12
夜明けが近かった。
香ばしい匂いに誘われてテントを這い出ると、すぐ目の前に燐太郎の大きな背中があった。川原に屈み込み、携帯用ガスコンロで餅を焼いている。平らな石の上に置かれた紙皿には砂糖を混ぜた醤油や海苔があるから、朝食にいそべ巻きをご馳走してくれる気らしい。
「おはよう」
声を掛けると、少し驚いた顔が振り向いた。
「起こしちゃいましたか」
「そりゃあ起きるさ。全部食われちゃたまらんからな」
悠木は笑いながら言った。
目線を上げると、一ノ倉沢の稜線にちょうど朝日が当たり始めたところだった。空にはまだ星がある。その美しさに思わず見とれた。
「綺麗だな……」
声に誘われて、燐太郎も視線を上げた。
「ええ。僕もこの時間、大好きです」
悠木は右手の衝立岩に視線を移した。朝もやの中に、頂点の高いピラミッドを思わすシルエットが不気味に佇んでいる。
「やっぱり怖いな」
「食べれば怖くなくなりますよ」
人懐っこい笑みとともに、いそべ巻きの皿が差し出された。
「お父さんも怖いって言ってたらしいぞ」
「ホントですか」
「ああ、お母さんがそう言ってた」
「じゃあ、父さんは怖さを克服するために登ってたとか?」
「いや、下りるために登ってたらしい」
「下りるために……?」
「わからんだろ? 安西はなぞなぞが得意だったんだ」
六時出発と決めていた。
どうしようか迷ったが、悠木は思い切って話を切り出した。
「出発する前に一つ、話しておきたいことがあるんだ」
燐太郎は食事の後片付けの手をとめ、話を聞く顔になった。
「あの時のこと、覚えてるかい? 安西が入院して、初めて俺が病院に行った時のこと」
燐太郎の頬が赤らんだ。
「ええ。よく覚えています。僕が悠木さんにしがみついちゃったんですよね」
「そう、それなんだ……」
悠木はもぞもぞと背筋を伸ばした。
「君に謝らなきゃならん。君が懐いてくれたのをいいことに、俺は君をずっと利用してきたようなところがあったんだ」
燐太郎は首を傾げた。
今日は安西耿一郎の慰霊登山とでも言うべき山行だ。胸の裡を洗いざらい告白してから衝立岩に臨みたい。ここへ来る前から考えていたことだった。
悠木は続けた。
「病院のあの時な、俺は君じゃなく、淳を抱き締めていたんだと思う。君にしがみつかれて嬉しくてたまらなかった。でも、本当はあれを淳にしてほしかったんだ」
燐太郎は真っ直ぐな瞳を悠木に向けていた。
「あれから一年ぐらいして、君と淳を榛名に連れて行くようになったよな。安西に教わったことを真似ただけだが、実を言うとあの頃、俺と淳の関係は険悪で、二人だけで一緒にいられないような状態だったんだ。俺はずっとそれをどうにかしたくて、でも、どうにもできずに悩んでいた。だから君を利用した。三人なら一緒にいられる。幸い、君と淳は仲良くなってくれた。無論、俺も君のことは大好きだった。ただ──」
悠木は首を垂れた。
「君のお母さんは、俺が、君のお父さんの代わりをしてくれてると思い込んで俺に感謝してた。君もきっとそうだったんじゃないかと思う。俺が山に誘うと、君は大喜びしてついてきた。父親を見るような目で俺のことを見つめてた。それが胸に痛かった。いや、今でも胸が痛むんだ。本当は俺と淳のために君を呼んでたのに……」
燐太郎は自分のことを好いてくれている。それは悠木にとって、あの当時、唯一信じることのできた真実だった。だから燐太郎に対してはいつだって自然に振る舞えた。燐太郎のことが可愛くてならなかった。本心、燐太郎が自分の息子であってくれたらと何度思ったことだろう。
だが……。悠木は淳のことを諦めきれなかった。
もう一度最初から父と息子の関係をやり直してみたかった。
爽やかな風が川原を抜けていった。
「なんとなくわかっていました」
燐太郎は静かに言った。
いつもと変わらぬ翳りのない瞳だった。燐太郎の瞳は怒っても嘆いてもいなかった。
「楽しかったなあ」
「えっ……?」
「あの頃、僕は日曜日が待ち遠しくてしょうがなかったです」
燐太郎の言葉が胸に染み渡った。
悠木は遠くを見つめた。
「うん。楽しかったな……」
