15
深夜になっても蒸し暑かった。
朝刊を降版してすぐに車で社を出たが、それでも帰宅は零時半を回っていた。家に灯《あかり》はなく、悠木は小さな落胆を覚えた。
寝静まっている。廊下に溜まった生暖かい空気に家の雑多な匂いが溶け込んでいた。居間に入ると頬がひんやりとした。弓子が休んで間もないに違いなかった。その足でキッチンに回った。食卓は綺麗に片付いていて、コンロに置かれた鍋の底にカレーがこびりついていた。昼間家に寄った時、社に泊まり込むようなことを言ったから、冷蔵庫の中にはビールも肴も見当たらなかった。
悠木は麦茶を手に居間に戻り、刷り出しの朝刊をテーブルに放ると、Yシャツ姿のままソファに転がった。リモコンでテレビを点《つ》けた。いきなり、御巣鷹山の墜落現場が映し出された。プロ野球中継の延長でニュースの時間が順送りされたようだった。地味なスーツを着込んだ若い女性キャスターは、神妙な顔で長文の原稿を読んでいた。初めて聞く話は一つもなかった。
悠木はぼんやりと画面を見つめながら、帰宅したことを後悔しはじめていた。
お前は職を失いたいのか──。
白河社長の声はまだ耳にあった。
恫喝《どうかつ》に屈した。通すべき筋を引っ込め、無様に頭を下げた。佐山が書いた記事を守ることができず、後輩記者たちに見限られた。
悠木は長い息を吐いて目を閉じた。
縋《すが》る思いで帰宅したはずだった。孤独を恐れ、家族の顔を今すぐ見たいと思ったのも本当だった。だが……。
気持ちは萎《な》えていた。
出来損ないの箱庭。そんな言葉が脳を巡る。
悠木が作ったものだ。理想の家庭。そう名付けた箱庭に、生身の人間を配せると思い上がった結果がこうだった。一人この時間だから思うのではない。家に暖色の灯があって、弓子も淳も由香も揃っていて、たまたま会話が弾んだとしても、いまさら何が変わるわけではなかった。
悠木は息苦しさを覚えた。
いつだってそうだ。家に居ると無性に社に出たくなる。どれほどの辛酸《しんさん》を舐《な》めようとも、会社のほうがよほど気楽で居心地がいい場所に思えてくる。
喧騒の中で忘我できるからだ。
あの編集局の大部屋には煩わしい過去も未来も存在しない。明日の新聞を出す。その単純明快な目的に向かって、大勢の人間が限られた時間を共有して突っ走る。怒りも焦りも苛立ちも、ギロチンの処刑のごとく下される締切によって断ち切られる。その瞬間、誰もが潔く「今日」を投げ出す。そしてまた翌日には素知らぬ顔で集まり、締切時間のタイマーをセットして新しい今日とがっぷり四つに組む。刹那的で後腐れがないから没頭できるのだ。
ドライな仕事だと思う。嫌でも人の死に慣らされる。誰がどこでどんな死に方をしようが、仕事なのだと割り切り、書き、捌《さば》き、紙面に落とし込んでいく。刺激に麻痺することは罪とはみなされない。あの部屋に居る限り、誰かが誰かより優しいとか薄情だとか比べられることはないのだ。
その乾ききった空気が、ある種の寛容さが、悠木の足を大部屋に向かわせるのだろう。身をもって知っている。心に多くの悲しみを託《かこ》っているからといって、他人の悲しみをわかる人間であるとは限らない。悠木は、地球上のあらゆる場所からもたらされる人の不幸に自らの境遇を重ね合わせ、そうすることで幾ばくかの癒しを得ている自分を感じずにはいられない。
掠れた声が耳に届いた。
テレビだった。女性キャスターが大きな瞳に涙を浮かべていた。その肩ごしに、手ブレの激しい映像が大写しにされていた。藤岡市民体育館の前で泣き崩れる遺族の姿だった。
キャスターの顔をまじまじと見つめ、悠木はリモコンでテレビを消した。
真っ暗になった画面を見つめた。お疲れさま。明るく掛け合う声が聞こえた気がした。それでも女性キャスターは席を立たないのか。酒や食事の誘いも断り、照明の落ちたスタジオで、一人さめざめと泣き続けるとでも言うのか。
泣くのは遺族の仕事だ。
悠木は吐き出すように呟いた。
不意に、ベッドに横たわる安西の姿が目に浮かんだ。
遷延性意識障害……。植物状態ということだ。絶対に起きますよ。悠木は気休めを口にしたが、現実問題、意識が戻るのは希有なケースに違いない。
だからと言って安西が死んだわけではない。ならば……。
妻の小百合は、息子の燐太郎は、一体いつ泣けばいいのだろうか。
「あ、パパ」
悠木は慌てて上体を起こした。
居間の入口で、パジャマ姿の由香が眠たそうな目を擦っていた。ひどく幼く見えた。四年生の中では大きいほうだが、スポーツ少年団のバレーボールチームでは身長が足りずに万年補欠だという。
「どうしたの? トイレ?」
自然と声が裏返る。
「ノド渇いたから──パパ、帰ってたんだ。いつ?」
「さっきだよ」
「お帰りなさい。お疲れさまでした」
由香は学芸会のようなお辞儀をした。
目の奥にツンと痛みを感じて、悠木の返事と笑顔は少し遅れた。
「はい、ただいま──いいえ、どういたしまして」
「タイガース、今日も勝った?」
「うーん、どうだったっけ。あ、そうだ、誰かが負けたとか言ってたな」
「そうなんだ。何対何?」
「さあてなあ、そこまでは聞いてないぞ」
「ふーん」
次の言葉を探しながら、由香の瞳は油断なく悠木の機嫌を窺っている。つかまり立ちを始めた時分から、淳に手を上げる悠木の姿を見てきた。『強い子の顔色を見て行動する傾向があります』。初めて由香が持ち帰った通知表を目にした時、悠木は体の芯に震えを感じたものだった。
「真弓さん、打った?」
「どうだろう。パパ、聞いてないんだ」
「バースは?」
「ゴメン。全然知らないんだ」
「そっかあ。パパ、忙しいんだよね、飛行機の事故で」
「そうなんだ」
「いっぱい死んじゃったんだよね」
由香は大人っぽく眉間に皺を寄せた。
「うん。五百二十人もだよ」
「かわいそう……」
「そうだね」
悠木は精一杯、悲しい顔を作った。他人の悲しみを、そのまま悲しい出来事として刷り込みたい。せめて由香の心には。
「でも、助かった子もいるんだよね」
「うん! パパ、本当に嬉しかったよ」
「あたしも」
「そうかあ。優しいな由香は」
「そうでもないけど」
由香ははにかんだ。
悠木はちらりと壁の時計を見た。
「すごい時間だよ。もう飲んだの?」
「うん。麦茶飲んだ」
「だったら寝なさい。明日があるんだから」
「はーい。じゃあパパ、おやすみなさい」
「はい、おやすみ。楽しい夢見るんだよ」
由香は胸の前で小さく手を振りながら階段に消えた。
悠木はソファに体を戻した。満面に張りついていた笑みは、引き際に顔のあちこちをゴワゴワとさせた。
由香は一歩も居間に入ってこなかった。
悠木は首を左右に捩じり、ネクタイを緩めた。だが、外してしまいはしなかった。迷っていた。社に戻って宿直室で寝るか。その心の声は次第に獰猛《どうもう》な唸りを帯び、今にもソファから悠木を追い立てそうだった。