそうです〉
「わかった。ご苦労さん」
 悠木は受話器を置き、また二人のポケベルを鳴らした。
 応答はなかった。
 どこかで今朝の朝刊を読んだということだろう。自分の書いた現場雑観が載っていないのを知った。落胆した。憤った。そしてポケベルのスイッチを切った……。
 もう一度、二人を呼んだ。
 デスクの電話は鳴らない。
 悠木は短い息を吐き、目線を上げた。八時十分。午後からはまた膨大な原稿に忙殺される。自宅と安西の病院。行くなら今しかなかった。
「岸、二時間ほど頼む」
 言った時だった。背後で、ピー、ピーとポケベルの呼出音がした。
 振り向いた悠木は目を見張った。
 佐山と神沢が部屋に入ってきたところだった。
 悠木だけではない。二人に気づいた誰もが息を呑んでいた。
 ひどい恰好だった。白かったはずのYシャツはまっ茶色だ。汚れているというのとは違う。白い部分がまったく残っておらず、まるで茶色の染料で染め抜いたかのようだ。それとは逆に、大量の汗が乾いてそうなったのだろう、紺色のズボンは塩を吹いて真っ白だった。日焼けした腕には無数の切り傷がある。相当に藪漕ぎをした。そしてなにより、佐山の目が悠木をたじろがせた。ゾッとするほど暗く、憂いに満ちた瞳だった。
 とんでもないものを見てきた。悠木はそう直感した。
 佐山は真っ直ぐ悠木のところへ歩いてきた。
「ポケベル鳴らしましたか」
 声は老人のように嗄《しやが》れていた。
「呼んだ。ご苦労だったな」
「現場雑観、なぜ落としたんです?」
 怒りなどとっくに通り越してしまったのかもしれない。佐山はいたって冷静だった。
 悠木は佐山の目を見て答えた。
「輪転機が故障した。古いのを使うんで降版時間を延ばせなかった」
 等々力がしたことを話すつもりはなかった。降版を延ばせないことは悠木に伝えた。等々力にそう言われてしまえば、あの混乱の中でのことだ、水掛け論に決着を求めるのは無理だとわかっていた。
 佐山は納得するでもなく二度三度と曖昧に頷いた。
「だったらなぜ雑観を送った時、そう言わなかったんです?」
「言えなかった」
「そうですか」
 佐山はまたふわふわと頷いた。心ここにあらず。そんなふうにさえ見える。
 悠木は、しかし目の前の佐山よりも、その背後で与太者のように体を揺らしている神沢が気になり始めていた。
 佐山とは対照的にギラギラとした瞳で先ほどからずっと悠木を睨み付けている。二十六歳の三年生記者。まだ駆け出しと言っていい。ちょっと見には優男《やさおとこ》で、どちらかと言えば押し出しの弱い、目立たない記者だったと記憶していた。伏兵現る。まさしく、ここにいる神沢がそれに当てはまりそうだった。
 悠木は二人を廊下に連れ出した。ソファセットのある自動販売機コーナーでアイスコーヒーを三つ落とした。他局の人間がボロ雑巾のような二人をジロジロ見ながら通り過ぎる。その連中を威嚇するように神沢が眉間に皺を寄せる。
「現場はどうだった?」
 悠木が訊《き》くと、佐山は一瞬怯えたような表情を見せた。
 口を開いたのは神沢のほうだった。
「もう何もかもバラバラでしたよ。首も手も足も──」
 たっぷり一時間、話を聞いた。
 もっぱら神沢が喋った。自衛隊の後ろについて長野側から山に入ったが、実際には尾根が三つも違っていたこと。急峻な瓦礫の谷を滑落同然に何度も下りたこと。水も食料も持ち合わせがなく、フィルムケースで泥水を飲んだこと。背丈より高い熊笹の密生地を進み、崖を這い上がってようやく現場に辿り着いたこと。遺体を踏まずに歩ける場所がなかったこと──。
 いつの間にか、局の人間が幾重にもソファの周りを取り囲んで話を聞いていた。他局の人間も大勢足を止め、遠巻きにして耳を傾けている。
 神沢の瞳の輝きは普通ではなかった。壊れたスピーカーのように現場の凄惨さを克明に語り続けた。とりわけ、遺体の状態については微に入り細をうがち説明した。本当に、人間性のどこかが壊れてしまったかのようだった。
 一方の佐山は終始伏目がちで精彩がなかった。一つ語るたびに逡巡した。何かを畏《おそ》れ、何かに取り憑かれているようにさえ見えた。深夜の電話では勢い込んで雑観を送ってきた。その後、心に揺り返しが起こったか。現場で目にしたものを反芻し、そして佐山も神沢とは別の壊れ方をしていったということか。
 悠木は、神沢の話の内容よりも、二人のギャップの大きさに墜落現場の凄絶さを見た思いがした。
「もう一度現場雑観を書いてくれ」
 悠木は佐山に顔を向け、連載企画の話を切り出した。
 佐山は腕組みをして黙り込んだ。
「そんなの、いまさらじゃないですか」
 神沢が食ってかかってきた。
「今朝の新聞に載らなきゃ意味ないッスよ。こっちは命懸けで送ったんだ。なのに使わなかった。そうでしょ」