日曜のたびに淳と燐太郎を連れて山へ出掛けた。登って、弁当を食べて、また登った。ただそれだけの繰り返しだったが、しかしそう、楽しかった。掛け替えのない日々だったと今にして思う。もっとも、淳は手抜きを覚えて山登りはたいしてうまくならなかった。燐太郎はぐんぐん上達して、あっと言う間に悠木を抜き去っていった。やっぱり蛙の子は蛙。つくづくそう思ったものだった。
「そろそろ出発しましょう」
燐太郎が腰を上げた。
「許してくれるのかい」
悠木が喉元の言葉を押し出すと、燐太郎はまたしゃがんで目線を合わせた。
「駄目ですよ、そんなこと言ったって。悠木さんが誰よりも優しいこと、僕が一番よく知ってるんですから」
急に感情が昂《たかぶ》って涙が溢れそうになった。
燐太郎はくるりと背中を向け、装備の点検を始めた。ザック。ザイル。ヘルメット。カラビナ。両方の耳たぶが真っ赤になっているのが、後ろからでもわかった。照れ屋の燐太郎にとって、一世一代の台詞だったに違いない。
胸が軽くなった気がした。
悠木は衝立岩に目をやった。これでようやく向き合える。そう思った。
「さあ、行きましょう」
燐太郎がザックを背負った。さっきまでとは打って変わったその神妙な顔に悠木はハッとした。それは昔何度となく見た、安西が岩に臨むときの顔だった。
体の芯を貫くものがあった。いよいよ「魔の山」の領域に足を踏み入れる。悠木は、今度こそ本気で衝立岩と向き合った。
燐太郎が歩き出した。悠木も続いた。ここ一ノ倉沢出合から本谷を経て、まずは衝立岩の踏み台に位置する「テールリッジ」を目指す。
灌木の間を走る踏み跡に沿って進む。ゆるやかな登りだ。衝立岩が右前方に見える。巨大だ。朝日に染まっても、その垂直の岩壁の凄味はいささかも減じるところがなかった。
沢の対岸へ飛び石伝いに渡り、再び戻って、「ヒョングリの滝」の左側を高巻いていく。灌木帯を巻くようにして登っていくのだ。燐太郎は確かな足で進む。遅くもなく速くもない、一定のリズムで歩いていく。
テールリッジの岩壁が近づいてきた。沢を下り、雪渓を渡っていく。表面は凸凹で歩きにくい。スプーンでえぐったように見えるから「スプーンカット」と呼ばれる。あちこちに、落石や雪崩で運ばれた岩が散見する。安全と呼べる場所はもうどこにも存在しないということだ。
悠木の胸は高鳴った。一ノ倉沢の懐に入った実感があった。十七年前、安西とここを歩くはずだった。その場所をいま、安西の息子燐太郎と歩いている。目線を上げれば、名の知れた岩壁が目白押しだ。滝沢スラブ。本谷に垂直に落ちる滝沢下部。烏帽子沢奥壁。そして、目指す衝立岩正面壁──。
四十分ほどでテールリッジの基部に到着した。
燐太郎が振り向いた。
「少し休みますか」
「いや、大丈夫だ。行こう」
燐太郎は小さく頷き、取りつき部分の岩の状態を調べ始めた。ゆうべ、にわか雨が降ったから、雪崩で長年磨かれたツルツルの岩が濡れて光っていた。
「アンザイレンしましょう」
燐太郎の気遣いが嬉しかった。悠木の不安を見抜いていたに違いなかった。普通なら、まだザイルを繋ぎ合うような場所ではないのだが、悠木は濡れた岩壁を思い通りに登れる自信がなかった。
カラビナにザイルを通すと驚くほどの安心感が胸に芽生えた。こういうことなのかと思う。燐太郎と一本のザイルで結ばれている。そのことが悠木の心と体に神気を与えてくれそうだった。
「行きます」
「よし」
テールリッジに取りついた。
燐太郎はほとんど足だけで登っていく。悠木は前かがみの姿勢で手も使って懸命に後を追う。登るにつれて、衝立岩は眼前に聳える存在から頭上にのし掛かる存在へと変化していった。その威圧感は比類がない。
俺に登れるだろうか。
答える声が遠い記憶の中にあった。
〈悠ちゃんみたいなのが結構やっちゃうんだよ〉
〈脇目もふらず、もうガンガン登っちゃうんだ〉
〈興奮状態が極限にまで達しちゃってさ、恐怖感とかがマヒしちゃうんだ〉
クライマーズ・ハイ。
脳裏を過《よぎ》るものがあった。
十七年前のあの日、悠木の興奮は極限にまで達した。