 悠木は神沢に目を向けた。
「使わなかったんじゃない。使えなかったんだ」
「冗談じゃないッスよ。共同の記事で全部作っちまって。俺たちを馬鹿にしてるとしか思えないじゃないですか」
「そうじゃあない」
 悠木は語気を強めたが、神沢は益々荒ぶって局の批判を言い募った。半分は周囲の人間たちに聞かせていた。ギャラリーが大勢いたことが、神沢を必要以上に興奮させてしまっていた。
 悠木は佐山に顔を戻した。
「お前の意見は?」
 ややあって、佐山は口を開いた。
「神沢と同じです。雑観は確かに送りました」
 静かな物言いではあるが、北関の歴史に名を刻み損ねた無念さと憤りが言葉に滲んでいた。
「俺が頼んでもか」
「もう送りました」
 悠木は唇を噛んだ。
 後輩の記者相手に手を拱《こまね》いている自分がもどかしく、腹立たしくもあった。現場雑観は確かに載せてやれなかった。しかし、だからこそ労に報いるためにこの企画を考え、会議でごり押ししたのだ。もう引っ込みがつかない。肝心の佐山にそっぽを向かれ、企画が頓挫《とんざ》したとあらば、追村や等々力にどれほど嗤われるかわからない。
 悠木は声を落とした。
「あんなのが雑観と言えるのか」
 佐山の頬がぴくっと動いた。
「あんなの……?」
「夜中に受け取ったのはたった三十行ぽっちの原稿だった」
「仕方ないでしょう。時間が時間だったんですから」
「わかってる。だからあれは北関の意地だ。現場雑観じゃない」
 子供騙しを口にした。だが、事件記者が小利口な大人になってしまったら、もう事件記者とは言えない。
「八十行でも百行でも書きたいだけ書け。お前が見てきたものをちゃんと読ませろ」
 今度は本音をぶつけた。
 今が旬の敏腕記者を、一夜にして流行病《はやりやまい》に罹《かか》ったかのごとく物憂げな男に変貌させてしまった正体はいったい何なのか。本心、悠木は知りたかった。
 佐山はしばらく考えていた。
「わかりました。書きます」
 その表情に若干、赤みが差していた。神沢が騒ぎ立てたが、佐山の決意は固かった。
 局の大部屋に戻ると、テレビはヘリによる遺体搬出場面を映し出していた。
 デスクの上には原稿と情報メモがひと浚《さら》い増えていた。
≪運輸省航空事故調査委員会のメンバー十三人が現場到着。ボイスレコーダーとフライトレコーダーの回収作業を開始≫
≪多野総合病院の医師団が会見。入院中の生存者について「血圧、呼吸ともに正常に落ち着いた。二、三日中にも一般病棟に移れそうだ」と説明≫
≪第三管区海上保安本部の巡視船が江ノ島の南十八キロの相模湾で事故機の機体の一部を発見≫
 原稿を捌《さば》きながら、悠木は時折、大部屋の対角に視線を投げた。隅の机で、佐山が背中を丸めている。ペンの動きは鈍い。いつもなら、二、三十分で社会面のトップ記事を仕上げてしまう男が。
 結局、佐山が原稿の束を手に寄ってきたのは三時間もしてからで、もう昼休みも終わろうとしていた。
「お願いします」
 顔を見ると、頬の強張りは幾分和らいでいた。
「ご苦労。すぐに読む」
「書いてよかったです。少し落ちつきました」
 らしくない台詞を残して佐山はドアに足を向けた。
 悠木は原稿と赤ペンを手元に引き寄せた。厚みがある。佐山は百行以上書いていた。
 前文を読み始めてすぐ、悠木はぶるっと体を震わせた。夜中に電話送稿してきた雑観とはまるっきり違っていた。それは、およそ新聞原稿とも思えぬ書き出しだった。
 
【御巣鷹山にて=佐山記者】
 
 若い自衛官は仁王立ちしていた。
 両手でしっかりと、小さな女の子を抱きかかえていた。赤い、トンボの髪飾り。青い、水玉のワンピース。小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。
 自衛官は天を仰いだ。
 空はあんなに青いというのに。
 雲はぽっかり浮かんでいるというのに。
 鳥は囀《さえず》り、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。
 自衛官は地獄に目を落とした。
 そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかった──。
 
 悠木は赤ペンを机に置いた。
 何度も前文を読み返し、それから本文を読み進んだ。感情が収まるのを待って席を立った。それでも、見てきたかのように現場の光景が瞼から離れなかった。
 整理部長の亀嶋に原稿を手渡した。
「カクさん、これ、一面トップで」
「どうしたん? 赤い目して」
 悠木は答えず、ネクタイを緩めながらドアに向かった。

分享到:

顶部
11/28 18:38